第五試合 その1

 通りのクゼは、深夜のギミナ市へと徒歩で入った。

 やや肌寒さを増した気温に、息はかすかに白さを帯びていた。


「……やる気がないってわけじゃないけどさ。どうしても今じゃないと駄目?」


 懐のラヂオへと向かってぼやく。

 市から少し離れて、彼の雇い主――ジギタ・ゾギが待機しているはずだ。

 信用されてはいない。それは最初から分かっていることだった。


 標的は黄都こうと第十六将、憂いの風のノーフェルト。

 不言のウハクの擁立者たる彼を抹殺し、千一匹目のジギタ・ゾギを不戦勝へ導く。

 浮いた駒となったウハクは、ジギタ・ゾギの勢力の必殺の切り札となる。


〈今を逃して、クゼ殿に仕事をこなす方策があるかどうかですな。お相手は、狙われていることを察知して動いています。ギミナ市の先で身を隠されてしまえば、試合当日まで暗殺の機会はないと見ていいでしょう〉

「元々、試合直前にやるって話だったさ。ノーフェルトがいくら逃げ回っても、その日には確実に会場に来る。その時やればいい」

〈気を張って警戒している相手にも成功の自信がおありで? 不言のウハクの引き抜きは、以降の策にとって絶対必要条件です。その一度の機会を失敗したとすれば……黄都こうとからクゼ殿を守りきる余裕は、アタシらも少々難しくなりますな〉

「……どうかな。これでも、少しは用心しているのさ。先にノーフェルトを殺っちゃったら、俺は用済みになるんじゃないかってさ。どうだい?」

〈……〉


 クゼには天使が憑いている。ナスティークは、絶対必殺の暗殺者だ。

 だが、詞術しじゅつを否定するウハクにだけはナスティークも近づくことができない。

 そしてウハクを裏で用いるもっとも有効な手段は、言うまでもなく暗殺となる。


 ジギタ・ゾギの陣営は、果たしてウハクとクゼの両方を抱え続けるだろうか。

 けれど、あるいはそれも後から思いついた言い訳だったかもしれない。


〈……クゼ殿。我々にとって、六合上覧りくごうじょうらんの勝利はそれで終わりではありません。どちらかが勇者の座を獲った後で、アタシらの目的や、あるいは“教団”の邪魔になる連中を上手く消す必要があります。それは不言のウハクではできない仕事ですのでね〉

「つまり……ふへへ。少なくとも、俺は六合上覧りくごうじょうらんが終わった後までは生きられるって言いたいのかい……そりゃあありがたいね」

〈クゼ殿を切り捨てる益もこちらにありませんのでなあ。黄都こうとに情報を漏らす理由もなし、味方を減らすだけの愚策です〉

「だけどそいつは俺が仕事をしている限り、だろ?」

〈それはその通りですな〉


 会話を続けながら、街道を進む。古びた黒い外套は、彼の姿を夜によく溶かした。


「ここで奴を取り逃がしたら、どうなる。どーも、記憶力が悪くてね」

〈ノーフェルトは昨日黄都こうとを発っています。名目としては、オゾネズマの試合で発生した交通停滞の原因の調査。帰還は第八試合の当日という予定を組んでいます。要はもう街には留まらんでしょう。ハーディの交通停滞策は広域に渡っていましたからなあ。その間は、どこを調査していても不自然ではないというわけです〉

「――逆に言うなら、今始末しとけば。当日まで死んだことに誰も気づかない」

〈ご名答です〉


 賢明な動きだ、と思う。

 ジギタ・ゾギの陣営は切り札となり得る不言のウハクの情報を他のどの陣営にも漏らさぬようむしろ守り続けていたが、ノーフェルトであれば、自分の周囲に不穏な動きがあったことを察したのだろう。

 そしてウハクを狙う者がいるのならば、その標的はウハクではなく自分であると。


(やるじゃないか。ノーフェルト)


 同じ救貧院にいた昔から、そのように要領の良いところがあった。

 面倒な仕事を押し付けられそうな時には、直前にふと姿を消してしまうような。


〈今夜しかありません。やれそうですかね。クゼ殿〉

「……ま、割りとね。市内なら、最後に奴が寄りそうなところは心当たりがあるさ」


 街道を行くクゼの足取りに迷いはない。

 きっとその場所にいると確信を抱いていた。いくつかの会話でジギタ・ゾギをあしらった後で、クゼはラヂオの通信を切る。


 クゼの目の前には、暗闇の空へと伸びる教会の影がある。

 彼が仕事を完遂するかどうかを、どこかから監視されているだろう。


(――すばらしい奇跡のために、私たちはもう、孤独ではありません。心持つ生き物の全てが、皆の家族なのです)


 胸に手を当てて、かつて学んだ教えの一つを心の内で唱えた。

 それが何かを救ってくれると、期待もできないでいる。


 扉を開けた視線の先、祭壇の下に腰掛ける影が見えた。

 他には誰もいない。憂いの風のノーフェルトはこの場所にいた。


「……や。久しぶりだなあ。ノーフェルト」

「ウッゼ」


 頼りない蝋燭の光の下で、異常長身の剣士は顔を起こした。


「そのウザったい喋り方さ、クゼ兄っしょ」

「お前も、喋り方変わってないのな」


 クゼは微かに笑って、ノーフェルトへと近づいていく。

 いつでも殺すことができる。ナスティークの手の届く場所にいる者は、誰でも。


「あー、座っていいか?」

「駄目ッつったら」

「え? 座るけど。いやー、この年になると腰が痛くってさあ」


 隣に腰を下ろす。ノーフェルトも止めようとはしなかった。

 並んで座ると、クゼより頭二つ大きい。昔から背の高い子供だったが、今はさらに伸びている。そんな感慨に耽る時間が欲しかった。


「そんな年かよ……やめてほしいよな。俺までオッサンみたいに思えてくるじゃん」

「……ふへへ。心配しなくてもとっくに両方オッサンだって。あれから何年経ってると思ってんだ」

「二十二……? 二十三だっけ。ヘッ……覚えてねーし」

「覚えてろよ。小二ヶ月前でえーっと、あれだ……二十……」

「クゼ兄も覚えてねぇーんじゃん」

「……ふへへ。クソッ、オッサンだからな」


 それほど昔のことなのに、今でも思い出せる。

 “本物の魔王”の恐怖はまだ遠くのどこかで、貧しくても皆が助け合えた。子供たちも大人に混じって働いていて、沢山の神官と出会って、色々な言葉を聞いた。

 言葉の一つ一つは曖昧に滲んでいても、まるで全てが一つの音楽を成すように。


 きっと、ナスティークがそのように世界を見ているように。

 クゼはそう信じている。


「……羽根独楽、やるか。ノーフェルト」

「マジか」

「持ってるよ。卒業した時に預かってたやつ。ほら」


 懐から取り出した真鍮製の独楽の一つを、ノーフェルトへと投げた。

 ノーフェルトは決して羽根独楽が強くはなかったが、彼がいつも自慢していた独楽だった。掌に光る鈍い輝きを見て、彼は笑った。


「ガキの遊びじゃん」

「たまにはいいだろ。ほら。五。四。三」

「いやいやいや、ハハッ、待て待て待てって」

「二。一っと」


 クゼは羽根独楽を回すと同時に板の床に投げて、ノーフェルトは少し遅れた。

 風を切る独特の音を立てて、二つの独楽が回っている。


「聖堂の床でやったら怒られたよな」

「……な。あれ、マジで意味分かんなかったし」

「板張りで平らで、一番広いのにな。俺が神官になってたら、そんなルールなくしてたよ。でも羽根独楽って今の子供じゃ流行らないのか?」

「つーかクゼ兄、まだ“教団”やってんのな」


 ――そうだ。誰よりも教えに背きながら、クゼは“教団”から離れられない。

 そうしていたなら、もっと心は楽になれただろうか。

 他の誰ものように、天使の視線が見えないように生きながら、こんな罪へと手を染めることもなかっただろうか。


「ぜーんぜん。ヒラのまんまだよ」

「ふーん……」

「悔しいけどお前はさ……ノーフェルト。やっぱ特別だよ。出てよかった。昔っから、一番頭がいいのはお前だった。体もでかくて……まだ伸びてるなんて思わなかったよ。やっぱ親が優秀だったんだろうなあ……お前みたいなのは……」

「……あのさクゼ兄。そういう言い訳、卑怯くさくね? 俺らに親なんていないんだって。いたとしても、ガキを捨てるクソ野郎じゃん」


 羽根独楽が回り続けている。暖かく揺れる、蝋燭の光が。


「そうだな。お前……お前は、頑張ったよな。もう二十九官だ」

「ヘッ……ヘヘヘヘ。クソだよ」


 第十六将は笑った。乾いた、軽薄な笑いだった。

 それはどこか、クゼの笑いと似ていると思った。


「俺はクソ。偉くなっても、クソ。親とおんなじクソッタレだ。……クゼ兄、知ってる? クノーディの婆さんも死んじまった。俺……俺はさ……」


 膝の上に組んだ手にノーフェルトは額を乗せた。


「……本当は、偉くなれば……皆、楽させてやれると思ってたよ。どこの救貧院でも、毎日の食事の終わりに緑苺が出てさ……王国の金で洗濯婦の一人もつけてやって。文字だって、きちんとした羊皮を使えればいいって思ってさ……あと、ヘヘ……あと、あれだ。羽根独楽を、聖堂で遊べるようにしてやってさ」

「分かってる。皆分かってた。俺たちを捨てて出てったとか、誰も思ってなかった」

「……クソ恥ずかしいからやめろ……! なあ、クゼ兄。皆死んじまったよ。俺はどうすればいい? やりたいことが、もうなんにもないよ」

「……」


 片方の羽根独楽の回転が揺れた。カタカタと床板をこすって、やがて倒れた。

 ノーフェルトの独楽だった。


「ふへへ……俺の勝ちー」

「……ヘッ……まぐれだし。こいつは俺の“鷺鳴き”号だぜ?」

「あれだ。勉強はできても、やっぱ羽根独楽は弱いよ、お前」

「全ッ然……弱くねーから。もう一回やっぞ」


 二人は、呼吸を合わせて真鍮の独楽を落とす。

 回転の音が重なって響いた。教会のどこか遠くで、風が鳴っている。


「……ノーフェルト」

「何だよ」

「『ヤケになるな』って言ったら、お前、やめられるか」

「……」


 ノーフェルトは、高い天井を見上げた。長い沈黙の後で、溜息を吐いた。

 カタカタと、羽根独楽の回る音だけが響いた。


「無理」

「…………」

「つーか、また俺の倒れそうじゃん」

「へへー。クソ弱大将め。俺の勝ちー」

「クッソ……マジでこの……あークソッ……もう一回だからな」

「同じだって。あの時の八連敗更新するつもりか」

「クノーディの婆さんが止めなきゃ、あの後俺の九連勝だったっつーの」


 もう一度、羽根独楽が回る。蝋燭の光は変わらずに揺れ続けている。

 その懐かしい光景を見て、クゼは笑う。幼い日のように笑いながら、奥歯を噛み殺している。


「――俺を殺しに来たんだよな。クゼ兄」

「……」

「俺……俺はさ、もうダメだ。もう無理。……ウハクの目、見た? ……俺、分かるんだ。あいつ本当は……全部憎んでるよ。この世の全部」

「お前の思い込みだ」


 クゼは、ウハクをずっと見てきた。彼は悔やんでいる。

 世界に対する罪を償いたいと思いながら、その術を持たない目だった。


「……なあクゼ兄。あいつを使ってさ……この茶番を、全部めちゃくちゃにしてやるってのはどうよ。全部ブッ壊して……ヘヘッ、超面白くね? 勇者になったあいつが、皆の前で……詞術しじゅつとか嘘っぱちだって……何もかもクソだって、思い知らせんだよ……」

「いいよ、ノーフェルト。もう、自分を責めるな」

「俺……俺さぁ……もう世界が嫌になっちまった。マジ、どうしようもねーっしょ」

「……お前は精一杯やった。お前のせいじゃないさ。本当だ」


 羽根独楽の片方が倒れた。そうでなければ良いと思ったが、やはりそれはノーフェルトの独楽だった。

 あの頃と同じように。ノーフェルトはかつて共に暮らした“教団”の仲間を守ろうとして、それができなかった。

 一緒に暮らした友の多くも、クノーディもロゼルハも、全員死んでしまった。


 クゼはノーフェルトとは違って、“教団”を出ていくことができなかった。

 だから……これから先の“教団”を守らなければならなくなった。

 そこには子供たちがいて、新たな神官候補が学んでいて、決してクゼと無関係な世界ではなかった。


「……俺の勝ちー」

「クッソ……クッソ、なんで勝てねーんだろうな……最後まで……」

「まだやれるさ。ずっと……何度だって勝負してやる」

「……無理だし」


 軽薄に笑いながら、ノーフェルトは泣いていた。

 きっと自分で気付いていない涙を。子供の頃は、彼は決して泣くことはなかった。


「マジ、ウケる」

「……誰もお前を見捨てちゃいない。誰も。本当だ」


 ノーフェルトの肩に手を置いた。

 ナスティークがいる。天使が、彼らを見ている。

 そしてその天使は――そうだ。ノーフェルトの首筋に、刃を当てている。


 『彼は死んでしまうの?』そうだ。俺が殺した。

 クゼは呟いた。それしか救いはなかったのか。

 ノーフェルトがそれを望んでいたとしても、他に道があったはずだった。


「……本当だ……本当のことだよ、ノーフェルト……」


 羽根独楽が回っている。

 蝋燭の光に照らされた真鍮の輝きは、今は一つしかない。


――――――――――――――――――――――――――――――


「連れてきたよ、オゾネズマ」


 一人の少女を伴って、大きく肥えた第十四将が姿を現す。

 移り気なオゾネズマの治療室は、光暈牢こううんろうのユカが保有する厩舎の一つだ。

 もっとも彼は黄都こうとの医師の技術と魂胆を信用せず、専ら自分自身の腕で自らを手術していた。


「――来タカ。ツー」

「うわー、すごい狼……! 君がオゾネズマ? ぼくは魔法のツー! よろしくね」


 魔法のツーはオゾネズマの恐ろしい姿を見ても怖気づくことなく、近づいてはペタペタと触った。傷の癒え切っていない体にはあまり好ましくはなかったものの、オゾネズマは甘んじて受け入れた。


混獣キメラダ。今日ノ会合、フリンスダカラハ、ドウ聞イテイル」

「何が? いつもみたいに笑って許してくれたよ。ユカとも仲良さそうだったし!」

「……ソウカ。ヤハリ、既ニ敗退シタ者ガ候補者ニ接触スル分ニハ、問題ハナイトイウコトダナ……」

「?」


 もっとも、慎重に勝ちを狙っている勢力であれば、それも十分な警戒に値することであっただろう。

 ならばフリンスダとツーの関係は、彼女を唯一絶対の手駒として擁立するのではなく、それよりは多少突き放した、例えば勝ち進むことの利潤を目的とした関係であろうとオゾネズマは推測する。


「でも、ぼくと全然似てないよ。本当にこれがぼくのお兄さんなの?」

「俺に言われても、俺はオゾネズマからそう聞いただけだしなあ」

「……確カダ、魔法ノツー。君ハ私ノ姉妹機ニアタル」


 魔法のツーがどれだけ自覚してこの六合上覧りくごうじょうらんに臨んでいるかを知りたかった。

 彼女の意図を確かめるのは、第五試合の始まる以前のこの時でなければいけない。


「マズハ、ヒトツ。君ハ自分自身ノ肉体ニツイテ、ドレダケ自覚ヲシテイル」

「よく分からない。ぼくも全然覚えてないから、説明できないよ」

「覚エテイル限リデイイ」

「……えーっと、その……ブンシが、セイ……セイレツがどうとかで……。ハッセイのネツショリが……なんだっけ。あっ、サイボウ……サイボウの次は……えーっと……本当に分かんないんだってば」

「……。自分ノ構築理論ヲ覚エテイナイ、トイウ意味カ」

「でも、大事なことは分かってるから、いいんだ。大事なのはどういう風に生まれたかとかじゃなくて、どう生きるかだよ」

「ソレヲ教エタ者ノ名ハ覚エテイルナ?」

「……まあ、うん」


 天真爛漫を絵に描いたような少女は、初めて複雑そうな表情を浮かべた。

 思い出したくないものを、いつまでも捨てきれていないことを思い出したような。


「すっごい、嫌なやつだけど」

「ソウダナ」


 逆にその顔を見て、オゾネズマは含み笑いのような唸りを上げた。

 その様子では、あの男は何も変わっていなかったのだろう。

 オゾネズマが彼の元を去った後も、ずっと。


「色彩ノイジックハ、嫌ナ奴ダ」

「……! 知ってるんだね」


 オゾネズマは身を起こした。やはり魔法のツーは、自分自身の肉体について理解していない。ならば、わざわざここまで呼んだ意味があった。


「魔法ノツー。私ナラバ君ノ体ニツイテ、モウ一度教エル事ガデキルダロウ」


 “最後の地”より現れた魔王の落とし子。魔法のツー。

 彼女はこの地上の誰よりも強く、あるいは誰よりも危うい。


「君ハ――魔王自称者イジックニ構築サレタ、史上究極ノ擬魔ミミックダ」

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