クタ白銀街 その1

 その死体は別々の麻袋に詰めて投棄されていたので、本当に彼女であると確信するためには、中身を取り出して並べ直さなければならなかった。

 クタ白銀街の外れにある邸宅地下の寝台である。全身は損壊が酷く、大半は生きている内に刻まれた傷だとも分かった。


「……レヘム。……レヘムが、こんなになっちまったのかよ……」

「ご、ごめんなさい。彼女一人しか、み、見つからなくて……。ティークスは、死体すら上がってないです……」


 死体の傍らで嘆くのは、狼鬼リカントにして九陣前衛、光摘みのハルトル。人間ミニアにして四陣前衛、塔のヒャクライ。そしてもう一人。


「レヘムさん! あ、あなた……なんて便利な相棒になってしまって……! 何しろ、ほら! これからは簡単に持ち運べてしまいます! どうですかレヘムさん! 顔、貸してくださいますか! アッヒャヒャヒャヒャヒャ!」

「……」

「……」

「……あー……そのう……何か、いいところを見つけようと思いましてね?」


 他二人の沈黙を見て、真顔でレヘムの首を元の位置へと戻す。

 人型の蜥蜴じみた種族――砂人ズメウの女であった。五陣前衛、奈落の巣網のゼルジルガという。


「やった奴については、もう分かっている。右軍参謀、駒柱のシンジだ」

「こ、“駒柱”……け、けれど彼との同盟はまだ継続中だったはずです。ここに来て、裏切るなんて」

「そうだ不意を打たれた! そうでなければレヘムを、ティークスを殺れるものか! ハイネまで顔を焼かれて、意識も戻りそうにない! “黒曜の瞳”を……最初から切り捨てる算段でいたのだ!」

「……焦土作戦に虐殺……先の、棺の布告のミルージィとの戦役でも、よ、汚れ仕事ばかりを……ぼ、僕らに、全ての責任を被せる算段でいたんですね。フ、フフ……ご、合理的だ。そして“客人まろうど”らしい――下劣さだ」

「あっ見てくださいお二方! レヘムさんのここをこう! 引っ張ると……すっごく面白い顔になりません!?」

「……」

「……」


 砂人ズメウはおずおずとレヘムの死体から両手を離す。

 二人は、過酷に殺気立ったままで会話を続けた。


「必ず報復する。俺は思い知らせてやるぞ、ヒャクライ。首領が何を言おうが、この手でシンジの首を獲る!」

「あ、明らかな挑発です。だから死体を見つけさせた! 僕らが反攻に出ることを、と、討伐の口実にしようとしている……!」

「あのー……」

「ヒャクライ! 俺たちは正しき道から外れた咎者かもしれん。だがそれでも、本物のゴミのように捨てられたくなかったからこそ、“瞳”になったはずだ! 首領には、この俺が談判する!」

「ま、待ってください、ハルトル……!」

「……」


 一人残されたゼルジルガは、相棒の骸の手を弄んでいる。

 繋いで、揺らして、離して。手首は力なく垂れ下がって、それだけだ。


 誰よりも親しい相棒だった彼女は、駒柱のシンジにとってはそうではなかった。

 簡単に処分できる、身元の割れることのない、都合の良い捨て駒に過ぎなかった。


「……皆さん物騒ですよねえ、レヘムさん。笑っていたほうがいいのに」


 地下の壁にしか届かぬ呟きを漏らす。


 ――その日も一日、彼女は自分自身の言葉の通りにした。

 殺気に逸り、破滅に突き進もうとする仲間を和らげようとした。


 食事をする同胞には、いつものように陽気に話しかけもした。

 首領への報告の際には、いつものようにすぐに分かる法螺話を交えた。

 気兼ねの言葉をかける令嬢は、いつものように花の手品で驚かせた。


 ……日が昇った。ゼルジルガは自室に篭り、次の夜が更けても出ていかなかった。


「……アヒャヒャ」


 暗い窓に向かって、虚ろに笑ってみる。


「アッヒャッヒャッヒャッ……みーんな、怒ってばかり……レヘム……」


 今、“黒曜の瞳”は駒柱のシンジとの抗争を避けるべく、クタ白銀街よりの撤退と根回しに向けた準備を整えているはずだった。

 こうして動けないままのゼルジルガには処罰が下されるかもしれない。けれど、それに関心を向けることもできなかった。


 生まれ育った村が“本物の魔王”の恐怖に滅ぼされて、流れ着いた先では砂人ズメウ喰いの奴隷商に食材として扱われながら、笑顔を絶やさなかったからこそ希望を持ち続けることができた。

 何も持たざる者にとって、笑いこそが最も価値あるものだと信じていた。


「アヒャ……ヒャッヒャッヒャッ……」


 笑ってくれる相棒が死んでしまった今だから、彼女自身が笑わなければ。

 残された者を死んでまで不幸にすることなど、レヘムが喜ぶはずがない。


「……ゼルジルガさま?」


 微かな声が聞こえた。

 扉越しに誰かが座っていることは、すぐに分かった。


「お嬢様……」


 リナリス。今年で十四になる、黒曜レハートの美しき令嬢であった。

 剣呑な空気に満ちた邸宅の中にあって、この幼い少女一人すら笑わせることができず、却って気遣わせている自分自身が不甲斐なかった。


「私のことは、どうかお気になさらず! この二日、鉢植えに水をやっていませんでしたから……アッヒャヒャヒャ! この二日は水をやらなければいけません――鉢植えにね! よい鉢植えが収穫できると思いますよ!」

「…………あの。ゼルジルガさま。先程のことは、申し訳ありません。どうか、ご機嫌を直して」

「いーえ! まったくもってご機嫌ですとも! お嬢様のご機嫌は? 糸の大道芸をご所望でしたら、どうぞお気兼ねなく、このゼルジルガにお任せください!」


 膝を抱えたまま、背中と扉を隔てて答えている。

 この悲しみと憤りを癒やす手段など、何一つないように思えた。

 ……こんな日に、笑うことなど。


「ねえ、ゼルジルガさま。私たちは、クタを離れなければならないかもしれません」

「……ええ、分かっております。そうでしょうとも」

「ならば、やり残したことはございませんか? どこか、行きたかったところは」

「アッヒャッヒャ……それは、一体どういった意味合いで?」

「……いえ。私も、こんなに早く離れることになるなど……思ってもいなかったものですから……」


 廊下に座り込む令嬢が、扉に背を預けたのが分かった。

 血鬼ヴァンパイアとしては、特異なほどに虚弱な少女だ。種族の強さの一端たる屍鬼ドローン支配のフェロモンもまだ扱えずに、現首領たる黒曜レハートと比べて力が及んでいないことを、彼女自身が何よりも気に病んでいた。

 常に家の中で守られてきた彼女は、絢爛たるクタ白銀街の夜を歩いたことすら、数えるほどしかなかったはずだ。


「……汽車」


 ゼルジルガは、ふとそんな望みを口にしている。

 クタ白銀街。訪れるたびに新たな建物が建つ、“形の変わる街”とも称されていた。


「お嬢様は、ご存知でしたでしょうか。南王国で走るような汽車が、つい四日前に通ったのです。商業区から走る架橋で、中央街……運河を渡って、工場区まで」

「……ええ」

「とーっても大きな音で、力強く走るのだとか……! まったく画期の発明、滅多にないお話なのですから、ぜひ一度乗ってみたかったものです……っと、レヘムが言っておりましたがね! 私の話だと思いましたか!? アッヒャヒャ!」

「ゼルジルガさま」


 扉の向こうで、令嬢は穏やかに答えた。


「乗りに向かいましょう。今から」

「アッヒャッヒャ、これはご冗談を」

「――私、とても乗りに行きたくなってしまって。どなたかが一緒にいてくださるなら、とても心強いと思いませんか?」

「……それは、糸の手品しか芸のない道化でも?」

「所望すれば、それをお見せくださると伺っております」

「相棒を護る力すらない役立たずでもでしょうか?」

「きっと、役に立ちます。共に遊んでくださる誰かは、他におりませんもの」


 ゼルジルガは顔をゴシゴシと擦った。

 自分のような者を慮っているリナリスに、悲痛に濡れた顔を晒す訳にはいかない。

 何も持たざる者にとって、笑いこそが最も価値あるものだと信じていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 質素な枯葉色の外套に身を包んだリナリスは、それでも地上に舞い降りた月のような美貌で、道行く誰もの視線を惹き付けてやまなかった。

 一方でゼルジルガは、スカーフで慎重にその蜥蜴の面を隠している。やや大きな荷袋を抱えている。屋敷から滅多に出ぬリナリスはともかく、ゼルジルガはこの市街を牛耳る駒柱のシンジに既に姿形を知られている可能性があった。

 今の行いが、“黒曜の瞳”としてあるまじき愚行であるとも自覚している。


 ゼルジルガは、駅へと向かって立ち並ぶ夜店と、その店先に吊られたランタンの列を見た。朧な光の玉の群れのように、景色の焦点がぼやけている。

 夜に鮮明に映える白い令嬢は、初めて見る多くのものに目を輝かせていた。


「ああ、ゼルジルガさま、見てください! 不思議な色の飴がたくさん……! どうやって色を付けているんでしょう? 信じられない……ただの飴を、こんなに綺麗に並べているなんて……!」

「うーん! 残念ながらお嬢様、私は飴に知り合いがおりませんもので、答えに皆目検討がつきません! アッヒャヒャ!」


 ゼルジルガは前へと進み出て、その露店の店主に銀貨を支払っている。


「なので、こちらの飴さんに直接お伺いを立ててみましょう! お嬢様も、ご興味のある色を、いくらでも」

「そんな……ふふっ、そんな、いけないことです」

「秘密にしていれば分かりはしませんとも。飴が喋るのがご心配なら、食べてしまえば口封じにもなります!」


 リナリスは、薄緑色と白色の飴を選んだ。ゼルジルガは、桃色だった。

 

「……ああ、こんな。何度も足を止めてしまって……ゼルジルガさま、あれは?」

「ええ、ええ、お気になさらずとも。光る玉で大道芸をしているのですよ。球形の籠の中に、炎を灯しておりましてねえ。天青石の粉を混ぜて燃やしているので、あのように赤紫色の炎になるのです」

「ありがとう存じます。私、とても見たことのないものばかりで……浮かれてしまっていて……。けれど……ふふ。仕掛けは綺麗でも、ゼルジルガさまの技のほうが、ずっと鮮やかでございますね」

「いやあ~、そういうことも……アッヒャッヒャ! ございますかね?」


 二人はそうして、駅に至るまでの夜の光景をしばし楽しんだ。

 小麦を焼いた甘い菓子を口にして、絵札を用いた占いの的が外れていたことを二人で笑い合った。

 ランタンに照らされた駅があって、工場区でもっとも遅くまで働く労働者を帰すための、最後の往路便が出ようとしていた。


 故にこの商業区からは、敢えて乗車する者も少ない。

 電車を待つ、人のまばらな歩廊にリナリスは立っている。

 滑らかな黒髪と対照をなす白い肌。長いスカートが風に揺れた。


「ねえ、ゼルジルガさま」

「アッヒャッヒャ! なんでしょうか?」

「……笑っていただけましたか?」


 ――そうだ。ゼルジルガは気付いている。


 彼女自身が、いつもの彼女のままでいたかったように……リナリスも、ゼルジルガにそう望んでいた。いつものように、無理をせず笑っている彼女であってほしかった。レヘムが死んでしまった、今でも。

 砂人ズメウは荷袋を胸に強く抱いて、答えた。


「もちろん。笑っておりますとも」

「もっと笑っていただきたいのです。もっと」

「……」


 リナリスには、その力が備わっていた。人の心を洞察し、それを深く思考する力。


 汽笛が空気を揺らして、発射の寸前を告げる。

 夜汽車に乗り込んて、彼女たちは二人で並んで座った。


 高架の上に設えられた線路からは、灯りの消え行くクタ白銀街を見下ろすことができる。日が移ろうごとにその様を変える夜景の模様を。そして、ゼルジルガたちがいずれ離れていく繁栄の街を。


「……ありがとうございます。お嬢様」

「私はただ、私の我儘にお付き合いいただいているだけでございますから」

「それでも、ああ……楽しかった」


 闇の住人が住まう夜は、血と陰謀に満ちた修羅の巷だ。

 たとえ一夜だけであっても。穏やかで、美しくて、憂いのない夜を送ることができるなどと、想像すらしていなかった。


「あるいはお嬢様ならば、“黒曜の瞳”を――」


 その先を口にすることもない。リナリスが黒曜レハートを裏切ることは、決してないのだろうと分かっている。

 けれど血鬼ヴァンパイアとしては例外的なほど力を持たず、支配の力の覚醒も遅い彼女ならば、もしかしたら“黒曜の瞳”の、暗闇の世界ではない生き方ができるのかもしれなかった。

 ゼルジルガが与えるものではない、笑顔と幸せのある日常を送ってほしいと願う。


「汽車が出ますよ」

「……そうですねえ」

「街の上を行くのですね」

「ええ。街路の上に、長く橋を渡しているのです。空を飛ぶかのようでしょう?」


 汽車が揺れて、車輪の音が響く。眼下を光が流れていく。

 ゼルジルガは目を閉じる。……いつでも笑顔でいたい。彼女を笑わせていたい。


「そーうでしたお嬢様! せっかくの機会です! 先頭車両を覗いてみてはいかがですか? これほど大きな蒸気機関は、滅多に見られませんよ! それとも実はこの汽車、小人レプラコーンが漕いでいるのかもしれません!」

「ええ、もちろん! ゼルジルガさまも――」

「ああ、そのう……失敬! 私は多少の生理的現象と言うか、これで実は馬車酔いをしてしまうタチで、これは、なんというか……発言が憚られる類の……」

「……汽車の中で?」

「ええ! 大ッ変お見苦しいことになりそうなもので! 少し、席を外していただければと! アッヒャッヒャッヒャ!」

「……」


 令嬢は心配そうにゼルジルガの手を取って、その目を静かに見た。

 それ以上の言葉をかけることなく、困ったように微笑む。敏い少女だ。

 その金色の瞳を前に、拙い嘘などは全て見抜かれてしまう。


 令嬢が去った車両で、ゼルジルガは振り返らずに呟く。


「ああ、よかった――さて」


 今や、この車両はゼルジルガのみではなかった。


「……この私が気付かぬと思ったか? 地上最大の諜報の目。“黒曜の瞳”五陣前衛の。この、奈落の巣網のゼルジルガが」


 後方車両より乗り込んできた十数名は、駒柱のシンジの私兵に違いなかった。

 全員が武器を抜いている。汽車の中へと隠し持てる短刀か、あるいはフリントロック銃か。


「名を名乗ったな、ゼルジルガ。大した度胸だ。その美徳を誇るがいい」


 内の一人が肩を竦めた。


「その覚悟の正真を示す機会も、特別に与えてやる。後ほど、じっくりとな」

「レヘムを拷問したのは貴様らか?」

「質問するのはこちらだ。もう一人の娘は何者だ? 二度ほど嬲れば死にそうだが、あちらを責めたほうが情報を吐く気にもなるようだな」

「貴様らだな」


 まるで他人が発するような、冷たい声を自覚している。

 “黒曜の瞳”にとって、もはやこの街は敵地だ。当然に予想される襲撃だった。商業区から、この駅に到達するまで、一瞬たりとも注意を怠っていなかった。

 令嬢へと笑顔を向けながら、ずっと。


「全て知っているぞ。レヘムは情報を吐かなかったのだろう。続けて誰かを捕えるために、孤立のこの時を狙ったのだろう。度し難い愚か者め。誰一人として、吐きはしないとも。我々は“黒曜の瞳”だからだ」

「それが答えだな。ならば血止めの用意だ。総員、まずは腕から落とすことを許可する……」

「もう一度言うぞ」


 ブン、という音が鳴った。

 二人の首の皮がまとめて裂かれ、巻き込まれて宙空へと吊られた。


 彼らに視線すら向けてはいない。見える武器を構えてもいない。

 だが、親指を僅かに弾いた。その小さな動きが。


「――愚か者め。ゆらめく藍玉のハイネに鉄鎖術を与えた者の名を教えてやろう。閉所にて糸の使い手に挑んだ末路を教えてやろう。そして」


 銃声が鳴った。彼女が腕を水平に薙ぎ払う方が早い。

 その動きと共にフリントロック銃は狙いを逸れ、隣の兵を撃った。

 短刀で襲い来る三人を、ゼルジルガは肩越しに振り返った。


「うっ、ぐお」

「げっ」

「かはっ」


 各所に掛けられた糸が弾性で弾かれ、奔り、軌道上の全員を瞬時に絞めた。

 その目はリナリスには決して見せぬ、氷の如き敵意の瞳であった。


「何よりも。お嬢様の憩いの時間を、穢れた土足で踏み荒らした対価」

「あ……が……ば、馬鹿、な。この、一瞬で……!」

「――致死の苦痛を以て教えてやろう。全員だ。貴様らは余さず万死に値する」


 食い込んだ糸の先端を傘掛けの金具に掛け、彼女は新たなる糸を引き出している。

 彼らがこの車両に踏み込んできたその時より、既に戦闘ではなかった。それすら許さぬ実力の開きがあった。それは、ゼルジルガの奈落の巣網による処刑に過ぎない。


 蜘獣タランチュラの巣より採取した縦糸は大鬼オーガの剛力にも切れぬ強度を誇り、そして横糸であれば鳥竜ワイバーンの骨格ごと切断する鋭利な断面を持つ。

 加えてその軌道と速度を動的に操作する技巧などは、蜘獣タランチュラにすら不能の高等技術である。


「まずは甲状軟骨のくぼみへと糸を掛ける」


 拘束された兵の横を歩きながら、それを宣告していく。

 死へと至る苦しみと恐怖を、敵対者へとより克明に与えるために。


「斜め下方に強く絞めつければ、気管を覆う軟骨が狭まって、地獄の窒息の苦しみとなる。舌根は内から引かれて喉奥に落ち、気道が完全に塞がっても頸動脈に血流は通る。脳に意識が通ったまま、最期の瞬間まで苦痛を味わい続けることになる」


 彼らはまだ生きており、しかし全身を縛られ封じられたまま、断末魔の苦しみに暴れることすらできない。一人。また一人と絞めていく。まるで屠殺の工程であった。

 死までの秒読みを、ゼルジルガは冷たく眺めている。


 全てが苦悶に死にゆく中、最も上位の一人を残している。

 装備と陣形内の位置。攻撃を受けた兵が僅かに向けた視線。ゼルジルガにとってみれば、その情報だけでも十分に過ぎた。

 辛うじて声を発せる程度の、生かしもせず殺しもしない拘束へと緩める。


「貴様が指揮官だな」

「……わ、私を……どうする。意趣返しに、拷問……するつもりか……」

「違う。貴様に伝えてもらう」


 ゼルジルガは荷袋を開けて、その中身の目を合わせた。

 指揮官は恐怖した。


「ひっ、ひい……え」

「『必ず報復する』」


 それはレヘムの首であった。

 ――これからは簡単に持ち運べてしまいます。


「……覚えたか? 我々は“黒曜の瞳”だ。『必ず報復する』。駒柱のシンジは、誰も敢えて行わぬ外道こそが知性の証なのだと信奉しているのだろう。ならば我らもそのようにする。貴様らの今が天上の楽土に思えるほどの、苦痛の地獄へと叩き落として殺す。そのように、貴様が伝えろ」

「う、うあ……ああ」


 汽車は運河の上へと差し掛かっている。既に物言わぬ人形の吊られる車内で、ゼルジルガは走行中の扉を開け放った。

 その目的は明白である。


「貴様らはこの汽車には。お嬢様の一夜の思い出に、貴様らの存在は一切不要だ」


 糸を引くと、開口した扉から、ボトボトと死骸が落ちていく。夜の運河の上からのおぞましい光景を見る者もいない。

 指揮官は想像を遥かに超えた無慈悲さに震え、矜持すら折れて屈服した。


「わ、わか、分かった……奈落の巣網のゼルジルガ。伝える。シンジ参謀長には……“黒曜の瞳”より手を引くよう――」

「何を勘違いしている?」


 指先の動きで彼の体は暴力的に振られ、闇の運河の只中へ投げ出された。

 壮絶な高度と恐怖に彼は叫び、その四肢は空中で寸断された。頭と胴体が、意識あるまま水中へと没した。


「貴様が伝えるのは、あの世のレヘムにだ」


 そして扉を閉めた。無人の車両に残されたのは、僅かに散った血痕のみである。


 後部の客車で繰り広げられた惨劇を知る由もなく、汽車は走り続ける。

 けれどリナリスは、きっと知らぬままでいてはくれないのだろうとも思っていた。

 それよりも時間が経って、彼女は戻ってきた。


「……ゼルジルガさま! 先頭の車両を、見せていただきました! 運転手さまがとてもご親切な方で……!」

「ああ! そうですかそうですか! それは良かった! 楽しいものでしょう、機械は! アッヒャヒャヒャ! パギレシエもこの手のものが大好きでございまして!」


 戻ってきたリナリスの話を聞いて、ゼルジルガはいつものように笑う。

 けれどそれは嘘ではない。彼女は、嘘のように笑っていたのではなかった。


 レヘムが死んでしまった今、きっとこれが最後の夜であろう。その覚悟をしていた。思い出をくれた令嬢には、心から感謝をしていた。


「ああ……もう、安心です。お嬢様。あなたを護ることができて、よかった。これで思い残すことはない」

「……ゼルジルガさま」

「首領の娘を連れ出し、あまつさえ襲撃の危険へと晒した。私はここまでです。正しき処罰を受けましょう。今のうちに、お別れのご挨拶をと……アッ、もっと楽しげな雰囲気のほうがよろしかったですか!? アッヒャヒャヒャ!」


 その笑いを遮って、小さく細い手がゼルジルガの手を取る。

 再び、宝石のような金色の瞳が見つめた。


「ねえ、ゼルジルガさま。私、とてもいいことを知っているのです」

「これはこれは。この思い出以上に良いことが世にあったなど、まさかの新発見です! 一体何を?」


 唇に指先を当てて、リナリスは微笑んだ。


「――秘密にしていれば、分かりはしません」


 リナリスが、この危険を承知していなかったはずがなかった。

 たとえそうだったとしても、この夜は、どれだけ彼女の心を救ったことだろう。


 どれだけの時間が経っても……汽車の中で見た美しい微笑みは、色褪せずにいる。


「今夜のことは……二人だけの、秘密に。私はずっと屋敷にいて、ゼルジルガさんもそうでした。何も起こってはいませんでした。そうでしょう?」

「アヒャ……ヒャヒャヒャ、申し訳ございません、笑いすぎて、涙が」

「……大丈夫です」


 歴戦の戦士は、幼い少女に抱きしめられている。遥かにか弱く儚い鼓動がある。

 闇の住人が住まう夜は、血と陰謀に満ちた修羅の巷だ。それでも。


「お嬢様……ああもう。本当に、お見苦しい。いくら笑っていようと、私はこうなのです。私は、この他に生きる道がないもので……」

「存じております。ならば、その道をお守りすることもできます」

「そんな……お嬢様に、そんな重荷を負わせることなど……」

「きっと、大丈夫です。……ねえ。笑っていてくださいませ。ゼルジルガさま」


 広大な夜の只中を、汽車の光が過ぎっていく。


 それから小四ヶ月の後、駒柱のシンジの行方は突如として消えた。

 辣腕の“客人まろうど”として名を馳せた軍師のその後は杳として知れず、“本物の魔王”の佇むサカオエ大橋街へ野晒しにされた一つの惨死体の身元も、不明のままである。


――――――――――――――――――――――――――――――


 六合上覧りくごうじょうらんを控えた黄都こうとに、彼女の姿がある。

 勇者候補者として名を連ねるゼルジルガはその力や姿を隠すこともなく、昼ごとに広場へと現れては大道芸を披露していた。

 糸を介して人形を動かし、あるいは水の雫を纏ったそれが美しい幾何の模様を編み上げるたびに、子供の人垣から歓声が上がる。


「……あれが奈落の巣網のゼルジルガか?」

「戦闘の実力は確かな候補だ。とはいえ」


 その技は、彼女を伺う黄都こうとの兵にも、当然に見えている。

 擁立者は第十三卿、千里鏡のエヌ。かつての所属は“黒曜の瞳”。彼女に関して警戒すべき情報は多い――


「素敵! まるで生きてるみたい!」

「ねえゼルジルガ、次、次は!?」

「おやおやおや、慌てずとも時間は十分にございますよ! 次は空を走る車? それとも二人の人形の決闘をご覧いただきましょうか!? アッヒャヒャヒャヒャ! この奈落の巣網のゼルジルガ、絶技の披露に一切の出し惜しみはございません!」


 対戦組み合わせが決定したその後で、そうではないことが分かった。

 彼女にとっての六合上覧りくごうじょうらんは単なる大道芸の舞台の一環であって、“黒曜の瞳”との繋がりすら一切確認されていない。


「奴に関しては、問題にはならんな」

「ああ」


 色とりどりの花火を糸で操って、道化は笑う。

 子供の歓声が上がって、銅貨が宙を舞って投げ込まれていく。


(お嬢様)


 どれだけの時間が経っても、色褪せずにいる。


(笑ってください。きっと……あなたのために、勝利を!) 

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