黄都 その14
この
恐らく、それは彼の戦いにおいて正しいのだろう。情報漏洩の心配なく、常に自分自身の領域で交渉に臨むことができる。快適な空間は相手の警戒心を解き、こちらの余裕と力を言外に印象付ける。
しかし荒野の轍のダントはこの心地よい一室にあって、議事堂以上の緊張感でその来訪者と対峙している。
「お前らの第一回戦の狙いは分かっている」
白い顎鬚の老人は、獣のような笑みを浮かべた。
「俺を早々に取り込んで、そっちの主導で反ロスクレイ派閥をまとめ上げようって魂胆だろう」
「何の話をしている。そもそも俺達の対戦順は第八試合だ。そちらとは関係がない」
「取り繕う必要はねえぞダント。いや……千一匹目のジギタ・ゾギか?」
ハーディは、ダントの右隣に浅く腰を下ろす、小柄で浅黒い異形を見た。
「確かに、移り気なオゾネズマはこちらの勢力ですな」
「ジギタ・ゾギ……!」
「なに、ダント殿。今さら隠し立てすることもありません。妨害を全力で退ければ当然こちらの存在に勘付くと、元より知れていたことです。それにこういった話は、オゾネズマ殿ではなくこちらに持ってきてもらわないとなりませんのでね」
今は城下劇庭園にて、柳の剣のソウジロウと移り気なオゾネズマの第三試合が行われている最中である。
ソウジロウの擁立者であるハーディはオゾネズマの試合到達を妨害するべく交通遅延の策を幾通りも講じ、それらの失敗と引き換えにして、オゾネズマの背後に強大な兵力を運用する戦術家が存在することを見抜いた。
ジギタ・ゾギとオゾネズマは共に
そしてその絵図を描いた黒幕は、ダントの左隣に座る、白髪混じりの年若い少年――逆理のヒロト。十代の前半に見えるが、それは見た目だけだ。
「お初にお目にかかります、ハーディ閣下。逆理のヒロトと呼ばれている者です。第二十四将の下で、こういった交渉の窓口も担当しております。お話を伺いましょう」
「逆理のヒロト。噂は聞いているぞ。
「ご明察の通りです。“彼方”の世界のお話でもいたしましょうか。例えば今の
「……厚意はありがたいが、俺にも時間がないんでな。単刀直入に言おう。この前、オカフの傭兵の中からも何人か人死にが出ただろう――どうも、色んな組織に間諜を紛れ込ませてやがる連中がいる。同じ
「無論、ハーディ閣下直々の要請とあらば、我々も是非協力したいところです。そちら側からも捜査情報を共有していただけると考えても?」
「残念だが、そいつはできん。相手の実態が分からない以上は、情報が漏れる道は少ないに越したことはねえからな。だから代わりの交換条件を出す。お前らの第三試合の要求を呑む。この試合でソウジロウが負けたら、俺はお前らの下についてもいい。……オゾネズマを、支援させてもらう」
大きな手を口元の葉巻に被せながら、ハーディは声を潜めて言った。
対峙するヒロトにはその言葉の真偽が分かる。ハーディの一挙一動。彼の論理の虚と実。敵が何を求め、何を恐れるのか。
(逆だ)
政治家として、穏やかな笑みを変えることはない。
表情筋一つ動かさずに、次の一言を発するまでの時間で、敵の思考を追跡することができる。それがヒロトの力だった。
(この
脳に羅列した膨大な思考を飲み下すように、ヒロトは一口だけ茶に口をつける。
情報が足りない。ハーディ自身に、さらなる答えを口にしてもらう必要がある。
「――私たちも、今回の
中央に座るダントは、当初からの渋面を保っている。ヒロトの提案は彼にとって初めて聞く話であろうが、彼とて
「ありがたい話だ。だが俺の派閥を取り込まないまま、第二回戦をどう戦うつもりだ? オゾネズマが次に当たるのはロスクレイだ。奴は勝ちあがってくるぞ」
「……フフフ。確かに。第二回戦で彼を相手取るなら、それは
ハーディの全てを読んでいるわけではない。だが、核心を導く質問はできる。
「第三回戦をどのように戦うつもりでいますか?」
僅かな静寂があった。ハーディは片目を見開いて、ゆっくりと葉巻の煙を吐き……そして灰皿に押し付けて火を消した。
「…………」
応接室の扉が開いたのはその時だった。年嵩の女参謀が入室し、ハーディに耳打ちをした。彼は顔をしかめて立ち上がり、壁にかけていたマントを羽織った。
「ダント。少々まずい事態が起こった。劇庭園で俺の書簡を奪おうとした奴がいる。既に別の兵が斬り殺したそうだが、その兵も腕を斬られたらしい。俺から訪ねておいて悪いが、直接事情聴取に戻りたい。埋め合わせはする」
「奪おうとした? ……あんたの部下に間諜が紛れていたのか?」
「……そっちのヒロトは、“見えない軍”とか言ってたな。連中はどこにでも紛れ込むようだ。
第二十七将は参謀を伴い、足早に応接室を立ち去っていく。
“見えない軍”。一連の事態が第三試合の最中に城下劇庭園に潜入した
ハーディの書簡を盗み、解読し、さらには元のように戻した上で、別の兵が開封したかのように事件を演出することすら彼女には可能であった。
残されたジギタ・ゾギは机上の焼き菓子をもさもさと頬張りつつ、窓の向こうで駆け去っていく馬車を眺めている。
「今の参謀は仕込みでしたな」
「確かに。もう少しだったけれど、抜け目がない」
「どういうことだ。事件の話は奴の虚言か?」
「事件そのものは本当のことでしょう――そうでなければ、後で事実関係を調べられた時に『都合の悪い話題だった』という情報をこちらに与えることになりますので。しかし仮にあの事件が起こらずとも、別の危急の事件を前もって用意してあったはずです。参謀の入室は、万一のために準備されていた流れだったということですなあ。ポケットの内で、小型のラヂオを指で叩くなどして指示することもできます」
「……見えてもいないのに、どうして分かる」
「分かるんですよ」
その問いにはヒロトが答えた。専ら交渉のみを担い、戦術の全てをジギタ・ゾギに一任している彼だが、直接相対した者に限れば、その意図は手に取るように読めた。
「退席の直前。ハーディは葉巻を灰皿に押し付けて消していましたね。煙草とは違って、葉巻の火は通常、あのように消したりはしません。灰皿に立てかけるように置いて、自然に消えるのを待つ……葉巻は一度火が消えてしまったものでも、再び火を点ければ吸うことができるからです。ハーディがそれを知らないはずがない――つまり参謀が入ってくる直前の時点で、これ以上を吸う気がなかった。すぐに退席することが分かっていた、ということになります」
「……そうか。確かに、そうかもしれない。指摘されなければ、気付かない程度のことだが……。俺も葉巻の吸い方くらいは知っておくべきだったな。ならば、三回戦の件はハーディに都合の悪い話題だったのか?」
「そうとも限りません。彼が逃げたのは――」
――兆しを感じたからだ。ヒロトはそう認識している。
質問そのものには、その場凌ぎの答えを幾通りも用意できただろう。だが、その先に踏み込まれることを恐れたのだ。
「ま、交渉の場で、ヒロト殿に勝てないことを察知できる力量があちらさんにはあったということでしょう。それでいて、協力関係を結ぶという楔だけは打ち込んで去った……得られた情報についてはこちらが多いですが、最低限の目的は向こうも果たす形に収めましたな。慎重に動いていますが、一方で迷いがない。……弾火源のハーディが次にロスクレイに勝つつもりでいるのだとしたら。ここに何か大きな仕掛けがあるように思えますなあ」
「……大きな、か」
ダントは苦々しく呟いた。
大きな野心。大きな目的。新たなる統一国家の始まりに、勇者という強大な力を。
彼はそのようなものを欲してなどいない。
悪魔じみた力を持つこの二人を、ダントの力でどれだけ抑え続けられるだろうか。
第三試合の結果次第では、あの弾火源のハーディを敵に回すことになる……
――――――――――――――――――――――――――――――
オゾネズマは負けた。ヒロト陣営にすら隠していた必勝必殺の策はソウジロウに通じず、命を賭した目的こそが誤りであったことを知って、彼自身が敗退を選んだ。
その夜、ダントは共同住宅の二階に軟禁しているヒロトの元を訪ねた。
ちょうどジギタ・ゾギは調査に出ている頃で、彼は護衛を付けていない。
ガス燈の光が差し込む室内で、ダントは吐き捨てるように言った。
「オゾネズマが負けたぞ」
「……そうですね」
「奴はお前たちの陣営の本命ではなかったのか? あれを抜きにして、今後どのように勝つつもりだ」
「オゾネズマが落ちたのは無論痛手ですが、損得の両面があるとのことです。ハーディの取り込みは失敗し、オゾネズマの参加枠を使った仕掛けはできなくなりましたが、当面の間は、我々は自分の組だけに注力できそうだ、とのことで」
「それはジギタ・ゾギの意見か? ……前々から聞きたかった」
ダントは、椅子に逆向きに座った。間違いなく、彼らの陣営の黒幕はこの“
「貴様自身の目的は何だ? 魔王自称者モリオの兵を借り、この俺に取り入って参加枠を奪いまでした。そこまでの力を何故ジギタ・ゾギだけに任せている?」
「……当然、私よりもジギタ・ゾギの方が優れた戦術家だからですよ。私はこの通り、私の力では何もできないものですから。彼が彼自身のために力を使えるならば、他の誰に任せるよりも、彼の目的の助けになります。すなわち、この大陸での
「俺の質問への答えになっていないな」
逆理のヒロトは、向き合った相手の欲するものを看破する異才を持っている。
だが彼自身の欲するものが何であるのか、ここまで彼を観察してきたダントも理解できていない。
「私利私欲、という答えで納得してはもらえませんか? 変革する社会システムの隙間に既得権益を作り上げ、
「貴様がそのような俗物なら、互いにこうして苦労してはいまい。俺とてその程度は理解できるぞ」
「参りましたね。……有権者の前で、言わないように決めていることなんですが」
「……」
ヒロトはぼんやりと窓の外を眺め、星のようなガス燈に目を馳せた。
僅かな沈黙があって、ダントはその政治家の答えを待った。
果たして、恐ろしい答えであった。
「何もありません」
常のような、政治家の笑みを崩すこともない。
「……何だと?」
「本当のことです。私には、目的がありません。ジギタ・ゾギとオゾネズマをこの戦いに参加させたのも、それは彼らそれぞれの目的を助ける公約を果たしているだけで、私自身は有権者の意思以上の目的で動いているつもりはありません」
「…………」
「だから、言わないように気をつけているんですよ。嘘みたいでしょう? 有権者というのは面白いもので、私利私欲のない清廉な政治家を欲しているように言いながら、本心ではそんなものはあり得ないと信じ込んでいる……だからこのような目的は、正直に話すほどに信用されないのです」
ダントは目眩を抑えようとした。確かに言うとおりだ。あり得ない。
だが、分かるのだ。彼は嘘を言っていない。それは虚言を信じ込ませる話術なのか、それとも……恐るべきことに、偽りなくそのような存在であるのか。
「つまり……つまり、そういうことなのか? 彼らがこうして
「……。ダント閣下。政治家とはどのような存在だと思いますか?」
ヒロトは、ジギタ・ゾギが地図上に放置していた駒の二つを取った。
「ここに『A』という個人が存在するとします。彼には成し遂げたい目的があって、しかし一人の力でそれを達成することは困難です。……一方で、彼と全く接点のない『B』という個人がここにいます。彼にも同様の目的がありますが、同じように一人では手に余るものです」
「待て。『A』とか『B』というのは、何だ」
「……ああ、その……“彼方”の記号だとでも考えてもらえば。とにかく二人は、この時点で互いの存在を認識できていない。そのままでは目的を達成することができないということです――そこで、『C』が現れます。『C』は何も出来ません。『A』や『B』の助けになれる力は何も持っていないし、彼らの目的について正確な知識すら持ち合わせていないかもしれない。彼は最弱です」
彼は並べた二つの駒の間に、もう一つの、より小さな駒を間に置いた。
「しかし彼にはこの二人にはない力があります。この場で誰よりも弱い彼は、『A』とも『B』とも仲が良いのです。『C』によって『A』と『B』は見事協力関係を結び、互いの目的を達成します。『C』にも幾許かの見返りがあるでしょう。結果的に、この登場人物は三人とも、全員幸せになることができました」
「……」
「この『C』が政治家です」
うら寂しい住宅街を、馬車が駆け抜ける音が聞こえてくる。
誰にも省みられることのない共同住宅の小さな一室で、彼はただ一人に向けて演説をしている。
「有権者の中には……政治家には人を惹き付けるカリスマが、正しい知識と戦略が、一切の失言のない話術が、壮大な未来へのビジョンが必要だと主張する者がいます。それは誤った理解です。そのような仕事は、それが出来るものに回してしまえばいい。政治家に必要な能力など、『誰とでも仲良くする』能力の他にありません。目的のために力を欲する者と、目的のために力を提供できるものを人脈によって繋ぐということ――そこに政治家自身の意思は必要なく、どのような目的があろうと問題ではありません。それは支持者が決めるべきことなのですから」
「つまり、こう言いたいのか……逆理のヒロト。貴様一人だけが、生まれながらの政治家だと。政治家として、何も異常なことをしているわけではないと」
「私利私欲のない、清廉潔白な政治家を民が求めるなら、そのようになるでしょう」
逆理のヒロトの外見は若い。だが、ダントより長く生きていることは間違いない。
“
彼は十代の前半にして、このような視点で社会構造を認識していたのか。
「ダント閣下。私の言葉を、嘘だと思いますか?」
「……いいや。だが、一つ疑問も増えた」
きっと、嘘ではないのだ。逆理のヒロトには悪意も野望もない。
ダントと同様に、壮大な目的など何もない。
ならば……彼らは最終的にどこに行き着くのか? 悪魔の如き異質な変革者は、この
「貴様がオゾネズマに協力をした理由は何だ。貴様に奴を利用する私欲がなく、あくまで対等な協力関係だというのなら、それは奴が貴様に対して行った何らかの協力の見返りであるはずだ」
「その話は、もう少し長くなります。新大陸で
「知れている。
「ならば。人を喰らわぬ
「……何をした」
しかしヒロトのジギタ・ゾギへの公約が揺らがぬ以上、その手段は実在するのだ。
暗闇の中で彼は笑った。
「その問題は解決済みということです」
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