勇者と魔王 その1

 空からの魔王自称者は、勇者候補者達によって討伐された。

 その深夜である。


 黄都こうとの市街の大部分は、貧民街の数区画を犠牲に災厄を免れていた。

 第七卿、先触れのフリンスダが邸宅を構える高級住宅街も、その例に漏れない。


「ツーちゃん」


 その第七卿は今、よく手入れされた庭を見下ろすバルコニーで、恰幅の良い体躯に合わせた特注の椅子に身を沈めている。

 魔法のツーは睡眠を必要としない。この時間であっても、呼べば聞こえることが分かっていた。


「こちらにいらっしゃい」

「……フリンスダ。ごめん」


 屋内の光を受けて伸びた影によって、ツーが背後に現れたことが分かった。


「私の言いつけを破ったことかしら?」

「……それも……違う。ごめん。ぼくは、アルスを止められなかった。たくさん人が死んだと思う。本当はフリンスダだけに謝るようなことじゃないんだ……」

「フゥ~……私は……あなたのことを見誤っていたみたいねぇ~」


 正面に夜景の光を眺めながら、フリンスダは諦観の溜息を吐く。


 まずは人に利を与え、そして与えた分の利を取り立てる。それは彼女を黄都こうと二十九官の地位にまで至らせた、普遍にして単純な取引の原理だ。

 強固な倫理観念を持つツーであれば、与えた恩と利によって、容易に操れるものと錯覚していた。


「……あなたを向かわせるかどうかで、オカフの傭兵一個中隊分のお金が動くはずだったわ。ジェルキとは、そういう交渉をしている最中だったの」

「分かってるよ。フリンスダは、お金が大事なんだよね。……ぼくにとっての人の命と同じだ」


 ――果たしてどのような教育が、彼女の正義感を育てたのか。

 魔法のツーには英雄としての仁義が備わっていても、兵としての忠義は欠片も存在しない。


「あなたに与えたお金も食べ物も、六合上覧の参加枠も、実験の記録も……どうやら、無駄になってしまったみたいね。人への投資に失敗することなんて、もちろん珍しくもないことなのだけど」


 過酷な人体実験を平然と了承し、当代最高の詞術士とされる真理の蓋のクラフニルと対等に接するような少女に対し、人族じんぞくと同様の感性を期待したことが、そもそも誤っていたということだろう。


 魔法のツーを制御することはできない。第五試合では独断でクゼとの戦闘を拒絶し、アルス討伐戦にはあの音斬りシャルクに次ぐ早さで駆けつけたという。彼女は誰かに命じられて動く者ではなく、己の感情のみで動く者だ。


「ごめん。ぼくはもう、この家を出るよ……」

「……。ツーちゃんの部屋に、金貨の袋を置かせているわ。持って行きなさい。この人族じんぞくの世の中では、お金がなければ安らかな夜も手に入らないわよ」

「……ねえ。フリンスダは……どうしてそんなに、お金が好きなの」

「命だからよ」


 黄都こうと第七卿、先触れのフリンスダ。彼女の目的は勇者の象徴による政権への介入でも、勝利によって得られる名誉や栄光でもない。

 医療部門統括である彼女は常に金銭の利得のみで動く。それを公言している。


「――医師は、誰よりもお金持ちになることができる。ツーちゃんは知ってるかしら? どんなお金持ちでも、たった一年の命を延ばすためだけに、長い人生で溜め込んだ全てのお金を投げ出してしまえる――命の値段だけは、いくら吊り上げても、王族にだって文句は言えないわ。必死に稼いだお金の価値なんて、死の前では消えてなくなってしまうのだから」

「それ……それは……違う……! どうしてフリンスダは……ぼくと違って、みんなを助けられるのに……! そんなの、ほんとうの人助けじゃない! どうして、人を助けられることを喜べないんだ!」

「貴族の老人が最後の一年を買ったお金があれば、二十人の貧民の子供の、四十年が買えるわ」

「……!」

「これも、想像したことなんてなかったでしょう。……ありふれた風邪や脳炎で、どれだけの子供が死んでいくか。貧民にとって、薬や医師がどれだけ手の届かない存在なのか。弱い者にとっての命は、たった一枚の金貨なのよ。いつでも、部下に言っているわ。……医師こそ、私たちこそ、誰よりもお金持ちにならなければならない。命をお金に替えて、そのお金で等しく尊い命を救うことができるのは、私たち医師だけなのだから」

「フリンスダ……」

「……ホホホホホ! だからツーちゃん! 私はお金が大好きなの! いつか……いつか、いつか! 黄都こうとの全ての命を、私たち医師が買ってみせるわ!」


 ……虐げられる弱者を助け、世にはびこる邪悪を討つ。

 それが魔法のツーの正義だった。色彩のイジックに与えられた一つの色のままに、その正義を成せればいいと信じていた。

 けれどクゼは、フリンスダは、どうだったのだろう。


 彼らもツーと同じように、弱者を余さず救いたいと願っている。彼らの行いは、紛れもなく彼らの真実で、正義だ。

 ただ正義を教わっただけのツーとは違う、大人だ。現実を知って、理不尽を理解して、その上で立ち向かうための手段を知っている。


 ――ツーの他の奴らは、皆必死で考えてる。見て、動いて、全部の力で戦ってる。


(それなら、どうすればよかったんだろう。何が正しかったんだろう)


 ――考えてないのは、ツーだけだ。


(ぼくには、考える頭なんてない)


 庭を見つめたままのフリンスダに、顔を見られていないことだけが救いだった。

 魔法のツーに居場所はない。六合上覧りくごうじょうらんには敗退して、彼女の戦いでリッケが死んだ。正しき行いのために作られた彼女は……あるいはその故に、誰かのために尽くすことなどできはしない。


 最後に、彼女は問いを発した。


「……フリンスダ。フリンスダの言う、皆の命のために……お金のために……戦うはずだったのは、ぼくだ。毒や溶けた鉄で、実験もした……。フリンスダは、ぼくのことは……ぼくの命は、大切じゃなかったの?」

「そうよ」


 知っている。彼女が彼らを救いたいと願っていても、彼らが彼女を受け容れることはない。

 作られた最初の時から、とうに理解している。


「ツーちゃんは、人ではないのだから」

「……」


 魔王の落とし子は、何も持たずに第七卿の邸宅を発った。

 彼女の一つの願いを叶えるためには、留まっていることはできない。

 きっとセフィトと会うためにも、それに見合う取引が必要になるからだ。


「……さよなら、フリンスダ」


 夜。ガス灯の光の多くも寝静まって、けれど人の営みが息づく街――


 この黄都こうとも、ツーがあの丘の上からガラス越しに眺めて、守りたいと思っていた街と同じだ。

 何よりも愛しいのに、手が届かない。ただ一人、再会を願った少女にさえ。


「……」


 遠くから、争うような声が届く。ほぼ無意識に跳躍し、尖塔の壁面を蹴登る。

 素足の爪先で屋根の上に立って、予感の源を見た。


「……あれは」


――――――――――――――――――――――――――――――


「おいっ! アレは生け捕りだって言っただろうが!」


 夜であるほど、街に落ちる影は濃い。

 湿った路地の裏に潜んで、自らを追うならず者のやり取りを聞いている。


「俺は三回も確認したよな!? 撃ってどうするんだ! ええっ!?」

「さ……最初から当てるつもりじゃあなかった! そうだろ!? ガキなんだから、脅せばついてくるに決まってる!」

「だからお前はボンクラだってンだ! 脅されたら、ガキでも、動物でも逃げる! アレが暴れたとして、撃たずに黙らせる自信があるか!? クソッ! せっかく俺たち家族が真っ先に見つけたのによォ……もし死体になっちまったら、賞金は十分の一以下だぞ!」

「わる、悪かったよ親父! だ……だから殴らねーで、一緒にキアを捕まえようぜ! 生け捕りだ!」


 第四試合の敗北からずっと、同じような危機の繰り返しだ。

 それでも、長い白金の髪をすっぽりと覆う緑色の外套には傷も汚れもない。どんな小さなほつれであっても、彼女ならばたった一言で修繕できる。体を洗う温水の雲を頭の上だけに作ることもできたし、食べ物が足りなければ、ポケットの種からいくらでも成長させることができた。


 ――世界詞のキアという。

 十六名が最強を標榜する勇者候補者の中にあって、最も恐るべき全能を誇る存在。

 しかし彼女の全能を以てすら叶えられない願いがこの世にあり、そのために未だ故郷に戻れずにいる。


「……こんな程度。たいしたもんじゃないわ」


 十四歳の森人エルフの少女である。精神性すらもそうだ。

 あらゆる事象を思いのままに屈服できる暴力で、彼女はただ一人、世界と戦わなければならない。


 滅びの淵にあるイータ樹海道を、黄都こうとの軍の侵攻の手から救う。混乱の中で生き別れになった赤い紙箋のエレアと共に、故郷へと帰る。黄都こうとという巨大な怪物を前に、それを勝ち取らなければならない。


 ――敵が物言わぬ機魔ゴーレムならば。あるいはあのアルスのように、遠い空に微かに見える鳥竜ワイバーンの影に過ぎないのならば。全能の詞術しじゅつで彼らを滅ぼして、それで全てが上手くいくのだろうか。

 けれど彼らは生きていて、考える、人間ミニアの集団なのだ。その命も思考も、自在に破壊を許された子供の玩具などではないと、もはや知ってしまっている。


「あたしは……ぜったいに諦めたり、しないんだから……!」


 路地裏で立ち上がり、逃走の詞術しじゅつを紡ごうとしたその時だった。

 意識外の後方から何かが飛来して、キアの脛に到達するよりも早く蒸発した。鉄の矢であろう。

 彼女は発動に遅れて詠唱した。


「……。【燃えて】……」

「おおーい兄貴ィ! 親父ィ! 見つけたぞおーッ! 世界詞のキアだッ! カネだッ! 俺たち一家の手柄だぞ!」

「あんたたち……!」


 苛立ちに奥歯を噛む。ならず者への憎悪のためではなく、どのように彼らを傷つけず逃走するのかを考えている。彼らは確かに悪党ではあるが、

 キアが他者を傷つけるだけの勇気を持ち合わせていないことを知って、そうした者を差し向けているのか。そもそもこの賞金をかけている者からして、本当に黄都こうと議会の手の者であるかどうか――


 狭い路地だ。後方には射手が一名。前方から二人が来る。


「足だ足ッ! いいかバカども、頭に当てたら承知しねェぞ! 腰から下なら挽肉でもいいッ!」

「出やがったなァ世界詞のキア! お前のせいで親父に怒られただろうがァーッ!」

「……。【飛ばして】」

「ぐえがっ」

「ゲッ」


 力術りきじゅつで生まれた気流が、嵐よりもなお激しい空気の壁となって、前方の二人を弾き飛ばす。問題はない。曲がり角にはゴミ捨て場があった。きっとひどく骨を折ったりすることはないだろう。


「お、お前ーッ!」


 後方の射手は二本目の矢を放っている。視線を向ける必要もない。

 常に発動している熱術ねつじゅつの防御を貫くことはできないとキアは知っている。


「やめろ!」


 その矢は蒸発する遥か手前で止まった。忽然と現れた気配に、キアは振り向いた。


「……!?」


 栗色の、長い三つ編みが眼前で揺れた。若い少女だ。背はすらりと高くて、キアよりもずっと発育がいい。

 だが、だからといって、熱術ねつじゅつに沸騰する鉄の矢を、素手で掴んで止められるはずがない。握り締めた白い指の隙間からは、溶鉄が雫となって滴っている。


「女の子をいじめたらダメだって、親から教えてもらってないのか!?」

「ひ、ひぃぃ……!」

「まだやるつもりなら、次からはぼくが相手だ! どこかへ行けっ!」


 親や兄にも目もくれず這い逃げた男を見届けて、少女はキアに振り向いた。


「大丈夫だった? よく泣かなかったね。すごいよ!」

「……何? 子供扱いしないでくれる?」


 そもそもあの程度の敵は、何不自由なく倒すことができた。

 敵がどれだけ強大であっても、世界詞のキアは無敵だ。

 本当ならば、六合上覧りくごうじょうらんに名を連ねる十六名すら、彼女の力の足元にも及ばなかったはずだ。


「ぼくは魔法のツー。きみ、何か困ってるの?」

「……魔法の?」


 キアの力を思えば、これほど滑稽な二つ目の名もない。だがそれ故に、その一名は強く記憶に残っていた。


六合上覧りくごうじょうらんの……勇者候補者……!?」

「? そうだけど」

「……っ!」


 子供なりの頭脳で、遭遇が意味するところを思考している。

 暴走した勇者候補者、星馳せアルスは他の候補者の手によって討伐された。

 なぜそのようになったのか。本当に世界で最強の者が集ったのだとしたら、止められる者は、同じく並び立つ怪物だけだからだ。


(誰かが……あたしを探すために、魔法のツーを送り込んできていたなら)


 手の平にじわりと汗が滲む。この少女は、溶けた鉄を握り締めて傷一つない。キアと比べれば子供騙しにも等しい、くだらない力だ。

 だがそれは、キアの熱術ねつじゅつの防御をということではないだろうか。


(……大丈夫……大丈夫に決まってる。さっきみたいに風で吹き飛ばしたっていいし、鉄の壁を生やしてもいい。……あたしなら、直接動きを止めることだってできる。どんなに相手が強くたって――)


 ツーは不思議そうに彼女の瞳を覗き込んでいたが、やがて口を開いた。


「セフィトがどこにいるか知らない?」

「え……」

「探してるんだ。あの子に会いたい」


 正当な王族は二つ目の名を持たない。故にその名前が示す者は、ただ一人だけだ。


「女王様に……会うつもりなの……?」

「……ん。知らないよね。いくら年が近いからって、相手は女王様だもんな……」


 ツーは空を見上げている。ここに現れた時と同じように、夜を蹴り渡って去っていくのだろう。

 無意識に、彼女の袖を掴んでいた。


「待って」


 先程のツーの問いに『困っている』と答えられなかったのは、それが彼女の強がりだったからだ。キアは、困っている。


 キアが抱える問題を突破するための望みは、あまりに儚く弱い。だが、その小さな望みがあるために、未だ黄都こうとを離れられずにいる。

 はあるいは黄都こうとの軍勢を止めることができて、エレアを解放できる権力がある。そしてそれは、顔の見えない、生きた人間ミニアのおそろしい群衆などではない。

 だが……キアはそのたった一人の人間ミニアと、仲が良かったわけでもないのだ。


「どうしたの?」

「あたしも、セフィトに会う方法を探してる」


 助けが必要だった。

 夢見る詞歌の英雄が現実に抜け出てきたような、都合の良い味方が。


「あたしの名前は世界詞のキア。……助けて。魔法のツー」

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