サイン水郷 その1
「何、寝てるんですか」
いつかの日の記憶だ。彼が目覚める場所はいつも“針の森”だったが、空の色と会話を交わす相手はいつも違う。
ミスナという名の、賢い子供だった。硝子の塊を削ったような厚い眼鏡をかけて、教団文字の文法表を小脇に抱えている。
「俺がいつ寝るのも起きるのも俺の勝手だろ。あー……もう昼か?」
地平咆メレは、実のところはしばらく前から目覚めていた。ただ身を起こすのが億劫で、少しばかり雲の流れを見ていたくなっただけだ。
魔王軍がサイン水郷を通り過ぎてから、しばらくはそのような日が続いている。
「……メレ。あなたのせいです」
「……」
同じ年頃の子供よりも小さい体をさらに小さく丸め、背を向けて座り込んでいる。
メレは首を掻いた。ミスナの言葉は幼子のそれとは違った意味で難解であることが多く、どうにも接し方に困った。
「大人たちは、メレがサイン水郷を守った英雄だって言います。私は……ぜんぜんそんなこと、思わないです」
「そうかよ。お前みたいなチビにどう思われようが、俺には全然関係ねえけどな」
――小一ヶ月前まで、この村は滅びの危機にあった。
“本物の魔王”とそれに伴う魔王軍が、村の境界近くにまで押し寄せていたのだ。恐怖が森の心持たぬ獣すら狂わせていて、サイン水郷の住人にその狂気が波及するのも、時間の問題としか思えなかった。
メレにできることは少なかった。彼はただ丘の上に立って、魔王軍を睨み続けた。
黒弓をいつでも引けるように構えて、二百五十年もの間寝転がってばかりいた
何日間もそれが続いた。日々心を張り詰め、食事も摂らず、陽気な軽口すら叩かなくなったメレを村人の誰もが心配したが、彼らもこの事態に何もできなかった。
村そのものが張り裂けてしまいそうな緊張の果て……それは通り過ぎていった。
魔王軍はこの小さな村を避けて、北のどこかへと向かっていったのだという。
「ま、勝手にチヤホヤしてくれんなら損はねえや。ゴロゴロ寝て暮らしても文句言われねえからな! ガハハハハハハハハ!」
「……毎年の洪水を、メレが止めているのは本当ですか」
「知らねーよ。俺は弓の練習してるだけだ」
「村に来る
「俺のメシだ。お前らなんかに渡すかよ」
ミスナは瞳に涙をいっぱいに溜めて、メレを見上げた。
淡々とした言葉とは裏腹の、怒りと悔しさの入り混じった表情に見えた。
「……そんなに強いなら、どうして矢を射たなかったんですか」
「ああ?」
「その時に射てば、“本物の魔王”を倒せたはずです。メレが射ちさえすれば、みんなが助かったはずです……この世界のみんなが」
メレは寝転がったまま、ぼんやりと利き手の右を伸ばして、閉じては開いた。
“本物の魔王”は、すぐ隣の村にまで来ていた。
射れば、届いたのだ。そしてメレの矢は防御不可能の、一方的な大破壊だ。
ひどく単純な理屈で、誰一人として思い至らなかったはずがなかった。
――なぜ射てなかったのか。
「ハッ、んなもんあれだ……矢なんてのはな、射たないのに越したことはねーのよ」
「違います。メレは逃げたんです」
「……」
「ほ、“本物の魔王”が怖かったから、射てなかったんです。みんなを助けられたのに、その勇気がなかったのがメレです!」
――“本物の魔王”の打倒のため、残された二王国には地平全土からの人材が集っていて、今も戦略を立て続けている。
戦いを挑めば、必ず敗北する脅威がそこにある。直接に魔王を倒す手段がなかったのだとしても、残された手がいくらでもあるはずだった。
山間の町に留まっている間に、
“本物の魔王”が越えられないような堀や壁を築きあげ、孤立させるのはどうか。
侵攻経路の井戸に毒を混ぜ込み、食料を絶やして飢えを仕向けるのはどうか。
恐ろしい疫病や、
そうした作戦が立案されるたびに、民は一喜一憂している。
もしかしたら、今度こそ“本物の魔王”を倒せるのではないかと。まだ、世界に希望が残されているのではないかと。
「村は、助かりましたよね。でも魔王軍は……魔王軍はこの村を越えて、ギラノ林地を滅ぼしました。小さい頃からの友達のユレンがいたんです」
「……知るかよ。全然、知ったこっちゃねえ。俺は俺のねぐらが守れればそれでいいんだからよ。世界がどうとか、関係ねーだろ」
世界を守る試みは、何一つ為されずに終わっている。
作戦指揮官が恐怖に狂い、実行すべき兵が遁走し、人道の観点から民が反発し、あるいはそのどれでもなく……ただ自然に消えていった。
どのような犠牲を払ってでも倒すべき、全ての敵がいる。
それでも、誰一人として魔王を倒すことができていない。
その存在に抗う意思を――メレがただ一度矢を放つだけの意思を奪う、それが“本物の魔王”の恐怖であった。
「だって……お、大人のみんなは……ざ、残酷ですよ……! 弓を射てなかったメレを英雄扱いして! メレが一番わかってるのに! メレはそれでいいんですか!? つらくはないんですか!?」
「知らねえって、言ってんだろ……! もうお前、うるさいから帰れや……。二度寝してえからよ」
「私……私は……私たちのメレなら、本物の勇者になれるって……」
「…………」
それ以上の言葉を続けることができないまま、小さな背中は丘を降りていった。
次の日から、ミスナの姿を見かけなくなった。
あの日の翌日、キャラバンに乗って村を出たのだと後から聞いた。
村の外で学んで、自分自身で“本物の魔王”と戦うために。
このサイン水郷から一歩も出たことのない
けれど、それだけだった。
その日から八年が経っても、“本物の魔王”が倒されることはなかったのだから。
――――――――――――――――――――――――――――――
また別の日の記憶もある。メレの視力はサイン水郷に近づく
(…………)
だが、その時のメレは番えた矢を放つことなく、それが山に突き立つ鉄柱の一本に到来するまでを待った。
戦闘を仕掛けたならば、どちらもただでは終わらぬだろう。それが分かった。
――その
「……。あんたが、メレ……?」
星馳せアルスという名を持っていた。遍く財宝と英雄を踏破した、最強の
「だったらどうする。ここには何もねえぞ。俺以外はな」
サイン水郷の生ける伝説は不敵に笑い、しかし低い声で返した。
柱の上に留まったまま、アルスは静かに
「…………それ。その弓、強いのかな……」
「まあな。誰がどこの世界のどんな材料で作ったか知らねえが、絶対にぶっ壊れねえ代物だ。こいつを奪ってみるか、鳥ガラ野郎」
「……やだな……。持ち運ぶの、面倒そうだ……」
一瞥だけで興味を失ったように、アルスは村の方向へと首を回した。
この冒険者にとっては、その程度のことが蒐集を諦める理由になる。裏を返せば――もしも彼に扱える武器であったなら、躊躇なく簒奪にかかっていたのだろう。
「それに、あんたの本当の宝は……そっちじゃないよね」
「お前に俺の何が分かる。……何しに来やがった、“星馳せ”」
メレは矢を引き絞ったまま、恐れを噛み殺しながら問うた。
それは眼前の
こうして目の前にすれば、瞭然と理解できる。サイン水郷に根付いてからの二百五十年、久しく見たことのなかった強者だ。星馳せアルスは、地平咆メレが連綿と積んだ武技を尽くして不足のない敵であるはずだった。
戦士であった時のメレであれば、この場でアルスの返答すら待たずに戦闘を仕掛け、地上最強の雌雄を決したことだろう。
……だが、サイン水郷は?
あの小さな村は、彼の全力の戦いには耐えられまい。生活を共にできぬほどに尺度の違う矮小な
(……なんだそりゃ。関係ねえ。何も、関係ねえ)
それが恐ろしかった。
それを存分に振るうべき千載一遇の好機が、今メレの目の前にある。
それでも戦えないのか。愛するサイン水郷がそこにある限り、無双の力を天地に見せる機会は一度としてないのか。
地平咆メレは、もはや戦士ではないのか。
「…………別に」
他の誰とも共有できぬメレの思考を、アルスの言葉が遮った。彼は悩みを持たず、自らの興味の他に関心を持ってもいなかった。
「あんたに、聞きたかっただけだよ……。どういう気持ちなのかな…………」
「なんだ」
「自分の国があるって」
星馳せアルスは、メレの本当の宝を見抜いている。
それは
「……ハハッ。俺の国なんかじゃねーよ。こんな小せえ村」
サイン水郷は、彼にとっての枷だった。年に一度、洪水がこの地を襲う。メレはこの“針の森”から動けず、この村にいる限り戦うこともできない。
ならば村の者たちとの平和な日々は、メレを弱くしただろうか?
旅と共に戦いに明け暮れていたならば、二百五十年、心の飢えを知らずに生きていられただろうか。
いつかのイーリエとの約束がなければ、一日も休まず、星の光に矢を射続けることができただろうか。
「でも、まあ……なんだ。こんなチビどもでもよ」
その奥底に戦いを欲する心があったとしても、メレは断言することができた。
後悔はない。この道を選ばなかったメレは、今のメレより弱いのだろう。
「自分の居場所があるのは、悪くねえよ」
「……そっか」
アルスは大きく羽ばたいた。彼がこの“針の森”を訪れたのは、それだけの、全く些細な用件でしかなかった。
「――なあ、アルス!」
去りつつある
かつての子供と同じ問いかけを問うた。
「お前はなんで戦わない! 世界中の伝説をブッ倒すなら、一番デカい奴がこの世にいるだろう! まだ誰も倒せてねえ、この世で最強の奴が!」
「……? …………ああ、“本物の魔王”のこと……」
遍く伝説を越えたその
地平の多くの者が、そう信じていた。彼に身勝手な希望を託していた。
けれど、彼はそのような希望にも惑うことなく、気怠く答えることができた。
「だって、魔王は何も持ってないじゃないか……。……他のやつとは、違うよ。宝も……居場所も、何も持ってない……」
夕暮れを待つ黄緑の空に、その翼は遠く消えていく。
地平の一点を違わず射抜く目があっても、その影を見送ることしかできない。
残された
――――――――――――――――――――――――――――――
「ちょっと! 何昼過ぎまで寝てんのよッ! 今いつだと思ってんの?」
メレは彼自身の家屋で目を覚ました。家屋といっても、ただ壁と天井が囲われただけの、巨大な箱も同然の簡素な作りである。
サイン水郷ではなく、
耳元で彼を起こした擁立者の、不機嫌そうな顔を見て笑った。
「ヘヘヘ」
「な~にがヘヘヘよ。寝ぼけちゃって……夢でも見たわけ?」
「いいや……なんていうか、嬉しくなっちまってよ」
ここはサイン水郷ではなかった。守るべき友もいなかった。
二百五十年、相まみえることのなかった強者が、集ってくる。
「居場所があるってのは、悪くねえな」
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