第六試合 その2

 夜。一羽の虎鶫が窓枠に止まる。

 窓は静かに開き、繊細な指先がその小鳥を掬い上げて、部屋の内へ招き入れる。


 白い指は、鳥の脚に括られた小さな羊皮片を丁寧に開き、据え付け式の拡大鏡の下へと置いた。


(――試合場の変更)


 指の主の声は常のように穏やかであったが、深刻さを帯びてもいた。

 リナリスは目配せをして、周囲の“瞳”の面々を集めた。


「エヌさまより、緊急の伝書鳥が渡されました。やはり、昼の爆発はケイテさまの采配。第六試合は日程を一日遅らせて、旧市街広場での開催となりました」


 “黒曜の瞳”の本隊より切り離され、一切の接触を見せていないゼルジルガには、果たして主脳たるリナリスの作戦の共有と連絡はなされていないか。

 無論その答えは、否である。


 民間に文字の普及が行われず、それに伴う技術の発展がないこの世界において、夜行性の虎鶫を用いた通信などは、“黒曜の瞳”の他に実用不可能の手段である。

 血鬼ヴァンパイアとしての生体支配の力は、自在の経路で、帰巣本能以上の精度の往復連絡を可能とする。文字に関しても、ゼルジルガではなく第十三卿エヌが執筆と解読を担うことができた。


「第四卿ケイテ。信じ難い策を使う……」


 令嬢の足元――床上にて唸る声は、七陣後衛、変動のヴィーゼ。

 生まれながらに深刻な骨格の歪みを抱えた彼は常にこうして四足で這うことしかできなかったが、それと引き換えに異能の投擲技術を極めた狙撃手でもある。


「昼の爆発で、軽傷者が三名。これでは我々の策が間に合うかどうか」

「これがケイテさまの仕掛けであるとしたら、死者が出ていないのは……意図的なものなのでしょうね。事件を起こすとして、六合上覧りくごうじょうらん自体が中止となる規模のものであってはならない。人通りのない、発見の容易でない場所に爆発物を隠した」

「我々も昼より捜査を行っています。しかし、一切の証拠が発見できず……!」

「存じております」


 リナリスは、やや疲弊したように微笑む。

 ケイテがこれほど大胆な手に打って出たことが、緻密に組み上げられた“黒曜の瞳”の計画を、想定外のところで乱していた。城下劇庭園の使用不能は、リナリスの計画上決してあってはならない。しかし……その時間が足りるかどうかは、まさに瀬戸際の状況にある。


「劇庭園の捜索を中止いたします。捜査中のレナへ伝達しましょう」

「しかし、これは絶好の好機では……! 爆発事件が第四卿の采配だとすれば、それを暴けば、対戦相手の弱みを握った上で試合に臨むことが可能です」

「――だからこそ、ケイテさまは証拠を残してはいないでしょう。その自信があったはずです。一見して容易に明らかとなるはずの手口で犯行に及んだのは、その事件に私たちの力を割くための誘い。今、劇庭園での動きを探られているのは、私たちの方です。明日より決して、劇庭園には近づくことのないようお願いいたします」

「……ならば、ケイテの兵を支配し、下手人として出頭させるというのは。これだけの状況証拠が揃っている以上、犯人の証言があればケイテは逃れられないでしょう。試合の事前に、戦わずして勝利の得られる手です」

「ふふふ。ヴィーゼさま。それこそ本末転倒の策ですよ」


 その意見に僅かに気が和らいだか、令嬢は口元に手を当てて笑った。


「私たちは、必ずしも勝つ必要はないのですから」


 彼女らの戦いは、勇者や国家などとはまったく別の領域で行われている。

 それは陽の当たる世界の住人には思いもよらぬ、戦乱と混迷の時代への逆行を目的とした陰謀戦だ。


「第六試合は、確かな形で実施されなければなりません。結果的にはそれが、必要な時を稼ぐことにもなります」

「しかし、それでも事件の収束のためには……」

「……ええ。犯人をこちらで作り出すことができる。素晴らしい考えです。もしかしたら、この状況を打破する一手となり得るかもしれません。ありがとう存じます」


 まだ、“黒曜の瞳”の用いることのできる手数は数多い。

 魔王自称者の出入りを可能とするほどの関の支配。組織の各所へと潜めた斥候。千里鏡のエヌ。棺の布告のミルージィ。暗闘の中で打ち続けてきた、様々な布石。

 ……だが。


「念のため。可能な限り試合を引き伸ばすことができないかどうか、エヌさまに返信を行います。この爆破が大きな痛手となったのは事実でございますから――全てが台無しになる可能性も、もしかしたら、あるのでしょうね」

「……」


 蝋燭に浮かぶ白い横顔は、今は真剣に沈思していた。先の一手を考えている。その一手を打った後の次の一手を。秘密を守りながら、全てを完璧に。


「……ご心配なさらずに。十分な可能性は……残されております。手を引くべき時があるのだとしても、今この時ではない――」


――――――――――――――――――――――――――――――


 そして三日後。第六試合は変更された予定の通りに執り行われた。

 即ち、目下爆破事件を捜査中である城下劇庭園が試合場として用いられることはなく、第一試合と同様に、人垣の囲む旧市街広場において、予定を二日遅らせた試合が始まろうとしている。


 観戦席の仲介を担う商店への補償も膨大な額に上り、観戦者への告知と整理券の配布は、黄都こうと議会よりの人員も動員した、丸二日の業務となった。

 それほどの負担を各所に強いてもなお……後に控える試合予定と、遅延に伴う経済波及の懸念上、二日以上の遅延は断じて許容されず、これ以上を遅らせることも、早めることもできなかった。


 それでも黄都こうと第三卿、速き墨ジェルキは凄まじい手際で各所への指示と采配を行い、このような事態までも予測された状況の一つに過ぎなかったことを証明してみせた。

 一日でも遅れが出てはならぬとするケイテの意見とも、一日でも猶予期間を取るべきとするエヌの意見とも無関係に、その試合日程は組まれている。


「……気に食わんな」


 群衆の囲む中に設えられた席の一つで、第四卿ケイテは空を睨んだ。極彩色の気球。青空に舞い乱れる紙吹雪。


「なんだい。辛気臭い顔だねェ」


 その隣で平然と白パンを貪る老婆は、軸のキヤズナである。

 魔族まぞく生成の術を極めた魔王自称者である彼女は、陰謀渦巻くこの六合上覧りくごうじょうらんの只中にあってお一切その自信を崩さず、平然としていた。


「どうも、人が多い。急な会場変更で、もう少しばかり客席は減ると踏んでいたが……これではメステルエクシルの真価が発揮できないだろう。ガスも、ミサイルも使えんぞ」

「馬鹿かいお前は。ンな程度で戦えねえメステルエクシルじゃねえだろうが」

「相手に無用の動きをさせたくないだけだ。砂人ズメウの一人、兵器を使わずとも八つ裂きにできるとも分かっている……! だが、敵には間違いなく策がある。全てを潰したものと、甘い見込みで掛かるわけにはいかない。一撃で無力化する方策がいる」

「だ~から、余裕だッつてんだ」


 老婆とは思えぬ速さで食事を終えたキヤズナは、細い楊枝を噛みながら答える。

 視線を向けた先、メステルエクシルの両肩には、薄い箱状の装置が二つ並んで据え付けられている。


「試合前に工術こうじゅつを使っても反則じゃねえよなァ……“LRAD 2000X”。前方だけを選択的に制圧する、指向性音響兵器だ。そのまま食らっても聴覚くらいはなくなる代物だが――メステルエクシルのやつはその程度の性能じゃねえ。一瞬で意識がブッ飛ぶ。開始と同時に、ゼルジルガの範囲に絞ってこいつをブチ込む。終わりだ」

「……婆ちゃん、それは音の兵器か? そんな技術まであるのか?」

「“彼方”だ。なんでもある」


 試合開始が近い。ケイテは試合場を睨んだまま、懐のラヂオへ指示を下した。


「各隊。正念場だ。不要に動かず、狙撃開始の合図を待て」

〈了解しました〉

〈第二班了解〉

〈……了解〉


 ――変更後の会場にこの旧市街広場を選んだ理由は、複数ある。

 無論、試合場を城下劇庭園から変更するのであれば、現実的に考えて、地理的にも近い第二候補地である旧市街広場以外の場へと動かすことはできない。それでも、ここへと動かす必然性があった。


 まずは、ケイテの陣営のみが一方的に狙撃を行える射線が通っているということ。事前にこの変更予定を把握しているケイテだけが、狙撃に優位な地点を先んじて全て抑えることができた。これに関して、エヌの工作は到底間に合っていない。


 次には、奈落の巣網のゼルジルガの得意とする糸の技を封じる、開けた空間であるということ。特に切断の技は、地形に糸を掛けた上での加速が前提条件だ。無論、糸如きによる斬撃も拘束も元よりメステルエクシルには意味を成さぬが、敵の攻め手の選択肢の大半を奪える形になる。


(……メステルエクシルは初手で勝つ。だが、仕掛けてみろ。千里鏡のエヌ)


 万が一メステルエクシル自身が動けぬ事態であろうと、全方位からの狙撃がゼルジルガを貫く。

 メステルエクシルも事前に重火器を備えている以上、民はそれを彼自身が放った銃火であると認識するであろう。死体をそのまま機魔ゴーレムの膂力に引き裂かせれば、証拠がこの世に残ることもない。 


「いやいやいや! 皆さん愉快そうで結構なことでございます! しかし、もっと笑顔になれますよ! 本日はこの私の絶技、ぜひともご覧あれ!」

「ゼルジルガーッ!」

「ゼルジルガが来た!」


 これから起こる事態も知らぬ陽気な有様で、砂人ズメウが現れる。

 観客に手を振り、風船を周囲にくるくると回して、まるで大道芸気分だ。

 子供たちに合わせて、メステルエクシルもじたばたと笑った。


「は、はははははは! すごい! き、きれいな、ふうせん!」

「ああそうだ。ブチ殺せば全部お前のモンだぞ、メステルエクシル」

「はははははは! か、かつよ、かあさん! ぼくは、さいきょうだから!」


 メステルエクシルは遅れて進み出る。なおも観客に向けての芸を絶やさずにいるゼルジルガを、進み出た裁定役の女が制する。黄都こうと第二十六卿、囁かれしミーカ。


「これより試合の取り決めを行います。声の届かぬ者のいないよう、候補者は静粛に願いたい。ゼルジルガ、良いか」

「……オホン! これは……あー、失礼いたしました」

「そちらの候補者も、よろしいですか」

「ははははははは! よ、よろしい!」


 鉄の如き印象の四角い威容が、向かい合う両者の間へと無機質に立ち、告げた。


「――試合場が変じても、両者が真業しんごうに臨む覚悟の変わらぬ以上、この試合の取り決めもこれまでの試合と同じく定める! 片方が、倒れ起き上がらぬこと。片方が、自らの口にて敗北を認めること。その二つによって勝敗を決する! その他の事柄に関してはこの囁かれしミーカが、自らの名誉に懸け、厳正に判定します。各々、この条件に合意するか!」

「アッヒャヒャヒャヒャ! ……無論! このゼルジルガ、正々堂々と!」

「ぼ、ぼく、ぼくは! ははははは! さいきょうだ!」

「メステルエクシル、合意と見做す! 楽隊の砲火とともに、はじめ!」


 背を向け、周囲を観客で埋める石段へと下がる。

 楽隊の銃声とともに、全てが始まる――見守る全員が集中した、刹那である。


 影が差した。それはゼルジルガもメステルエクシルをも覆う、巨大な影だった。


「わあっ!」

「な、なにあれ!?」

「落ちてくるぞ……!」


 俄に湧き上がった喧騒に、ケイテは舌打ちで答えた。

 やはり

 空より落ちてきたのは、商店が空へと飛ばした無人気球の一つである。

 試合開始の合図は、まだ鳴ってはいない。


「撃ち落とせ。気球はエヌの仕掛けだ」


 ラヂオへと向け、ケイテは指示を下した。

 試合開始前であろうと関係はない――この狙撃の銃声を開始の合図として先制攻撃を仕掛け、そして勝てばよい。


 気球の高度が急激に下がる。それが落着する寸前に、一発の銃弾が気球を貫く。

 布地が裂けて、白い霧が内部圧力に押されて内から溢れた。

 気球一つ分の煙幕が広がり、旧市街広場の視界を一瞬にして白に閉ざした。


「チィーッ! 小賢しい手を使いやがるねぇ~!」

「くだらん真似を……!」


 確かに、こうして視界を塞がれれば狙撃の手立てはない。ケイテは歯軋りした。

 エヌの目論んだ通りに、メステルエクシルは初撃を受けることになる。

 不穏な赤い光が、気流の壁の内奥で瞬いた。


 動揺の囁き声。度重なった事故への怒号。

 会場を満たす人の声の中では、状況を十全に確認することすらできない。


(……開けた広場だ。この煙幕も長くは保たない。奴の仕掛けはなんだ……!)


 煙が晴れていく。両者は開始位置より動いておらず、人垣を割って再びミーカが進み出る様が見えた。


「静粛に! 静粛に! 皆の者、黄都こうと市民として、節度ある対応を願う!」


 彼女はすぐには発言を続けることなく、その揺るがぬ眼差しによって、喧騒が収まるまでを待った。

 この不測にも些かの動揺もなく、裁定者としての決定を告げる。


「――現在、試合は中断されていない。今もって続行中である。気球の落下は対戦両者にとって平等に予期せぬ事柄であり、ならば条件も同等であるとする! これを以て決着とする理由はない! ……メステルエクシル。まずはそちらの側から、真業しんごうの続行を止めた理由を聞く!」


 そして、動かぬままのメステルエクシルに問うた。

 彼の胸部装甲には、先程までにはなかった異様な罅が入っている。

 両者の間で、何らかの囁きが交わされたようであった。


「……」

「…………。ゼルジルガ。そちらの続行停止の理由はそれで構わないか」


 ミーカは厳しい眼差しのままでゼルジルガを振り返って、道化はその視線を嘲るように肩をすくめた。


「皆の者、静粛に! たった今……メステルエクシルよりの申告があった! この第六試合に関し、重大な決定を告げる!」


 メステルエクシルは動いていない。試合が続行しているのにも関わらず、殺害すべきゼルジルガを攻撃できていない。


(ゼルジルガさま。私たちは……必ずしも勝つ必要はございません)


 ゼルジルガの視線の先。観客に紛れた一人が、色素の薄い唇に指を当てる。

 影の中に浮かぶ金色の視線を意識し得た者は、他に存在しない。


「――メステルエクシルが敗北を認めた! この第六試合の勝者を、奈落の巣網のゼルジルガとする!」


 声は朗々と響いた。


「はあ!?」

「なんだァそりゃあ!?」


 擁立者の二人は同時に立ち上がっていた。

 それは全くあり得ない、予想だにしない結末であった。

 たとえ永劫の果てに敗北するのだしても、必然の論理に無敵を保証された戦闘生命が。軸のキヤズナの最高傑作が、このような形で敗北するはずがなかった。


 一方で……もう一つの陣営の擁立者は、密やかに微笑んでいる。


(けれど、


 第六試合。窮知の箱のメステルエクシル、対、奈落の巣網のゼルジルガ。


「ああ、これはこれは! どーも、お言葉に甘えて! 強すぎて申ォーし訳ない! アーッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」

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