第七試合 その4

 今しがたの墜落は殺人的な速度であったはずだが、存外とダメージは少なかった。

 この世のどんな砲撃よりも必殺の矢が、シャルクの頭上を通り抜けていく。

 次に連続した着弾音で、シャルクすら把握できなかった十射目の矢があったことを知った。超音速の跳躍軌道を完全に読み切った上で、その着地点に。


(化物じみていやがる――強すぎる)


 空中での緊急回避はだ。この距離まで手の内を隠し切ったシャルクが、僅かに一手上回っただけに過ぎない。

 そしてこの戦いは、僅か一手を失着するだけで、一方的に死ぬのだ。


 知覚限界に至りつつある再加速の中、シャルクの心には昏い感情の影が差した。

 伝説よりも、期待していた強さよりも、遥かに強大な敵だった。

 感情の正体は、その地平咆メレを前にして、戦いになっているという歓喜。音斬りシャルクにそれだけの強さがあったことへの自尊。

 そして失望。


(殺すしかない)


 これほど望んだ強敵でありながら、それをせずに終われる敵ではない。

 敬意と慈悲の全てを殺し、敵のあらゆる手立てを封殺し、命を殺す覚悟を備えた上で……辛うじて勝利の薄明が見えるか、どうか。


 その思考の間に、周囲の風景は過ぎ行く光と化している。

 メレが次なる矢を放っていた。

 連射ではない。射撃までの間隔が妙に長い。


 破滅的な相対速度で迫る矢に対して、シャルクはその意味を考えようとした。

 回避を試みた。


「!」


 大地に突き刺さった矢の方が、暴れ狂って

 捻転。飛散。蛇行。壊滅。


 暴力的な乱動は、シャルクの行く手を面で薙いだ。これまでのどの矢よりも土砂を跳ね上げて、高速移動の視界を閉ざしている。

 少なくとも、本来予定していた進行方向に足の踏み場はない。迂回経路は次の一瞬で計算せねばならない。

 小刻みに送られる静物画のように全ての過程を認識できる。だが、大地を無差別に潜り跳ね回る、この不規則軌道は。


(惑わされるな)


 矢が反転する。跳躍する。


 爆音が周囲を取り巻き、見失った矢の軌道を読めていなくとも、前方に抜ける道はある。シャルクの速度ならば、即座にこの面攻撃の破壊圏内から離脱できる。

 静止する岩礫の一つを、宙で蹴って反射。割れて傾く地盤に着地し、迫り来る巨岩を低い姿勢で潜り抜ける。

 視界定かならぬ、今まさに破砕されゆく地盤の迷路を、神経に走る電光の如く駆け抜けていく。最高速で距離を詰め、一撃で仕留める――


 バチリ、と衝撃が走った。


「……!」


 奇形の矢が、砕けた地盤に跳弾して曲がり、すぐ背後を通り過ぎていた。

 それだけだった。


 五歩後方を斜めに通過した風圧だけで、半身になっていた左腕が巻かれて捻れ、そして千切れていた。一度は通り過ぎたはずの矢が、後方から。

 偶然だ。偶然なのだろう。不規則回転を狙ってこのような軌道を引き起こせるならば、それはもはや魔の域の技術だ。


「ああ」


 肩から吹き飛んだ左腕を再接合する時間など、残されていない。

 もはや片腕だけだ。シャルクは走った。


「体が、軽く……なった、な!」


 逆向きの稲妻の如く丘を遡った。白槍を構える。すぐさま貫き殺す。


 直後、骨格の隙間を展開。槍を地盤に突き刺す。乱気流で強引に失速をかける。

 着弾。


 目と鼻の先に、鉄の柱が降っていた。最後の最後まで、怪物的な精度。

 咄嗟の速射で放ったためか、威力も弱い。それでも、衝撃波だけで全身の継ぎ目が軋むのが分かった。


「……鉄の矢か?」


 ただ一射で丘に亀裂を入れて、シャルクの立つ側の地盤が僅かに下がっている。

 足を止め、近づけないための速射。


 ――それは、つい先ほどの時点でこの場を離れた空雷のカヨンを、十分に逃がす時を稼ぐための攻撃でもあったのだろう。


 この丘上は絶技吹き荒れる死地と化す。残る生命は一つだけだ。

 だから一言の皮肉を告げる時間だけ、シャルクは敵の意図に応えることにした。


「さっきと比べて、随分とお行儀のいい矢だ」

「待ってたぜ」


 メレもまた、その隙を突くことはなかった。

 これが、共に無双の骸魔スケルトン巨人ギガントが交わした最初の、そして唯一の会話となる。


「【メレよりサータイルの針へ m e r r e i o s a r t i l e 動地 w i k o g n e n 】」


 踏み出す一歩は、詠唱と同時であった。

 鉄の柱から猛然と飛び出して、シャルクは見上げる巨体へと挑みかかった。

 それは弓の間合いの内側。


 ――地平咆メレは、遠距離狙撃を得手とする弓手である。

 彼我の距離が取れぬ戦場であれば、その本領を封殺されて斃れるだろう。


 あるいは、この戦いを知る誰かがそう思い込んだだろうか。


「【天の鉤 a m z s t 雨粒 f o t i m a 】」


 黒弓を手に、メレは姿勢を沈めた。

 20mの巨重である。地形を一変させる剛力がある。動きは巨体に比例して、速い。

 そして不壊の黒弓は、それ自体が超質量の槌に等しく――


「――遅」


 巨大な肉の塊が飛んだ。右足の拇指であった。

 メレの動作の何よりも速く、脚を螺旋に裂いて白風が上昇した。

 夥しい血が大地を濡らすよりも先に、絶速の死神は背骨まで到達していた。


 メレは、既に刻まれた傷の痛みすら認識できていなかった。

 狙いは脊髄。


「すぎるぞ」


 天性の破壊力。圧倒する速度。超絶の武器。


 何一つ意味を持たない。


 認識が不可能なのだ。

 彼の手の届く距離にいる限り、その槍に対応する時間など実在しない。

 故に、唯一……


「【咲け l e t t e m i k s 】」


 意思の速度のみが。

 それは地平咆メレが何より信じ、何より馴染み、何より心を通じた器物である。


 詞術しじゅつが到達したのは、深く刻んだ傷を足がかりに、脊髄を貫通すべく姿勢を固定したその刹那。


 遠くからその光景を見る者の目には、先の攻撃で突き立った鉄の柱が、無数に裂けてほどける様が見えただろう。多大な質量が変じたのは、シャルクが予期していたような爆裂の礫でも、鋭利な刃でもない。


(鋼線)


 膨大な、そして繊細な鋼線の波が迫りつつあった。

 礫であれば、メレ自身の体を盾にして防げたはずの位置取りである。故にこの工術こうじゅつは、シャルクの想像を超えて致命的な一手であったに違いなかった。


 止めの一撃の寸前に、それを回避せざるを得ない。

 体ごと大きく上半身で避ける。銃弾や矢とは違う。決して骨の隙間で回避するわけには行かなかった。

 隙間を通って線が絡んだならば、それでシャルクの機動は停止する。


(こいつ……)


 回避する。刻み込んだ肉の足場を飛び、埋め尽くされていく空間を逃れる。

 弓の間合いの内側で、それはシャルクに唯一有効な攻撃手段である。

 最初から詞術しじゅつの詠唱を始めていた。近接戦闘を捨てて、それをした。


(自分自身の体で、俺の足を止めたのか!)


 突き立てた白槍で、メレの死角――背の一点に辛うじてしがみついている。

 眼下。そこは今も広がり続ける鋼線の海だ。

 落ちてしまえば、止まる。どれだけ僅かな隙でも、停止は死を意味する。

 メレの体に食らいつき、脊髄を深く突き刺す。あるいは大動脈を断ち切る。


(あと、少)


 それすらも、次に起こった出来事で瓦解した。

 突如巻き起こった加速で、軽量の骸魔スケルトンは空中に投げ出されている。

 メレの体に深く突き刺していたはずの穂先が、宙に虚しく血の弧を描いた。

 シャルクの高速の思考ですら、それを受け入れる時間を要した。


 メレの巨体が、跳んだ。

 外見からは信じ難いその挙動に、シャルクの体が弾き飛ばされたのだ。

 高い。高空から、双眸がシャルクを射抜く。


 最初に身を沈めたのは跳躍の予備動作だったのだ。

 足元に絡みつく鉄線の海も、巨人ギガントの膂力の前では障害になり得ない。

 近接距離に踏み込んだその時から、逆にシャルクが追い込まれていた――。


(違う)


 落下する右腕に鋼線が絡んだ。白槍を投擲することもできない。

 左腕があれば。あと僅か、槍を貫く時間があったなら。


(……違う)


 投擲のために振りかぶるだけの時間がない。

 鋼線を切断して逃れるだけの時間がない。

 骨格を分離して再構成するだけの時間がない。


「……違う……俺が、遅い訳がない……!」


 空を塞ぐ巨影が構えた。そこは弓の間合いの内側だった。つい先程までは。


 殺滅の弓が引かれている。

 天から見下ろすメレにとって、下方全てが弓の破壊圏内にあった。

 死線。視線。太陽を背にした逆光の中、二つの眼光だけが。


 だから、そこに狙いを定めることができた。

 シャルクは白槍を


「遠い」


 白い光が走って、巨人ギガントの左眼を貫いた。


 メレの弓よりも速い、無動作の射出であった。

 直後。低い呻きと共に放たれた矢は、シャルクを掠めて左脚を吹き飛ばした。そして大地を壊滅させた。


「――だけだ!」


 巨体が墜ちた。全ての武器を失ったシャルクも、鋼線の海へと沈んだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 ――その目が俺みたいな節穴じゃないなら。


 槍兵として持ち得る如何なる技が、全てを読み尽くした弓手よりも速く、遠くの瞳を穿つことができたのか。

 疑問を抱くべきは、それ以前の段階で起こったことである。


 跳躍の軌道を読み切った九本目の矢を、空中にあって強引に回避した一手。

 その挙動に正体があったのだとすれば、それは果たして如何なる能力であったか。

 例えば直前に重い岩礫を掴んで跳び、それを後方に高速度ですることが可能だったのであれば、“彼方”におけるロケットエンジンの如く、足がかりのない空中でも反作用による推進力を得ることができたのではないか。


 第七試合の序盤の時点で、シャルクが不可解な反転を行ったのは何故か。

 虚を突くだけの動きではなく、動きそのものに狙いはなかったのか。

 その時に向かった位置にと、最初から知っていたのだとすれば。


 ――星馳せアルスの宝だって、見たぜ俺は。


「ヒツェド・イリスの火筒ほづつ


 鋼線の波の上に立って、音斬りシャルクは左脚を再び接いだ。

 いずれにせよ、槍を手放し、疾走を封じられたこの地形にあって、彼にこれ以上できることは何もなかった。


「……と、言うらしい。お前の技が負けたわけじゃない。そいつだけは、最後に言っておきたくてな」


 それは火薬すら装填されていないただの鉄筒でありながら、ルクノカのブレスの圏外にアルスを射出して余りある威力を持った、超常の魔砲。

 ヒドウによる避難誘導の直前に、アルスが使用していた魔具の一つ。


 ならず者の一人から第二試合の情報を知り得たシャルクが考えたことは――ルクノカのブレスによって、その魔具が失われたという可能性の他に、一つ。

 アルスの体を打ち出した時、その魔具も、自身の射出の反作用で破壊圏外へと吹き飛ばされていた可能性はなかったか。彼が試合を行うマリ荒野に未だ突き刺さっているのならば、それを利用することはできないか。

 予想される位置に試合の事前から目星をつけ、開始前から丘の下を観察していたからこそ、彼は辿り着くことができた。


 無限に思える攻防だった。この僅かな時で、どれだけの死線を潜っただろうか。

 火筒ほづつのために反転していなければ、遮蔽位置を先読みした連射に死んだ。

 離した距離が少しでも遠かったならば、地形を分断されて死んだ。

 地を暴れる矢が別の動きをしていたのならば、偶然の軌道の前に死んだ。

 最後に眼球を狙った射出が外れていたなら、返しの一射で死んだ。


「立たないのか。メレ」


 倒れて動くことのない、サイン水郷の英雄を見た。

 彼らが互いに会話を交わしたのは、僅か一度の、短いやり取りだけである。


「……そうか。あんたは大した奴だったな」


 それでも、シャルクはメレのことを理解していた。

 彼が何を思ったのかも。

 踵を返す。もう片方の腕を取り戻す必要があった。


「その槍はくれてやる。地平咆メレ」


――――――――――――――――――――――――――――――


 音斬りシャルクは、何者であるのか。

 地平咆メレと戦った後も、彼はその正しい答えにまでは辿り着けていない。


「だが、あいつだ」


 夜の雑踏に紛れて歩きながら、骸魔スケルトンは独り言ちている。

 彼は今も、まるで下層のならず者のように暮らしている。

 誰よりも巨大な英雄に勝ちながら、英雄のように華やかなものを何一つ求めぬ男だった。


 彼と刃を交えた、多くの英雄が違った。

 黒い音色のカヅキすらも、そうとは思えなかった。


「――あいつだった。俺の答えだ。俺は……ようやく、俺の力が分かった」


 自分自身について、朧気な輪郭を掴んでいる。この六合上覧りくごうじょうらんを戦い抜けば、その正体が見えてくるように思えた。誰も知らず、何も必要としない彼が、この世でただ一つ指をかけた、自分自身に繋がる手がかり。


 遠からず、次の試合がある。新たな槍を手に入れるべきだろうか。

 ヒャッカに何か土産を買ってやってもいいかもしれない。

 どの道、シャルクには勝利の賞金など不要なものだ。


 雑踏に紛れて、シャルクの手に何かが収まった。

 感触だけでその正体を理解できる。


(白槍……?)


 その事実以上に、驚くべきことがあった。

 例え雑踏の中であろうと――シャルクの意識の間隙を突いて、


 膝ほどの高さを、何者かが通り過ぎたようであった。

 それは言った。


「……アレナか?」


 粘獣ウーズのようなその影は、雑踏の流れに紛れて消えた。

 その後ろ姿を追うことができただろう。

 音斬りシャルクの速度を以てすれば、追いつくことも見つけ出すことも、夜空に月を探すより容易なことであるに違いなかった。


 彼は追わなかった。

 白槍を手にしたまま、振り向くことすらできなかった。


 知らぬ名だ。

 骸魔スケルトンとしての記憶のどこにも、そのような名はない。


「……………………」


――――――――――――――――――――――――――――――


「……何、寝てんのよ」


 第七試合が終着して、しばらくの時が流れた。

 倒れたまま動かないメレの傍らに、カヨンは座り込んでいた。


 黄都こうと第二十五将。空雷のカヨン。

 武勇智謀に優れ、片腕を失うほどの激戦を生き延びてきた名将でありながら、この男の正しい出自を知る者は極めて少ない。


「アンタ、本当にバカね」


 遠くで試合を見守っていた観客の姿は既にない。

 シャルクやヒャッカを載せたキャラバンも、既に黄都こうとに帰っているだろう。

 冷え切った地を照らす夕陽が、カヨンの頬をも照らした。


 メレの弓が穿った大地が、確かな証としてそこに残っている。

 彼は戦士だった。サイン水郷から出て、確かに戦ったのだ。

 “本物の魔王”すら退けた弓手としての力を、全ての民の前で示してみせた。


「バカなんだから」


 例え“本物の魔王”を倒した勇者でなくとも。

 サイン水郷の本物の英雄がそこにいたのだと、皆に誇りたい。

 だから、全力の戦いを見せたかった。地上で最強の弓手を。

 他のどのような策を弄することができたとしても、それだけで良かった。


 顔を片腕に埋める。

 あの日と同じように、メレに背を向けている。


「……うるせえなあ」


 声が聞こえた。


「そんなんじゃねえよ。チビのくせに、バカにするんじゃねえ」


 仰向けに寝転んだままのメレは、不機嫌そうに答えた。

 カヨンは僅かに目を見開いて、その横顔を見た。

 泣き顔を歪めて笑った。


「は……あははっ……何、寝てんのよ……」

「面倒くせえからに決まってんだろ」

「まだ戦えたじゃない」

「当たり前だ。この程度、爪楊枝が刺さったくらいのもんだ。あの野郎、カッコつけやがって……こんなザコ槍、誰がいるかよ」


 もしも、右足が立てぬほどに深く刻まれ、左の眼が潰されていても。

 戦士としてのメレは、きっと最後まで好敵との決着を望んだだろう。


 シャルクとの戦いを見ていたカヨンは、それを理解できた。

 誰よりも近く、メレの表情を、その心の昂ぶりを見ていた。

 危機がどれだけ間近でも、見届ける義務があったから。


「なんなの? ただのガキの言葉なんて、忘れてよかったのに……み、皆……アンタを英雄だって……」

「ガハハハハハ……だから泣くんじゃねえよチビ。身長伸びねえぞ」


 巨人ギガントは寝転んだまま手を伸ばして、カヨンを人差し指で撫でた。


「メレ……メレは……本物の英雄だったのに……ごめんなさい、メレ……」


 ――それでも、メレは戦いを止めたのだ。


 本当の決死の戦いに身を投げ出すことをしなかった。

 それよりも大事に思うことが、真の宝があったのだと、カヨンには分かった。


「知ったことかよ。何言われたかなんて……とっくに忘れちまった。だから笑え」


 小さい人間ミニアの中でもさらに小さい子供の名を彼が呼ぶことは、殆どなかった。

 もしかしたら、弱すぎる命に愛着を持つことを恐れていたのかもしれない。

 

 ……けれど彼は覚えているのだ。ずっと。一人残らず。

 いつも、楽観的に笑っている。


「笑えや。ミスナ」


 第七試合。勝者は、音斬りシャルク。

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