第四試合 その1

 灰境かいきょうジヴラート。元はヤタガ炭鉱都市にて愚連隊紛いの活動から成り上がった、ギルド“日の大樹”の長。“本物の魔王”の時代の只中で勢力を独自に拡大し、幾許かの悶着を伴って、ついに黄都こうと入りを果たした経緯を持つ。

 今の彼らは慈善活動や盛り場の用心棒業等を生業にしているとされるものの、その性質は根本的に暴力集団であって、現在の知名度も半分は悪名によるところが高い。


 黄都こうとで名が知れているという点では、六合上覧りくごうじょうらんの他の候補者に劣るものではない。だが、実力に関して言えば――星馳せアルス。地平咆メレ。冬のルクノカ。そして“黒曜の瞳”の構成員や絶対なるロスクレイと比べてすら、明確に下回っている。

 蒙昧の民を欺くのみの目的であれば、ロスクレイの初戦の対戦相手としては、何よりも好都合の候補者であった。


 ……よって、ジヴラートが危険視される理由は彼自身の力にはない。

 その背後に立つ者にある。


「……第十七卿。赤い紙箋しせんのエレア」


 卓を囲む影の一つ。暗い色眼鏡で視線を隠した黒い肌の男の名は、黄都こうと第二十八卿、整列のアンテルという。

 町並みに紛れた市民公会堂。六合上覧りくごうじょうらんを小二ヶ月先に控え、対戦組み合わせを決定すべく集ったロスクレイ陣営の会議の最中である。


「問題は彼女が信頼に値するかどうかとなるな。第十三卿や第二十七将にも劣らぬ陰謀屋。可能であれば対戦表では遠ざけておきたい一人だが……」

「ま! 擁立者に味方を作れるのがこっちの利点ですからねェー……候補者の強さよりは、擁立者の方が重要でしょう。しかし……ヒ、他に適当な候補もいませんしね」


 答えたのは黄都こうと第九将、たがねのヤニーギズ。針金じみた体躯の、乱杭歯の男だ。

 彼らを始めとして、絶対なるロスクレイは、勇者候補の擁立者を含む二十九官の複数名を既に自陣営へと引き入れている。


「……“地平咆”にカヨンがついていなければな。擁立者があの男の他であったなら、試合開始の位置を至近距離に定めて、勝ちを得られただろう……」

「またまたァ、エキレージ先生。地平咆メレはそんな生易しい英雄じゃあありませんよォ? ……それに相手の本領を封じても、そのことが民の目にも明らかじゃア、うまくない。あれを避けたのは、私は妥当な判断だと思いますけどね」

「ロスクレイ。第三候補以降は検討済みか? 残る中では……無尽無流のサイアノプ。移り気なオゾネズマ。奈落の巣網のゼルジルガ」


 会議の主……黄都こうと第二将は、列席者を眺め渡して口を開く。


「まず、ゼルジルガは避けたいと考えています。エヌ卿は野心で動く者ではありませんが、エレア卿以上に策を読みにくい。厄介な相手です。そこまでを根回しする時間的猶予がない。……さらにたとえ壊滅済みとて、“黒曜の瞳”の脅威は“日の大樹”とは比べ物になりません。サイアノプに関しては、彼岸のネフトの撃破報告の信憑性がある程度高いことが難点となります。できれば同じ組に加えるに留めたい。オゾネズマは、第三候補として辛うじて――ですが正体が一切不明である以上、初戦で当たるのは危険な賭けになります。避けたい点に変わりはありません」

「フ……その様子だと、随分と仔細に渡って検討しているようだな。全員分か」

「無論です。そうでなければ、私などは勝ち進めはしませんから」


 ロスクレイは涼しい顔で答えるが、この英雄がその実どれだけ労苦に足掻き、怪物に追いつくべく思考を重ねているかを知らぬ者は、この場にはいない。


 どれだけ先を見据え、緻密な計画を積み上げようと、どこかで一手の判断を誤るだけで、全てが容易く崩れ落ちる。

 定められた敗北の摂理を如何にして捻じ曲げ、勝利の結果を引き寄せるか。どのような卑劣を尽くせば、一筋の可能性が生まれるのか。試合の始まる以前のこの段階だけが、絶対なるロスクレイに左右できる唯一の戦場だ。

 

「……ッとなると、やっぱりジヴラートしか残ってないってわけですかァ」

「こちらでも第十七卿の動向は調査してある。取り立ててジヴラートの周辺で策を仕込んでいる様子はない。他の二十九官を派閥に取り込んでいる様子も見えない」

「……つまり、彼女一人」


 ロスクレイは思考する。エレアが辣腕の野心家であることを、彼も理解している。

 彼女の立場で考えるなら、どうだろうか。並み居る強者を前にあのジヴラートを勝利に導く策が何かあったとして、それを優勝に至るまで継続できるものだろうか?

 何よりも彼の組に入る者は、星馳せアルスと冬のルクノカだ。それは既定路線として定まっている。


 ……ロスクレイなら、勝てない。少なくともジヴラートでは、そうはできない。

 ならば残る可能性は一つだ。


「代わりの候補を用意しているという線は?」


 不測の事態で出場者が試合前に脱落した場合、擁立者は代替の出場者を選出できる。無論、地平全土より集った十六名に比肩し得る実力の者は、容易に見つけ出せるものではないが……


「それも含めて、兆候はない。イータ樹海道より帰還して以降、第十七卿はジヴラートや“日の大樹”の者たちの世話にかかりきりだ。“日の大樹”の目を抜けて他の強者と接触することは難しかったはずだ」

「ああ。エレア様の動向については、こちらからも一つ。よろしいですか」

「……どうぞ、オノペラル教授」

「エレア様は、イータより連れ帰った森人エルフの娘に執心のようですな。セフィト様のご学友に働きかけて、その娘とセフィト様との関係を強めようとしているようですぞ。これは一つ、参考程度の材料になりませんか」

「なるほど。それはつまり……」

「……自分自身じゃあなく、自分の生徒を通じて王室に取り入る手に変えた……ッてことですかねェ」


 ならば、エレアの動きの辻褄は合う。やはり彼女は野心を捨ててはいない。

 ただしその道筋は六合上覧りくごうじょうらんの勝利ではなく、女王に取り入って傀儡と化す一手。

 故にこの試合に臨んでは、ジヴラートをロスクレイ陣営に差し出し、当面の保身を図っているか。


(……この情報が正しいとすれば、赤い紙箋しせんのエレアの戦略は、より長期の計画だ。ならば今は味方につけるべきか……)


 第十七卿は、他のどの官僚とも組んではいない。

 ジヴラートの裏に、他の強者を擁してもいない。

 そして彼女自身の野心を達するための、他の道筋を用意している。


 ……ロスクレイの理性は、問題は起こらないと判断している。戦いにおいて彼は感情を押し殺し、合理で動くことができる。しかし人間ミニアは本来、理性の動物ではない。不安を払拭するためには、あと僅かな一押しの保証がなければならない。


「――第三卿。エレア卿が信頼に値する相手であるか。あなたの意見を伺いたい」

「……」


 速き墨ジェルキ。二十九官において公然と第十七卿を敵視し、危険性を誰よりも警告し続けていた、聡明なる第三卿。

 彼が一連の話題の中で言葉を発することはなかった。自身の発言によって会議に指向性が生まれてしまうことを理解していたからだ。


「……この一度。赤い紙箋しせんのエレアを信頼しましょう」

「第三卿……」

「エキレージ様。彼女の優秀さは、誰よりも私が把握しております。出自がどうであろうと――能力ある者には、一度は機会が与えられるべきだと思う。あるいは、この六合上覧りくごうじょうらん。エレアが我々の味方として……正しき評価を受ける日が来たのならば、内に秘める野心も鎮まるしれない。ただの合理以上に、私はそれに賭けたい」

「分かりました」


 ジェルキの答えは、問いかけたロスクレイも予想だにしないものであった。

 しかしそうである以上は、彼の真実の言葉なのだろう。


「第一回戦の相手は灰境かいきょうジヴラート。第十七卿と交渉し、念を押してジヴラート本人にも独立して事前の調略を仕掛けていきます。方針は構いませんでしょうか」

「異議なし」

「異議なァし」

「異議なし」


 全員の合意を確認して、ロスクレイは会議の終了を告げる。

 ただの人間ミニアに可能な手の全ては打った。対戦組み合わせに関して、ロスクレイの意向は絶対となるはずである。

 席を立ち、ロスクレイは一人思う。一人一人が無双の強者。終局までを組み上げたこの戦略は、果たしてどこまで通用するか――。


 そして、彼の背後で会話を交わす者たちもいる。


「いやいや、アナタの賛成票は意外でしたよォ。多少は肉親の情がおありで?」

「……所詮は、卑しい妾腹の妹だ。私情と言うならば憎しみの方が大きい」


 軽薄なヤニーギズの言葉にも、ジェルキが硬質な表情を崩すことはない。

 彼は常に機械のように冷徹で、正確である。


「決断の責任は取る。必ず」


 父親を同じくする第十七卿に対しても、そのようであった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 深く刻み込まれて今も消えない、遠い昔の記憶がある。

 窓が開いて、白いカーテンが風に流れている。

 その一室ではエレアの母が、死の病に臥せっている。


 ベッドの傍らには一人の医者がいて――それだけだ。

 他には誰もいない。幼いエレアの他には、誰も。

 父が開いている晩餐会にはあれだけ沢山の人が集まるのに、あれだけ賑やかなのに、父が昔に愛したはずの母の周りには、誰もいない。

 ……今にも死んでいく、その時にすら。


「……ねえ、お母さん」


 エレアは衰えた母の手を取って、精一杯に笑った。

 その言葉が、死にゆく母にとっての真実になればいいと思ったから。


「お母さん……ねえ……お、お母さんは、幸せだったよね?」


 母は、弱い力でエレアの手を握り返した。

 厳しく躾けられた思い出しか残っていなかった。家にほとんど寄らぬ父のほうが、母よりもずっと優しかった。


 学を身につけなさい。誰もあなたを見下さないように。

 気品を身につけなさい。誰もあなたを侮らないように。

 失敗のたびにエレアは叩かれて、泣いていた。けれど、母は孤独だった。


 母が部屋に一人でいる夜には、エレアよりも悲痛に泣いていたことを知っていた。

 彼女たちは、二人ともが苦しんでいた。


「お、お父さんが家にいなくたって……! 全然平気だったよね! 昔の友達が来て、お母さんも笑ってたよね!? 料理っ……料理だって、私の作った蒸し卵を美味しいって言って……! ギミナに行った時に花の輪だって作って! 夜には本も読んでもらって! ねえ……! 私たち……! 幸せだったでしょう、お母さん!」


 魂を引き止めたいと願いながら、その願いの強さで母の手を握った。

 何か一つでも、彼女の心に幸せが残っていればいいと思った。

 孤独でも、皆に蔑まれていても、自慢の娘が支えだったと言ってもらいたかった。


「……エレア」


 小さく笑って、母はエレアの頭を撫でた。

 今、母は生きている。そう思うだけで涙がこぼれた。今は生きているのに、明日の朝日を迎えられないなんて。父はそれを知らないだなんて。

 残酷過ぎる。


「母さんは……幸せにはなれないわ」


 その笑顔が心に食い込んで、今もずっと離れない。


「……娼婦だから」


 その言葉を最後に白い風が吹き込んで、母の命をさらっていった。

 医者の告知は短く、エレアは絶望の沈黙に固まったままだった。


 彼女は一日悲しみ、そしてそれ以上に、ひどく恐れた。

 誰もいなくなった暗闇の邸宅の中で、頭を抱えて震えた。


(――


 穢れた血。顧みられぬ貴族の妾。美しさの資源を使い切ってしまった者の末路。


、娼婦の娘だ! 幸せになれない! いやだ……! ただ一人で死んでいくなんて、皆に蔑まれて死んでしまうなんて、私は……私はいやだ! あんな風に死にたくない……!)


 母が執拗なまでにエレアを教育していたその理由を悟った。

 優しかった曾祖母を突き放して、エレアから遠ざけようとしていた理由を知った。

 強迫観念に突き動かされるように、彼女は必死で努力を重ねた。


 学を身につけなさい。誰もあなたを見下さないように。

 気品を身につけなさい。誰もあなたを侮らないように。


(私……私は、大婆ちゃんとは違う! 母さんとは違う! 私一人でも、ずっと偉くなるんだ……! き、貴族に……本物の、貴族に……!)


 蝋燭の光に食らいつきながら、文字の勉強を重ねた。

 そうして学んだ文字でいくつもの文献を漁って、同級の誰よりも優れた成績であるようにした。

 その過程で目をひどく悪くしたが、それでも続けた。


 歴史学を。地理学を。物理学を。詞術しじゅつを。そして政治学を。常に一番になれるほどの天才ではない。けれど誰もエレアを見下さないように。一家を見捨てた父からの屈辱的な援助を得て、学校に通い続けた。


「ねえ、エレアさん? 父から聞いたのですけれど。あなたのお母様って、水路市街の商売女だったんですって?」

「ええっ、そう……なの? エレア……」

「……」

「ふふっ、面白いと思わない? こんなに可愛らしい優等生なのに、娼婦の腹から出てきているんですもの。人って不思議よね」


 ――幸運だったと思う。

 その夕方に書架の掃除をしていた者は、エレアを含めた三人だけだった。

 エレアは掃除の終わる間際に、その話を語った一人の鞄の中に仕込んだ。空気に触れて発熱する薬物だった。夜の内に彼女の邸宅は火災にあって、幼い二人の兄弟と一緒に、家族ごと焼け死んだ。

 彼女の父親を殺す手間が省けたことは、とても幸運だと思った。


 残る一人はエレアの親友だったが、次の日に魔王軍に襲われて重傷を負った。

 無残に顔を潰されて、別の市で療養することになるだろうと教師からは聞いた。


(まだ足りない! 彼女たちだけじゃない、皆が私を蹴落とそうとしている! もっと高い地位に……もう、こんな怖い思いはしたくない……! どこまで……ど……どこまで私は、努力すれば……!)


 それがエレアの青春だった。道徳の授業で習う誠実や友情などは全て上っ面の約束事で、同級も教師も、彼女の命と誇りを奪いにかかる敵だと考えていた。


 どれだけ先を見据え、緻密な計画を積み上げようと、どこかで一手の判断を誤るだけで、全てが容易く崩れ落ちる。

 地平を侵食する“本物の魔王”などよりも、彼女にとってはその恐怖が。

 だから、卒業するその日まで常に優秀でいられた。知略も美貌も、ありとあらゆる醜い手段を尽くして。完璧で美しく、誰にも侮られない――本物の貴族へと。


 いつかの日を覚えている。暖炉の光が部屋を照らす。安楽椅子に座る第十七卿。

 その背に向かって、エレアは語りかけている。


「――第十七卿」


 ついに彼女は、黄都こうと二十九官付の秘書にまで上り詰めていた。

 けれど、まだ足りない。二十九官は皆、エレアの生まれを知っている。

 兄のジェルキがいる。きっと誰もが彼女を敵視していて、蹴落とそうとしている。

 どこまで進み続ければ、この血の穢れから逃れることができるだろう。


 もっと……もっと偉くならなければ。

 醜いものを全て覆い隠してしまえるほどの美しさと光を。

 母さんとは違う。大婆ちゃんとは違う。私たちは、もう貴族なのだから。

 誰もあなたを見下さないように。誰もあなたを侮らないように。


「二十九官の席を譲ってくださいませんか?」


 暗闇の先にこそ、きっと光が――

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