第六試合 その1
その老紳士は誰にも咎められることなく馬車を駆り、水辺の邸宅を訪ねた。
彼の背後には時折黒い影が過ぎり、尾行がないことを確実なものとしている。
脱いだ帽子を胸に当て、扉を三度叩くと、すぐに応じる者があった。
「ああ、これはこれは。長旅をご苦労様でございました。お嬢様がお待ちしております。どうぞ奥まで」
目覚めのフレイという名の、
彼女の後について歩きながら、紳士は館の窓を見た。それらは尽く黒く薄いカーテンが閉塞して、昼の陽光を通さない。
だが灯りに煌々と照らされた広間にひとたび入れば、それらのカーテンの波打つ影は優雅に浮かび上がって、却って夜の広大さを感ずるのだった。
「ああ――ようこそ、歓迎いたします。棺の布告のミルージィさま」
輝くように白いドレスを纏いながら、肩や背の素肌は、それ以上に眩しい。
彼女こそがリナリス。“黒曜の瞳”の最後の統率たるレハートの、美しき令嬢。
「これはご丁寧なもてなしを。感謝いたします。黒曜リナリス嬢」
「当然のことでございます。けれどその名だけは、
彼女は困ったように微笑んで、広間の最奥に座る一人へと視線を流した。
その人物は椅子に深く腰掛けたままで、一切動いていない。呼吸すらも。
「――黒曜はただ一人。お父さまの名にございますから。本日は、お父さまに代わりこのリナリスが、心ばかりのもてなしを」
「既に国を喪った魔王自称者です。もてなされるほどの立場のものではありません」
棺の布告のミルージィ。かつてその卓越した
彼の作り上げた国は、今は“最後の地”と化したクタ白銀街を最前線に、王国との資源戦争を争い……“本物の魔王”の到来によって、戦線も国力も維持することができず、滅びた。
そしてリナリスの属する“黒曜の瞳”こそが、かつて彼の国家に最大の打撃を与えた工作部隊の名であった。
この夜のただ一人の客は、促されてテーブルにつく。
上等な白葡萄酒と、黒蜂蜜の照る真鴨の肉。彩り豊かに並べられた、紺菜のサラダ。琥珀色のスープ。
「……その頃の私は、ただの幼い娘に過ぎませんでした。けれどミルージィさまの軍の精強と技術の素晴らしさ、それこそ英雄の詩歌の如く聞き及んでおります」
「それは結構なこと。リナリス嬢には……いえ。“黒曜の瞳”には、その頃の遺恨はございませんか」
「決して。かつて矛を交えた者同士が生きて再び出会い、友誼を結べること以上に素晴らしい物事がございますでしょうか。私たちは、味方同士よりも互いの力を知っておりますわ。今こうして手を結べること、私にとって何よりの喜びにございます」
「……ならば互いの再会を祝して、あの頃の思い出話をいたしましょう」
「ええ。是非」
ガス灯のシャンデリアの下で、老いた魔王は穏やかに語った。
「貴女が幼子であったように……私も初めは、辺境の貴族の一人の家庭教師でした。まったく意外ではありませんでしょうが、
「ふふ……ご冗談がお上手なようで。とても信じられません」
「恥ずかしながら、私もまだ若かったのです。生徒に教えるたび、何故この程度の基礎を理解できないのか――と。そればかりを思っていました。より良い教えを与えるため……その貴族の書庫で、来る日も学んだ。そして、気付いたのです」
老紳士は、かつてを懐かしむように葡萄酒に映った自らの姿を見る。
工学と産業の都市。道半ばで終わった彼の革命を。
「……私は事実、教師に向いていなかった。自分で自分自身に
「教師は皆、教えながら自らも学んでいるのだと伺ったことがございます。ミルージィさまも、きっとそうだったのでしょう」
「利己的だっただけです。……しかしその利己によってか、私は市で一番の工術士と呼ばれるようになっていた。いつしか、国で一番と。精髄のバーナードと出会ったのも、その頃のことです。彼は生まれ育った“彼方”の機関を再現できないことに悩んでいました。貴女もご存知でしょう。蒸気機関と呼ばれているものです」
「……ええ。一度、汽車に乗ったこともございます。素晴らしい発明です」
「蒸気の漏れることのないシリンダーの量産化のために、私は
「……」
リナリスは口を噤んで、彼の表情をただ見つめていた。
その先に続く事柄を誰もが知っていた。
「……いつしか我々は国となっていた。どの王国にも属さず、世界にこの新たなる機関による産業革命を起こそうと思った。しかし過大な力は、国家間の政治や戦争とは無縁でいられませんでした。“正なる王”にとって……私は危険な存在でした」
彼は“魔なる王”であった。“正なる王”に与することなく、力を持ちすぎた存在。
魔王自称者は必ずしも、自ら望んで魔王となった者ばかりではなかった。
「苦心して設計した工場が……その従業員のための街が、焼かれました。友であったバーナードは毒殺され、
「……ミルージィさま」
「ええ。分かっていますよ。リナリス嬢。貴女がたが、駒柱のシンジの命でそのようなことをしたにすぎないということも……しかし国を喪った今、私は人生の結論を出すために生きてきました。その答えを出さずに死んでしまって良いのか?」
かつて立ちはだかった多くの敵との決着のために、ミルージィは生きている。
それは
リナリスは金色の瞳を隠すようにして、長い睫毛を伏せた。
「……それ以上を、仰らぬよう」
「リナリス嬢。この場にお招きいただき……心より、ありがとうございました。私の方には遺恨がございます。貴女がたには死んでもらいます」
衝撃波に窓が破砕した。猛然と飛び込んだ鳥めいた
「【
「――お嬢様に」
恐るべき反射速度で獰猛な巨重が降り、
厚い木床はその衝撃で土台まで砕けた。
「触れるな」
狼頭の巨漢の名を、九陣前衛、光摘みのハルトルという。
その衝撃にも骨格めいた
ハルトルの右腕が鉄の関節に組み付いて、狙いを
自らの
溶断された骨格と抑え込まれた腕部を一瞬に排除し、再び飛び上がっている。
虚ろな鳥の頭蓋めいた頭から、キュイキュイキュイと奇怪なる嘆きが響いた。
「レシプト改。私の“娘”と、“黒曜”の娘。どちらが優れているのか」
肋骨に当たる部位から、六枚の刃が展開した。
不可思議な
空を裂く軌道で、その刃が奔った――
初動が、横合いから飛来した円月輪の衝撃に止まった。渦状の鈎めいた刃だ。
次の初動を見せた途端に、再び刃がそれを阻んだ。動くことができぬ。
支脚の一つが切断されている。遠く、廊下の暗がりから声が響いた。
「その愚かさを恥じよ。我が名は七陣後衛。変動のヴィーゼ」
続けざまに三つの円が投擲された。レシプト改はそれを主脚で叩き落としていく。渦状の鈎が関節に絡み、回転速度によって破壊した。重心が崩れ、体勢が揺らぐ。
影が過ぎったのはその時だった。
レシプト改には
発動の時すらなかった。豪速の杖が薙いで、レシプト改は脳天から両断された。
「あらあら、これはまぁ」
背の曲がった矮躯の老婆の名を、目覚めのフレイ。
人懐こい笑みを浮かべながら、一閃を振るった杖を腰の後ろへと回した。
「腕が痺れてしまいましたねぇ。随分と硬い娘さんでしたこと」
「……」
その光景を予測していたかのように、ミルージィは瞑目した。
“黒曜の瞳”。民を虐殺し、国を焼き払った、憎むべき仇。
一つの結末は明らかとなった。彼は生まれながらの技術者であって、自身の人生の限界を計測せずにはいられなかった。
「私の敗北ですな。またしても」
「ええ。仰る通り」
背後より囁く、柔らかな声があった。
……リナリス。黒曜レハートが滅んだ後の、地上最大の諜報ギルドの残党の主。
老いた魔王は、その杖に仕込んだ銃を抜き放つことすらできていない。
この戦いの間中、彼は一切、自らの身を守ることができていなかった。
“黒曜の瞳”の配下も、彼に注意すら払っていない。その理由は。
「お嬢様の馬車は既に用意してあります。この屋敷の片付けは我々にお任せを」
「肩透かしだな……この程度の騒ぎで済むのならば、拠点を移す算段など立てずとも良かった。弱い」
「秘密の保持は絶対だ。ヴィーゼ」
ハルトルとヴィーゼは、手際よく撤退の用意を整えていく。
全てが令嬢の洞察の内にあった。この場が戦場になることすら。ミルージィの復讐心すらも。そしてその心を抱きながら……全てが陰謀の糸に動かされていたことを知らされてなお、彼が動けないことも。
「――とうに、あなたの敗北でした。ミルージィさまは、
「何をしているのか……伺っても?」
「支配を」
令嬢の淑やかさに、僅かに少女の無邪気さを秘めて、彼女は答えた。
対面すれば敗北する。そのあり得ざる例外の実在を、果たして練達の魔王自称者ですら予測できたかどうか。
今はミルージィの正面に、リナリスの顔がある。
何もかもを忘れるほどに美しい微笑み。冷たい指が、老いた魔王の頬を撫ぜた。
「メステルエクシルさまのことをお教え願います」
そこに秘密がある限り、“黒曜の瞳”はそれを覗き込んでいる。
その組織が関わる限り、対戦の組み合わせは偶然ではない。
陰謀を武器とする者はすべからく、彼女ら自身の計画を進行している。
――――――――――――――――――――――――――――――
鮮やかな気球が空の青を彩り、昼の内から花火の音は止むことがない。
「まるで逃避だ。そう思わんか」
それは形を変えた恐怖なのだ。ケイテにはそのようにしか見えない。“本物の魔王”がもたらした恐怖が、本当の意味で晴れることはない。
一部の民が“教団”を迫害するのも、旧王国主義者が女王を打ち倒そうとするのも、この光景と根源は同じだ。議会はその矛先を逸らし、彼らの恐怖が議会に――そして彼ら自身に向かぬよう、制御し続ける必要があった。そのための
「――そして今は、勇者候補者がその矛先になっている。所詮は奴らも、時代の生贄に過ぎんということだ」
先日に行われた、凄惨極まる第四試合などは顕著な結果だ。
心の底から英雄を求めながら、同時にその破滅を望む。魔王の恐怖に狂った者たちと同種の心が、民の中には確かに刻まれている。
窓に向けていた鋭い眼差しを、ケイテは対面の席の男へと戻した。
「民の統制、という意味では興味深い話題かもしれない。ある種本質を突いている」
その男は、まったく落ち着き払っている。梟のような両目からは感情を読めぬ。
「ならば、敢えてその話題のために呼び出したのかな? 本題を聞きたい」
「第六試合の会場は変更されることになった」
「……なに?」
「今一度伝えねば分からぬか? 第六試合は城下劇庭園ではなく、第一試合と同様、旧市街広場にて行う」
ケイテは、まるでそれが確定事項であるかのように言う。
無論、エヌがこれまで一度も聞いたことのない決定である。候補者の同意すらあったはずがない。
「大二ヶ月前より試合場は決定している。直前で変更を行えば、日程。告知。交通。商業。民にも候補者にも、無論我々にも無意味な混乱を招くのみと、君も当然分かっているものだと思っていたが。それともこれは新しい冗談かな。第四卿」
「――冗談は貴様のその白々しい演技のほうだ。貴様が城下劇庭園の測量を行わせていたこと、存分に知っているぞ。何を仕掛けるつもりだった。狙撃か? 罠か?」
「ふむ? 城下劇庭園は今後も試合場として用いる、
「それは対戦相手の俺に知れて不利になる事柄だったか? 試合の直前に行う必要があったのならば、そう届け出るがいい。その姑息なやり口で誤魔化せるものは、この俺以外の木偶の目のみと知れ」
エヌは冷静な無表情を崩すことなく、ケイテも猛禽じみた目で彼を刺している。
だが、二人ともが理解している。試合前日に至っての試合場の変更など、本来ならばあり得ない。それは幼子の駄々めいた暴挙だ。
第十三卿は、何事もなかったかのように淡々と結論した。
「……なるほど? ならば私にも一定の落ち度はあったかもしれない。
「民は恐怖から逃避している」
ズン、と遠くの大地が震えて、それは彼らの座す中枢議事堂の調度すら揺らした。
花火の音ではない。エヌの表情は変わることはなかったが、窓の方角を見た。
城下劇庭園の方角。
それは、倉庫一つに等しい規模の火薬が爆発した光景に違いなかった。
爆炎と喧騒。この距離からでも、細いたなびく黒煙を確認する事ができた。
「――そうだろう。千里鏡のエヌ。貴様の兵は何をしていた?」
「……第四卿。君は」
「どうした? よく見るがいい。城下劇庭園を調べまわっていたのは貴様の無能どもだな。あの規模の爆発物を発見できていなかったと、そのように証言するか? あるいはまさしく、貴様こそがこの犯行の下手人だったのか? 俺としては、そのように運べばより愉快だがな」
「そうでもないさ。これは王国への重大な反逆だからね。……何を考えている?」
「貴様の口からその言葉を聞ける日が来るとは思わなかった」
ケイテは酷薄に笑った。
彼は性根からの暴君であり、眼下の愚民を微塵も気にかけていない。
だからそれができる。暴挙を通すために必要なものは合理などではなく、それを上回る暴挙だ。
爆発物への警戒のための捜査期間に、最低でも三日。脅威の可能性が残されている限り、城下劇庭園で試合を行うことは不可能だ。
民は恐怖している。自らに向く恐怖を他の何者かへと押し付けるために、勇者を求めている。そして力を持つ者だけが、制御された恐怖を与えてやることができる。
今や城下劇庭園での試合開催こそが、実現不可能の暴挙へと変じた。
「第六試合の開催予定を一日延期する。会場は旧市街広場に変更だ。仮にジェルキに伝えるならば、そのようにしろ」
「……そうせざるを得ないようだ。爆破事件の犯人も捜査してもらう。どこの何者の命によるものか、すぐさま知れる」
「フン。俺もそのように願うとしよう」
敵の策謀を上回る、もっとも確実な方法がある。敵の計画の土台を先んじて破壊することだ。千里鏡のエヌが城下劇庭園で何を企んでいたとしても、この一手で全てが台無しとなった。
そして策謀が意味を成さぬ直接戦闘である限り……窮知の箱のメステルエクシルは、真の意味で無敵だ。
エヌの背を見送った後も、ケイテはしばらく窓の遠くの黒煙を眺めている。
ケイテの陣営が捜査線上に上がることはあり得ない。どころか、爆破の仕組みすら理解する事は叶わぬだろう。
少なくとも、この世界の人間である限りは。
(――“コンポジションC4”)
ケイテはその手の内に、小さな発信機を弄んでいる。
それはこの戦いにおいて彼らが運用できる力の、僅かな一角に過ぎない。
高性能爆薬。遠隔起爆装置。
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