新大陸 その1
長く夢見た“智見の門”号は、今、現実となってヒロトの前にあった。
城壁のように広大に延びる赤い船体。白く立ち並んだ真新しい帆。
そのようなことは不可能だと、誰もが信じていた。今も、ヒロト以外の
この世界の果てを越えて――新世界への航海に堪える巨大帆船が、今の時代に製造可能であるということ。さらには、彼らの侮る下等な
「……ようやぐ。半分の道のりで、ございます。ヒロト様」
「ええ。しかし、もう半分です」
氏族の長はヒロトよりも随分早く浜辺について、船を眺めていたようであった。
論理によって損得を捉え、未来へ向けた計画を積み上げる能力。戦士としての力に劣る彼は、生まれ持った知性と、一人の“
ヒロトと共に勝ち取ったその栄光も、短い生を生きる
「世界……新世界。よい、響きでございます。我ら
「いいえ、まだです。ゼゲグ翁。世界を見るだけでは、足りない。貴方には……貴方が導いた氏族の繁栄と隆盛を、見届ける義務がある。それは必ず実現する未来です」
「は、は、は……そごまで、長ぐは、生ぎられますまい。四十年生ぎました。辿り着いて、ごの目で見て……私は、そごまでです」
「死んじゃだめだよー?」
別の声が割り込む。銀髪で細身の、
二人に背を向けて、白い裸足が波打ち際を遊んでいる。雪日差しエフェリナ。
「おじいさんがいなくなっちゃったら、またヒロトを食べたがるヤツが出るかも。そこはしっかり締めておいてくれないと、わたしの仕事が増えちゃうし」
奇特な“
「ヒロト様には、感謝してございます。滅び行くだけの定めだった我らに、ただ一人手を貸してぐださった……。ごれほど長く、一人の
「私は公約を果たしただけに過ぎません。この
「何故、我々をお選びになりました」
「政治家は有権者を選びませんよ。あなたがたが、私を選んでくださいました」
「それでも、そごには選択があったはずです。ヒロト様ほどの才覚がおありならば、
「……。私も……はじめは
“彼方”の世界法則を大きく逸脱した“
世界を渡ったヒロトが最初に欲した情報は、自分の以前に同じような“
そうして得られた結論の一つは、三王国を中心とする
異端の政治形態、突出した技術や資本を振りかざす“
不安定をもたらす逸脱の存在はすぐさま解体され、そうして残された技術や力の残骸だけを取り込むことで、この世界は安定した発展を続けていた。
それは“
「私は、可能性のあるほうを選んだまでです。既に安定してしまった
「は、は、は。未熟で愚がな群れです。私の頭脳とて、
「……フ。まさか!」
ヒロトは不敵に笑った。それは強がりではなく、彼は心の底から、この大事業を楽しんでいた。自身の辿った道程を愛することができた。
「――ゼゲグ翁。私は、この世界を素晴らしいと思う。
「
「ええ。“彼方”の世界では、
寿命を持たぬ“
ゼゲグ・ゾギと共に
「おォい! ヒロト! 危ねーぞ! 今の時間に出たら
新たな声は上空から聞こえた。青い
「分かっていますよ。ですから、出航のときまでこうして待っています。先の案内はお願いします、ラヒーク」
「そっかぁぁ! お前らバカだからよ! 海のこと知らねーから! てっきりもう忘れて、出る準備してるのかって心配しちまったよ! 腹減った!」
「食事は向こうの馬車に積んできています。日没までは自由にしていてください」
「ヘヘヘヘヘ! 偉いヤツだなヒロト! バカのくせに偉いぞお前ぇぇ! ああ楽しみだ! 船出だ! 楽しみだなァー!」
騒がしい金切り声が通り過ぎていった空を、
「バカは扱いやすくていいね。うるさいけど」
「それでも、彼はごの航路を見つけた。ラヒークごそが、一番の功労者です」
「おじいさんにとってはそうかもだけどさ」
もう水遊びに飽きたのか、エフェリナはヒロトの傍へと戻っていった。
かつての仲間たちの中で、彼女だけはこの出航に特に感慨を抱いてもいない。
「――ね、ヒロト。“彼方”の伝説だと、
「ああ、そういう説もありましたね」
「どうする? 海を渡った途端、わたしが溶けちゃったら」
「悲しみますよ。でも、迷信です。あなたがた
「そっかー……やめないよね。海に出るの」
「やめません」
ヒロトとエフェリナとの付き合いは、ゼゲグ・ゾギよりも長い。ヒロトの唯一の護衛であり、親友でもある。互いに遠慮なく言葉を交わすこともできた。
新大陸における試みを終えた暁には、いずれこの地へと戻ってくるだろう。
逆理のヒロトの未来には、彼らが……彼の代わりに夢を抱く仲間たちが、これから先も必要になる。誰一人欠けることなく。
「ヒロト様。……いつが、私より賢い者が生まれます」
「……」
海の彼方にある未来を見たのか、あるいはヒロトの思いを読んだか、ゼゲグ・ゾギはそんな約束をした。
「私たちの命は短い。しがし、新たに生まれる。一つ一つが短ぐとも……その短ぎ生を新たなる世代に継いで、より強ぐ。それが、
「へへへ。わたしはねー。ずっとヒロトと一緒に行くよ。こんな楽しいこと、子供や他のヤツに渡すなんてもったいないよ。わたしは絶対、死なないからね」
「……」
二人に見られることのないよう、ヒロトは太陽の方角を向いた。
彼は生まれながらの人でなしなのだろう。
「ありがとうございます」
だが、それでも嬉しいと思う。
寄せられる信頼に温かな気持ちになることができる。
彼らと共に、誰も見たことのない世界を見たいと思える。
陽の位置が低い。いずれ出航の時が来る。
そして、叶うことのない公約をした。
「いつか再びこの地を踏みましょう。皆で」
――――――――――――――――――――――――――――――
「新大陸で、私たちは研究を続けました。
多くの月日が過ぎた。海を越えて一つの目的を果たした逆理のヒロトは元の大陸へと戻り……そして
ヒロトの向かいに座る男は、第二十四将、荒野の轍のダント。短髪に刈り上げた頭に渋面を浮かべて問う。
「……代替食料だと? まさか、それだけが問題ではあるまい。
「それが、偏見に過ぎないとしたら。ダント閣下。彼らと我々との違いは、思ったよりもずっと小さいのです。……現に私は、
「倫理観の問題がある。食人の以前に、喰らうためなら
「因果関係が逆です。ならば
「そこまでして
言葉を続ける途中で、ダントは押し黙った。ヒロトの意図を理解したからだ。
まさにそれだ。『
“本物の魔王”が生きていた時代から既に、
「まずは、食料。初めは奴隷階級として彼らの導入を認め、生活の場を人と隔離した上で、我々の代替食料を与えます。飢えも敵対もなければ、その中から少しずつ
新たな奴隷階級としての
例えば不言のウハクが服しているような、
最初から対等の権利を求める必要はない。需要と差別意識の隙間から、徐々に。いずれは社会構造からの切除が困難になるほど。それがジギタ・ゾギの戦略であった。
「ならば、完成しているのか。その……代替食料とやらは」
「もちろんです」
ヒロトは、ジギタ・ゾギの荷の一つを解いた。両手に収まる大きさの木箱だった。
この
「これが私たちの、代替食料です」
「……こ、これ……は……」
ダントは、箱の内容物を見て絶句した。吐き気をこらえる必要すらあった。
箱には腫瘍が詰まっていた。ぎっしりと、無秩序に膨れ上がった肉塊は、それでも脈動し、生きているようであった。
たった一つ……白濁した眼球が重なる肉腫の隙間から覗いていて、その視線は微睡むように宙をさまよっていた。意思はない。恐らくは。
「これは、なんだ」
「オゾネズマの医術は、恐らくこの世界において最先端の技術医療です。彼を新大陸に招聘したことで、最後の段階を一足飛びに完成させることができました。ウィルスを用いた細胞の遺伝子導入と培養。かつ、脳神経を持たぬままでの最低限の恒常性維持機能の検証……」
「そ……そうではない……分かっているだろう……俺が言いたいのは。これは、貴様の言うことが正しいのなら――人なのか?」
「いいえ、断じて。食味や食感が人と同等であっても、その原料が人であったとしても、断じてそうではありません。HeLa細胞――という喩えでは伝わりませんね。変異を繰り返したこの細胞は、遺伝子的な意味においても、もはや人とは別物です」
「だが、元となった人間は――」
「私です」
ヒロトは肉塊の瞳を覗き込むことなく、木箱の蓋を閉じた。
ゼゲグ・ゾギもエフェリナも既にこの世にはいないが、もはや
「“
「逆理のヒロト……やはりそれは、愚かな試みだ。これを見て、民はどう思う……何故……こんなものを俺に明かした?」
「信頼のためです。人喰いなどより、こちらの方が余程信頼できる。彼らが人を喰わぬ
「……俺がこれを見て、貴様を信頼するとでも?」
「そう願っています。ダント閣下。私たちには、お互いの力が必要です」
逆理のヒロトは、ただ一人では無力な子供だ。彼はそれを公言しているし、故に仲間の力によってしか動くことはない。
……ならば彼が荒野の轍のダントを選んだ理由はあっただろうか。
偶然、彼の計画に都合の良い位置にいた、ただの不運な将としてではなく。
「
ダントはもう一度、閉ざされた木箱に目を遣った。それはきっと心も持たない。
だが、牛や馬のような家畜と
逆理のヒロトはそのために自らすらも差し出して、まったく平然としている。
「……考える時をくれ。
「お待ちしております」
そして、彼の如き逸脱者ならば……あるいは、ダント自身の願いをも。
部屋を去りゆく第二十四将の背で、“
「ダント閣下もまた、私の有権者の一人なのですから」
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