楽園の証明 その1

 星馳せアルス討伐の戦後処理は、一区切りを迎えた。白く磨かれた謁見の間には黄都こうと二十九官の数名が並び、幼き女王への報告を執り行っている。


「――以上が、魔王自称者アルスの襲撃による被害の総額となります。市街地復興には三十二名の巨人ギガントの志願労働者が名乗り出ており、また、六合上覧りくごうじょうらんによって得られた分の利益の一部を都市開発予算の補填として振り替える手筈を終えております。第二将ロスクレイを筆頭に黄都こうと防衛へ全霊を捧げた兵士たちの働きは、全ての市民の知るところです。黄都こうとの威信が揺らぐことはありません」

「ありがとう。ジェルキ。ロスクレイも、素晴らしい働きだったと聞いているわ」

「幸甚の極み」

「ありがたきお言葉です」


 滑らかな銀の髪と、人形のように整った顔立ちには、一点の曇りもない。

 女王セフィトの声は美しく澄んで、しかし一切の感慨を含まぬ声である。


 セフィトには直属の摂政と呼ぶべき存在がなく、それはこの黄都こうとの政治体制の歪さを表してもいる。“本物の魔王”の時代の戦時体制である黄都こうと二十九官は、今も女王の代行としてこの人族じんぞく最大の国家を運営していた。


 この六合上覧りくごうじょうらんにて、女王に代わる権威――“本物の勇者”を定めることで、この体制を変える。王女ただ一人に責任を背負わせる君主政治を廃し、正しく議会政治へと社会を移行させる。表向きには女王の足下に傅きながらも、速き墨ジェルキはその未来のためにこそ動いている。


「ジェルキ」

「はい」

「焼け出された人たちの慰労訪問の日取りを決めてくれるかしら。多くを失ってしまった人たちを癒やすには、家や金貨だけでは足りないわ」

「……それは」


 ――王族としては正しい行いだ。だが危うい。


 今回の災厄の避難民は、東外郭の貧民が中心だ。彼らがそこに魔王自称者アルスの被害を誘導したことまでは市民の知る話ではないが、それでも黄都こうとや王族に恨みを抱いていない者ばかりではないはずだ。

 暗殺の危険を排することもできない。オカフ自由都市、旧王国主義者、“見えない軍”。さらには、既に敗退した勇者候補者。彼らの制御にない不穏分子が、今の六合上覧りくごうじょうらんに乗じ、この黄都こうとで蠢いているのだ。


「被害者一人一人に十分な時間を費やすお積もりであれば……日程的には、少なくとも第二回戦の終了後になるかと。代わりに“教団”の神官へと通達し、被害者の心の傷を癒やすよう取り計らいます。女王様のお心とお言葉のみでも、民にとっては身に余る光栄となりましょう」

「……。そう」


 セフィトが傷つけられることがあってはならない。

 ジェルキは彼女の廃位を望むが、その目指すところは、決して暴力革命ではない。


 ただ一人残った最後の王族が暴力によって斃れたならば、同じく暴力で権威を簒奪すべく、各地に存在する、正なる王の傍流を名乗る多くの血族が雪崩れ込んでくるだろう。それは戦乱への逆行を意味する。

 無血革命が必要だ。民も、セフィト自身すらも傷つけることなく行われる、改革と進歩。その困難な道程のためにも、勇者を定めるこの戦いを止めてはならない。


「――かならず勇者を決めてね。ジェルキ」


 実態のない寒気が、彼の背を撫でた。

 大きく、鏡のような双眸が、ジェルキを見下ろしている。


 ――女王自身は、何のために勇者を求めているのだろうか。


「仰せのとおりに」


 再び深く礼を捧げて、彼らは広間を去っていく。

 女王はただ一人で、白い広間から影が消えていく様子を見送っている。


「……」


 内の一人の足取りに、僅かな乱れがあった。


「ダント?」


 囁き声のように小さな呼びかけであったが、その一人は止まった。

 女王の声ならば、喧騒の中でもそうできたであろう。


 他の二十九官は立ち去り、残った影は一つだ。

 短髪の、常に不機嫌そうな印象を与える顔。武官としては僅かに小柄な体格。第二十四将、荒野の轍のダント。


「ご用命でございましょうか。女王陛下」

「――女王ではないわ」

「いいえ。セフィト様だけが、今は女王陛下でございます」


 ダントの立場は複雑である。イマグ市での戦いによって小鬼ゴブリン及びオカフ自由都市という脅威を招き入れたに等しい彼は、彼らの動きを監視する義務を自らに課しながら、しかし逆理のヒロトの理念に共感を抱いてもいた。

 他のあらゆる派閥に与することなく、外患の中に身を置き続ける彼を疑う者は、二十九官の中にも数多い。


 だが、彼は決して黄都こうとを裏切ることはない。そうしない理由がある。


「ダント」

「…………。あまり、このダントを特別にお扱われぬよう」


 静かな視線を向け続ける少女に対して、顔を伏して、その瞳を合わせずにいる。

 それは何よりも深い敬意の故であった。


 荒野の轍のダントは、セフィトと共に、かつて滅んだ同じ王国を祖国とする将だ。


「わたしに、言いたいことがあるのでしょう?」


 その目を見ない理由に、いつしか畏れが混じるようになった。

 僅か十歳の少女の瞳の奥には……底知れない闇が、今も巣食い続けている。


――――――――――――――――――――――――――――――


 二日後。速き墨ジェルキは、さらに別の“戦後処理”にあたっている。

 逆理のヒロトが構える事務所応接室である。机を挟んで彼と向かい合うヒロトの陣営の中に、もはや千一匹目のジギタ・ゾギの姿はない。


「改めて、名乗らせていただく。黄都こうと第三卿速き墨ジェルキ。本日は、六合上覧りくごうじょうらん参加者、千一匹目のジギタ・ゾギ殿への論功行賞の通達である。よろしくお願いする」


 ジェルキは二人の姿を見た。

 十代半ばの見た目、白髪交じりの少年が逆理のヒロト。

 軍服を纏う、髭面の巨漢がみはりのモリオ。この二名は共に“客人まろうど”。


「お話はかねがね聞いております。経済内政を一手に担う、黄都こうとの生んだ最優の官僚であると。光栄です。私が、逆理のヒロトと申します」

「オカフ自由都市、みはりのモリオだ。星馳せアルスの被害は随分なものだと聞いてる。俺の兵で役に立つなら、何でも言ってくれ」

「今回の働きには、私個人からも感謝を述べさせていただく。それでは通達を行う」


 ジェルキは、長い定型句の前置きを始めた。


「優れた加工技術による銃器その他の商業的革新をもたらし、その力を以て我が軍の勝利を大いに助けた、千一匹目のジギタ・ゾギ殿の新大陸国家、並びにその支援者たるオカフ自由都市の働き。鬼族きぞくの混じる一団でありながら、これは尋常の市民の貢献を遙かに超える、模範となる行いと評価される――」


 黄都こうとの内へと入り込んだ外患である彼らは、不穏な行動を引き起こさない限りにおいて、イマグ市の勝利に貢献した英雄でもある。恭順を口にし、六合上覧りくごうじょうらんの参加者として名乗りを上げた以上は、黄都こうと議会も彼らをそのように扱う必要があった。


「加えて、正当なる真業しんごうへと挑み、勇敢なる戦いの末に命を落とした千一匹目のジギタ・ゾギ殿は、黄都こうとの歴史に名を刻むに値する英雄である。以上の働きに値する行賞が、女王陛下より与えられている」


 眼鏡の奥、猛禽じみた鋭い眼差しが対面の二人を見据える。

 彼らは沈黙を保っている。


「――現在、黄都こうとに居住する小鬼ゴブリン全てに特二種市民権を与え、将来に渡り居住税を免除。特二種市民権は鬼族きぞくとして初の特権であるため、他に黄都こうとの居住を希望する者には審査が必要である。オカフ自由都市及び小鬼ゴブリン国家については、正式なる王国の傘下都市と扱い、オカフ自由都市への各種経済制裁処置は一切解除される。みはりのモリオ殿の魔王自称者指定も同様に解除。個人については、逆理のヒロト殿は第八卿付の上級書記、みはりのモリオ殿は第二十四将付の大隊長に任命となる。この二名は以後三年間に渡り、新たに加わった市民の素行について、一等領主と同等の監督の責を負うものとする。以上」

「わかりました」


 ヒロトは内心の感情を一切表すことなく、むしろ笑顔を見せすらした。

 人族じんぞくの敵対種族に対して、通常考えられぬ厚遇――と見る者もいるだろう。


「身に余る恩賞。女王陛下の寛大さには、感謝の言葉もございません」

「ならば、何よりだ。六合上覧りくごうじょうらんの終了次第、王宮にて正式に任命を行う。新たな時代の暁には、同胞としてよろしく願いたい」

「ええ。こちらこそ」


 両者は互いに握手を交わし、軋轢なく別れる。そのように見えた。


――――――――――――――――――――――――――――――


「状況はまずいか」


 帰路の車中にて、モリオは口を開いた。

 屈強な兵士である彼は、見た目は十代半ばであるヒロトと並んで座れば、大人と子供以上の座高の差がある。


「ええ、とても」

「特級市民権の何がまずい? 事実上の貴族待遇だ。奴隷として食い込む当初の計画に比べれば、成果としては悪くないように見えたがな」


 モリオがヒロトに問うことができたのは、ある種の野生の勘に近い。

 ――ジギタ・ゾギが死んで、こちらの陣営は統制に弱みを抱えている。上手い話にはならなかったのだろう。


「奴隷より悪い。貴族とは違って、一代限りの特権であるためです。今後、黄都こうとに居住を希望する小鬼ゴブリンは審査にかけられます。これから生まれる子であろうとも」

「……なるほど? 小鬼ゴブリンの一代は短いからな。黄都こうと側にとっては、居住税の免除程度は、大きな痛手でもないか」

「何より、貴族待遇ということは、必ずしも。その道が与えられれば、小鬼ゴブリンであろうと易きに流れます。……鬼族きぞく人族じんぞくにその有用性を示し、社会に浸透する手段など、労働の他になかった。ましてやジギタ・ゾギの率いる小鬼ゴブリンは、人族じんぞくに有益な技術を数多く極めた優秀な戦士です。彼らが飼い殺しにされたまま、技をみすみす腐らせる未来になりかねない……ということです」


 モリオは、葉巻に火を点ける。ヒロトとジギタ・ゾギの目的は、彼ら傭兵のような、一代限りの刹那的な栄華などではない。

 長く将来に渡って、人に脅かされることなく、この大陸に再び根を下ろす未来を。種族全体の、遙か先を見据えた長期計画だ。


「だが、特権は勝ち取った。黄都こうともやすやすとこいつを反故にはできんだろう。例えば向こうでの、ヤクザの占有屋の手は使えないか。特権を盾に黄都こうとに居座って、向こう側から譲歩を引き出す」

「議会ではなく、いずれ市民の中から反発の声が上がります。役にも立たない鬼族きぞくが、いつまで黄都こうとに居るつもりなのかと。私たちは、仕事をこそ勝ち取らなければならなかった。そして、黄都こうと議会は……そのような社会の変革までは、容認しなかったということでしょう」

「ジギタ・ゾギが生きていればな」


 小鬼ゴブリンを統率する頭脳が失われた。もはや彼らに六合上覧りくごうじょうらんを勝ち進む手段はなく、黄都こうと議会を相手にこれ以上の条件を引き出せる交渉の札はない。

 何より、相手はこちらに十分な見返りを与えてきている――と牽制してきている。

 モリオはそれ以上を口に出さなかったが、思考を絶やさずにいる。


(……肥え太った官僚ばかりの国とばかり思っていたが、そう容易くはいかんか。懸念要素の戦術家が消えた途端に、呑むしかない刃を突きつけてきた。あちら側にも、恐ろしく切れる奴がいる……)


 馬車の車輪が、雨上がりの濡れた路面を撫で続けている。

 隣に座るヒロトが、小さく呟いた。


「有山盛男さん」

「なんだ」

「……今となっては、ジギタ・ゾギの残した軍を統率できる者はあなただけです」

「俺はリアリストだ」


 目を閉じ、葉巻の煙を吐く。


「俺がこれまで裏方に徹していたのは、ジギタ・ゾギの方が上手く兵を動かす確信があったからだ。小鬼ゴブリンの大部隊。黄都こうとにいるオカフの傭兵全軍。さらに奴が『首』をすげ替えた旧王国主義者残党。この三つの指揮系統を有機的に動かせる指揮官なぞ、この世界にもそう多くはいない」

「ええ――みはりのモリオ以外には。そうでしょう?」

「俺は構わん。だが……」


 やはり、モリオは途中で言葉を止めた。


 黄都こうと議会の意思は既に決まっている。こちらから譲歩を引き出す材料はない。

 六合上覧りくごうじょうらんの候補者が倒れた今、将であるモリオに、まだ動く仕事があるのだという。状況を動かすには、混沌が必要だ。

 それは確かに、逆理のヒロトが彼と交わした公約でもある。


(そいつはつまり、ということだろう)


 雨霧に霞む街は、平穏に微睡んでいる。商店の光が揺れて、家々からは暖炉の煙が立ち上っている。モリオは平和が嫌いではなかった。

 魔王自称者の脅威が通り過ぎた後でも、多くの市民は、自らの安全を信じている。


「今こそ指揮権をお任せしたい」


 横のヒロトを見る。

 自信に満ち溢れた声だ。そうでなければ、民を従えることはできないのだろう。


「――あなたを味方に引き入れたのは、このような日のためです」


――――――――――――――――――――――――――――――


 謁見の間にて一人残されたダントは、膝を突いて頭を垂れた。

 そうせずにはいられなかった。彼の行いが、黄都こうとを、セフィトを危機に晒している。それを自覚し続けている。最悪の未来を避けるべく足掻き続けていた。


「申し訳ございません……王女様……! 私は、王より貴女の命を預けられた身だというのに……! オカフの傭兵や……小鬼こおにの軍を黄都こうとに招いたのは、ひとえにこのダントの失態です……! そうだというのに……!」

「……」


 少女はその場を動かず、差し出されたダントの後頭を見つめるだけだ。

 彼女はダントに何一つ命じていなかったが、そのような力が備わっている。


 見目麗しさや、年に見合わぬ聡明さのみではない――

 それは形を持たない、ただ一人の“正なる王”の権威だ。 

 

「私は……」

「……」

「……ッ、私は、あの逆理のヒロトがと思いはじめておりました……! あるいは……人族じんぞく鬼族きぞくの共存が成るのではないかと……まるで……まるで私の責を正当化するようなッ! そんな惰弱な考えが、心に……! 申し訳、ございません……王女様……」

「そう」


 幼き女王は、短く答えた。

 美しく澄んだ、しかし一切の感慨を含まぬ声である。


「真実です。真実……王女様がありながら、そのように愚かな迷いが生まれました。い……いかなる処分も……! お受けいたします……!」


 息が途切れる。顔を上げることができない。

 信じ難い吐露を行っている自覚がある。

 公式の場ですらないというのに、女王に断罪を求めている。


「――ありがとう。ダント」


 少女の声が告げた。


「お、王女様……」

「あなたは昔から、とても正直ね」


 セフィトの靴が視界に入る。細い膝が屈んで、小さな掌がダントの頭を撫でる。


。一番信頼できるダントに任せているのだもの。あなたが彼らを見張って、黄都こうとの皆を守ろうとしていることは……よく分かっていたわ」

「う、うう……うう、ぐ」

「大丈夫よ」


 あの日から、セフィトが涙を見せることはなくなった。


 ただの飾りに過ぎないとしても、女王であろうとしている。

 ひどく悲しく、気高いこの少女を、誰が守るというのだろうか。

 これから先の、激動の黄都こうとで。


「何も心配はいらないわ――わたしには、いつもダントがついているもの」

「私の」


 囁く声が、確信を与えてくれる。

 彼女と同じように全てを失ってしまったダントの、唯一の拠り所を。


「私の、全ては……“正なる王”のために」


 廃位を目論む者。反逆を画策する者。

 王女を脅かす全てが、荒野の轍のダントの敵だ。

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