第五試合 その4

 何をすればいいかは明白に決まっていた。

 夜の邸宅を満たす軍勢の只中で、通りのクゼは両手を上げた。


「……ええっと、降参。さすがにこの数は無理だわこれ! だからさ、ここらで終わりってことで……どうかな」

「それはどういう意味合いだ?」


 屋根の上、弓を引く一人がクゼを見下ろす。彼は魔族まぞくではない。

 厄運のリッケというその名を、傭兵稼業に通じていないクゼでは知る由もないが。


「あんたを無事に返し……勇者候補者暗殺を目的とした第七卿の邸宅への夜襲。門兵二名の殺傷。それらの罪状を六合上覧りくごうじょうらんの運営者へと包み隠さず伝えてもよいと、そう受け取ってもいいか」

「……」

「あんたの敗退だ。通りのクゼ」


 クゼは笑った。当然、そのようになる。

 フリンスダの私兵の警備の流れならば事前に調べ尽くした。最小限の犠牲だけで、魔法のツーを直接に暗殺できるはずだった。証拠も残らない。急所を切りつける限り、ナスティークの一撃は尋常の死因との区別も不可能なのだ。

 しかし無名の……正体不明であるはずの魔法のツーには、これだけの味方がいた。それがこの事態を招いた。


「……そうだな。それもできないか。俺の不正が明るみに出たなら、結局“教団”にも迷惑がかかる」

「ならバこちらニモ、容赦の余地ハ、ない。目撃者の全滅カ、ツーを殺害シタ上で、フリンスダへ取り入ルカ。この状況よリ……試合に復帰するトいウのは、そうイウことだ」

「俺に攻撃を当てれば死ぬ」


 この場の全員の殺意に先んじて、クゼはその情報を明かした。


「……それは詞術しじゅつとか、他の何かの理屈じゃあない。だが、本当のことだ。俺の体に当たる運命があれば、その時点から遡って、攻撃の前に死ぬ」

「見え透イた、虚言を」

「クラフニル、あんたはもう理解しているはずだ。それだけの数の魔族まぞくを揃えて、どうして絶え間なく攻めかからせていない? ただ襲いかからせても無意味だって分かったからだろ。ふへへ……そんなに強いのに、存外に慎重な奴だね」

「……貴様」


 正確に言うならば、それはナスティークの発動条件の全てではない。

 しかし先程の戦闘だけでも、それを信じるに足る状況証拠は十分にある。


 庭を見下ろす上方、屋根の上の二人は密かに会話を交わしている。


「奴の言ってることは本当か」

「……うん。小さい切り傷でも駄目なんだって……だから、やっぱり本当に……攻撃しちゃいけないのかも……」

「……門番のことは気にするな。そういう可能性も承知の上での仕事だったろう」

「うん……」


 ツーは頷き、そして唐突に庭へと飛び降りた。

 暗殺者の正面へと立ち、その姿を晒す。


「ツー、駄目だ! 奴は危険だ!」

「違うよリッケ! だったらなおさら行かなきゃいけないんだ……!」


 両手を上げたまま動いていない。それでも、いつでも彼女を殺すことができる。

 クゼがそのように望みさえすれば。


「ふへへ……魔法のツー。見逃してくれる気にでもなったかい」

「どうして殺すんだ、クゼ!」


 誰のことを言っているのか、それは自分が一番よく分かっている。

 たった今殺してきた二人の門兵。ノーフェルト。そしてこれまでのクゼの道程の上に積み重なってきた、多くの命。


「死んだ人にも、友達や家族がいる……! たとえ誰かを救うためだって、そうやって人が死んだら……また救わなきゃいけない人が増えていくだけなんだ! それじゃあ世界から不幸なんて消えないよ! ぼくだって“教団”を助けてやりたい! なにかしてあげたい! なにか……なにか、別の方法はないのかな!?」

「ないよ」


 視界の端に白い天使を眺めながら、クゼは苦笑した。


「賢いな、魔法のツー。俺のやっていることは、不幸をたらい回しにして、他の誰かに受け渡してるだけのことだ。でも、その不幸が……俺の大切な人たちの抱えたままになって。そうして皆いなくなっちまうよりはいいかなって……そう思うんだ。……おじちゃん、悪いやつだからさあ」

「ぼく……ぼくが勇者になって、“教団”をいじめるのをやめろって言えばいい! 沢山のお金なんていらない! 賞金を全部、皆を助けるために使ったっていい! それでも駄目なのかな!?」

「……無理だよ。どう足掻いたって、裏で動いてる女王派の力が強すぎる。“本物の勇者”が出てくれば、どうしても……たとえ名前だけだって、利用されることになるんだ。だから誰も勝ち残らないように、俺が頑張るしかない」

「で、でも、うう……それはっ……! 殺すってことなんじゃないか……!」

「ふへへ。そうだよ?」


 涙目で問うツーにも、やはり軽薄な笑いで返す。そうでなければ、“教団”の始末人であり続けることはできない。そして、無敵であり続けることも。


 通りのクゼを除く勇者候補十五名。黄都こうとが誰を擁立するつもりであろうと、その者を未然に殺してしまえばいい。

 勇者のいない、“教団”に取って代わる他のあらゆる権威の残らぬ世界こそが、彼の望みなのだから。


「あんたはどうだい、ツー。何のために戦う。俺たちの望みを絶ってまでしたいことは何だ」

「ぼく……ぼくは……」


 ツーは、身を縮ませて俯いた。罪悪と後ろめたさを感じているようであった。


「ぼくは……ただ、セフィトに、もう一度会いたくて……。笑って、ほしいんだ……。ぼくは、人間ミニアでもない……ここに来るまで、何もなかった。王族に会える方法なんて、他にはきっとないから……」

「そのために“教団”を潰す覚悟はあるのか?」

「……それ、は……」


 それはクゼの想定を遥かに越えてささやかな、小さな願いでしかなかった。

 あるいは――もしかしたら、誰も殺さずに終われるのかもしれなかった。

 彼女が棄権を受け入れてくれる限りは……ツー自身すら殺さずに済む。


 無敵であるはずの少女は、泣きながら崩れ落ちた。


「……違う。違う。もしもぼくに勝つ理由がなくたって……君に、勝たせちゃいけないんだ。ずっと考えてるんだ。どうすればいいんだろう……君を……どうしたら、救ってあげられるんだろう……!」

「……」

「君……君が勝ったら……だって、またその先でこういうことをするじゃないか……! 勝つたびに人を殺して……勇者だって殺してしまう! ぼくが負けるなら、約束してよ……もう殺したりしないって……クゼ、お願い……頼むよ……!」

「……ツー」


 ――遅すぎる。そんな約束をするには、もう。

 ナスティークの刃はいくつもの血に塗れている。ノーフェルトの羽根独楽を思う。その回転が少しずつ止まっていって、そして倒れていく。


 殺してしまえばいいと、心のどこかが囁いている。

 魔法のツーは……彼が思っていたよりもずっと幼稚で、隔たっていて、そして耐えきれないほど正義だった。


「……ああ。それなら約束する。俺は、二回戦までだ」


 だから、少しでも魔法のツーの心を救いたいと願ってしまう。

 それで終わらせられるのならば構わない。

 少なくともその時のクゼは、皮肉な約束を守れればいいと思った。


「暗殺もしない。二回戦を戦って……その一人だけで、もう終わりにする」

「でも……」

「本当に、一人だけだ」

「二回戦――通りのクゼ。まさか、それは」


 屋根の上から答えたのは、別の声だ。

 厄運のリッケだけがただ一人、その事実に気付いてしまった。


 刹那の出来事だった。彼は弓を引いた。そして矢を。


「リッケ!」

「離れろツー! こいつのしようとしていることは――!」


 神速の矢が放たれるよりも天使の到来は速く、そして刃が腕をかすめた。

 矢はクゼを僅かに外れて、地面に虚しく突き立った。


 山人ドワーフの体がよろけ、力なく崩れて、庭へと転落した。

 彼が無数の戦いを経て生き延びている理由の一つに、死の前兆を赤色の色覚として感じることがあり――しかし、真なる天使の姿だけは。


「……見えない、ああ……くそっ……何も……」

「リッケ! ね……ねえ、大丈夫だよね!? 当たってなんかいないんだよね!?」


 手の甲に走る浅い切り傷が見えていても、ツーはそう信じようとした。

 その泣き顔へと力なく手を伸ばしながら、リッケは呟いた。


「……大丈夫だ。ツー。大丈……」


 そして終わった。

 クゼは、無言でその様を見つめていた。無力感の渦に呑まれるかのようだった。

 他の誰にも聞こえない声で、彼は呻いた。


「く、くそ……ちくしょう、ちくしょう……! くそおっ……!」


 彼の努力は無駄だった。何も避けられなかった。死の天使に取り憑かれたクゼが、誰一人犠牲にせずに終わらせることなど、結局は不可能だったのだ。

 もはや一人を殺してしまった。止められない。

 無数の魔族まぞくが囲んでいる。緑色の光を放つツーの眼差しがこちらを見る。


 殺意がクゼに集中して――ああ。全てが台無しになる。


 『この子を殺していいの?』やめてくれ。

 『あなたを殺すものを殺していいの?』駄目だ。

 『みんな殺してしまってもいいの?』殺してしまっていいものなんてないんだ。


「――クラフニル!」


 絶望の暗闇を引き裂いて、一つの声が響いた。

 魔法のツー。


「クゼを殺しちゃ駄目だ!」

「ツー……! そンな、甘いこトを、言っテイられる、状況カ! リッケ……リッケが……殺らレタんだぞッ!」

「そ……それ、でも……! 駄目なんだ!」


 もう動くことのないリッケの体に顔を伏せたままで、ツーは叫んでいた。

 クゼの膝からは力が抜けて、その場にくずおれた。


 信じられなかった。ナスティークはツーを殺していない。

 殺意の連鎖が起こることはなかった。


「いいんだ。……ぼくは、いい……」

「……ツー」


 ツーの手の届くことのなかった者たちがいた。

 リッケ。セフィト。そして彼女の愛した王国の日々の全て。


(……ごめん。セフィト)


 今でもその日のことを思い出すことができる。

 イジックから解き放たれて、人を救うために王国へと向かった。


 そして、その日。彼女はそれに出会った。

 黒くさらさらと流れる髪。昼の光を通さぬ闇の眼差し。微笑み。指先。美しい肌。

 恐怖。


(……知ってたんだ。どうしてあんなことになったのか、知ってた。あの日、ぼくは……“本物の魔王”を、見たんだ……)


 嘘をついていた――本当は、セフィトを笑わせたかったのではなかった。


 謝りたかった。生まれつき恐怖を切断されていたはずの彼女が、動けなかった。愛した人たちが死んでいく地獄の中で、全ての元凶を見送ることしかできなかった。

 恐ろしかった。恐ろしかった。恐ろしかった。

 それは魔法のツーがただ一度、その時にしか覚えたことのない感情だった。


 生まれつきその機能を持ち合わせずとも、そこに心がある限り。

 ……“本物の魔王”の恐怖からは、決して逃れることはできなかったから。


「……ねえ。クゼ」

「分かってる」

「人を……殺しちゃ、駄目なんだ……」

「……当たり前だろう。分かってるさ……」


――――――――――――――――――――――――――――――


 翌日。城下劇庭園にて行われた第五試合に、その候補者が現れることはなかった。

 ただ一人庭園に佇む者を確かめて、囁かれしミーカが進み出る。


「――静粛に!」


 その声は困惑の喧騒の中にあって一段とよく通り、その決定を知らせた。


「……この六合上覧りくごうじょうらん真業しんごうの取り決めを行う意義は、勇者たらんと名乗り出た者たちの、その覚悟と勇気をこそ問うものである! 己の全ての業を、全ての命を懸け、敗北すれば全てを失う! そこに恐れを抱くは必定の道理であり、英雄ならぬ者が責めるべき物事ではない! ……しかしその恐怖の程は、“本物の魔王”と比ぶれば如何ほどの恐れであろうか!」


 この六合上覧りくごうじょうらんの試合において、対戦者の一方が現れぬままである時……それは当然に、勇者候補者としての権利の失格を意味する。


「故にこの囁かれしミーカ、魔法のツーには“本物の魔王”へ挑んだ勇者たる資格なしと裁定した! ――第五試合の勝者を、通りのクゼとする!」


 第四試合の歓声とは程遠いまばらな拍手が、黒衣の男を包んだ。

 彼には天使が憑いている。殺すことしかできない、壊れてしまった死の天使が。


「……ちくしょう」


 顔を覆って、小さく呟いている。

 ……彼女は、約束を守った。

 ここに現れてくれればいいと願っていた。クゼとの約束を破ってくれればと。


 あれほど真摯に救いの手を差し伸べてくれた、魔法のツーを裏切っている。

 嘘をついていなくとも、彼女を騙している。正義に反した行いをしている。


(魔法のツー。俺……俺は……。あんたを救ってやることは、できない。無理だ)


 協定を結んでいるヒロト陣営がいる。彼の能力を探るべく黄都こうとより送り込まれた襲撃者がいる。彼が自ら能力を明かした魔法のツーがいる。

 それでも、その誰一人として、通りのクゼの能力の真実までは把握していない。

 この第一回戦を不戦勝に収めて、その真実を隠し通すことができた。


 ナスティークは――その手の届く場所にいる者であれば、どこの誰であろうと。

 クゼが思うだけで無条件に殺すことができるのだということを。


(だって、俺が……第二回戦に殺そうとしている一人は)


 六合上覧りくごうじょうらんが正式な王城試合である以上、それも最初から周知されている事柄だ。

 第二回戦以降は、彼女が直々に試合を観戦することになる。


 厄運のリッケが命を顧みずクゼを殺そうとしたことすら、当然の決断であった。

 勇者に並ぶ最後の権威であり、“教団”を弾圧する派閥の拠り所となる、その一人を……彼は。


(――女王だ。セフィトなんだよ。ツー)


 勝利を得た。けれど本当の意味で勝利したのは、どちらだっただろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――


「……こレデ。コんなことで、本当ニ良かっタノか。ツー」


 庭に群れていた魔族まぞくはいつの間にか姿を消して、そこにはリッケの骸と、ツーの傍らに漂う一匹の蟲だけが残った。


「あはは……ぼくには、やっぱり……最初から無理だった。クゼとは、戦えないよ」

「奴は、嘘ヲついテいる……! 貴様に並べ立テた、条件など、口約束ダ! 簡単に、反故にすルゾ!」

「でもさ……でも、信じたいよ……!」


 ツーは、リッケに対しても、死んだ門兵に対しても涙を流していた。

 それで命が戻るわけでもないと分かっていても、彼女はそうしている。


「それに、いくら正しいことのためだって……ぼくもクラフニルも、死んじゃったらおしまいなんだ……。生きていさえすれば、きっと何かが見つかる……! セフィトに会える方法だって、“教団”を助ける別のやり方だって!」

「私は……私ハともカク、貴様ハ、戦うこトダってできた……!」


 屍魔レヴナント越しにすら無念の滲む声を、クラフニルは漏らした。


「貴様の体ガ本当に無敵だッタなら! イジックの最高傑作だっタナラ! ! もし戦えば、勝テル可能性も、あった!」

「……でも。もしも、そうだったとしても」


 涙を拭う。クラフニルへと向かって、微笑んでみせる。

 水槽の外で見た現実がどれだけ残酷でも、彼女の信じた色彩と異なっていても――


「それでも、ぼくはクゼを救いたかった」


 第五試合。勝者は、通りのクゼ。

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