第七試合 その2

 本来のこの地ではあり得ない寒波が、遠巻きに集った観客を撫でる。

 第二試合の様相を話に聞いていた者も、その光景を前にして一様に絶句した。


 マリ荒野――であるはずだった。

 しかし平坦であった地形は波打つように捻れ、かつて乾燥して罅割れていた大地の岩石質は凝縮され、大一ヶ月近くを経てなお残る冷気に霜が降りていた。

 キャラバンが行き先を間違えたのだと説明付けようとしても、彼らが辿った道は間違いなくマリ荒野に続くものであって、黄都のこれほど近くに寒冷の極地が現出していることは、否定しようのない事実であった。


 だが、この日彼らが目の当たりにするのは、冬のルクノカの戦いではない。

 第二試合にあって史上究極の竜族りゅうぞく二名が立った丘の上には、今は別の二名が試合開始を待ち受けている。


 一方は、単眼鏡を用いずとも容易に判別ができた。地平咆メレという名の巨人ギガントの体躯は、20mを優に越える。同種族の中でもさらに突出した、天を衝く巨体だ。

 もう一方も既に丘の上に立っているはずだったが、見えない。そちらは骸魔スケルトンであって、尋常の人間ミニアと変わらぬ大きさである。あの黒い音色のカヅキを一撃の下に討ち果たした無名の傭兵の名を、音斬りシャルクという。


 両者の開始距離は、星馳せアルスと冬のルクノカが第二試合にて対峙した距離と同一である。竜族りゅうぞくの飛行速度を想定して設けられたこの間隔も、メレの最大射程と比べれば遥かに短い。


「あっちにいるのが、音斬りシャルク。見える? アタシは見えないけど」

「あー、あの襤褸切れみたいなやつか? 小さくてよく見えねえなあ」

「真剣にやんなさいよね。黒い音色のカヅキの銃弾より速いやつよ。詳しい話なんて、調べてあげてないから。自分でしっかり見て戦いなさいな」


 隻腕の男は、メレの擁立者だ。黄都こうと第二十五将、空雷のカヨン。

 この試合に臨むにあたり、流布した風説を利用してメレに有利な試合条件を整えたものの、それ以上の介入は行っていない。

 序の口の工作に敗れた遊糸のヒャッカが相手であれば、試合にすら持ち込ませぬ磐石の仕掛けすらも可能であったが。


(それだとマズい相手なのよね)


 カヨンは、残された片腕で髪を弄りながら思う。

 音斬りシャルクは、どこにも属さぬはぐれ魔族まぞくだ。もしも試合の事前に敗退し、六合上覧りくごうじょうらんという枷が外れた場合、彼の行動を制御できる保証がない。さらに言えば、黒い音色のカヅキを圧倒する実力を備えている。星馳せアルスと同じ類だ。


(だから、ロスクレイも彼を標的にしていない……面倒だから。本人が納得できる嵌め方で、カタに嵌めないといけなかった)


 その範疇で策を弄した結果が、この開始距離であるといえた。

 無論、彼自身の思う別の理由もある。


「勝ちなさいよ。メレ」

「誰にもの言ってやがる。お前の度肝を抜いてやるよ」

「……フ。応援してるからね」


――――――――――――――――――――――――――――――


「避けられますか、シャルク!」

「どけ」


 反対側では、シャルクとその擁立者のやり取りがある。

 黄都こうと第十九卿、遊糸のヒャッカ。

 小柄な体を冷気に凍えさせながら、彼は遥か遠くの敵の巨影を恐れた。


「見……見られて、います! こんなに距離があるのに! 焦点がこちらに合っているのが分かる! メレの視力は特別なんです!」

「羨ましい限りだな。大きさが合えば、俺の目玉に嵌めこみたかったもんだ」


 敵は当然、豆粒よりも小さなシャルクの姿を捉えているのであろう。彼は不利な条件を呑んだが、決してメレの力を侮っていたわけではない。逆だ。

 地上で誰よりも遠距離の戦いに優れた相手だからこそ、一本の槍しかその手に持たぬ彼が、メレの間合いで戦うことができたなら。


(俺が何者なのか。今度こそ分かるかもしれない)


 骸魔スケルトンは生前の記憶を持たない。彼が何者なのかを、誰も教えてくれはしなかった。

 少なくとも今、その一端が分かる。この戦いは確実にシャルクの強さの限界点を見せてくれるだろう。それはシャルクが求めてやまない正体の一つだ。

 その上で、勝つか、死するか。


「……勝たなければ」


 シャルクの背後で、ヒャッカは小さく呟いている。


「勝たなければ、意味はありません。そうでしょう! あなたには強さしかない!」

「……。どけ。矢が当たるぞ」


 ヒャッカは正しいことを言っている。もしも全力のメレを打ち倒せる強さがその身になかったなら、彼を証明するものは何もない。

 勝利を捨てて挑まなければ、彼の望みは果たせない。そして負けてしまえば、何も残らない。真の死線の先にしかその答えはない。

 常軌を逸している。シャルク自身すらそう思う。


「三度目を言わせるつもりか?」

「……」


 再び念を押して、ヒャッカをその場より退避させる。この広大な荒野のどこでも、メレの視線の向く限り死の危険がある。特に、これからのシャルクの傍にあっては。


「……さあ、来い」


 残されたのは、凍てつく大地の孤独だ。


 目覚めるような白さの槍を真横に構える。対するメレの弓は、闇の如き黒。

 第二試合で日時計としていた土柱は、試合の中で崩壊してしまっている。


 しばしの静寂が流れた。

 号砲の代わりの花火が打ち上がって、光とともに弾けた。


(――来る)


 薄青い空気に霞む彼方、メレが弓を持ち上げる動作が見えた。既に、主観時間においてその遥か前からシャルクは疾走していた。

 二枚重ねにしていた襤褸の一枚を後方へと脱ぎ捨てている。そちらの囮に目を取られたならば、この遠距離でシャルク本体の行方を追うことは不可能だ。


 それは生命体ではあり得ざる神速である。

 像すら捉えられぬ、帯めいた軌跡が白い大地をうねって駆けた。


 速度に追いつく思考で、シャルクは認識している。

 矢を。一つの塔が迫るが如き、メレの一射の質量を。


(既に来ている。速い。囮の方向ではない。追ってくる。もう二十歩の圏内だ。七歩。今――)


 落雷のように空気が哭いた。

 煮えたぎった炎そのものが、シャルクの存在地点を通過した。

 それが地表を通過しただけで、ドラゴンブレスに凍てついた大地は岩盤ごと溶融した。


 刻まれた溝は地平線までの綺麗な直線を描いていて、同じ土で形作られた矢が、大地という障害にも軌道を乱さず破壊を刻んだことを意味している。


「……おいおい」


 軌跡より少し外れた地点に逃れたシャルクは、敵の強大さを改めて認識した。

 軌道は見えた。着弾の瞬間も見えた。回避すら不可能ではない。

 だが、怪物的だ。半ば呆れ、半ば感嘆して漏らす。


「火葬にしてはやりすぎだろ」


 この一撃で明らかになった真に恐るべき点は、必殺の破壊力ではない。

 空気に霞むほどの距離から、囮にも惑わされず音斬りシャルクの運動を正確に捉え……さらには超絶の移動速度までをも計算して、到達地点へのを行ってきたということ。


(俺の速度に合わせられるかどうか、警戒してたが)


 彼も、その可能性は想定していなかったわけではない。

 メレへの距離を詰めようとした最初の移動は、全速ではなかった。


 シャルクの速度は移動慣性と隣り合わせであり、そもそも巨大な矢がもたらす圧倒的な攻撃範囲に対して、小手先の進路変更による回避などは意味を成さない。

 仮に移動速度に合わせての偏差射撃があるとすれば、このように、残していたもう一段上の速度で避けなければならなかった。


(何も考えなきゃ、最初で終わってたかもしれないか。……ここから見える地形起伏は三箇所。隠れれば、最低限奴の視線は切れる。今、矢を番えている……工術こうじゅつでそれを生成している。発射間隔がある。起伏を利用しつつ最速で行けば――二発。二発凌げば、それで喉元だ)


 シャルクの思考はその動作と同じく速い。意思持つ山のように、遠くのメレが再び動く。その動作すらも、常人の時間には僅かな一呼吸の間なのだろう。

 地平咆メレ。サイン水郷を救った、人族じんぞくの英雄。

 しかしこの距離から見れば、射程の全域に災厄を振りまく、意思読めぬ修羅の機構でしかない。


 巨体でありながら、距離の遠さのために、細かな動作を見ることができない。

 一方でメレは、シャルクの予備動作の一挙一動までも全て見えているのだろう。

 このように駆け出した初動も。今、弓が放たれ――


 しかし、シャルクの機動は反転した。

 矢を放たれたことを視認した後で、接近の方向でなく、むしろメレから後退した。


「一体、何を!?」


 遠く、馬車の内より趨勢を見守っていたヒャッカは、思わず叫んでいた。

 遠距離戦を得手とするメレから距離を離すという、子供でも理解できる悪手。ひどく定石に外れた動きであった。


 破壊の線が再び地を舐めた。

 それは凍土の土砂を噴き上げながら破壊を刻んでいくが、命に非ざる瞬発力で軌道を欺瞞したシャルクに、無論当たることはない。 


「……俺がよく見えるか?」


 これで、まずは一手。シャルクは、聞こえぬ敵へと呼びかけている。


「そういうことなら、嘘の動きにもかかるだろうさ」


 白槍を地に突き刺して制動をかけながら、シャルクはメレの次の動作を注視した。

 敵の初動を見て、見た後で動き、動きによって対応する。

 それは音斬りシャルクのいつもの戦いと同じことだ。敵に先に仕掛けさせ、十分な観察の猶予を取ることで、対処ができる。


 その時だった。


 同時に三点、空の彼方から稲妻が降った。

 シャルクの視点では少なくとも、そうとしか思えなかった。

 恐るべき地震の共鳴とともに大地が爆ぜ割れて、熱を帯びた土砂は螺旋を描いて雲まで巻き上がった。その爆風は止まることがない。


「……」


 三点。考えるまでもなかった――

 シャルクが移動先の候補として見ていた三箇所である。

 天に矢を放ち、僅かに遅れてその地点に落着するよう射ったとでもいうのか。


 シャルクは想像する。先の攻撃を避けて、メレに接近する未来を選択していたとすれば……最初の一射を回避したと誤認した、その直後に。


 否。その程度のことは問題の本質ではない。

 地形の流れを把握する目も、シャルクの思考を正確に予測する判断力も、空からの落着すら自在に操る弓術の精度すらも、本質ではない。


(三箇所だと? この威力で)


 メレまでの距離が遠い。射撃の瞬間に注視していても、正確な動作がどうであるか、常人の視力ではまったく把握できない。

 シャルクがそうできたように、メレもまたその動作を欺瞞する技術があったというだけのことだ……それすらも、本質ではない。


(――?)


 それはこの世に生きる誰もが初めて認識した事実であったに違いない。

 正確無比にして絶大なる射撃は、狙った標的を常にただ一本の矢で仕留めてきた。

 だから誰一人として、想像したことがない。


 地平咆メレは、連射ができるということを。

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