第九試合 その2

 史上究極の強者が相争う六合上覧りくごうじょうらんは、言うまでもなく、それを観戦する市民の命までが保証された戦いではない。

 とりわけ第一回戦を終えた今、彼らの意識に大きな変化を及ぼした試合があった。第二試合である。


 ――冬のルクノカ。

 恐るべき伝説以上の、無差別にして絶望的な災厄の具現。

 かすがいのヒドウの迅速な対応により、第二試合の観戦者は全員が試合場を逃れることができたものの、そうでなければ観客すらどのようになっていたか、想像の及ばぬ愚者ばかりでもない。


 冬のルクノカが勝ち進んだ第二回戦第一試合の観戦権は、自然と返金、譲渡の数が増え始め、その数は星馳せアルスの黄都こうと襲撃を経て、爆発的な雪崩となった。

 ついには元締めである商店により全席が返金となり、当日のマリ荒野へのキャラバンは中止の運びとなる。大幅な損失であった。


 誰一人として姿を見たことのない最強のドラゴン、冬のルクノカ。

 伝説の理由は、今や明らかであった。それは無人の氷原に住むからでも、古き伝承の存在であるからでもない。

 


 冬のルクノカは邪竜ではない。

 彼女は人間ミニアを害する意思を持たず、他のドラゴンの如く強欲と略奪に耽ることもない。むしろ穏やかに会話を交わす知性を持ち、小さく弱い者に、彼女なりの敬意を表すこともあるのだろう。


 だが、圧倒的な破壊を前にして、そうした事実が意味を持つだろうか。

 彼女の戦闘圏内に立つ生命は、有象無象の如く死ぬ。冬のルクノカは、自らの力が生む犠牲を認識する尺度を一切持たない。

 無敵で、躊躇なく、容赦もない。彼女はドラゴンである。


「――さあ、残り一枚だぞ! 銅の爪先のユーナか、石摩のウェズム! 冬のルクノカ伝説の一戦、見られるのはどちらか一人! さあ、くじは何色だ!?」

「赤だ!」

「……緑!」

「おめでとうウェズム。観戦者は君だ! 当選は緑! 素晴らしい! 最高の不運と幸運を引き当てた、命を賭ける大馬鹿者に拍手を!」


 取り囲む群衆の拍手が、黄都こうとの広場を埋めた。

 観戦席の販売が中止された結果、必然としてこのようなことが起こっている。


 王城試合の真業しんごうの戦いとなれば、王またはその臣下のみでなく、民が公然とその結果を見届ける必要がある。それが、試合が公正に執り行われた証明となるからだ。

 この六合上覧りくごうじょうらんにあって、まるで闘技の見世物めいて市民の観戦が許されている理由はそれだ。ならば危険の伴う試合であっても、民から一定数の立会人を選出しなければならないという理屈となる。

 これは、そうした少数の観戦者を選別するための抽選会であった。多くの商会が合同で出資したこの興業は、いかなる情勢の変化にあっても新たに商機を見出す、黄都こうとの商人たちのしたたかさの象徴であったといえよう。


「ようウェズム。やったな」


 帰路の途中で背を叩かれ、ウェズムはそれが知り合いの誰かだと思った。


「ああ、まったく運良く――」

「それで、折り入って頼みがあるんだが」


 そうではなかった。斜めに被る帽子だけが元の服装の面影を残している。だが間近で見れば、彼のような炭鉱労働者ですら知る顔だった。


「かっ……かすがいのヒドウ……!」

「おっと、静かに。秘密にしといてくれよ。俺を恨んでる奴がどこにいるか分かったものじゃないからな……。あんたはどうだ、石摩のウェズム。もしかして東外郭に親戚でもいたか? いたら悪いな。謝る」

「い、いやあ……そうじゃねえけど……み、皆、噂してますぜ。あの除名処分はやりすぎだったんじゃねえかって……」

「分かってくれれば十分だ。俺にも俺の責任の取り方ってもんがあるからさ。――で、こっちもまた、責任の話だが」


 あくまで声を潜めて、ヒドウは肩越しに囁いた。


「その観戦席をどうする。マジで見に行くつもりか」

「どうするって……俺、俺は、見に行きますぜ。バカだなんだって言われたって、くだらねえ俺の人生で、初めて……本物の機会なんだ。歴史を、伝説をこの目で見られるかもしれねえんだ。俺みたいに思ってる奴は、他にいくらでもいるでしょうよ」

「なるほどね。そういう理由か。だが正直なところ……俺としては、お前らにはあまり見に行って欲しくない。三人の当選者には、観戦自体を取りやめてもらっている。俺がこうやって直接声をかけて、権利を買い取ってるところだ」

「……金……それは……」


 元二十九官が買い取るとなれば、この権利が、果たしてどれだけの値打ちになるだろうか。裕福とは言えないウェズムの心は、それで少なからず揺れた。


「見に行って欲しくない理由は単純でな。危険だからだ。冬のルクノカのブレスに巻き込まれたら死ぬ。発動してから逃げる時間なんてないし、予兆もない。お前が生き残るかどうかを決めるのは、運だ。俺も当日はマリ荒野に行くつもりはない」

「そ、そんなことは承知の上です……俺は、怖かないですよ……!」

「ああ、分かった。――そうなると仕方がないな。一つ聞くぞウェズム」


 声が一段と低くなる。

 まさか、ここで消されるのか。ルクノカすら恐れないと答えた矢先に、ウェズムの肝は恐怖の予感に縮んだ。


「冬のルクノカがとしたら、そっちの方が歴史に残る伝説だと思わないか」

「死……え……?」


 あり得ない響きに、思わず問い返した。

 災厄そのものと聞いている。冬のルクノカが死ぬことなどあるのだろうか。

 ウェズムを逃がさないように肩を組んで、ヒドウは話題を続けた。


「サイアノプとの試合は、口実だ。俺たちはここでルクノカを討伐する。あの手のドラゴンがどれだけヤバいのかは、あんたもアルスの一件で十分分かっただろう。その上奴は、ここから先もずっと戦うつもりでいる。……黄都こうとを壊滅させるのだって、奴の気分次第だ。今度は東外郭だけじゃ済まない」

「俺たちってことは……ぐ、軍が動くってことですか……!? 六合上覧りくごうじょうらんの……試合の最中に……!」

「――そうだ。あんたは、サイアノプとの試合がと証言してくれればいい。十分な報酬は渡す。あんたは伝説が見られる。黄都こうとだって守れる。どうだ」

「う……」


 あまりにも堂々と持ちかけられた不正に、ウェズムは口を噤む他ない。

 冬のルクノカの姿を見たいと欲する一方で、彼女が持つ災厄じみた力を恐れてもいる。短い会話で、ヒドウは彼のそうした心理を見抜いていた。

 自身の行動を愚かと自覚できる程度に頭の回る、権力に弱い臆病者であれば、この申し出を断るだけの動機など、多くはない。


「答えは後回しでいい。あんたの安全は保証するから安心しろ。もしかしたらまた別の陣営があんたを狙って、手荒な真似に出るかもしれねえからな」

「そ、それは……!? ま、まずいんですか、俺」

「だから、そういうことがないように手は回しておいてやるって言ってるんだ。いいか? 観戦を取りやめてもいいし、俺の話に乗ってもいい。そこはあんたの自由だ。明日の朝に答えを聞きに行く。いいな?」

「は、はい」

「時間取らせちまったな。よし、ありがとう。またなウェズム」


 背中をポンポンと叩いて、人波の中へと送り出していく。この男ならば、観戦を降りるか、不正に荷担するかを選ぶはずだ。


 ――ヒドウの言葉は大部分が真実だが、嘘が混じってもいる。このようにして観戦者の取り込みを画策しているのは、一つの陣営のみなのだから。


 現在ヒドウが属するのは、元第五卿、異相のふみのイリオルデの勢力……ひいてはイリオルデが表舞台に据えている、弾火源のハーディの派閥だ。

 そして恐らくは、ヒドウと平行して、陣営の他の誰かが対戦者であるサイアノプの取り込みに動いている。


 こうして市民に直接に接する役目は、かすがいのヒドウだ。二十九官を除名処分になった彼の立場ならば、事が露見したとして、黄都こうと議会に累が及ばぬよう、ある程度の言い訳を用意することもできる。


(……あるいは、それを見越して奴らも策を準備していたか? イリオルデ。俺が……最初から二十九官を辞めるつもりでいると)


 イリオルデの陰謀に乗せられた形となっているのは癪だが、ヒドウ個人に、あの老人の味方をする心積もりは毛頭ない。

 それでも、誰かが冬のルクノカをここで討ち果たさなければならないのだ。彼女が六合上覧りくごうじょうらんを勝ち進むほどに、人族じんぞくの勝ち目が消えていく。倒すべき敵がどこにもいなくなった時、彼女が黄都こうとをどのようにするのかを、誰も予測できない。


 ドラゴンは、破壊と戦闘の歓喜を覚えてしまった。再び黄都こうとにそれを求めに来る。

 六合上覧りくごうじょうらんが続く限り。


(……相手は最強のドラゴンだ。不正がどうこう言っている余裕は誰にもない)


 この規格外の存在に対して、六合上覧りくごうじょうらんという体裁を保ち続けている理由は一つ。

 一対一。決められた時と場所。対等の条件下での戦い。


(今はまだ、ルクノカだけが。ルクノカは必ず来る。……奴が何百年と求め続けた、まともに戦う機会なんだからな。もしもこの世の誰かに、冬のルクノカを殺せる状況があるとしたら――それはだけだ)


――――――――――――――――――――――――――――――


 試合の前日深夜。そこは黄都こうととは異なり、僅かの照明もない暗黒だ。

 暗闇の中を突き進む、光の列がある。

 凍土と化した夜のマリ荒野を進む、馬車の一団であった。第二十一将、紫紺の泡のツツリ率いる工作部隊である。


 試合開始位置に到達すると、馬車は横隊に足並みを揃えて停車し、防寒装備に身を包んだ工兵が次々と降り立つ。ルクノカの力を削ぎ……サイアノプを勝利させるための仕掛けを、彼らは一晩で成し終える必要があった。

 だが。


「待て。待て待て待て。全員ちょっと待機ー」


 先頭に立つツツリが、手をひらひらと振って彼らを制止した。

 手持ちランプに照らされた光の中には、既にその場に立っていた者がいる。

 人里離れた暗闇の中でも、血人ダンピールの視力はものを見ることができるのだろう。


「なーにやってんのさ。まさか、ずっとこんなとこに居たの? 寒くない!?」

「……ツツリさん」


 第十将クウェルは、前髪の隙間越しの大きな瞳でツツリを見た。

 いつも以上に憂いを帯びた、悲しげな瞳のように見えた。

 身長よりも長い長柄戦斧を、爪先ですくい上げるように跳ね上げる。細い指先の中へと収まって、武器は恐るべき速度で半回転する。


「な、何を……するつもりだったんですか。それは、不正じゃないんですか……」

「いやあのさ。クウェルちゃん。マジで今さらだぞ。そういうこと言ってる場合か? 落ち着いて考えなって」

「考えてます。皆にバカにされますけど……わ、私は……いつだって考えてます」


 クウェルも、とうに理解している。

 この六合上覧りくごうじょうらんは最初から……彼女の望むような、正々堂々の試合の場ではなかったのだ。この戦いにおいては、ツツリの方が正常だ。


 多くの目に公正の証を立て、穢れのない勝利を与えるための約束は、それを欺くための陰謀をさらに推し進めただけだった。智謀も含めた力こそが試されるのだと。

 だが、それでも、そうではないはずだ。

 彼女が――民が求め、信じる強さの形は、卑劣な企みや詐術で成り立つようなものでは、断じてない。


「本当の強さは、そうじゃない! どうして、あなたたちは……命を懸けて戦うサイアノプさんに、冬のルクノカに……英雄たちに、敬意を払えないんですか!? 強くあるということは、強くなったということは、あなたたちが思うよりもずっと……ずっと尊いものなのに!」

「……あのな。ここでルクノカを負けさせないと、それこそ『サイアノプさん』が死ぬんだぞ。あたしらが全力で小細工して、ようやく戦いになるくらいの化物なんだ。クウェルちゃんの言ってることは、要は……そーいう化物が出てきたら、弱い奴は黙って負けてろと。そういうことなんじゃないのか」

「サイアノプさんは弱くなんかない!」


 クウェルは叫んだ。

 彼が黄都こうとに現れた時から、誰もがその価値を侮っていた。下等な粘獣ウーズの姿を、余人の目に隠れて積み上げた研鑽を、何よりも、心を。

 サイアノプだけが、クウェルと同じ――華々しい栄光の過去も、種族や身分のような外面も取り払って、純粋な力を信奉する者だった。


「サイアノプさんは、勝ちます! 冬のルクノカに負けたりしない! だから、私は……何も細工なんかさせない! サイアノプさんを負けさせる仕掛けも、勝たせる仕掛けも!」

「あっ、そ」


 戦斧の柄が、残像を描いてクウェルの周囲を旋回した。

 回転の動きが刃を躱す。当たったと思われた刃すら、肩の丸みに当たって逸れた。

 ツツリの会話の隙に背後から迫っていた兵は、その一閃で骨を砕かれて、立てなくなる。三名が同時に。


「……あたしは優しいから、そう信じてるなら何も言わないけど。こーいう場合、どうすればいいと思う? クウェルちゃん、この人数を一人で殴り倒すつも……」

「ツ、ツツリさんこそ」


 クウェルが踏み込む。その最初の一歩が見えた。

 気付いた時には、ツツリの真横を、風となって通り過ぎている。


「ぐっ」

「あうっ」

「……私……私が、ただの力自慢だなんて、思わない方がいいです」


 展開した部隊の後方だ。正面の一人の銃身の先端に斧先を絡め、側面のもう一人が照準を直す間に、足で爪先を払う。地面に突き立てた長柄を軸に飛んで、さらに一人を打ち倒す。ツツリが認識できない間に、それをした。

 無秩序に散開した後方に隠した狙撃兵三人を瞬時に見分けて、無力化した。

 踏み込んだ歩法は、サイアノプより学んだ“無足の法”であろうか。


「……さっすが、二十九官最強の女だ。敵わない」


 引きつった笑いを浮かべて、ツツリは肩越しに振り返った。

 元より彼女の部隊の構成は工兵が主だ。正面を切って戦える者ばかりではない。


「……さ、最後の……警告です。引き返してください。ツツリさん……。それとも、ここで私とやりますか」

「いやいやいや……っていうか、そりゃ限度越えてるだろ。クウェルちゃん、あたしの部下の骨を折ったんだぜ? いやもう、本当に嫌な気分になるんだけどさ……」


 ツツリは呆れたように溜息を吐いて、手首をふらふらと振った。

 黄都こうと第二十一将、紫紺の泡のツツリ。彼女は武官だが、その細い体は、まったく見た目通りだ。武器の扱いに長けてもいない。


「……あたしさ、やるって言ったら、マジでやっちゃう人なんだよね」

「へ、兵を……引かないつもりですか」

「うん。だから、まあ、小細工とか抜きにしてだ。クウェルちゃんのお望み通り、正々堂々、一対一で勝負してもらうよ」

「……分かりました」


 クウェルは頷き、ツツリの正面にまで歩む。言葉で釣っての不意打ちを警戒していたが、そうした素振りもなかった。

 斧を構え、戦端を待つ。


「それじゃ、存分にやってもらおうか」


 ツツリは左腕を広げて、後方に合図を示した。

 馬車の内からは、ひょろ長い背丈を屈めて、初老の男が既に現れている。


「――私の出番かな、ツツリ君。いやいや狭い馬車だ。どうにも休めない」

「……!」

「これでいいよな? クウェルちゃんの望み通り、正々堂々、一対一だ」


 かすがいのヒドウと同様に、その男も、今はハーディ陣営へと所属を移している。

 学者然とした丸い眼鏡が、クウェルを見た。


「ふむ。容易い」


 “最初の一行”。名を星図のロムゾという。

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