第九試合 その3

 工兵と馬車が照らす灯りの中、二つの影が、刃と拳を応酬している。

 長大な長柄戦斧を繰る女は、第十将、蝋花のクウェル。

 そして無手でそれをいなし続けている初老の男は、“最初の一行”、星図のロムゾ。


 銀の軌道を描く斧の刃は僅かな柄の回転で急激に屈折し、振り抜いた逆側の石突がロムゾの攻め手を牽制する。その重量を思わせぬ、風の迅速である。

 一方で、星図のロムゾは息一つ乱さずに刃を寸前で避け、迎撃の石突に指を添えて受け流し、斧の反動で放たれるしなやかな蹴りを、肘を使って受けている。


「ああっ……う! うああああああ!」

「よく鍛えている」


 サイアノプと共に過ごした鍛錬の日々を思う。攻め続けるのみではない。“無足の法”。地面を蹴って、跳んで退く。呼吸を合わせて、ロムゾも同じ距離を踏み込んでくる。読まれている。踏み込んだ加速のまま、貫手の突きが来る。柄の軌道が、半ば偶然に攻撃を弾く。ロムゾは上体を屈めていて、次の斧の軌道を僅かに合わせることができない。滑らかな動きだ。速度があるように見えないのに、水が流れるように無駄がなく、サイアノプと同じように捉えどころがない。

 これが“最初の一行”。


 斧の旋回半径の内、潜るようにロムゾの拳が迫っている。“星図”の点穴の技。命中自体が致命的であると知っている。触れる寸前の反応で、斧を握る左手を離した。左手の甲に親指の指撃が食い込む。激痛。


「ひあっ、いっ」

「ふむ」


 敢えて、左手で受けた。今しがたの点穴の一撃は、戦斧を握る指を握りしめたまま硬直させ、以降の戦闘を不能とするためのものであったが。


 痛みに耐えながらも、クウェルは右手で斧による斬り下ろしを試みている。左手を離した際に柄を持ち替え、今は眼前の射程――根元近くを保持した刃で、片手を使って斬る。ロムゾは半身に下がって、苦もなくそれを回避する。流れるように点穴の技へと続く。脇腹へと突き刺さって、クウェルは再び悲鳴を上げた。人間ミニアである限り、戦闘不能に至らずとも、痛みで動きは恐ろしく鈍る。


 ――完全に、ロムゾの得意とする接触の射程に踏み込まれた。

 この距離から、必殺の攻撃だけが絶え間なく続く。“最初の一行”の技だ。もはや勝ち目はない。振り下ろした斧の柄が手元を滑り、斧頭が地面に触れる。


「いや、やはり容易い」

「サイ……アノプ、さん!」


 その下がった斧頭は、クウェル自身の足下にある。最初から彼女が狙っていた動きだった。敵の攻撃直後の隙に、それを合わせた。

 刃の背を蹴って、瞬時に跳ね上げる。


「うあああッ!」


 下方の死角から斬撃が閃き、両断した。


 ――ロムゾが脱ぎ捨てた上着の一枚を。

 クウェルの目の前には、丸眼鏡の光がある。接触距離。


「さて。どれだけ耐えるか」

「あ……」


 肋骨の中央を突かれる。筋肉が強く屈曲し、一瞬にして崩れる。

 肩。斧を握る手の感覚が喪失する。


血人ダンピールの体を試すのは、私も初めてでね」

「あっ、ぐあっ、ああ、か、は――」


 自分自身の苦悶で、靱帯が千切れるのが分かる。首。呼吸を封じられる。

 腹から、腰骨の内を抉られる。全身の平衡が積み木の如く崩れる。

 さらに一撃、一撃――


「……ッ、……! ……!」

「よし。終わった」


 まるで血人ダンピールの人体限界を確かめるかのような破壊行為を終えたロムゾは、ようやく打撃の手を止めた。

 白兵戦において最強を誇った第十将は、筋肉も内臓も、全てを無残に蹂躙されて、凍土に転がっている。


「確かに血鬼ヴァンパイアに似ているが、やや感触が違うな。ツツリ君。ここからどうしよう」

「んー……どうしようね。クウェルちゃんどう? 平気?」


 第二十一将ツツリはクウェルの目前にしゃがみ込んで、まるで何事もなかったかのように、軽薄に口を開いた。

 彼女はまったく戦闘能力を持たず、指一本動かしてすらいない。


「あ……っ、あ……」

「――ね? 純粋な強さだけで……一対一で、正々堂々と戦うって事はさ、クウェルちゃん。結局、。もっと強い奴に好き勝手されても、だーれも助けてくれない。なんにも覆らない。こういうのが、クウェルちゃんの言う『本当の強さ』ってやつか? ……人間ミニアは獣じゃない。人間ミニアらしく戦わなきゃな」

「私……そ、それでも……私は……」

「よーし、じゃあ話も済んだってことでいいかな!」


 ツツリは強く手を叩いて、背後の工兵を眺め渡す。試合は翌日に控えている。

 黄都こうとにとって必要なものは、弱者が強者を討つための仕掛けだ。


「殺しといて。ロムゾ先生」

「まあ、いいだろう。まったく容易い」

「……う、うう」


 首の後ろを掴まれて引きずり上げられる。


 ここは無人の荒野だ。無数の敵だけが彼女を取り囲んでいる。正しき真業しんごうを守るためのクウェルの戦いは、サイアノプと同じように孤独で、彼女と志を同じくする味方すらいなかった。

 子供のように泣きながら、彼女は声を絞り出した。


「い、いや……」


 武の頂を目指して歩む者が、いつか必ず行き当たる、無慈悲な敗北の壁。

 生まれつきの強者であった蝋花のクウェルにとって、その景色は……


「……いやだぁっ! こ、こんな……こんな惨めに死にたくない! うっ、あ……最後に見るのが、こ、こんな景色だなんていやだ! わ、私、私が信じてきたのは、こんな暴力じゃなかった! 私は……死にたくない……!」

「いーい命乞いだねクウェルちゃん。でも、最初に言ったよな? ……あたしはさ」


 ツツリは微笑んで告げた。


「やるって言ったらマジでやる人なんだよね。殺せ」

「いや……!」


 ギチ、ミヂリ。という音が鳴った。

 蝋花のクウェルの頸骨は容易く折れて、体は無造作に投げ捨てられた。


 戦乱の時代にただ一人、個人の武功のみで黄都こうと二十九官へと至った、第十将の最期であった。


「よしよし。体はバラして薬に使え。血人ダンピール一人分の骨髄で、ざっと二百人分の屍鬼ドローン治療薬になる」


 第二十一将は嬉々として工兵に指示を下し、彼らは動じることなくそれに従う。

 クウェルが現れる流れは確実な既定路線でこそなかったが、ツツリはそのを予期して、マリ荒野を訪れる以前から配下に周知を行っている。


「さて。良かったのかな。これで」

「大丈夫大丈夫。何か心配? どっちにしろ、政権もこれから変わってくわけだからね。二十九官なんて、ごっそり整理しなきゃいけないんだよ。あはは、何しろ二十九人もいるからさあ。二十九人だぜ?」

「いや。心配なのはサイアノプのことだ。第十将を殺してしまうと、彼の協力は取り付けられないんじゃないかな」

「――フ。何言ってんのロムゾ先生。だからわざわざに来たんだよ。死体が発見されなきゃ、クウェルちゃんは行方不明だ。明日の朝にはサイアノプはマリ荒野に発つ。知る機会なんか与えないさ」


 ハーディ陣営がサイアノプを利用する必要があるのは、ただ一戦。冬のルクノカとの戦闘のみだ。その後、彼が何らかの手段で真実を知ることになろうとも……その時にはもはや、全ての状況が変わっている。

 この六合上覧りくごうじょうらんの趨勢も。


「クウェルちゃんには悪いけど、上手く行った。これでサイアノプの擁立者は消えて、奴もめでたく参加資格を失ったわけだ。万が一ルクノカに無傷で勝ったとして、第三回戦はソウジロウの不戦勝。決勝進出確定っと」

「私の出番は次の試合か。ロスクレイに勝った後は、私もこうするつもりかな?」

「……。まさか~。先生は出場者でも擁立者でもないでしょ? そんなことする意味ないから。心配のしすぎだって! それにさ」


 ツツリは朗らかに笑って、ロムゾの背を叩いた。


「そもそもあれだぜ? ロムゾ先生も、ロスクレイを裏切ってこっちに来てるわけじゃん。持ちつ持たれつだ。仲良くしようよ」


――――――――――――――――――――――――――――――


 第二回戦第一試合は、尋常の試合のように、白昼の下では行われなかった。

 マリ荒野にはいくつもの照明が並んで開始位置を照らし、遠くには観戦者のものであろう灯りが浮かんでいる。


 巨竜は、夕刻に降り立った。星馳せアルスの如き強者への強い期待が、彼女をこの人族じんぞくの地へと向かわせている。

 冬のルクノカは、闇の荒野を見回して言った。


「ハルゲントはどこに?」

「彼は来ません」


 荒野で彼女を迎えた者は、本来の見慣れた擁立者ではなかった。

 若者は、陰気な視線をルクノカに向けることなく、淡々と告げた。


「第十八卿片割月のクエワイです。ハルゲントさんは心傷が深く長期療養に入られましたのでこの私が擁立を代行いたします。もしも私の能力に不安があるのでしたら仰っていただければ善処いたしますが」

「……そう。ハルゲントのことは、少し気に入っていたのだけど。残念だわ」

「はい」


 クエワイもツツリ同様、ハーディ陣営傘下の二十九官の一人であった。

 アルス襲撃以降、職務続行が不可能になったハルゲントの枠すら、彼らはルクノカ排除の計画の一環として獲得している。

 ありとあらゆる全てを用いて、ただ一柱のドラゴンを包囲する。


「次の相手の名前は、なんだったかしら。できれば覚えておきたいのだけど」

無尽無流むじんむりゅうのサイアノプですね」

「本当に粘獣ウーズなのかしら。どうやって戦うのかしら。ああ、楽しみ……きっと星馳せアルスよりも強いのでしょうね。そうでしょう?」

「強さの程は単純に比較できないでしょうが“彼方”の格闘術を用いる粘獣ウーズだという話です。接触の距離からの戦闘であればまさしく無双と言って差し支えないかと」

「まあ。“彼方”の技。何人か、見たことがあるわ」

「ただし彼自身は単なる粘獣ウーズですので」


 ここで初めて、クエワイは睫毛の奥から白竜を見上げた。

 地上のどのドラゴンよりも端麗な白銀の鱗は、星馳せアルスの光の魔剣に灼かれた首元だけが、大きく削げ落ちている。尾は中途で切断されて、攻撃に用いることのできる長さではない。第一回戦で負った、全力の死闘の傷だ。


「遠距離に対処する技は持ち合わせていないと思われます。開始位置にブレスを向ければ相見えるまでもなくルクノカさんが勝つでしょうね。相性的には弱敵に過ぎません」

「それは」


 ルクノカは、片方の翼で口元を隠すように覆った。


「――とても困るわ。どうにかして、サイアノプに

「それではルクノカさんが加減をして戦うのはいかがでしょうか」

「いつも試していますけれど、難しいわ。どのくらい加減をすれば死なないようにできるかしら。それに折角の楽しみなのだから、面倒な気遣いに煩わされたくないの。力を緩めてしまっては、それこそ……いつもの戦いと同じでしょう?」

「……」


 やはり、ハーディ陣営が事前に得ている情報通りだ。冬のルクノカは、決して一方的な殲滅を好まない。あるいはそれが、彼女だけが長く人間ミニアの里を襲わなかった理由の一つであったのかもしれない。

 伝説のドラゴンが求めてやまないものは、強者への勝利ではなく、強敵との勝負だ。彼女のその思考を織り込んだ上で、相手にそうと悟られぬまま提案を持ちかけることのできる者が必要だった。


「ならばこちらでルールを定めます。サイアノプとの試合は彼の攻撃の間合いから開始ということで。ルクノカさんに不利すぎることもなく有利すぎることもありません。それを条件として全力で戦っていただくというのは」

「ウッフフフフフ! ええ、喜んで! けれど、ウッフフフフ! それだけで勝負になるかしら? サイアノプは本当に、今までの誰よりも強い拳を見せてくれるのかしら? 楽しみだわ……とても」

「ならばそれで合意とします。他の者にも通達いたしますので多少お待ちを」


 六合上覧りくごうじょうらんの戦闘条件は、双方の合意によって決定される。

 だがこの試合に限っては、ルクノカの決定こそが全てだ。何よりも強大な力を持つ彼女に、強制は不可能である。仮に『全力で戦ってはならない』『観客を巻き込んではならない』といった条項に合意させることができたとして、試合中に彼女がその気になりさえすれば、いくらでも覆してしまうことができる。


 故に、試合の開始条件だけが……それもルクノカ自身が定めた条件だけが、辛うじてこの伝説のドラゴンを縛る法となり得る。

 ――そしてサイアノプがハーディ陣営に要求した仕掛けは、しかない。


「楽しみだわ、サイアノプ。きっと……とてもとても、面白くなるわ……!」


 夜が更けていく。立ち並ぶランプは白いドラゴンの周囲を惜しみなく照らしていたが、マリ荒野の莫大な面積の中では、その光も僅かな星の一点であるかのようだ。

 この試合に限り、立会を務める二十九官は存在しない。

 頭上に浮かぶ気球からの照明と遠方のキャラバンが上げる花火が、その合図をする手筈となっている。


 ……そしてついに、その粘獣ウーズが出現する。

 脆弱下等の生命体を前に、地上最強の生命体は歓喜の唸りを上げた。


 無尽無流むじんむりゅうのサイアノプ、対、冬のルクノカ。

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