願い その1

 真夜中こそが彼らの時間だ。血鬼ヴァンパイアの鋭敏な視力は、闇を通してものを見る。

 月のない路地を歩むことも、暗闇の街を背に佇む娘の姿を見つけることも容易い。


「リナリス」


 黒曜レハートは、穏やかに忠告した。


「今は、外を出歩いてはいけないよ。ゼルジルガやフレイを護衛につけていてもだ」

「……お父さま」


 リナリスは振り返った。闇の中でも輝く宝石のような、白くまばゆい美貌である。

 小三ヶ月前に十五を数えた“黒曜の瞳”統率の娘には、元より整った顔貌に、女としての若い魅力までもが花開きつつある。市中を歩けば、それだけで男女問わぬ群衆の足を止めてしまうほどであった。


 この頃、“黒曜の瞳”は、クタ白銀街から拠点を移していた。駒柱のシンジとの抗争より逃れた彼らは、この辺境にて潜伏を強いられている。

 容貌であまりにも人目を惹く、脆弱なリナリスを出歩かせることは、黒曜レハートの本意ではなかった。


「――申し訳ございません。けれど今日は、お父さまに……どうしても、ご覧に入れたいものがあって」

「いいだろう。二度、同じ我儘は聞かないと思いなさい」

「……ああ。ありがとう存じます。……お父さま。これを」


 リナリスは、愛する父への微笑みを向けた。


 それとまったく同時に、背後の民家が灯りを点す。クタ白銀街や、黄都こうととは違う。このような深夜に住民が目覚めることなどなかったはずだ。


 しかし真の異常は、その後に続いて起こる。


「――ご覧ください。私たちはもう、隠れ潜む必要はございません」


 灯りが点った。それは民家のさらに背後。その背後。まるで光の洪水が波及するかのように。斜面に沿って続く街の家々が、深夜のその時刻に、


「リナリス。……これは、なんだ」

「支配の力です! お父さま……私にも、血鬼ヴァンパイアの、お父さまと同じ力が! お父さま……やっと、リナリスは……何もできない、無力な娘ではございません!」

「…………」


 血鬼ヴァンパイアの他者支配の異能は、生まれついて発現するものではない。

 屍鬼ドローンへの指令の仕組みにフェロモンを介する以上、それは第二次性徴の成熟に伴って備わる能力である。


 リナリスも例外ではなかった。覚醒の日まで、彼女は無力だったはずだ。

 父の編み出した精神支配の手管を必死に学んではいても、血鬼ヴァンパイアとしてあるべき身体能力に全く欠けた――後継に相応しい力を持たない、守られるだけの令嬢。


「……お父さま?」

「これはなんだ」


 レハートは、呆けたように呟いた。

 人族じんぞくに追いやられた血鬼ヴァンパイア最後の末裔として、今を生きる者の中で、最も多くの血鬼ヴァンパイアを見てきた。


「……あの、これは……私の……」


 街一つ分の住民が屍鬼ドローンと化している。どのように。

 彼らを同時に、一斉に操作したというのか。

 種族絶滅の危機に瀕して、病が突然変異するように――血鬼ヴァンパイアの血統が、暴力による流血すら不要とする個体を生んだのだろうか。


「あってはならない。どうすればいい。リナリス……お、お前が、このような……私よりも、遙かに……」

「……お、お父さま……! このリナリスを、お役に立ててくださいませ! 身も心も、全てお父さまのために捧げます! どのようなことでもいたします! だから、ああ、どうか……失望なさらないで……!」


 レハートがリナリスを恐れるように、リナリスもまた恐れて、父に縋った。


「……わ、私は……お父さまに喜んでいただけると――」


 かつてクタ白銀街で見たような、まばゆい夜の光の洪水を。

 滅び行く血鬼ヴァンパイアの、先の見えない暗黒の中でも、希望の灯火を担えるのだと。


「私は……少し、部屋に戻って、休む……。組織の……これから先のことを……考えなければ……リナリス……」

「お父さま……待って……私を……」


 後継に相応しい力があったのなら。それを想い続けてきた。

 優しく、大きく、強い父の築いた“黒曜の瞳”が凋落したというのなら、ずっと組織に守られるばかりであった自分にこそ責があるのだと、苦しんできた。


「私を、見て」


 “黒曜の瞳”の凋落は止まらなかった。

 リナリスの力は、むしろ決定的な崩壊を告げる一つの兆しだった。


 黒曜レハートは二年後に死んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 試合以前より策略の糸を張り巡らせ、六合上覧りくごうじょうらんそのものを手中に置かんとしたリナリスの謀略は、ジギタ・ゾギの死後の策によって不発に終わった。

 “黒曜の瞳”は、再び拠点を移している。彼女ら邪悪の輩に、安息の地はない。


 足取りを辿られることのない物件を世界各地に確保している。現在の拠点は、前のものと比べれば狭い邸宅であったが、内装はまだ新しい。

 暖炉に薪をくべながら、家政婦長である目覚めのフレイは、令嬢の消耗を慮っていた。作戦失敗の心労と、度重なる移動。どちらも大きな負担を強いたはずである。


(お嬢様は、大きな敵を相手に……秘密が秘密のままであるよう、仲間の一人も欠けることなき勝利であるよう、ずっと心を砕かれてきた。私たち一人一人を慮る優しさをお持ちでいながら、聡明にして無慈悲。“黒曜の瞳”を率いるべき器……)


 暖炉の前の椅子には、首元にかかる黒髪の、白く美しい少女が座っている。

 けれどその美しい顔は、両手で覆われている。

 啜り泣いていた。


(――まだ十八の娘だというのに。お嬢様はずっと無理をなされてきた。組織の命を預かる重責の恐れや迷いを、真に消し去ることなど、とても……)


 六合上覧りくごうじょうらんに乗じた黄都こうとへの侵攻計画自体を、再考すべき時が訪れていた。

 第八試合、ジギタ・ゾギが集めた医療部隊は、続くアルス襲撃の混乱にも統制乱れることなく、屍鬼ドローン化した黄都こうと兵の捕獲と検査を完遂したのだという。

 依頼と利益を何よりも優先の上に置く、先触れのフリンスダの仕事であった。


 第一回戦の立会人であった黄都こうと第二十六卿、囁かれしミーカは、戦闘の混乱に乗じ、“黒曜の瞳”の手で抹殺された。

 表向きには、アルスの襲撃に伴う行方不明ということになる。


 ミーカが屍鬼ドローンであったことが明らかになれば、第六試合で敵陣営へと押しつけた不正を、残ったゼルジルガが被ることになるためだ。黄都こうと兵の屍鬼ドローンが捕らわれただけの現状ならば、無関係な外部の血鬼ヴァンパイアによる犯行という可能性をまだ残すことができる。とはいえ、この程度の工作がどこまで時間を稼ぐだろうか。

 ゼルジルガと“見えない軍”の繋がりが明らかになれば、彼女は殺されるだろう。


「ゼルジルガ……ヒャクライさまも死んでしまったのに、ゼルジルガさままで……」

「お嬢様。私には分かります。ゼルジルガが私たちに同行しなかったのは、忠義のためですとも。あの時……“星馳せ”の襲撃で、ゼルジルガには、黄都こうと議会からの召集命令がかかっておりましたねぇ。私たちと共に逃げれば……行く先を追われて、私たち諸共に捕らえられていたことでしょう。あのゼルジルガです。お嬢様を逃がすために命を捨てられたのならば、本望と答えるに違いありません」

「いいえ。私のために……死なせては、なりません。“黒曜の瞳”はお父さまのものなのに。私も……ゼルジルガさまに、死んで欲しくない……」

「……味方を失わずに戦い続けることなど」


 小柄な老婆は、穏やかに首を振った。闇に生きる戦士として、果てしない地獄を潜り抜けてきた小人レプラコーンだ。


「夢、幻を掴むようなものでございますよ。失うことを厭って、百の敵を、千の無辜の民を斬り殺しても同じ。戦う限りは、味方もまた、失われていくのです」

「フレイさま。けれどそれは、私の力が及ばなかったから……」

「いえいえ。お嬢様は、それはお見事なご采配を行われました。あの黄都こうとが……全ての人族じんぞくが敵と言ってもよい中で、私たちの多くを、ここまで連れてきてくださったのですから……それはもう」


 リナリスの支配の力があれば、第六試合にて窮知の箱のメステルエクシルを屍鬼ドローンとして引き入れた時点で、十分以上に黄都こうとと渡り合うことができたはずだ。

 不死身の兵器たるメステルエクシルが虐殺を仕掛け、残った僅かな要人を、“黒曜の瞳”に守られたリナリスの空気感染で直接に支配下に置く。


 だが、それは“黒曜の瞳”の犠牲を度外視した戦術でもある――リナリスは勝利の最善手を選ばなかった。

 家族にも等しい味方を誰も失うことなく、しかし矛盾する戦乱の目的を達するために、ジギタ・ゾギの排除と、彼の軍勢の支配を優先した。彼女が欲していたのは、消耗品として扱うことのできる大軍勢の手駒であった。


 もはや、犠牲無しに得られる勝利の道は絶たれたように見えた。

 あるいは、遍く人族じんぞく社会への報復を目論んだ、黒曜レハートの妄執も。


「……お嬢様。黄都こうとより退きましょう。ゼルジルガも……エヌ卿の助けがあれば、あるいは脱出できるやもしれません。平和が泡沫ならば、戦乱の時代もまた、夢の如き泡沫。“黒曜の瞳”も新たな道を――」

「――


 何よりも先に、怖気がフレイの背筋を打った。


 顔を覆う指の隙間から、令嬢の瞳がフレイを見据えている。暖炉の火を反射する……深く昏い、金色の瞳。


?」

「……。出過ぎたことを、申し上げました」

「……」


 リナリスはしばらくの間、白い顔でフレイを見つめた。

 沈黙。


 やがて微笑みを浮かべる。


「申し訳ありません。フレイさま」

「はて。何のことでしょうかね」

「……不安で、取り乱してしまって。見苦しい姿を、お見せしてしまいましたね」


 フレイの言葉は演技ではない。操作ですらない。真に忠誠を誓っている。

 リナリスが自らの心ではなく、父の理想に従うのと同様に――フレイにとってのリナリスの言葉も、彼女自身の矮小な意見よりも優先されるものだ。


「本当は……本当はまだ、残された策があるのです。これよりもずっと危険で、困難な道ですけれど……それでも、皆を生かし、お父さまの理想を叶えられるように。……フレイさまは、ついてきてくださいますか?」

「ええ。ええ。お嬢様の命とあらば、いくらでも。フレイめにお申し付けください」


 リナリスの細い指が取り出したものは、第三試合においてユノと共に城下劇庭園に潜入し、内容を書き写した羊皮である。


「まあ、その手紙は」

「……この情報を役立てる時が来ました」


 彼女自身は脆弱な少女だ。若さ故に、精神に歪みと弱さを抱えている。

 それでも恐るべき智謀の持ち主である限り、決して無策の撤退を選ぶことはない。


「弾火源のハーディさまの手紙です」


――――――――――――――――――――――――――――――


「感染者でない、というのは確かだろうな」

「はい。騙りでしょうか」


 逆理のヒロトの事務所廊下を進む巨漢は、みはりのモリオである。

 報告者の兵と並んで背後を歩くヒロトが言葉を次ぐ。


「このタイミングで接触してきたということは、恐らく嘘ではないでしょう」

「……ならば何を狙っている?」


 扉を開き、二名は来訪者と対峙した。

 頬のこけた、山高帽を被った黒衣の男である。

 彼の持つ全ての武装は、この応接室に着くまでに解除されていた。


「素手で同じだ」

「了解」


 モリオが囁いた言葉は、男の姿から見て取った、敵の戦力の程だ。


 モリオが武器を持てば、問題なくこの敵を制圧できる確信がある。

 加えてこの事務所はオカフの兵が取り囲んでおり、二重三重の包囲網の内側も同然の状況だ。よってこれは単純な襲撃などではない。


「まずは挨拶させていただきましょう。逆理のヒロトと申します。“客人まろうど”です」

「オカフ自由都市、みはりのモリオだ」

「……私は」


 男は山高帽を脱ぎ、骸骨めいてぎこちない笑いを浮かべた。


「無垢なるレンデルトと申します。あなたがたの言うところの、“見えない軍”です」

「その通称……」

「我々はあなたがたが用いる符丁を知ることもできる組織である、と考えていただければ。そして、疑っているのでは? 真に“見えない軍”であれば、屍鬼ドローンでない私が、こうして交渉に訪れるはずがない、と――」

「故に、あなたが交渉役であると。そうですか?」

「はい」


 “黒曜の瞳”の構成員は、令嬢と共に行動する限り、否応なく屍鬼ドローンに空気感染する。故に、未だ屍鬼ドローン化していない構成員は極めて少ない。


 そして無垢なるレンデルトは一度、二つ目の名を変えている男だ。

 幼少時より敬愛したリナリスの傍らを自ら離れ、感染者には不可能な任務を鋼の意思で遂行する、遊撃戦闘員であった。


「二次感染の恐れがある限り、あなたは私に会いすらしなかったでしょう。故に屍鬼ドローンではない私が来ました」

「お前は自分の立場を分かっているのか?」


 モリオは淡々と尋ねた。


「お前らには千一匹目のジギタ・ゾギの殺害容疑がある。お前が消えて文句を言う連中もいない。拷問して組織の内情を吐かせることも、それ以上のこともできる」

「我々を憎む心は理解できます。命が所望であれば、私はそういたしましょう」

「……そうか。任せるぞ、ヒロト」


 傭兵の長はあっさりと引き、交渉の専門家へと代わる。


 敵の真意を図るための脅迫であった。

 ただの利益目当ての偽物であるならば、命を懸ける覚悟まではできない。


「失礼しました。では、そちらのお話を伺いましょう」

「……こちらが持っている情報が、一つあります。その上での話となりますが」


 レンデルトは、手紙の写しをテーブルの上に置く。


「我々の目的は、あなたがたとの共闘です」


 “見えない軍”。試合前よりヒロトの陣営に工作を仕掛け、ついにはジギタ・ゾギの命と、彼らの歩む道までもを奪った、六合上覧りくごうじょうらんにおける最大の仇敵。

 その張本人からのあり得ない申し出を受けて、ヒロトの心に動揺はなかった。


(……やはり、来た)


 それどころか、

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