第九試合 その4

 そこに暮らす限り、常に見えていた目標であった。

 道を極める過程の中で避けては通れないと分かっていながら、それを打ち倒している自分を想像できない。

 ゴカシェ砂海の生態系頂点に存在する生物である。


(……蛇竜ワーム


 砂の迷宮は、常に静寂に包まれている。膨大な書物から得た知識を、サイアノプは幾度も反芻している。


(竜鱗にも匹敵する硬度の頭蓋。最大で20mにも及ぶ全長と、その巨体に見合う膂力。恐るべき速度で地中を潜行し、振動を感知して獲物を捕食する。知性に乏しいが、戦闘における思考が鈍いという記録はない――)


 獣を打ち倒すことができる。はぐれた狼鬼リカントの戦士を殺すことができる。そしてある時には、迷宮に辿り着いた人間ミニアの冒険者と戦い、やはり勝てると知った。

 古今東西のあらゆる格闘技は、人族じんぞく鬼族きぞくの尺度に合わせて編み出された技巧だ。相手がそうである限り、サイアノプは徒手にて戦い、負けることはないだろう。


 ――ならば、相手がそれを遙かに上回る巨獣であったなら?


(どのような戦いをするのか……確かめてから挑むことも、できない。機動力に歴然の差がある……故に逃走は不能。失敗すれば死ぬ。蛇竜ワームに挑むのならば、練習など存在しない。ただ一度きりの……)


 蛇竜ワーム巨人ギガント深獣クラーケン。あるいはドラゴン

 この地平には多種多様の種族が実在し、それぞれが全く異なる身体構造と器官を有している。

 サイアノプは知識としてそれを理解しているが、故に現状では、その全種の強者を倒すに足る技を極めつくしてはいないのだと分かる。


(ネフトならば蛇竜ワームに勝てる。ロムゾならば、フラリクならば……)


 ただの力では足りない。あの日の戦いに取り残されたサイアノプには、“最初の一行”の誰をも越えた力を身につける義務がある。

 そうでなければ、到底“本物の魔王”になど及ぶはずがない。

 一匹の粘獣ウーズはそれだけを思って、膨大な年月を鍛錬に費やし続けてきたのだから。


「考えろ」


 砂の迷宮の崩れた一角で、分厚い壁の残骸へと打撃を繰り出している。

 粘獣ウーズの特性を最も活かし、同一尺度の敵を必殺する目的であれば、極め技こそが最善の道なのであろう。

 しかし、彼が求める――対手の解剖学的構造を選ぶことのない一撃必殺の技が存在するのだとすれば、それは打撃であるという予感があった。


「どのように倒す。蛇竜ワームのみではない。ありとあらゆる敵を、どのように倒す……!」


 一撃。また一撃と繰り出し続けながら、思考を重ねていく。

 “彼方”にあるまじき膨大な知識で満たされた“図書館”で長き年月を過ごしたサイアノプは格闘家であり、学者でもあった。

 その二つの面は彼の中で分かちがたく結びついていて、身体を動かすことで思考を実証し、あるいは思考の合理が身体を駆動させた。


 脳裏に敵の骨格を描く。それを理解する。敵がいかに動き、自らがいかに対処するかを演算する。

 格闘戦における無限の分岐を、彼は戦わずして見立て続けている。

 正確な未来を必死で演算し続けなければ――そうして得られた勝利の未来が確かでなかったなら、一度の敗北が死を意味する。それを恐れる。


 何よりも矮小な生命体である彼は、何よりも敗北を恐れている。


「……やはり。これか……!」


 分厚い石壁から、拳を離した。その表層には僅かな罅が刻まれている。

 罅割れからは、ざらざらと砂が流れ出していく。サイアノプがその場を離れても、止まることがなかった。


 打撃を浴び続けた巨大な石壁は、物性に差異の無いはずの表層だけを残して、体積の全てが粒化していた。


――――――――――――――――――――――――――――――


無尽無流むじんむりゅうのサイアノプ。とても小さいのね」


 冬のルクノカは、むしろ慈しみを込めて、足下に存在する粘獣ウーズを見下ろす。

 人間ミニアよりもさらに一回り小さいその体は、この暗闇の中では僅かに気を抜いただけで見失ってしまいそうだ。


 時刻を定めたのはツツリらの陣営である――

 それこそがまさしく、この試合が例外的に夜間に執り行われた理由であったが。


「あなたはどうやって技を身につけたのでしょう? 二つ目の名の由来は? せっかくこうして近くにいるのだから――他の英雄みたいに、私に自慢して、誇ってもらえないかしら」

「……う」


 小さな影は動かずにいる。ルクノカの問いに答えることすら困難な様子であった。

 炎が焚かれる音。気球が風を切る僅かな音。夜の荒野に、他の物音はない。

 かつてこの地に生きていた種類の生命は、ルクノカのブレスと気候変動によって、とうに絶滅している。


 ……暗闇に慣れたルクノカの目は、そして理解する。


「サイアノプ。あなた……ああ、まさか」

「……」


 溜息をつく。それは、彼女がひどく慣れ親しんだ絶望であった。


 ――恐れているのだ。


 童話や伝説ではない……実在する最強種を眼前にして、恐怖する者。恐れを隠そうとする者。あるいは……アルスやラグレクスがそうであったように、立ち向かうことのできる者。様々な者たちがいた。

 数多くの英雄を観察し続けてきたルクノカには、相対した者が心に抱く真実がはっきりと分かる。無双の格闘者、無尽無流むじんむりゅうのサイアノプは……どれほどの鍛練を積み、強者の虚勢を張っていても、英雄だった。


 他を隔絶してただ一柱、最強である生命体。

 彼女との戦いをどれだけ脳裏に試し続け、勝利への明白な確信があったのだとしても、鮮明に敵を理解できる強者であるほど――実際に目の当たりにしてしまえば、ただそれだけで全ての自負が崩れ去ってしまうことがあり得る。

 遭遇の恐怖と脅威がどれほどであるのかを予測することなど、誰にもできない。

 冬のルクノカは、誰も見たことのないドラゴンであるから。


「とても期待を……していたのに。残念だわ」


 遠方のキャラバンが打ち上げる花火が、試合開始の号令を告げる。

 ルクノカは、僅かに隙を見せることにした。


「サイアノプ」


 それは最強の存在たる彼女の尺度での“隙”である。


 一言を呼びかける間、粘獣ウーズは動かなかった。それで終わった。

 弱き存在を、無造作に叩き潰す。

 パン、という感触があった。


 絶望的な速度の竜爪が全身を捉え、内核ごと粉々に飛散する。

 即死だ。再生の兆しすらない。

 水のような飛沫だけが、彼女の戦うべきだった英雄の痕跡を記していた。


 冬のルクノカにとっての第二回戦は、第一回戦とは裏腹の失望で終わる。

 ……少なくとも彼女は、


――――――――――――――――――――――――――――――


 サイアノプがハーディ陣営に要求した仕掛けは、ただ一つしかない。


「……初撃だ。先んじて一手を当てる機会があればいい。他の助けは不要だ」

「おいおいおい」


 椅子に座るツツリは面食らって、床のサイアノプに問い返した。

 

「冬のルクノカの大きさが分かってんのか? そもそも、一発打ち込めたからってどうこうなる相手じゃないだろうよ。勝算ってのはさ……攻撃はこっちでやるから、ルクノカの注意を引きつけて生き延びる算段が欲しいって意味で言ってるんだよ」

「そうか。ならば僕にとっては、たった一撃がそれだ。飛行し、何よりも絶大の身体性能で機動する敵の動きを止め、一撃。貴様らに対しては過大な要求であるとすら考えている。……できるか。できないのか」


 彼に充てがわれたのは、上級将校の兵舎の一室である。サイアノプが彼女らの陣営と手を結んだことは言うまでもなく機密事項であり、さらに、ツツリはある目的のために、試合当日までクウェルとサイアノプを再び接触させるわけにはいかない。

 故に会議も限られた人員のみで執り行われている。第二十一将ツツリ。第十八卿クエワイ。そして、ツツリ配下の数名の将校。


「ヒレンジンゲンの光の魔剣でも殺せなかった相手だぞ。やれるのか」

「絶大の破壊力は、防御を貫くためにこそある。貫いた先で致命点に至らなければ、死に至ることもないのは自明だ。僕ならば、ドラゴンの致命点を穿つことができる」

「自信は結構だが、失敗した場合の立て直しは考えてるんだろうな」

「ない。殺せなければ死ぬ。貴様らも諸共、その覚悟をしろ」

「いやいや、こういうのは冗談じゃないからさ……!」


 ツツリは苦く笑った。

 彼女とて、サイアノプの実力を侮っているつもりはない。少なくとも正々堂々の勝負であのおぞましきトロアを打ち倒し、彼岸のネフトをその手で討ったという触れ込みも、紛れもない事実なのであろう。

 その下等な原形質が“最初の一行”を上回る技を身に着けているのであれば、あるいは尋常のドラゴンを殺すことすら、誰一人の助けも借りずにやってのけるのだろう。


 だが、冬のルクノカである。

 最強のドラゴンを一撃で殺すことなど、不可能だ。


「貴様らに利用されてやる以上、その他の条件は一切受けない。できると云え」

「……できるさ。ってか、簡単過ぎる」


 故に、ツツリがこの戦闘に期待するサイアノプの役割は、攻撃への囮だ。

 強者との戦闘を望むルクノカを十分に引きつけ、挑発し、無視できない程度の脅威であり続ければ良い。


 当日、マリ荒野に展開する兵力は、ツツリ自身が率いる三個中隊に加えて、ハーディより貸し与えられた一個大隊。ハーディの本命の策にすら影響を及ぼしかねない規模の戦力をこの作戦に割き、冬のルクノカを確実に撃滅する手筈である。


「冬のルクノカが欲しがってるものを教えてやろっか? 本気で戦っても壊れない、オモチャだ。そいつが用意されている限り、奴は喜んでそっちに向かっていくし、他のものへの注意は逸れる。もっとも……その上で奴には、とんでもない反射神経と身体能力があるわけだ。不意を打って目を潰す真似もまず無理なんだけどさ」

「……その玩具の役割が僕か」

「そ。だからそいつを逆に使えば、最初の一発の隙だって簡単に作れるってわけ。要はに注意を逸らしちまえばいい――」


 彼女が語る作戦には、一見してあからさまな矛盾があるように思える。

 試合当日、ルクノカにとって何よりも関心の対象となるはずのサイアノプから、別の何かに注意を外すことが、果たして可能であるのか。


「それでお望み通りの一撃だ。どうだ? あたしを信じて任せる気になったか?」

「貴様らとて、必死になるだけの理由があるのだろう。ルクノカを挑発すれば、次はない。ここで出し惜しみをする必然もなかろう」

「そうそう。よく分かってるじゃん。……こう見えて、あたしも必死なんだぜ」

「忠告する」


 サイアノプは呟く。彼の技であれば、一撃を当てればそれで足りる――が、それと同じ程度に、別の確信を持ってもいる。


「僕が仕留め損なったならば、何もかも捨てて逃げろ。貴様らが攻撃せずにいれば、僕が死ぬだけで済む」

「……フ。優しいなサイアノプ。嫌いじゃないぜ」


 片目を閉じて、サイアノプを指差してみせる。

 それは本心だ。彼女はサイアノプの命をこの攻略のために使い潰すつもりではあるが、それはルクノカを相手取る程の力と心への信頼がなければ、そもそもが成り立たぬ作戦である。紫紺の泡のツツリは、この策をハーディに発案した張本人でもある。


「本番でビビるなよ」

「保証はできない。だが、やる」


 彼はそのためにこそ生きている。

 戦うべき時に居合わせられない屈辱を、二度と味わいたくはない。


「僕も必死だ」 


――――――――――――――――――――――――――――――


 何も知らず試合に臨む冬のルクノカには想像も及ばぬことであったが……

 彼女がマリ荒野を訪れる遥か以前から、仕掛けは既に発動している。


 ドラゴンは他の種族よりも遥かに優れた各種感覚を備えているが、そこは一切が閉ざされた、マリ荒野の暗闇である。


 ならば光によって、意識の焦点が逸れぬままでいることができるだろうか。

 配置されたランプは、常に地上を照らしている。

 試合開始の花火は、視線の方向を誘導している。


 彼女は音よりも僅かに早く到達する花火の光によって試合開始を知り、そして、光と暗闇に紛れる粘獣ウーズの動きを見逃すまいとする。冬のルクノカは、無尽無流むじんむりゅうのサイアノプが近接において無双の格闘家であるという情報を吹き込まれている。

 攻撃の起点は必ず敵の身体そのものであると、当然に思考する。


「とても期待を……していたのに。残念だわ」


 伝説のドラゴンは、敵から注意を外さずにいる。敢えて隙を見せつけすらする。

 意識は地表の対戦相手にある。


 ――その頭上。


「サイアノプ」


 暗闇の空。直上の気球から、それが降下していた。

 粘獣ウーズが竜爪で叩き潰されるその時には、伝説のドラゴンの首筋へと落着している。

 の、別の粘獣ウーズである。


 ……絶対の強者であり続けたが故の、認識の尺度がある。

 過ぎたる強さに隔絶したルクノカは、もはや対手の強弱の程を読むこともできない。かつて弱きと見た者は弱く、強きと信じた者も、尽く弱かった。


 ならば――顔の造形も満足な言葉も持たず、真のサイアノプをその目に見たことすらなく、まして彼女の尺度からすればあまりに脆弱な粘獣ウーズの個体の一つ一つを、初見で


(この一撃だけだ)


 ツツリは約束を果たした。ならばサイアノプも約束を果たす。

 矮小な粘獣ウーズが一撃を繰り出し終えるよりも先に、巨竜もそれに気付くだろう。


 竜鱗に仮足を広げ、接地する。打撃の起点となる反作用は強固な土台から生ずる。

 故にそれは横に突き飛ばす打撃ではない。体重の全てを用いて、斜め上方に打つ。

 拳ではない。それは原形質の全身を広げた、人体ではあり得ぬ面積の掌打である。

 接触。肉体表層の破壊は、破壊と同量の運動量の損失を意味する。故にそれは肉体を一瞬の内にような一撃である。


 そして、サイアノプが狙う一点。

 第一回戦――星馳せアルスのヒレンジンゲンの光の魔剣によって竜鱗を失った、最強のドラゴンの左頸部である。


 竜鱗にも匹敵する硬度の頭蓋。最大で20mにも及ぶ全長と、その巨体に見合う膂力。恐るべき速度で地中を潜行し、振動を感知して獲物を捕食する。

 粘獣ウーズ蛇竜ワームを仕留め得る技が、この地平に存在するだろうか。

 頭蓋の防御を無視して、脳幹を、生命中枢の一点を破壊し得る、無手の絶技が。


 古今東西のあらゆる格闘技は、人族じんぞく鬼族きぞくの尺度に合わせて編み出された技巧だ。誰一人、彼に教えはしなかった。それは書物に記された技ですらなかった。

 “彼方”の異世界にすら、竜殺の域に到達した打撃は実在しない。


「脳を吐け」


 ――一撃必殺。


「“嘯液重勁しょうえきじゅうけい”」

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