第九試合 その1

 初めの一冊に、二年を費やした。

 その一冊から得た知識を元に、次の一冊を。次は、二冊分の知識で読める本を。砂の迷宮たる“図書館”の書架の本は徐々に少なくなって、代わりに、床に積み上げられた本は増えていった。


 ――学習はそれで終わりではない。

 サイアノプが詰め込んだそれらの書物の知識が、全て有用であるとは限らない。次は得た知識の取捨選択が、粘獣ウーズの身である彼の尺度に合わせた応用が必要となる。


「……」


 そうした知識を脳裏でなぞりながら、半液体の肉体を意識して動かす。本能のみで生きる粘体ウーズの中にあっては、恐らくはこのサイアノプが初めて、真に一つの“技”を成し遂げた個体であったのだろう。


「……“正拳”」


 接地面から、体を捻る動きを伝達する――接触の一点へと、抉り込むように。

 人間ミニアの背丈の二倍にも達していた書物の山は、一打で崩れた。


(戦える)


 戦える、と思った。それが遙かな峻峰の頂を目指す第一歩に過ぎなかったのだとしても、彼の仲間に……誰よりも強かった“最初の一行”に少しでも追いすがる道筋が、その先にあるように思えた。

 根拠のない予感だ。後に続く十年の努力が報われる保証などは、どこにもない。

 この世界の長い歴史の中で、格闘の技を極めることを選んだ粘獣ウーズなど、間違いなく、このサイアノプただ一匹だけなのだから。


(……戦える。記されていた技の意味が、今ならば分かる。硬質の骨格を当てて表皮や肉を抉るのではなく、むしろ軟質の肉からの浸透で内奥を破壊する技。過去に人間ミニアの“客人まろうど”が編み出した技巧だとしても――僕が、扱える技だ)


 自らの肉体のみを手段とした戦闘術に、武器に勝る点が存在するならば、何か。


 より鋭く、刃物の如く石塊を切断する手刀も、達人の剣の一閃には及ばない。

 より強く、砲弾の如く大地に大穴を穿つ打突も、ならば砲弾と同様の破壊力だ。


(精度だ)


 器物による肉体の延長ではなく、。サイアノプは、そこに拳の本質を見た。

 究極の剣士の、目にも留まらぬ剣閃でも、刃の接触によって対象内部の骨格を解体し、根本から無力化することはできない。

 大軍勢が戦列を並べ、銃火を一斉に撃ちかけたとしても、彼らが狙うは、肉と骨の内にある内臓の、銃弾一つの体積にも満たぬ致命点に過ぎない。


「精度を上げろ。星図のロムゾのように!」


 砂の迷宮に、サイアノプが扱える武器は存在しない。矮小な身体と、膨大な知識だけしか持ちあわせていない。

 一切の無手。彼はだけで、“本物の魔王”を倒そうとしている。

 あの“最初の一行”すら及ばなかった、魔王を。


 一年。二年。ただひたすらに鍛錬を続けた。人間ミニアの知識に粘獣ウーズの肉体を合わせ、粘獣ウーズの肉体に人間ミニアの知識を変えた。


 突き、踏み込み、形を変える。成功をひたすらに反復する。

 時に荒野に歩を進めて、徘徊する獣を打ち倒した。最初は、痩せた小型の狼を。

 稀に遭遇する猪の一種には、子供を仕留めるにもひどく苦戦した。


「……毛皮は装甲で、爪は剣だ。僕にはそのどちらもない。ここで出会う敵の全ては、容易に僕の体を引き裂くことができる重装兵だ。だが」


 サイアノプの足下には、肉塊が沈んでいる。四肢をあらぬ方向にねじ曲げられ、粘獣ウーズの関節技で脊椎までを解体された、砂漠猪の成体である。


「僕は戦える」


 遥か彼方、陽炎に歪む視界の先――地平線の一角を破って、恐ろしく長大な何かが飛び出し、再び地中へと潜っていく。

 蛇竜ワームだ。このゴカシェ砂海の生態系の頂点。今、猪にすら苦闘を強いられるサイアノプの尺度では、永遠に到達不可能な存在であった。

 頂へと至る道は、無慈悲な鋼鉄の壁に阻まれている。


「戦える。いずれ……いずれ、僕が勝つ……」


 勝ち目のない絶望から目を背けながら、サイアノプは自らに言い聞かせている。

 一切の無手。何一つを持たない彼は、言葉の力にすら頼る必要があった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 月日はさらに過ぎる。

 サイアノプは持ち得る全ての時と手段を尽くし、強さを極めた。


「……サイアノプ。まさか、貴様が……あのサイアノプか……」


 顔面七孔から憤血し、死に体で倒れ伏す狼鬼リカントが言う。


「なぜその名を知る」


 十年近く遭遇したことのない、詞術しじゅつの相通ずる相手であった。

 その狼鬼リカントが、ゼーエフ群を追放され、ゴカシェ砂海を一人放浪していた戦士であったことも、後から知ったことだ。


「お、お屋形様が死の眠りにつかれる前に……その名を、聞いたことがあった……。“最初の一行”には、まだ……仲間がいたのだと……」

「……ネフトから聞いたか」

「その者は……砂の迷宮に今もいるのだと……そうか、貴様が……」


 砂海で出会った彼らが拳を交え、殺し合ったことに、さしたる理由はない。彼らは互いに戦士であり、頂を目指した自らの道こそが正しかったのだと、確かな証明を欲していた。


 敵も恐るべき強さであった。狼鬼リカントを打ち倒したサイアノプもまた、尋常の粘獣ウーズならば、三度は活動不能に陥る傷を負っている。

 彼は、ついに彼岸のネフトが用いた高速再生の詞術しじゅつすらも再現していた。


「貴様も、強さを求めたのか。あのネフトの下で」

「……そうだ。そして今が、終わりだ」

「教えろ。誰もがそうなのか。勝ち続ける運命に選ばれた者しか、最強に至ることはできないのか。貴様とて

「……」


 ――道を阻む、無慈悲な鋼鉄の壁。

 この狼鬼リカントの戦士にとっては、サイアノプがそうだ。


「いずれ……越える術のない壁に当たった時、僕はどうなる」

「それが敗者だ。頂を目指す者の代償は、尽くそれだ」

「その時に何を思う。貴様は今、何を思って……」

「……フ、フフ……」


 狼鬼リカントは答えることなく死んだ。

 全ての生命体に必ず一度の死が訪れるのと同様に、遍く戦士が、敗北の運命を背負い続けている。


 ――遠くの地平線で、蛇竜ワームが嘲るように獲物を捕らえて、地中に再び沈んだ。


「戦える」


 サイアノプは負けるのだろう。


「それでも、僕は。戦わなければ」


 挑み、負けて、死ぬ。

 自分がいずれそうなるという確信がある。


 頂への道がある。努力と幸運の果て、ただ一つ見出した可能性が。

 だが、どの道を選んだとしても、それが正しい道であったとしても、頂に至る以前の地点で、道筋は鋼鉄の壁に閉ざされている。

 引き返すことのできない者は……無慈悲な壁に縋り付いたまま、最強を渇望して死んでいく。


――――――――――――――――――――――――――――――


 時は今。六合上覧りくごうじょうらんの二回戦、第一試合を控えている。

 無尽無流むじんむりゅうのサイアノプは夜遅くに、擁立者の邸宅に帰還した。


「……五日後か」


 試合の日が迫っていた。

 恐るべき星馳せアルスの黄都こうと襲撃から、大三ヶ月が経っている。

 そのアルスすらを一切寄せつけることなく撃破した、真の最強――冬のルクノカこそが、次なるサイアノプの対戦相手であった。


 鋼鉄の壁。極限に凍てつき、もはや戻ることのないマリ荒野の有様がそれだ。もはや、道筋の先を想像できない領域。

 戦いにおける未来を、彼は他の誰よりも正確に見立てることができた。


「サイアノプさん、戻ったんですか?」


 廊下から顔を出したのは、視線を厚く覆うほどに長い前髪の、若い女だ。

 先程まで風呂に浸かっていたのか、均整の取れた裸身に浴巾一枚を巻くのみの姿である。姿を見る者も粘獣ウーズであるので、そうした格好を頓着する様子もない。


 サイアノプの擁立者――第十将、蝋花のクウェルは、社交性に乏しい生来の気質故か、他の部下をこの邸宅に置かず、ただ一人で住んでいた。そもそもが血人ダンピールである彼女には、生みの親と呼べる者もこの世にいない。


「次の試合のことを考えていた」

「そ……そうですね。あ、相手は……あの、冬のルクノカですから。だから、敵の強みを知って……もしかしたら、アルスにやられた傷を狙えば」

「そのような問題ではない」

「う……」

「貴様も分かっているはずだ。冬のルクノカは、の次元では、もはやない。僕は負ける。僕の見立ては絶対だ」


 星馳せアルスは、燻べのヴィケオンを討ったのだという。

 おぞましきトロアにも、魔剣でドラゴンを斬ったという怪談が伝わっている。

 あるいは、絶対なるロスクレイが単騎でドラゴンと渡り合ったという“伝説”を信じてみせてもいいか。


 それでも……この地上で。仮に、この六合上覧りくごうじょうらんの十六名の強者に絞ったとしても、真にドラゴンと戦った経験を持つ者が、その他にどれだけ実在するだろうか。

 無尽無流むじんむりゅうのサイアノプは、戦ったことがない。


 一切の外部影響を遮断する、無敵の竜鱗。あらゆる金属質を凌駕する硬度と、不可知の速度を併せ持つ竜爪。

 そして、たった一呼吸で発動し、抵抗のためのあらゆる試みを壊滅させる、ブレス

 全てが、サイアノプの持ち得るあらゆる手段より強く、速く、硬い。


「で、でっ、でも……! それなら、サイアノプさんは棄権するんですか!? 強さを求めて、ここまで辿り着いて……ここで!」

「分かっている。僕は棄権しない。……昼に、遠くからの使いが来た」


 サイアノプは、しばし沈黙した。無貌の肉体からは感情を伺い知れない。


「ネフトが死んだ」

「……“最初の一行”の……彼岸のネフトが……」

「僕の与えた傷が元だ。後悔はない。そうする必要があった」


 力と技のみではない。二十一年の月日で、ついにネフトに追いつくことができた。

 かつてのサイアノプは、ネフトの矜持すら理解できなかったことだろう。


 マリ荒野へと向かうトロアの問いを思い出している。

 何のために戦う。


「それは僕の意地だからだ。勝ち目のない戦いだとしても、僕は僕自身のために諦めを拒絶する」

「サイアノプさん……」

「――故に、ただの意地に貴様を付き合わせる気はない。試合の立会から外れろ。僕は一人で行く」


 冬のルクノカのブレスの破壊規模は、もはや常軌を逸している。先の試合では遠く離れた観客までをも避難させる必要があった。擁立者が二名とも生存していたことすら、単なる幸運の部類だ。


 クウェルには、サイアノプの技を継いでいる。今さら命を惜しむつもりはないが、彼女までを、不可能な試みに挑む無謀に巻き込みたくはなかった。


「そ、そんなこと、で、できるわけがないです……! 私……私も、サイアノプさんと一緒に行きますから!」

「試合の場に現れたなら、僕が貴様を殺す。この家も今日で引き払わせてもらう。今まで世話になったな」

「あの、私……でも、私、何か一つでも……!」

「……十分だ」


 黄都こうとに来てからの日々を思う。

 それは“砂の迷宮”で繰り返してきたものと全く同じ鍛錬だったが、もはや同じではなかった。生きた証を教え、教わる者がいるということは、彼が長く積み上げてきた孤独の研鑽とは、大きく違った。


「もはや十分に返してもらった。修行を怠るな。精神の統一を忘れずにいろ」

「待って、サイアノプさん!」

「……さらばだ。蝋花のクウェル」


――――――――――――――――――――――――――――――


「――僕に用か」


 大橋を越えて商業区に至るより前から、その気配を捉えていた。

 後方ではなく、サイアノプが進もうとする前方の陰だ。


「答えるつもりがないのならば構わん……」

「待った!」


 現れたのは、白髪を頭の後ろで結った女であった。直接の面識はない。


「あのね。あたしも別に危害を加えるために待ってたわけじゃないよ? でも、そーいう言い方されると、突然殴りかかってきかねないしさ……」

「くだらん話はいい。用件は何だ」

「あたしは紫紺の泡のツツリ。黄都こうと二十九官第二十一将。知ってる? 知らないか」

「僕に、三度同じことを云わせるな。何が目当てだ」


 六合上覧りくごうじょうらん参加者の立場では麻痺してしまいかねない感覚だが、黄都こうと二十九官は本来、人族じんぞく最大の都市の政治的頂点に位置する、最高峰の官僚集団だ。取るに足らぬ用件で自らの足を使うことはなく、よってこのツツリがこの場に現れたことにも、相応の理由がある。


「……冬のルクノカとの試合についてだけどさ。ちょっと、正直な意見を聞きたいんだよね――サイアノプ。勝算はあんの? どうやってあいつに勝つ?」

「貴様らには無関係な話だ」

「ところがそうじゃないんだなっと」


 無視して先へと進もうとしたが、ツツリはその後について歩く。

 年齢はクウェルより上であろうが、軽薄な女だ。相性の悪い相手だ、と感じる。


「うちは第二十七将の派閥でさ。第三回戦にルクノカが勝ち上がってこられると困るわけ。……わかるでしょ?」

「第二十七将……弾火源のハーディ。ソウジロウの陣営か。ふん。なるほど」

「そーいうこと」


 敵は自在に飛行し、一切の物理攻撃を遮断し、さらには視界を越える射程のブレスを放つ。近接戦以外の攻撃手段を持たぬサイアノプに勝ち目はない。同様のことが、柳の剣のソウジロウにも言えるはずだ。

 ロスクレイの策謀を上回って勝ち、第三回戦へと進出したとしても、ソウジロウもまた、そこで壁に阻まれ止まる。


「何か手伝えることがないかなーって思うんだけどさ」

「帰れ。政治やら陰謀の話は、貴様らで勝手に進めていろ」

「……そんな寂しいこと言うなよ。死ぬつもりか?」

「頂を目指す限り、いずれそのようになる。それが今だとしても、悔いはない」

「いやいやいやいや。……サイアノプ。あたし、嘘は嫌いなんだよな」


 ツツリは歩きながら、粘獣ウーズを覗き込むように見下ろす。

 無貌の肉体からは感情を伺い知れない。


?」

「……」


 ――くだらない些末事に過ぎない。


 元より孤独だ。他の誰も必要としない強さこそ、サイアノプの根幹であった。

 “本物の魔王”が何者かに倒されてしまった今の彼にこの世に執着する理由はなく、“本物の勇者”と当たったのならば、そこで命を使い尽くして死んでも構わないと信じて出てきた。

 ……だが、もしも、と思う。


 もしも、六合上覧りくごうじょうらんの死闘を戦い抜いた先に、サイアノプが

 徒労に終わった彼の生涯を継承し、未来に活かすことのできる者がいるのなら。


「冬のルクノカは、どうしようもない。あれは強いとか強くないとかの次元じゃない。あいつは努力なんてなーんにもしていないし、勝たなきゃいけない理由もない。あんなのは災害と同じだ」


 沈黙するサイアノプの思考を先回りするかのように、ツツリは言葉を続けていく。


「で、サイアノプはさ。嘘ついてるじゃん? じゃあ今、ドーンって雷に打たれて死んで、それでいいか? ルクノカと正々堂々やるってことは、まあそういうことなんだけどさ。他の連中はで済んでるのに、サイアノプだけがアレに当たるのは、さすがに不公平でしょ。こんなの、卑怯の内にも入らない」

「……一つ勘違いしているようだが、僕はクウェルとは違う。卑怯卑劣を誹るつもりなどない。ただ面倒なだけだ」

「へへへ……それなら尚更さあ、死ぬより面倒のほうが百倍マシでしょ? いいじゃん。組もうぜサイアノプ~ッ」


 到底、信用できる相手ではない。この試合で勝ち残った側と、ハーディ陣営の擁するソウジロウが第三回戦で当たることになる以上、彼らにとって最も望ましい結末は、ルクノカとサイアノプの共倒れであるはずだ。


 ……それでもサイアノプは、試合から逃げるという選択肢を持たない。

 一つの道筋を選んで進んでしまった以上は、引き返すことも、鋼鉄の壁を迂回することもできない。ならば。


(いいだろう。暴力で死ぬか、策謀で死ぬか。然程の差もない)


 少なくとも、利害が一致する相手だ。サイアノプの抱くたった一つの意地を通すために、誇りを曲げるべきか。それもできる。


「一つ問いたい」

「ん? なに?」

「僕を引き入れ、その後にどうする。黄都こうと全軍を動かしたとて、奴には勝てまい。貴様らには勝算があるのか」

「サイアノプはどう? もしもあたし達が仕掛けを打つとして……一手があればあのルクノカを倒せる。そーいう勝算はあるわけ?」


 商店街の光の中を歩きながら、両者はしばし言葉を止める。

 そして同時に答えた。


「勝算はある」

「勝算はある」

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