第七試合 その3

(遠い)


 その遠さを測っている。彼方に霞む地平咆メレの足元に到達するまで、どれほどの死線を掻い潜る必要があるのか。

 音斬りシャルクは、地上にあって他のどの存在よりも速い。

 遥か地平線までの距離を、庭園を横切るようにすぐさま到達できる。この戦いにおいてもその事実が変わったわけではないが、それは意味を持たない。


 距離も速度も、今のこの戦いにおける『遠さ』とはなり得ない。

 見るべき尺度は一つ。到達までに何度、攻撃を回避する必要があるのか。


 メレの虚を突き、自ら取った距離は、今は広漠たる死の地帯となってシャルクの前方に延びていた。

 四発の連射が、一呼吸のうちに可能なのだ。到達までに彼が放てる矢の量は、今や五倍を見積もるべきだった。


(違うな。隠れるべき遮蔽が潰されたなら、もっとだ。逃げ場は次々となくなる)


 その思考に至った時には、既に走り始めている。手遅れである可能性があった。


 天からの矢で穿たれた遮蔽地帯は使えない。そこはもはやまともな足場すら残らぬ、暗黒の陥穽であろう。

 その三点からは噴煙のように土砂が舞い上がっていて、まだ全てが落ちきっていない。その影へと隠れたい欲求があった。


(――分かるぞ。罠なんだろう)


 神速で走るシャルクの視界では、左右の光景は飴細工のように溶ける。

 メレが次の矢を装填する動きを遠くに見据えて、それでも思考を止めはしない。

 土煙で視界を遮ったところで、それは実際には遮蔽ではない。メレには、大雑把に撃っても標的を必殺できる攻撃範囲がある。煙幕越しに撃たれて、それで終わりだ。


 土の煙幕に隠れて近づくのではなく、そこに隠れた瞬間に左右の回避を切り返す。

 囮を残して本体が身を隠し、メレがこちらを見失う展開に賭ける。

 ありきたりだ。どれも、千里を見通す目に読まれているような気がした。


 ――地平咆メレは狙いを定めずとも強い。その一点を違えてはならない。

 これほどの攻撃範囲と攻撃速度に加えて、さらに超絶の精度を誇ることが、戦闘技術としてそもそも過剰なのだ。

 技を競うべき敵も、技を要する争いもないサイン水郷で、果たしてどのような存在と戦うべく積んだ研鑽なのか。シャルクの想像力はとても及ばぬ。


 直線で距離を詰める以外の選択肢はない。全速力以上の速度でなければならない。

 まだ、次の矢は来ない。その理由もシャルクには分かっている。

 安全地帯を潰し、土砂を巻き上げ、これまで見せていなかった連射の手の内を初めて見せて、思考に足を止めさせた。その時間で、メレは射っているのだ。


 際限のない加速の只中で、シャルクは蒼穹を仰いだ。

 横一列に並んで輝く、恐るべき白昼の星を見た。


(同じように、地を垂直に穿つ連射。こいつは――)


 連なった矢が、前方の大地に降り注いでくる。途切れることなく七発。

 シャルクはそれを、死の間際のように鈍化した時間で認識している。とうに死者である彼は、いつまでもそのような世界しか見られないのかもしれなかった。


 降り注ぐ流星群の死地へと向かって、シャルクは自ら飛び込んでいく。

 死の狭間でなければ、求めるものを得られぬ宿命。

 深く前傾する。極限まで滑らかに、鋭利に。


(地形を分断しようとしている)


 逃げ場となる三点を先読みして破壊した最初の連射を、彼は布石に変えたのだ。

 真の狙いは、その三点の穴を繋げるように――地を穿つ破壊によって、決して越えられない断崖をマリ荒野に作り出すこと。


 敵の接近を封殺し、自分だけが一方的に攻撃する。そうなればシャルクに一切の勝ち目は残らない。恐ろしく冷徹で、付け入る隙のない戦術眼。

 その上これは、最初から予定されていた戦術ですらない。シャルクが距離を取った一手を見た後でなければ成立しない必勝手である。


 落着の時に間に合わなければ死ぬ。

 破壊の雨が直撃すれば死ぬ。

 死の断崖を越えたとして、破壊の範囲から逃れられなければ死ぬ。


 駆ける。前傾する。さらに深く。さらに速く。

 シャルクは、通常の骨格にはあり得ざる変形を可能とする骸魔スケルトンだ。肋骨、腰骨、頭蓋にすら、可動の『関節』がある。例えば左右の腕を瞬時に接いで、槍の射程を延ばすように。滑らかに。鋭利に。


 ――それは知覚を越える速度のために誰にも認識できぬ形であったが、“彼方”における航空機に似ていた。少なくとも、人ではなかった。


 極限の前傾。獣の如き四足で駆けるシャルクは、頭蓋を、白槍を、自身の肋骨の内へと格納していた。骨格の隙間は閉鎖されて気流を遮断し、全体が鋭利な流線型となって音の壁を斬った。

 音斬りシャルクは、今やそれ自身が一つの槍であった。


 光が空から降って、地殻を貫いて爆砕する。右前方。

 落下する星は次々と連なり、大地を切断すべく走る。

 二発。三発。四発。

 近い。近づいてくる。彼自身が近づいていく。

 五発。六発。

 すぐ真横にまで迫る破壊と、シャルクは垂直に交差する。


 今。彼は分断の死線を越えた。


(まだだ)


 すぐ背後に七発目が着弾。破壊が追いついてくる。

 直撃せずとも、矢の攻撃半径の内にある。

 乱れ飛ぶ岩礫を通して、遥か彼方のメレが垣間見える。射ち放った直後の体勢。


 シャルクは、横一列に降り注ぐ破壊の、最後の僅かな間隙を抜けた。

 メレは当然のようにそれを知っていたはずだ。


「なるほどな」


 メレは――この戦いの最初から、地を抉るような射撃を繰り返している。

 点ではなく、線の破壊を行うため。

 それは射撃の軌道上に立つ限り、どこに立とうが回避不能の攻撃となるからだ。

 理外の機動力を誇る音斬りシャルクに対して、一点を狙う狙撃が不可能であると理解している。


 シャルクは、後方から飛来した大きな岩礫の一つを手に取った。

 前方進路を壊滅させながら、八本目の矢が目前にまで迫っている。

 誘導した退避経路を完全に塞ぐ、直線の攻撃。


 地平咆メレは、弓手だ。

 一撃で仕留められぬ敵であっても、逃れる余地なき結末へと追い込む手管を知っていた。

 シャルクは地を蹴り、高く跳躍して、寸前で八本目を回避した。

 そうしなければならなかった。


「最初から、これが……お前の……!」


 ――点ではなく、線の破壊を繰り返してきた。

 空中を最後の逃げ場として意識させ続けるために。


 空中。そこには、逃れる余地なき放物線軌道の一点を狙う九本目が。

 

――――――――――――――――――――――――――――――


「【メレよりマリの土へ m e r r e i o m a l i 導管 a k o v s t 陽光と爪 r e n t e r t e 波動 n a k k o t a y 伸びろ t o r f a r m i c t 】」


 七本の矢を天に射ち放った直後、神殿の柱めいた土の矢を再び生成する。

 先に作り出したものと合わせて、残数は十三。


「鉄の矢は使わないの」


 カヨンは、その場を逃げずにいる。

 岩の一つに腰掛け、薄く笑みを浮かべて、彼の戦いの様子を眺めていた。


 その視線の先には、天に向かって垂直に突き立つ鉄柱がある。


「運ぶのに随分苦労したのよ、これ」

「集中してンだよ」


 メレは淀みなく照準を合わせている。無論、そうなのだろう。

 カヨンの視点からは、塵の大きさどころか無にも等しい――その上、壮絶なる速度で走行する音斬りシャルクを。一切見失うことなくその挙動を読み尽くすために、どれほどの集中が必要なのだろうか。今の工術こうじゅつの行使すら、小休止ではなかった。


 まるで流星のカーテンのように、七つの矢が大地を分けていく。

 世界の終わりのような地響きの中で、カヨンは大気に燃える光を美しいと思った。


「強え。とんでもない野郎だ」


 メレが他の誰かの戦力を賞賛した言葉は、これが初めてだったかもしれない。

 彼の戦う相手は、誰もその正体を知らぬ魔族まぞくで、死者だ。

 鳥竜ワイバーンや洪水を射抜くその時のように、とても静かな心で、無慈悲な戦士として射てた。全力の技。全霊の心。それでも。


「強え」


 死線よりの退路を塞ぐ、八本目の矢を放った。次を番えている。

 その退路から空中に飛び出した時――その一点を予測して射抜くように。


 九本目は、八本目の影を追うように続いた。次を番えている。

 彼の思う最大の強者であろうと、この連射を生き延びることはできまい。

 しかし。万に一つ、空中にあって第九の矢の大質量を耐え凌ぐ何らかの技を残しているのであれば、その一手をも潰す。


 十本目の狙いはシャルクの着地点だ。

 七本目の落着の寸前。砂塵の層を円状に貫いて、シャルクが現れる。

 その軌道に違わず、八本目の破壊が迫っている。白い槍は天へと跳んだ。

 メレが予見した、最適かつ最速の回避行動に違いなかった。


「強えな、お前――」


 跳躍軌道上には、既に九本目が迫っている。

 それを防ぐことが可能だったとしても、着地点に十本目。メレは次なる矢を紡ぐ。


「【メレよりマリの土へ m e r r e i o m a l i 剥がれる茨 s a i f a r t a r i 氷海 n e m k u a ――】」


 音斬りシャルクが、飛来する第九の矢に消し飛ぶ。

 寸前に、その事態は起こった。


「【蟲と月 j i n a t o l ――】……なんだ」


 シャルクが、九本目の矢を回避したように見えた。

 放物軌道はあり得ない折れ線を描いて、斜め前方へと直線に墜落した。

 着地点を狙った次の矢も、よって命中しない。


 見たこともない、条理を外れた機動力だった。だが、空中を飛行したというのか。

 舞い上がった岩礫を蹴って軌道を変えたとして、その程度では破壊の範囲から逃れることなどできなかったはずだ。


「【伸びろ k a n d e r k o r 】」


 メレは詠唱を終えている。

 今しがたの異常極まる着地によって、シャルクはむしろメレへの距離を縮めていた。残された距離で、何発の矢を放てるか。


「メレ。それは……」


 戦いを見守るカヨンは、その矢の形状に息を呑んだ。

 直線ではない。まるで節くれだった枝のように中途で捻じ曲がり、歪んだ、それはあり得ざる奇形の矢である。


 当然、遥か遠くまで飛ばすための代物ではない。

 このように、接近しつつある敵を殺すための――

 いつか戦士として戦った日の矢であった。


「潰れろ」


 シャルクの進路を塞ぐよう、それを打ち込んだ。

 恐るべき回転とともに、矢は地を跳ねて曲がった。

 それは断末魔の蛇の如き軌道で大地を暴れて、抉り、巻き上げ、砕いた。

 一切合財を更地に返す、線ではなく面の破壊を行う、殲滅の一矢。


「……!」


 メレは次の矢を放った。試合の始まりから傍らに突き立てていた、鉄柱の一本。

 すぐ前方、同じ丘の大地に突き立ったそれは丘を分断して、致命的な刃が届く刹那の寸前で、確かにその存在の足を止めた。


「……鉄の矢か?」


 柱の影から、声が聞こえる。

 声――声の聞こえる距離にまで、もはやその骸魔スケルトンは接近していた。

 止まった一歩を踏み出す僅かな時間で、それは挑発すらした。


「さっきと比べて、随分とお行儀のいい矢だ」


 完全に逃げ場を封じられた滅亡の連射から、生還している。

 不規則に暴れ狂う殲滅の矢すらも、初見で回避し切る対応能力。

 彼はどれほどの速度で世界を認識し、思考し続けているのか。


 音斬りシャルクは強い。

 メレが出会った誰よりも。メレが見たどの災害よりも。

 弓手の生命線である距離を、たった今ゼロにしてみせた。


 その男が、矢の間合いの内側にいる。それでも。

 彼の立つこの位置が、今は死線。


「待ってたぜ」


 巨人ギガントは、嗤った。

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