黄都 その10

「敵はいつも目の正面にいてくれるわけじゃない。視界の端でも注意を払うんだ」

「うん!」

「慣れないうちは腕とか目線とかじゃなくて、全体の輪郭で捉える。動き出しの時には必ず輪郭の形が変わるから、その後にどんな動きが来るか、経験で掴むんだ」

「うん!」

「……本当に分かったよな? こっちじゃなくて、あの木の方向をよく見てろよ」

「うんーっ!」


 バチン、と空気が割れる。

 夕暮れの空を裂く稲妻のように、リッケの矢は火薬を用いた銃弾よりも速い。

 ツーは腰で仰け反って避けた。


「やった!」

「違う違う! 違うって! やっぱり分かってないだろ! 今のは見てから避けたやつだよな!? それじゃ駄目なの!」

「何が違うんだよ! 避けてるじゃん!」

「あのね。予兆で避けるのと見てから避けるのとじゃ、ぜんぜん違うんだって。避けられない攻撃も避けなきゃいけないんだ。身を躱す時間に余裕がないと、次の動作にも移りにくくなる。だから防御にも攻撃にも、予兆で避けるのが大切なんだ」

「でも、ぼくは当たっても大丈夫だし……」

「もう……! そういう心構えが一番駄目なんだってば」


 厄運のリッケは半日の訓練の徒労を思い、額を抑えて天を仰いだ。

 無論、リッケは彼女の自信の源を承知している。魔法のツーは無敵だ。彼女を打倒し得る手段が、この地上に存在するとは思えない。


 それでも――絶対なるロスクレイ。星馳せアルス。黒い音色のカヅキ。冬のルクノカ。この地上に君臨する無双の英雄の数々を思えば、リッケの想像も及ばぬ万物必殺の一手がどこにも存在しないと言い切ることはできないはずだ。

 六合上覧りくごうじょうらんまで、残すは小二ヶ月。魔法のツーが何者と当たるかは、まだ運の采配に委ねられている。


 ……ならばせめて、並の戦士の技術を。

 彼女が身体能力の極限のみでリッケの矢を回避し得る域にあるとすれば、そこに尋常の技を乗せるだけで、正しく天下最強を名乗って劣らぬ存在となるであろう。


「……ツー。勝ちたいか?」

「うん」

「なら、考えなきゃだめだ。ツーの他の奴らは、皆必死で考えてる。見て、動いて、全部の力で戦ってる。命がかかってるからだ。考えてないのは、ツーだけだ」

「……わかってる。でも、本当にできるのかな……? ……生まれつき頭がよくないと、英雄になれないかな。ぼくは、やっぱり……リッケやクラフニルみたいには、なれないような気がする……」

「練習あるのみだ。反省は明日活かせ。今日はもう日が暮れる」

「……ぼく、まだやれるよ」

「俺が疲れてるんだ」


 リッケは苦笑した。無限の体力を持つツーに合わせて稽古をつけることは、何よりもリッケ自身の稽古になってしまっている。

 ここから先の小二ヶ月の間で、ツーはどれだけ伸びるだろうか。


(……もしかしたら、変わらないのかもな)


 最近ではそうも思っている。諦観のようでいて、ある種異なる感慨として。

 精神も肉体も変わらずあることは、ツーにしか持ち得ぬ強さなのかもしれなかった。


「じゃあ、また明日ね。リッケ」

「ああ。フリンスダ様によろしく言っておいてくれ」


――――――――――――――――――――――――――――――


 夜。黒檀製の馬車が巨大な鉄門を潜る。高級住宅地である黄都こうとの山手にあって、この邸宅は一際大きい。

 馬車を降りた婦人も屋敷の構えに劣ることなく、歌劇の歌手めいて大きな横幅だ。

 指先の装飾の一つに至るまで丁寧に計算された出で立ちは、むしろ肥満体であることで優美な印象を与える。


 黄都こうと第七卿、先触れのフリンスダという。

 医療部門を統括する長でありながら、自身にも周囲にも財を惜しまぬ、黄都こうとでも有数の資産家であった。


「あーらあら、まあ!」


 その彼女が広大な庭を眺め渡して発したのは、驚きの一声である。

 花の色ごとに列を成して邸宅を取り巻いていた花壇が、無残に破壊されている。生垣の一つが中ほどで丸ごと切り倒されており、その隣の生垣にも引き裂いたような斬撃痕があった。

 その下にはねじ折れた刈込鉈がうら寂しく転がっており、この光景を作り出すに至った凶器は明らかであろう。


「ツーちゃん!」


 玄関前で膝を抱えてうなだれる少女をも発見した。ひどく落ち込んでいるようで、栗色の三つ編みすら萎びているように見えた。


「フリンスダ……ごめん……。ぼく……手伝いたくて……庭師さん、今日はお休みだって聞いたから…………」

「まあ! 庭のお手入れをしてくれたの?」

「毎日見てたのに……同じようにやったのに……」

「ツーちゃん……いつもいつも言ってるけれど、あなたってば」


 大きな体がツーを抱きしめ、頭をわしわしと撫でた。


「もぉぉ~ッ! 本当に良い子なのねェ~ッ! ホホホホホホ! よーしよしよし! 何も言われないでお手伝いしようなんて、とてもいい心がけよ! それだけで十分っ! お片づけに構うことなんてないから、早くお風呂に入りなさい。お夕食も用意させますからね。あたしの素敵なツーちゃん!」

「う、うん……! うん!」


 フリンスダは、元は真理の蓋のクラフニルの擁立者である。ツーはその本来の枠を横から貰い受けたに過ぎない。

 しかしこの第七卿は己の財を愛するのと同じく、財を生む勇者候補者を愛した。


 故にツーは、本来クラフニルが受けていたような援助を惜しみなく受けている。

 たとえばツーがこの邸宅に訪れてからは、専属の調合師が炊事場に立っている。

 この浴場も家中の者が使うものとは別で、ツーが訪れてから増築されたものだ。


 慣れぬ庭仕事の汚れを洗い落とすべく脱衣し、いつも通りに三重構造の扉を閉めて、ツーは一つ目の浴槽を見る。


「今日は水色のお風呂だ……」


 均整の取れた少女の裸体を、夜の外気よりも僅かに寒い気温が撫でる。しかし寒暖の感覚が彼女に苦痛をもたらすことはなく、事実それで傷つくこともない。

 白い素足が階段を下り、脚は波紋を残して水中に沈んでいく。フリンスダからはいつも、肩まで入るよう言われている。

 ややあって、浴場の外から声がかかった。


「ツーちゃん! もう入ったの?」

「うん。今日のお風呂はなーに?」

「青酸よ」


 ――僅かな青みを帯びた液体は、左葉草の根より抽出したシアン化合物である。

 気化成分のみで虫獣を容易に殺傷する猛毒の中にあって、魔法のツーの肌は傷一つなく、水を弾く美しさを保ったままだ。


「青酸でも平気だなんて、やっぱりツーちゃんは凄いわねェ~。とーっても素敵! 本当に強くて良い子だって、あたしから議会にしっかり伝えておくわねェ」

「え、えへへ……そうかな……! 別に、こんなの生まれつき平気なだけだし……」


 ツーは照れて、口までを湯船に沈めた。致死の液面にぶくぶくと泡が浮かぶ。


 ……増設されたこの浴場は、あのクラフニルすらを下した新たな勇者候補の能力限界を測るための実験室に他ならない。ツーのために雇われた調合師も、同様にして彼女を日夜試験している。

 熱湯。水銀。各種劇物。ありとあらゆる種別の攻撃への耐性をフリンスダは記録し、本来得体の知れぬ候補者の客観的な強さの証明を更新し続けている。


 目的は一つだ。彼女は己の財を愛するのと同じく、財を生む勇者候補者を愛する。


「上がったら、新しいスープも用意してるわ! カイディヘイから取り寄せたの!」

「わかった! でも、もうちょっとお風呂に入ってるね」


 魔法のツーは何事もなく死の湯水を出て、扉を一つ隔てた二つ目の浴槽へと向かった。こちらは毒物を洗い流すための、通常の湯である。

 寒暖や刺激を感じとることができても、ツーはそれに伴うべき強い苦痛を覚えることはない。その感覚が遮断されている。

 それでも、いつも一番目の風呂よりは二番目の風呂のほうが彼女は好きだった。


「えへへー……あったかい」


 清浄の湯に体を沈める。浴槽の縁に頬を乗せて、幸せに目を閉じる。


 黄都こうとは素晴らしい街だ。彼女の生まれ育った地に蔓延していた、恐怖や暗闇はない。温かく、美味しく、楽しいものに溢れている。何よりも、たくさんの人がいる。フリンスダがいて、リッケやクラフニルもいる。

 ……そして。いつかあの時出会った少女に。


「お風呂、好きだな」


 彼女には幸福を受容する能力がある。

 どのような境遇にあろうと、いつでも世界の善なるものが見える。


――――――――――――――――――――――――――――――


 取り立てて注意を払われぬ、黄都こうとに数多くある市民公会堂の、さらに一室である。

 その日会議室の利用者は七名であったが、彼らの名が名簿に記録される事もない。

 それでも絶対なるロスクレイは几帳面に室内を清掃し、燭台には真新しい蝋燭を立てて、現れる者たちを迎えていた。


「おや。これは私が最後ですかな」

「ええ、第十一卿。すぐに始められますが、老体に汽車の揺れは堪えたでしょう。少し休憩を挟んだほうがよろしいですか?」

「いやいやぁ……お気になさらず。遅れてしまったのは私が悪い。始めてしまってください。第二将殿」


 穏和な印象を与える老人の名は、黄都こうと第十一卿、暮鐘のノフトク。

 “教団”管轄を担う彼は、六合上覧りくごうじょうらんにあって通りのクゼの擁立者でもあった。

 席の空きへと腰を落ち着け、残る面々を見渡す。対戦の開始までは小二ヶ月。絶対なるロスクレイは、この時点で既に十分な根回しを完了している。


「では、単刀直入に。そろそろ対戦表を決定せねばならない頃合ですな。猶予はあまり残っておりませんぞ」


 最初に口を開いた男は、イズノック王立高等学舎工術こうじゅつ専攻一級教師、骨のつがいのオノペラル。


「……今のところ。一番の問題はダントの野郎ですかねェ……。一向にこちらの調略に乗る気配がありませんから。これはもう、別の組に分ける他ない……あるいは、ヒ、やってしまうか」


 そして黄都こうと第九将、たがねのヤニーギズ。


「駄目だ。“荒野の轍”は女王陛下のお気に入りなんだろ? 見方を変えれば、第二十四将がオカフの軍勢を抑えているとも見れる。ダントが奴らを引き入れた時点で、我々にも全面戦争の道はなくなったのだ。如何に有利な条件でオカフを解体し、黄都こうとに取り込むか。それが今後の道だ」


 黄都こうと第二十八卿、整列のアンテル。


「……どの道、あちらの組にはケイテやカヨンも置かれるのだろう。こちらの組のようには、対戦表に大きな干渉もできまい……」


 黄都こうと医療顧問王室主治補佐、血泉のエキレージ。


「あちらの組に振り分けるかどうか、というなら」


 黄都こうと第三卿、速き墨ジェルキ。

 常のように鋭利なその視線を、ノフトクへと向けた。


「“教団”の推薦枠をこちら側の組に入れるべきか否か。第一回戦に関わることですから、それをこの日に決定しておきたいところです」

「そうですなぁ……まぁ、私の見立てで言えば……ですが」


 近年の黄都こうとは、従来行っていたような“教団”への支援を硬直している。

 それは持ち得る権限も少なく、度々手続きを遅滞する、このノフトクの無能故である――と“教団”の中には見る者もいるだろう。


「――第二将とクゼを当てるべきではありませんな」


 無論、そのように見せている。

 勇者の擁立者である彼が、その実“教団”が送り込むであろう最強の候補を監視する者であると想像できる者は、極めて少ない。

 “教団”管轄ではなかったかつての頃より……暮鐘のノフトクは送り込まれたその組織へと聞こえぬ暮鐘を鳴らす、懈怠による破壊工作員だ。


「通りのクゼの関わった過去の戦闘の調査が、まぁ……おおよそ終わりまして。一言で言ってしまえば、不気味ですなぁ。彼の周囲で起こる“死”には原因がない……」

「適当なならず者を雇って直接確かめるべきではないか? 奴自身には大した技量もないのだろう」

「はぁ。既に行いました」


 アンテルの発言を受けて、ノフトクは何枚かの写真を卓の上へと並べる。

 浮浪者めいた男たちの死体が写って、そこには例外なく短刀の刺傷が刻まれている。肩。腹部。脚。


「……このように。まぁ……腹部の一人以外、致命の位置ではないようで」

「にも関わらず……その傷の一撃で殺されている、と」

「今一度。私の見立てを申し上げますと……クゼの力は極めて不気味です。第一回戦では、むしろもっとも避けるべき相手でしょう……。第二将の初戦に当てることはできません、というご報告でした」


 ――通りのクゼ。

 戦力という意味では明らかに劣等の“教団”の候補者こそが、ロスクレイの第一回戦の相手としては相応しいと目されていた。

 ロスクレイに敗北は許されない。そして彼は特別な能力を持たぬ、ただの人間ミニアに過ぎない。

 僅かでも“事故死”の可能性を孕むどのような相手とも、当たることはできない。


 渦中の男は端正な顔立ちを崩さぬまま思案し、脳裏の戦略を修正していく。


「……分かりました。ありがとう、ノフトク卿。しかし有益な情報です。クゼは別の用途の駒として使うとしましょう」

「はぁ……すると、どのように」

「魔法のツーを試します」


 目配せをすると、机の向かいのジェルキが分厚い書類の束を鞄の内より取り出す。

 ……これが大一ヶ月分。個人の身で膨大な文字記録を残させるだけの力の余裕が、これを記した者にはあるということになる。

 ロスクレイは言葉を続けた。


「フリンスダ卿がこちらに寄越してきた……魔法のツーの実験記録です。疑いのない検証と記録と共に、ツーの戦力の程が詳細に記されています。彼女らしい正確さだ」

「それでツーを戦力として高く売り込もうってわけですかァ……いいんじゃないですかねェ。金で動く相手なら、これ以上分かりやすい手駒なんてないでしょう」

「それは違う、ヤニーギズ。平時に金で動く相手だからこそ、そうでない相手よりも警戒と調査を徹底しないといけない。わけだからね。フリンスダ卿を容易に内に引き入れるわけにはいかない。早期に敗退してもらった方が憂いのない相手と見た」

「なるほど? しかしその記録を見る限り、魔法のツーは確かに無敵です。ヒ、溶鋼を浴びせても死なないと来ました。容易く殺せる相手でもないっ、と……」

「――そう。だから通りのクゼを使う」


 ありとあらゆる手段に対して不死身であるとされる、魔法のツー。

 ならば、因果不明の手段で敵対者を必殺する通りのクゼであれば。

 両者の試合が組まれている限り、必然的にこの二名を殺し合わせることが可能だ。


 他の出席者を見回して、ロスクレイは言った。


「私とは別の組で、この両者の試合を仕組みます。魔法のツーがこの試合を生還すれば、彼女の戦力は本物と見ていいでしょう。そのように事が運んだならば、その時こそあらゆる手段を尽くし、徹底的にフリンスダ卿を買収します。魔法のツーを裏で動かし、六合上覧りくごうじょうらんを制する」

「……ならば、通りのクゼが勝利した場合はどうなる」

「さあ。どうしましょうか。その先でケイテとぶつけてみるか、あるいは……すぐにも死んでもらうか」


 ロスクレイは僅かに笑う。組み合わせ次第では、脅威となり得るクゼをむしろ利用して試合を進めることができる。それもまた運営者の特権だ。

 暗殺者を用いる者は、雇い主のみであるとは限らない。


「それを踏まえて、別の問題が出てきます」


 第一回戦に当たるべき第一候補は退けられた。ならば第二の候補を。

 その候補もまた、幾許かの問題を孕んでいることに変わりはない。


「――灰境かいきょうジヴラートをどうするべきか」


 六合上覧りくごうじょうらんの開始より、小二ヶ月前。

 第一回戦第四試合は、ある意味でもっとも早く開始し、そしてある意味でもっとも早くにその結末が確定していた試合であった。


 勇者を決定する史上の大試合の組み合わせは、決して運の采配などではない。

 しかし自身が辿る運命の行き先は、絶対なるロスクレイにすら、計り知れるものではなかった。

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