第四試合 その2
第四試合開始の前日。その日まで、世界詞のキアは耐えていることができた。
学校から戻って、左目が眼帯に覆われたエレアの姿を見る、その時まで。
「……エレア?」
「……。どうしたの、キア。学校で何かあった?」
「どうしたのじゃ、ないよ……」
ジヴラートがエレアを殴り、蹴り飛ばすところを何度も見ていた。
もっとひどい事をしているのであろうと、薄々気付いてもいた。
……けれど、目は? どうなっているのか。取り返しのつかない傷ではないのか?
「治るのよね?
「……」
「……っ、なんとか言いなさいよ!」
エレアを押しのけて、室内へと踏み入っていく。
どうして。何の意味があるのだろう? 大人になれば分かる理由なのだろうか?
怒っていた。イータの子供たちは、皆あの空色の瞳が好きだった。
ジヴラートが足蹴にする彼女は、大切なたった一人の先生だった。
たとえ彼女の故郷を救う唯一の道を分かっていても、許せなかった。
「――ジヴラートッ!」
「んだよ……あァ? キアか。キンキンうるせーんだよなぁ、声が」
ジヴラートは上半身裸で、長椅子にだらしなく寝転がっていた。
明日には絶対なるロスクレイと対戦するというのに。キアの故郷を背負っているというのに……大切なエレアを傷つけているというのに。
何も省みていない。何も真面目ではない。
この男は――
「あなたは……何がしたいの!? どうしてエレアを虐めるの!? 勇者を決めるための戦いに、どうしてあんたみたいな奴がいるの!?」
「クハッ……ガキだな」
寝そべったままで、ジヴラートは嘲笑った。
「いい仕事だからに決まってんだろ」
「仕事、って……」
「そうだそうだ、キアには教えてやるよ。もう試合前日だから、替わりなんていないもんな? 俺はなぁ――ロスクレイに負ける約束をしてるんだよ。分かるか?」
「……っ」
唇を噛みしめるキアを前にして、心底楽しそうに言葉を続ける。
「八百長で、金がもらえるんだ。ハハハ! すッげえ話だよ……身寄りもねえ“日の大樹”の連中が有名になって、認められてさ。俺なんかが……ちっぽけな下層育ちのこの俺が、勇者候補ってだけでよ! 育ちのいい貴族の女が、なんにも逆らえねえんだ! ハハッ、こんな面白いことがあるか!? なあ、キア!? お前なら分かるよな!? 何もねえ田舎で育って、中央までのし上がったお前ならさ!」
「……殺してやる」
初めて、そんな言葉を口にした気がした。
イータ樹海道ではどうだっただろうか。「殺す」と、「死ね」と、他の誰かに言ったことがあっただろうか。
キアが世界に語りかけるならば、そんな言葉すらも全て真実になるのだ。
「おいおいおい、勘弁しろよ? 俺は子供には優し」
「違うわ」
「……」
「あなたは、あたしを殴らなかったわね。いつも、エレアばかり」
キアは一歩を歩んだ。ニヤニヤと笑うジヴラートの表情が、僅かに綻びを見せた。
もう一歩、キアは偽りの英雄へと詰め寄った。
「ジヴラート。あなたは。子供が、怖いのよ」
「……ッんだと……」
「子供は素直だから好きですって? 違うわ。あたしは全然素直じゃないもの。いつでも同じ言い訳で、子供から逃げてきたんでしょう!」
「ナメんじゃねえぞ、クソガキ……!」
言葉とは裏腹に、ジヴラートは一歩を後ずさっていた。キアの存在が彼を立ち上がらせて、玄関の側へと追い詰めていた。
――弱い。
この男は子供より弱い。戦士としてすら烏滸がましい、矮小な
「怖くないなら、あたしを斬りなさいよ。その剣があるんでしょう。エレアを……エレア先生を殴った、拳があるんでしょう!」
「どうでもいい。ガキ……ガ、ガキが。ブッ殺してやる。ふざけやがって……! 俺を侮辱するんじゃねえ。逃げてねえ、俺は子供じゃねえ! 俺、俺は俺の力で……ナメんじゃねえぞォッ!」
ジヴラートは剣を振りかざした。その踏み込みも気迫も、殺意すらも、キアの僅かな一言に比べればあまりに遅い。
今なら殺すことができると思った。死に方も決めていた。弾けて。
「……【弾け」
「【――
けれどもう一つの囁きは、それよりも早く終わっていた。
男は屈辱と憤怒の形相のままに崩れて、キアの方向へとうつ伏せに倒れた。
エレアが彼の背に掌を当てて、
それで終わった。
ジヴラートは動かない。半開きの口からは血液がだらしなく溢れた。
その赤色で、床が濡れていくのが分かった。
「エレア」
行き場を失って呆けた感情のままで、キアは虚ろに呟く。
――
「……大丈夫。昼に飲んだお酒を、毒に変えたの」
「エレアが、やったの?」
「……」
酒の種類が分かっていれば、胃袋の位置を正確に定めれば……戦士を相手にその隙さえあれば、極めた
一人の死と引き替えにするには、あまりにも間の抜けた授業内容だった。
エレアは困ったように笑って、キアを優しく抱きしめた。
柔らかくて温かな体がキアを包んだ。
優しくて美しい、ただ一人の先生。
「キア……」
「先生、あたし……! ごめん、なさい……」
「キア……イータを、守りたいですか?」
「うん……!」
「ねえ、キア。私こそ、ごめんなさいね。先生は……信じてますから。キアが強い子だって。きっと、誰にも勝てる子だって」
「……っ、うん……! あたし……あたしは、無敵だもん……!」
その手が頭を撫でる。大事なエレアに罪を犯させてしまった。故郷を救う手立てを失ってしまった。……人が、死んでしまった。
キアの道は、もう一つしかなかった。
強く抱きしめたままで、エレアは叫んだ。
「あなたが出るのよ、キア! ……あなたが、私の勇者になって!」
――――――――――――――――――――――――――――――
「……ロスクレイ! 待ってください、ロスクレイ!」
「ヤニーギズ?」
彼は息を切らしており、その事態の危急を雄弁に語っていた。
「し、信じられませんよォ……! 対戦相手が……
「……なんだって」
ロスクレイは当惑した。何故、そんなことが。
エレアの動向は――特に代理出場者となり得る何者かに接触し得たかどうかは、それこそ試合の前日まで一切手を抜かずに監視し続けていた。そんな状況下でなお、自らの候補者を始末する理由などあり得るのか。不測の事態に殺すしかなかったのか。あるいは本物の事故死だとでもいうのか。
「ならばこの試合は不戦勝に終わる……という話でもなさそうだね」
「ええその通りです! 代理選手を立て終えています……敵は
世界詞のキア。エレアの周辺調査の中で、何度かその名を見ていた。
彼女がイータ樹海道より連れ帰り、教育を施している
少し調べれば分かる情報だけで、警戒に値する人材でないと確定している。
(……どういう意図だ? この状況下で、もう試合の中止はできない。赤い
ヤニーギズを見る。彼の息は荒い。同じように混乱しているのだ。
彼も判断を待っている。人工英雄の主脳である、ロスクレイの判断を。
(考えろ。考えろ。考えろ。普通ではない事が起こっている以上、最悪を想定しろ。世界詞のキア。ただの少女。魔法のツーも、外見はただの少女だ。フリンスダと違い、エレアはその切り札を隠していたとすれば。
凄まじい速度で思考が巡る。仮に敵が詞術士だとして、敵の攻撃手段を封じ、自身の先手を確実に当て、そして試合開始が目前に迫ったこの短時間で可能な手立ては、何か一つでもあるのか。
彼の背中には、敗死が差し迫っている。
絶対なるロスクレイ。彼の戦いは常にその極限の繰り返しであった。
「――散水だ。ヤニーギズ、試合開始の特別の演出として水を撒くことはできるか」
「難しいことを……! ギリギリでしょうねェ! 大道芸人の何人かをすぐさま動かして、紙吹雪と一緒に散水! ええ、できますとも! そして、どうします!」
「この敵を詞術士と仮定する! 会場が事前に決定している以上、焦点に用いるものは土か風! その二つの属性にこの場にない水を混ぜて、泥と霧へと変じさせる……! それで
「ロスクレイ! 相手は……ヒ、子供ですよ!?」
「計算の内かもしれない。私が……英雄が、その姿形にためらうことすら! 殺さぬよう――いや、殺しているように見えないようにする! やれるか!」
「すぐに! ……お気をつけて、ロスクレイ!」
ロスクレイは、切迫した覚悟とともに進み出る。彼も後には退けなかった。
会場は戸惑っている。
白みを帯びた金の髪。少し吊り気味の、湖のように透き通った碧眼。
それでも、恐ろしかった。
ロスクレイにとっては……ただの少女が、彼の戦略上に忽然と現れたあり得ざる異物が、何よりも恐ろしかった。
「……。あなたが、ロスクレイ?」
「……」
「かっこいいわね」
少女はロスクレイを見上げて、無愛想に呟く。
未知への恐れを必死に隠して、ロスクレイは微笑んだ。
「ありがとう。お手柔らかに」
衣服の他に、
あからさまにその装備があったならば、ヤニーギズの報告の時点で知れている。
詞術士であるとすれば、やはり土か風の属性。
互いに距離を取るようミーカが命じ、ロスクレイはその距離を脳裏で測った。
一歩。二歩。二歩で剣の間合い。それは近いのか。あるいは遠すぎる距離なのか。
「楽隊の砲火とともに……はじめ!」
楽隊の砲身が天へと向く。その背後、大道芸人がシャワーのように水を撒く。
降り注いだ人工の雨とともに、劇庭園の地面が湿り……
(……駄目だ! 十分に水を含んでは……!)
運動場にも使われる劇庭園の地面は、水捌けのよい砂が敷き詰められている。
それはロスクレイの予想以上に心もとない。彼の経験を以てしても、この放水の程度とその結果としての地質状態の完全な予測はできなかった。
土の
到達までを三歩に修正する。しかし天を駆けるように跳ねて、空中よりの奇襲を。
隠し持ったラヂオに向け、指示の念を押す。
「ヴィガ! 開始と同時に最大の
〈分かってる。楽隊の砲声もこっちで遅らせている。お前の合図でやれるぜ〉
地に足をつけて斬り倒す必要はない。キアは既に十分な水分を浴びており、一方でロスクレイは絶縁の篭手で防護している。ヴィガが遠隔より、剣を焦点に電流の術で援護を行う。幾度も窮地に合わせてきたその精度は、何よりも信頼が置ける。
空中より剣を当てた一瞬に大電流を流し、一撃で失神――あるいは即死させる。
巧緻極まる峰打ちで傷つけずに意識を刈り取ったと、民には見える。
運び出される少女の生死の一部始終を確認できる者はその中にはいない。
(……すまない)
全てはロスクレイの杞憂に過ぎないのかもしれない。
罪のない少女であるかもしれない。少なくともまだ幼く、未来がある。
それを無慈悲に絶とうとしているのは、ロスクレイの怯懦と英雄の重責だ。
民の目さえなかったならば、イスカを救った時と同じように彼女を救えただろう。
それができない。そのような慈悲をかけて勝利できるほどに強くはない。
絶対なるロスクレイは、絶対なる勝利を義務付けられている。
絶対なるロスクレイ、対、世界詞のキア。
(すまない! 君を……討つ!)
微動の仕草で合図を下すと、砲火が鳴った。
その時には既に重心の移動を完了させており、ロスクレイは全霊で駆けた。
一歩。二歩を踏み出
「【埋めて】」
闇がロスクレイの視界を覆った。大地が獰猛に隆起してロスクレイを呑み込み、そして無慈悲に埋め尽くしていた。
客席の歓声は水を打ったように消えた。
状況から敵が詞術士であると読み当てた。
無意味だった。
絶対の英雄たる第二将の姿はなく、そこには沈黙する土の山だけが屹立していた。
世界詞のキアの
「これで終わりなの?」
周囲からは、遅れて悲鳴の重奏が上がった。
傍若無人にそれを受け流して、キアは英雄の成れの果てから踵を返す。
それは誰も知らぬ、机上理論ですら想定不可能の、圧倒的に無敵の存在だった。
どれだけ先を見据え、緻密な計画を積み上げようと――
「じゃ、あたしの勝ちね」
一手の判断を誤るだけで。
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