第五試合 その2

 ――ほんの二十五年ほど前まで、彼らこそが魔王と呼ばれていたのだ。“本物の魔王”が現れるまで。


 魔王自称者は、必ずしも悪ではなかった。

 心ある者がそうするように、臣民の幸福を願い、種の繁栄を願い、世界の平和を願う者がいた。

 “魔なる王”である彼らは、ただ一人で王とはなり得ない。

 少なくとも彼らには志を同じくする仲間があり、その理想に惹かれた民があった。


 彼は違った。


「さっすがローテグラ公! 時間ぴったり! 歓迎するよ! ハハハハハハハ!」


 ごく普通の旅装束に身を包んだ、くたびれた中年の男に見える――

 聞く者の神経をどうしようもなく逆撫でする、その笑いを除けば。

 彼は昼食のパンの最後の一欠片を放り込んで、断崖の下の、広大なるミーティ交点都市を見下ろした。


「本当に、昼飯の終わる時間ぴったりだ! いいよねー、鹿肉のパン! この街の名物なんだって? 大したもんじゃーん」

「……確認を……」

「え? なになに? 何か言った?」

「このミーティを明け渡せば……む、娘を……セルレを、返してくれると……言ったな。な、ならば、渡す。す、全て……」


 貴族の声は震えている。

 父の代で王国の裁判制度に多大な貢献を果たし、その恩領として与えられたミーティ交点都市であった。

 そして克明なるローテグラは、その名誉も財の全ても投げ打つことができた。


「あっ、そ」


 男は何も携えていない。誰も引き連れていない。

 それでも彼は一つの街の領主を、まるで心持たぬ獣を見下すように眺めている。


「ねえねえ、それって今から? 今から俺の街ってこと?」

「セルレはどこだ」

「あのねローテグラ公。俺学校とか行ってないから、間違ってたらごめんね。質問してるのはどっちかなー?」

「どッ、どこにいる! セルレは!」

「だからもーう……落ち着きなって」


 魔王自称者は頭を掻いて、ローテグラの背後に伸びる丘を指した。

 そこには一人の少女が歩いている。遠目の影であっても、間違えようがなかった。


「ああ……ああ……!」

「ねっ? 無事でしょ?」

「……私は、ミーティを捨てた。娘と二人で、王国からも……隠れて暮らす……貴様にはもう、何もしない。何もできない……終わりにしよう。互いに、全てを……」

「ハハハハハッ! いいねえー! 長き因縁の終止符ってやつだ! 平和最高! この街は今から、ぜーんぶ俺のもんだ! ハハハハハハハ!」


 両手を広げて高らかに笑いながら、魔王自称者は街を見下ろす。

 広大で豊かな土地。息づく全ての命。彼はその力で、全てを支配できた。


 この戦いは彼の勝利に終わった。

 ついに、一つの領土までもを彼自身の色へと染め上げたのだ。


「ハハハハハハハハハハハハハハ――あ」


 しかし魔王は、唐突にその笑みを終える。


「そーいや、昼飯買ったパン屋がさぁ、店員の態度ひどかったんだよね。客見て舌打ちすんの。最悪」

「は……」

「やっぱいらねーや、こんな街」


 悲鳴に空気が割れた。それは街そのものが上げた断末魔であった。

 眼下に広がる街が、ぞわぞわと黒く染まっていく。

 どこからともなく出現した群れは、まさしく生きていた――あるいは、生きているように見えた。

 ぞわぞわと湧く。際限なく、どこまでも。


「あ、ああ……ひッ、ああ……!」


 街を呑む黒雲の中には、無数の赤い瞳がある。

 海の如く膨大な鼠の屍魔レヴナントが……下水から、床下から、街のありとあらゆる隙間から現れ出て、生者を貪り喰らっているのだ。

 眼下の遠くから届く絶叫の波は、生きたまま肉を削がれ、内蔵を啜られている民の声に違いなかった。


「この街、俺にくれたならさ。じゃあぶっ壊したっていいよな? ありがとね!」

「き……貴様は、なんということを……」

「ハハ! ハハハハハハハハハハハ! あー楽しっ! ハハハハハハハハハ!」

「やめろ、私のせいじゃ、ひ、ひいい、いいいいい……ッ!」


 嘲笑と悲鳴にかき乱され続けながら、ローテグラは丘へと走った。

 娘。娘だけは。


 彼の娘が……愛しいセルレが歩いている。

 よろよろとおぼつかない足取りで、焦点の合わない目がローテグラを見ている。

 その皮膚の内側で何かが動いた。群れる、何かが。


「――ローテグラ公」


 笑いを止めた魔王の声がする。


「この前のこと、覚えてるよな? そうそう、ちょーどその娘さんがいなくなる前辺りだったかな? 和平交渉だっつーから行ったら、なんか山賊だか騎士だかよく分かんないのが襲ってきてさー……いやあー怖かったなあー」

「し、知らない……私は……知らなかったんだッ! ぶ、部下の独断で……!」

「あっそう? まいっか! 部下だか誰だか分かんないけど、いいよいいよ! どうせそいつも――」


 男は、ニヤニヤと笑いながら眼下の光景を見た。

 おぞましい絶叫が咽び続けていた黒い地平には、今や不気味な沈黙があるだけだ。

 鼠の屍魔レヴナントの軍勢は、鳴き声すら上げない。


「もう死んじゃったしさ」

「頼む……や、約束だったではないか。街を、やったではないか。セルレを……セルレを、返し……」


 セルレの頭がだらしなく垂れた。動いている。歩いているのに。

 一瞬、桃色の尾が耳朶から覗いて、頭蓋の内へと消えた。

 その苦痛に歪んだままの顔も、おぞましく動かされる歩みも、魔王の悪趣味な模造品であることを願った。


「あっれ! そうだっけ? 返すって言ってたっけ、俺!」


 ローテグラは膝から崩れ落ちた。

 娘の体は内から弾けて、黒い小さな軍勢が彼に群がった。


「残念でした~! うーそーでェーッす! ハハハハハハハハハハハ!」


 皮膚の表面から刻まれゆく貴族の断末魔を聞きながら、心底愉快そうに笑う。

 そのような悲惨と残酷を、この世の誰よりも楽しむ事のできる男であった。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハ!」


 “本物の魔王”が現れる以前。彼らこそが魔王と呼ばれていた。

 彼らは“正なる王”ではなかったが、必ずしも悪しき者たちではなかった。

 王たる彼らには、その理想に付き従う仲間が、民があった。


 彼は違った。


 いかなる仲間も必要としない。軍勢が必要ならば、それを作り出すことができた。

 信念も理想も持たない。そこに目的などなく、無軌道に破滅を撒き散らし、悲惨を楽しむことができた。

 あらゆる世界を自分の色へと染め上げる悪意。


 かつての世界に、最悪の魔王と呼ばれた男が存在した。

 魔王自称者。色彩のイジックという。


――――――――――――――――――――――――――――――


「ハッ、ハッ……ハ、ハハハ。けふッ、かッ……」


 山道を這う指先が笑いに震えて、岩肌に血の線を描いた。

 そうして進むしかなかった。左脛の肉が裂けて、内側の骨が露出していた。

 右足首から先はなく、よく見れば、這う右手の指も二本しかなかった。


「ハッ……ハッ、ハァッ、アッ」


 息をするたびに、肺腑の内が引き裂かれた。

 外も内も、今の自分が人間ミニアとして正常な形を保っていないことは明らかだった。


「……あぎ、め、るかよ」


 諦めないことで何ができるのか、誰にも分からなくとも。


「諦める、かよ……」


 周囲の茂みが揺れる。それは彼自身の使役する屍魔レヴナントであった。

 吐き気を催す光沢にぎらついた百足の如き屍魔レヴナントがうぞうぞと這い出て、男の口内に、眼窩に、組織を食い破りながら侵入していく。

 紛れもない死痛の苦しみに絶叫し、しかし気管に詰まる蟲のためにできなかった。


「うぐっ、ぐ……ぐ……う……」


 男には名があった。色彩のイジックという。

 “最初の一行”として“本物の魔王”へと挑み、そして無残に破れ果てた、かつて地上最悪と呼ばれた者の成れの果て。


「…………」


 イジックの動きは、そうして絶えた。

 鼻と口からは赤い浸出液が虚ろに流れ出していたが、やがて黒褐色に変わった。

 日は沈み、夜になっても、おぞましい骸に近づく獣すらいなかった。

 そして日が昇った。


 翌日もその翌日も、誰にも省みられることはなかった。

 血はとうに乾いて、いくつかの落葉が体の上に積もった。


 そのさらに翌日に、雨が降った。

 イジックの傍らの水溜りに、大きな獣の足が波紋を作る。


「――ヨウヤク、貴様モ終ワリカ。色彩ノイジック」


 それは流麗な狼のようでいて、しかし決定的に異なる獣である。

 既に倒れた最悪の魔王の他に、オゾネズマという名を知る者もいない。

 虚ろな眼窩へと向けて、彼は言った。


「似合イノ末路ダ」


 他の言葉が必要とも思わず、獣はその場を去ろうとした。

 後肢を、狂気じみた腕が掴んで止めた。


 獣は恐れた。


「……ッ! イ、イジック……!」

「ガバッ、ガ、カハッ、ハハハハハハハハハ! そォーだよ! イジックだよ!」


 何故生きているのか。何故その有様で動けているのか。

 先程まで死人だったとは思えぬほどの力で、それはオゾネズマの脚を締め上げた。


「ハハハハハハ! つれねェーなァー! オゾネズマ! がこうして復活したんだぜ!? もっと……なあ。嬉しそうな顔をしてもいいだろう? ……オゾネズマ……!」

「何故、ソノ有様デ生キテイル……!」

「……あっそ。見て分からない? 損傷部分に屍魔レヴナントを潜り込ませて……群体を融合した擬似器官系を構築した。蟲の神経を繋いで、蟲の胃で消化して、蟲の血液で細胞を生かす――ま、言っちまえば殆ど蟲だな? 人間ミニアとしちゃ、死んだも同然。がっかりした? なーんてな! ハハハハハハハ!」

「馬鹿な……ソ、ソンナ施術ヲ……。ソレデハ貴様自身、屍魔レヴナントニナッタヨウナモノデハナイカ……!」


 遍く生類に備わる異物排除のシステムを欺瞞し、同種の群体を、あるいは種すらも異なる生体を統合する技は、魔王自称者イジックの最も得意とするものである。

 死体に潜り込んだ群れで神経へと信号を送り、生きているかのように動かすことすらできた。


 それでも、彼は生身であったはずだ――今、この時まで。

 色彩のイジックは彼自身であるために、“本物の魔王”へと戦いを挑んだに違いなかったのだから。


「ハハハハハハハハ! もう知ったこっちゃねーや。オゾネズマ……フラリクについてく時は、もうお役御免って言ったけどな? やっぱありゃウソだ。撤回。お前もまた働いてもらうぜ」

「フザケルナ。ソンナ義理ナドアルモノカ……!」

「……無駄だってーの。ハハハハ! お前は俺には逆らえない。だろ?」

「……」

「無理無理無理! 一生そのまま。俺の言いなりなんだって! 生まれつき“勇気”なんて機能、持たせちゃいないんだからさ! こうして俺が死んでも……はい残念でした。こうして元気で生きてまァーッす! ハハハハハハハハハ!」


 オゾネズマは、その強靭な前肢でイジックの頭を砕くことができる。それだけだ。赤子以上に脆弱なこの魔王を、オゾネズマは決して倒すことができない。

 確固とした自我を持たされながら、その自由を封じられていた。


 彼は項垂れ、牙を噛み締め……そして言った。


「……ドレダケダ?」

「あ?」

「アトドレダケ、貴様ハ生キル」

「ハハ……」


 人間ミニアとしての正常な生命を捨て、外道の詞術しじゅつに縋ってこの世に留まり、彼はどれだけ生きていられるだろうか。ましてや、暗黒と恐怖で全てを塗り潰す、あの“本物の魔王”の絶望を心に抱いて。

 それは死よりもなお惨たらしい、無力な生であるに違いなかった。


「……ハハハハハハ」


 蟲のように這いずりながら、イジックは肩を揺らして笑った。


「誰が。諦めるかよ。諦めるか諦めるか諦めるか諦めるか……! ハハ、ハハハハ! 俺は色彩のイジックだぞ! なあオゾネズマ!? そうだよな!? この程度で諦めたりしねえだろ、俺はなあ!?」

「……」

「最強の魔族まぞくを……作ってやる。あんなクソ小娘なんざ、一発で捻り潰すほどの最強のやつを! 俺ならできる! ネフトにも! フラリクにも! ルメリーやアレナのクソガキにもッ、で、できなかったことだ! 俺しか残ってねえ! 俺なら……! 俺なら……! 俺なら!」

「……イジック」


 爛々と光る眼差しから逃げられなかったのは、果たしてオゾネズマが勇気を持ち合わせない造物だったためだろうか。

 かつての強大さが見る影もなく痛々しく、見苦しかった。


「――材料だ。現物のサンプルが、山のようにいる。ゲホッ、ケホッ、オゾ、オゾネズマ……英雄の体を、持ってこい。なんでもいい。手当たり次第だ」


――――――――――――――――――――――――――――――


 今やイジック自身が、長距離の移動に耐えられぬ体となっていた。

 肉体をこの場から動かせない以上、生成のための機材も素体も、残る僅かな魔族まぞくで遠方に散在する拠点よりかき集める他ない。

 それでも最も重要な一つが手に入れば、イジックにとっては十分だった。


「……根本的な理論は同じなんだ」


 “本物の魔王”がとうに過ぎ去ってしまった地である。かつてこの世を謳歌した最悪の魔王にとって、誰にも知られぬ、この荒れ果てた山野だけが最後の領土であった。


「最強の部位を継ぎ合わせた、最強の戦闘生物。オゾネズマみたいな出来損ないの試作品じゃない……一から、完璧に設計されたやつを」


 密封されたガラス瓶の中。保存液に浸された細胞塊は、今は何物でもない。

 種族すら未分化の、胚細胞のあり得ざる逸脱種。

 それは肉体を自ら変異しあらゆる存在へと擬態する、擬魔ミミックと呼ばれる魔族まぞくの正体である。


 ……だが。この細胞を採取し、望んだ個体を培養するとして、あとどれだけの試行回数が残っているだろうか。

 遠い昔の魔王自称者が半ば偶発的に見出した変異種である。イジックには、この瓶の一つしかない。


「まだ足りない。英雄の肉体の継ぎ接ぎ程度じゃあ、まだだ。……三十七兆の細胞の、一つ残らずが無敵の構造体だ。熱や毒の損傷にすら、細胞自体が即座に反応して初期化する……! 擬魔ミミックの変異能力で運営される恒常性を、俺が設計する! そうだ。現物のサンプルが、山ほどいる……英雄の筋肉、英雄の神経、英雄の骨格……! 無敵の細胞をその通りに配列してやることだって、俺には……できる……!」


 まるで荒唐無稽の夢想。“本物の魔王”に挑む以前のイジックすらそう判断して打ち捨てていた、未然の計画。

 試行する。資源を使い捨て、生命を使い捨て、何百何千と。恐怖と執着が、狂気の寸前の所業へと彼を駆り立てた。

 色彩のイジックにとっては、元より狂気の境目などないのかもしれなかったが。


「ハ、ハハハハ……! ……クソ魔王め……! お前なんざなんでもねえ……恐怖如き、最初からしてやればいい……! そんな神経回路なんざ繋いでやらねえ……お前をブチ殺すためだけの戦闘生物だ……!」


 そうして彼は、長く過酷な道を歩んだ。

 生術せいじゅつ。薬品処理。細菌による導入。魔具との相互作用。ありとあらゆる手段。

 何千と、何万と、ただの砂粒から完璧な彫刻を削り出す無為の努力を、海の砂浜の全てに施すような。


 無事だった側の腕すらも、針金めいた精密作業用の義肢へと変えた。

 肉体の喪失に伴って不要となった脳の運動野の大部分は、菌糸による神経系に置換した。細胞処理の初期段階の複雑作業は、その回路で自動化することができた。


 無理矢理に強いた生存は記憶すらも蝕んだが、それでも色彩のイジックは、その作品を完結させるための自我と知識だけは頑なに守った。


 二つの月が巡り、太陽が巡った。長く。長く。


「……名前。いつか、名前を決めなきゃあな……」


 僅かな光明が現れては消え、不可能の暗闇の中へと閉ざしてすらくれなかった。

 幾千もの奇跡と、幾千もの必然の繰り返しの果て。


「……人間ミニアの形だ。いつだって、一番強い社会を作れるのは……人間ミニアだからな……。そいつらの助けを借りて、こいつはさらに強くなる……。それなら男にするか――」


 一つのガラス管を前にして、あり得そうもない未来を口にしている。


「――いや女だな! 男だったら……俺が男の裸をずっと眺める羽目になるじゃん。ハハハハハ! そんなのは嫌だな……」


 その時点ではまだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 何年の月日が経っただろうか。

 成長を始めたその細胞はついにガラス管では足りなくなり、四角い水槽を要した。

 イジックの繊細な工術こうじゅつには無論苦にもならぬ製作だったが、容積の増えた分、変異を抑制する保存液の調達には苦慮するようになった。


「……ソレガ、貴様ノ作品カ」

「そ。ある意味、あれだな。お前が殺しまくった連中の成れの果てだ。ハハハ!」


 オゾネズマが今見ているような無秩序な生命体が人間ミニアの形になるとは思えなかったが、イジックが断言するのならば、そうに違いなかった。

 彼はおよそ人のあらゆる観点において最低の男であったが、魔族まぞくの構築を誤ったことはない。


「……邪魔すんなよ、オゾネズマ。ようやく……これで、ようやく俺の人生が始まるんだ……」

「最高傑作ノタメニ命モ賭スカ。マルデ軸ノキヤズナダナ。随分ト変ワッタモノダ」

「ああ? 今、なんかナメたこと言ってた? まるで誰だって?」


 イジックは強く地面を叩いた。

 細胞塊はその激高すら認識せず、保存液の中に揺蕩ったままだった。


「……俺のためだ。俺の道具だ。あんなクソババアとは違う……! 俺は、俺のためだけに生きる。俺をナメやがった連中は、死んでも足りないくらいの後悔で殺してやる。それが俺だ……!」

「イジック。貴様ハモウ、カツテノヨウナ力ハ出セナイ。回復ノ見込ミナドナイ。ソノ程度ハ理解シテイルダロウ……!」

「あーあー、もういいよ。お前、やっぱ材料持ってくるだけでいーや。こいつには近づくな……ご主人様の命令だ。いいよな?」

「……分カッタ」


 その個体は、それから小二ヶ月と持たずに溶解して死んだ。

 僅かに見えた希望の兆しすら消え、それから、さらに十年。


 再び光を見るためだけに、イジックは十年生きた。


――――――――――――――――――――――――――――――


「俺の言葉は分かるな?」

「……ん」

「よーし。詞術しじゅつが分かる心があるならいい。最初はどんな馬鹿だろうとな。あー……そーだな。俺の名前から始めるか?」

「ん」

「色彩のイジックだ。覚えとけよ? ハハハ! ご主人様の名前だからな」

「ん」


 イジックはついに、水槽の中に漂うもう一人を作り出していた。

 生命の始まりから完成の形を刻まれたその擬魔ミミックは、成長の過程を経ることなく、最初から少女の形をしている。

 その形は一生涯変わることはない。彼女はそうした宿命を背負った生命体だ。


「で、名前……お前の名前は……ツーだ」

「ツー」

「そ、ツー。魔法……魔法の、ツーだ。ハハハハ」


 イジックは笑った。それが無知なる下僕を蔑むだけの笑いであると、生まれたばかりの生命が知ることもない。


「まずはお前に、一番大事なことを教えてやる」

「ん……」

「――正義と勇気だ」


 生まれつき、恐怖の心で戦うことができない。そのように作っている。

 嗜虐の心では、絶大な脅威である“本物の魔王”に立ち向かうこともできない。


 ならば残る動機は、束縛と憤怒が何よりも扱いやすい。

 たとえばそれを、正義と勇気のように言い換えることもできる。


「ツー。お前が生まれてきたのは、物凄く幸運なことなんだ。この世界には無限の可能性がある。いくらでも色がある。正義と勇気の心さえあるなら……どんな未来でも掴める世界だ。で、そいつがどういうことかっていうとな……」


 故にこそ最悪の魔王は、最初にその心を教えた。

 かつても今も、彼自身が何一つ信じていないものを。


――――――――――――――――――――――――――――――


「イジック!」

「ああ、うるせえ……!」


 水槽の中からの声がイジックの意識を叩いた。

 この大一ヶ月ほどは、そのように起こされている。


「朝は早くから起きてしっかり食べないと駄目だろ! なんでイジックは自分のことはきちんとできないんだ! 体だって綺麗にしてない! きたない!」

「クソッ……クソッ、頭に響くんだよクソガキ……! 俺が何しようが自由だろ? 俺の人生なんだからさ」

「自由じゃない! イジックが教えたことだぞ!」

「ハハハハ! 俺が決めたルールをなんで俺が守らなきゃならねーんだ?」


 人格の教育を始めてから一年が経過していた。

 ツーは、イジックの思惑通りに成長していた――どころか、思惑通りに過ぎた。


 彼の望んだ通りの正義の心を備え、“本物の魔王”の打倒を誓う生体兵器。

 正義の心は、最悪の魔王が見せる綻びを許すこともなかった。


「……それに、何度だって言うぞ。人を殺すのもやめろ。もう材料なんて必要ないじゃないか。許さないぞ!」

「へえ~? それじゃあ止めてみれば? その水槽の中からさ! それとも溶かして殺されてみたいかなー? ん?」

「やってみろ! ぼくだって覚悟の上なんだ!」


 かつては彼女のような者を、理由なき悪意で嘲笑って楽しんでいた。

 最悪の魔王の行為に怒り、悲しみ、戦いを挑んでくる者たちがいた。


「……くそったれ。なんでこんな羽目になった。俺は色彩のイジックだぞ」


 “本物の魔王”だ。あの存在が全てを狂わせてしまったのだ。正義も、悪も。

 彼の人生を掻き乱した者に思いを馳せるたびに、許してはおけなかった。

 何を差し置いてでも、“本物の魔王”が苦しみ果てる姿を見るまでは、死ねない。


「まーいいや。お前の覚悟なんて、どうせクソみたいなもんだし。今日の分の知識を叩き込むぞツー。まずは擬魔ミミックの構成理論について――」

「わー! わー! 絶対やだ! 言うこと聞くまで黙らないぞ!」

擬魔ミミックの細胞は、超高速で分化し、記憶にある通りの姿を……うるせえぞ!」

「人殺しを! や、め、ろーっ!」

「ああもう、うるせえうるせえうるせえ!」


 色彩のイジックに、反省など無縁だった。

 それはかつての自分自身への裏切りだからだ。


 楽しみのために虐殺を為し、悪逆の限りを尽くした。彼らにはツーと同じような子供がいたかもしれないが、それを守りきれなかった弱さが悪い。イジックが手を下さずとも、弱さにはいずれ当然の報いが待ち受けていただろう。

 イジックは彼らとは違う。それを証明するために戦っているのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


「……拠点ヲ移スノカ。イジック」

「まー、随分慣れ親しんだ場所だけどね。最初は雨風凌ぐだけのつもりだったのに、結局実験室になっちゃったしさあ」

「二十年近クモ留マッテイレバ、ソノヨウニモナル」

「ってか、この体で生きて動けるかも初めて試すな? ハハハハ! 二十年、草か根っこしか食えてねえよ!」

「西王国ニ行クノハ、ツーノ望ミカ」

「馬鹿言えよ。そろそろ皆、俺の顔を忘れてる頃だろうしさー、寂しがってると思うんだよね! どうやって雑魚どもをブッ殺そうか、楽しみで仕方なくってさあ!」


 オゾネズマはそれ以上を追求することはなかった。

 一体の魔族まぞくの生成のためだけに、彼がどれだけの機能を犠牲にしたのか。

 オゾネズマの他に、それを知る者はいない。他の誰かが知る必要もない。


「……ツーハ、元気デヤッテイルカ」

「ハハハハ! 気になる? 一度も会ったこともないくせにさ」

「ソウダナ。……ソレガ命令ダ」


 魔王の番人として殺し続けた混獣キメラは、今や英雄殺しの獣だった。

 それだけの力を持ちながら、未だに“本物の魔王”へと挑めないでいる。

 生まれつき、彼には勇気の機能がなかった。


 それでも……僅かな可能性があるのならば。

 造られた魔獣がもしも、一つの出逢いだけで変わることがあるというのなら。

 そのために、わざわざ再びイジックへと会いに来たのだ。


「……一ツ。希望ガアル」

「あ?」

「コレデ、私ノ仕事ヲ終エタイ。私ハ……私自身ノ旅ヲシタイ」

「ハハハハハハハハハハ!」


 魔王は、その決意をただ嘲笑った。


「――ってか、まだクソ真面目に人殺しなんかしてたのお前!? ハハハハハハ! えらいねー! いいよいいよ! もうツーの体は完成したしさ! お前は用済み。廃棄処分。お役御免だから。勝手にすれば?」

「……ソウサセテモラオウ」


 任を解かれた今であれば、この世界に仇なす邪悪を、オゾネズマの積年の敵を砕き、殺すことができただろうか。

 それでも、彼がそうすることはなかっただろう。


「イジック」

「なーに?」

「私ノ予想シタヨリモ、貴様ハズット長ク生キタ。アノ時ハ本当ニ……五年モ持タヌト思ッテイタノダ。タダデサエ少ナイ命ヲ、削リ続ケテイタトウノニ。私ニハ……ソノ理由ガ分カルト思ウ」

「ハハハハハ! それは、この俺が最強の魔王だからさ」

「……違ウ、イジック。ソノ理由ハ、貴様ニモ分カッテイルハズダ」

「……」

「オ別レダ。モハヤ会ウコトモアルマイ」


――――――――――――――――――――――――――――――


「ああ、これが人……! 生きて、暮らしている、人なんだ!」

「……ハハハハ、そんなに楽しいんだ? おめでたいねー」

「だって、見える……今まで、イジックの話でしか聞いたことがなかったのに、ああ……! 本当に、親子が笑って……傷つけても、皆が支え合って……皆、生きてるんだ……」

「ハハハハ! そうだねー、皆生きてるよねー」


 かつて滅ぼした幾多の街を思い、イジックはヘラヘラと笑った。

 長旅のために疲弊した命では、他の何かをすることもできなかった。

 王国を見下ろすこの丘の拠点などは、いつ見つかるともしれない。


(時間はかからない……戦闘技術と、敵を殺す残酷性だ。最後の教育さえ終わればいい。それが終われば、ここは“本物の魔王”の拠点まですぐだ……俺は、全部を取り戻す。二十年で失った全部を)


 この広大な王国を目の前で滅ぼしたなら、彼女はどのような顔をするだろう。

 それはきっと、とても楽しいことに違いなかった。


「人……人だ……あはは、ははっ……」


 ツーは泣いていた。

 涙が粒になって保存液の水中を舞った。

 翌日もその翌日も、水槽に顔を押し付けて、飽きもせずただの営みを眺めていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 王国は、炎に焼けたわけでもなかった。巨大な怪物に蹂躙されたのでもなかった。

 けれど全てが死んでいた。一人一人の誰もが、底なしの絶望と恐怖の中で死んでいた。


 ――イジックが思うよりも遥かに早く、“本物の魔王”は西王国を侵した。

 ツーに教育すべき物事が、幾つも残されていた段階である。


 遠く離れた丘の上にも届く恐怖の気配にイジックは怯えた。

 それはどれだけ年月を隔てても変わることのない、あの時の恐怖に違いなかった。

 彼の作り出した、最高傑作の魔族まぞくですら勝てないのではないか。

 その日が再び来るまで、そうした当然の疑念が過ぎったこともなかった。


「ツー……! 我儘言うな! 置いてかれたいのかよ! この国は終わりだ!」

「いやだ!」


 水槽の中で、ツーは暴れた。

 日々の教えに耳も貸さずに、いつまでも眺めていた街だった。


「いやだ……! いやだ! いやだ! いやだ!」

「なんで分かんないのかなあ!? 今のお前じゃ勝てないんだよ! 完璧な兵器にならなきゃあ倒せないんだ、あいつは! まだ時間はある! 俺……俺はお前を完璧にするまで死なないんだよ! だからお前……逃げなきゃ駄目だろうが、ここは!」

「だってイジックは言ったじゃないか!」


 これまでイジックが作り出したあらゆる魔族まぞくとも、彼女は違った。

 ただ付き従うだけの手下しか持たなかった彼にとって、それは、まるで――


「――この世界で一番大事なのは、正義と勇気だって!」

「んなもん大嘘に決まってるだろォーがッ! 分からねーのか!? お前は“本物の魔王”をブチ殺すためだけの兵器なんだよ!」

「いやだ! いやだ! ぼくは、分かったんだ!」


 緑色に輝く美しい目が、イジックを正面から見据えた。

 その姿形も、心の有り様も、最悪と呼ばれた魔王とはまるで正反対の。


「“本物の魔王”を倒して世界を救ったって……ぼくは、誰かを見捨てて救ったなんて思いたくない! 英雄として作られたなら、英雄として恥ずかしくない生き方をしたい! 正義が本当だと信じたい! 戦う勇気があると思いたいんだ!」

「ちくしょう……! ちくしょうちくしょうちくしょう!」


 次の個体を作り出せる可能性も時間も、もはや残されていなかった。

 未完成の魔法のツーは“本物の魔王”に挑み……そして全てが無駄に終わる。


 失敗だ。彼が人生を賭した魔法のツーは、完全な失敗作だった。

 この場を無理に動かしたなら、彼女をもはや制御できないだろう。しかし水槽の中から解き放てば、彼の元に戻ってくることもないはずだった。

 一度保存液の外に出た擬魔ミミックは、溶解して処分することもできない。それは無敵の生命体だから。


「くそったれ……! 何なんだよ、俺……俺は、ハハッ……俺の人生……ウ、ウウッ……ウ……」

「……イジック」


 ツーは、水槽に掌を当てて言った。


「イジックは、今までぼくを育ててくれた。もしも全部嘘だったとしても……ぼくには、それが本当だったんだ。真っ白だったぼくに、イジックがくれた色彩だった! この心は本物の正義だったんだ!」

「やめろ! くそったれの大馬鹿が! ふざけんじゃねえ! ナメんじゃねえぞ! 俺は最悪の魔王だ! それが俺だったんだ! 俺は! 俺は……!」


 魔王は、震える声で詞術しじゅつを唱えた。

 ガラスの水槽から、保存液が溢れて地面を浸した。彼の全てが今台無しになった。

 その表情をツーに見せたくはなかった。


「勝手に……消えろ! バァ――カ!」


 空気の感触を初めて全身に浴びて、裸足で大地に降り立つ。

 イジックの替えのジャケットを一枚羽織って、そして歩んだ。


 信じられないほどに、体が軽かった。


「……ありがとう」


 心の底から嫌っていたはずなのに、笑顔とともに涙が流れた。

 この最悪の魔王と、誰よりも長く過ごしてきたから。


「ありがとう。お父さん!」


 長い三つ編みが尾のように靡いて、そして消えた。

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