黄都 その9

 第三試合の最中である。

 客席の下に入り組んだ城下劇庭園の通路の只中で、遠い鉤爪のユノは行き場を迷っていた。


(……ハーディ様がどこかに発った。どうして?)


 柳の剣のソウジロウの擁立者である。これが自らの政治生命の懸かる六合上覧りくごうじょうらんである以上は、その趨勢を見守るよりも優先して向かうべき、何らかの重大な案件があったということになる。

 その案件に、ユノは同行せずして良かったのだろうか。彼女はナガンの生まれを買われて、彼の取るに足らぬ書記の一人として身元を引き受けられている身だ。


 取るに足らぬからこそ、非常時に動けぬだけのことで解雇されるのではないか。

 そう危惧して、こうしてハーディの兵に事情を聞いて回ってみたが、この劇庭園に詳しい状況を知る者も残っていなかった。


「いいや……戻ろう」


 ハーディの行先をこうして誰も知らぬ以上は、ユノの立場で責められることもあるまい。移り気なオゾネズマとの試合が、すぐにも始まる。

 結局のところ……ユノは成り行きに生かされている。この黄都こうとにソウジロウを連れてきただけで、多少学問を学んだ程度の小娘にできることは何もなかった。

 歴戦の怪物たるソウジロウやハーディの裏で策謀を巡らせることも、他の強者を見定めることもできずにいる。心の内には強い憎悪だけが燻っていて、ユノの他の全てに追いついてくれはしない。


 ならば、ソウジロウが真実、ユノの信じた仇であるとして――

 その命潰えるところを見ることの他、きっと生きる望みはないのだろう。


「あ」


 踵を返す足が止まった。もう一つの影が、目の前の扉の内から現れたからだ。

 しかもそれは兵士でも出場者でもなく、ユノと年頃の近い娘である。


 見たことがない。

 他の何を思うよりも先に、胸を締め付けられるほど美しい少女だった。


「あの、あなたは――」


 途中で口を噤む。開いた扉の隙間からは、壁にもたれた一人の兵士が見えていた。普通ではない。意識を失っている……少なくとも。

 ハーディがこの場を離れた。その間に異質な存在がここに潜入していた。兵の目を憚っている。ならば敵だ。ハーディとソウジロウの敵。

 ユノの頭の回転は遅くはなかった。直感的に、その帰結に到達していた。


 美しい金色の瞳がユノを射竦めて、その沈黙に鼓動が跳ねた。


「そこの者、誰だ! 名を名乗れ!」


 背後からは別の声が響く。

 別の兵士が、現れた不審な娘を見咎めて近づくところだった。

 ユノは僅かに迷い――判断を下し、二度深呼吸をした。


「――遠い鉤爪のユノです! 申し訳ありません……彼女は、私の友人で。客席が埋まってしまっているので、選手通路より観戦できないものか、伺いを立てようとしていたところです。ハーディ様は今どちらに?」

「“遠い鉤爪”か。場内に部外者は立入禁止。ハーディ様も今は所用だ! 処罰を受けたくなくば、すぐにその娘を外につまみ出せ」

「……っ、恐れ入ります」

「ごめんなさい、駄目だったね。……行こう」


 華奢な手を引いて、通路を走り去っていく。

 会話の最中にさりげなく閉めた扉に、兵士が気付いた様子もなかった。


「……」


 地上への階段を登る途中。

 目を丸くして見つめる少女の視線に、ユノの心はわけもなく騒いだ。

 ユノが今のような行動に出たことに対し、少女は純粋に驚いているようであった。


「……あの」


 いくつか言葉に迷ってから、彼女は細く呟いた。


「ありがとう存じます」

「……いいの。あなた……ハーディ様かソウジロウの敵なんでしょう?」

「……」

「答えづらいならいいよ。私は、遠い鉤爪のユノ。あなたは?」

「……申し訳ございません。私、先に名乗らせてしまったのですね。“影積み”。影積みリノーレと申します」


 リノーレ。目が覚めるほど白いのに、闇に溶けるような儚さの少女だ。

 その顔が、改めて間近にある。女のユノが見ても、ため息が出るほど美しい顔。

 あるいはリュセルスよりも……


(――何を)


 顔を背けて、そんな思考を追い出す。金色の視線から逃げている。


(何を考えてるの、私……! リュセルスより綺麗な子なんていないんだから。私にとってはリュセルスが……そうよ。そうに決まってるのに……)


 そのことについて目の前のリノーレに一切の咎はなかったが、ユノにとっての彼女は、それで少しばかり不愉快な存在になった。

 だから、続く言葉の声色が僅かに低くなったことも自覚している。


「私も、ソウジロウを倒したいの」

「……そのようなご事情だったのですね。けれど先のお話では……ユノさまも、ハーディさまのご関係者なのでは」

「関係あるからこそ、憎むことだってあるでしょう?」


 実際にはソウジロウ自身の関係者であるが、そこまでを伝える義理はない。

 彼女を助けたのは、僅かな糸口のように思えたからだ。

 ユノは無力で、英雄達の戦いには一矢を報いることすらできぬ。同じく年若い娘でありながら既に行動を起こしていたリノーレに対し、何かしらの期待を抱いたのかもしれない。


「あ……」


 しかしそのリノーレは、地上に出た途端にふらふらと膝を折った。

 ユノは思わず傍らに駆け寄る。淡い花のような良い香りがした。


「……ご……ご心配、なく」

「大丈夫? ちょっと……ねえ、走っただけでそんなに疲れるものなの?」

「……日差しに、弱くて。お恥ずかしいかぎりです……」


 弱々しく微笑む。その可憐さに、浅ましくも魅了されてしまいそうな。

 絹よりも白くて、きめの細かい肌。柔らかく艶めく黒髪。

 全てが……


「外に出てるんだから、もう急がなくて大丈夫だよ。そこの露店で休もう」

「……いえっ、お構いなく……ユノさまとは初めてお会いしたばかりなのに、そこまで良くしていただくわけには……」

「気にしないで。リノーレも焙煎豆茶でいい?」


 半ば強引に彼女をテラスの椅子へと座らせて、二人分の焙煎豆茶を購入している。


(……っ、だから、違うのに!)


 一人で頭を振る。

 なんて卑しい、遠い鉤爪のユノ。何を親切ぶっているのか。そうしてリノーレに気に入られようとでもしているのか。

 ソウジロウを出し抜く手段を求めるだけなら、そんな必要などなかったのだ。


「……あの」


 飲み物に口をつけながら、リノーレは恐る恐る尋ねる。

 人との付き合いに遠慮していた、かつてのユノやリュセルスのようだった。


「ユノさまはどうして、そこまでお優しくしてくれるのでしょう。その……私……とても訝しい娘に見えているかと存じます。まして、ユノさまのお役に立てる保障もございませんのに」

「……どうしてかしらね! 綺麗だからじゃない?」


 ユノは不機嫌に言った。不機嫌でなければいけないと思った。

 まったく公平ではない。彼女が危うく、不審な存在であることに違いはないのだ。もしも、出会ったのがもっと怪しい老人だったり、恐ろしい大鬼オーガだったりしたなら、こんな風に助けて、興味を抱いたりできただろうか。

 ――そうだ。ずるい。綺麗なのが悪い。リュセルスでもないくせに。


「えっ。あの……綺麗って……」

「何か変? あの場所で何をやってたのか、答えてもらうからね」

「……え、ええ。ユノさまがお構いなければ、ここでご恩を返させてくださいませ」


 少女は、一つの文書を机上に出す。

 あの兵士を昏倒させたのは、この文書を奪うためだったのだろうか。

 しかし、文字を用いた文書だ。一介の兵が書くものではない。


「……手紙です。下の者には読み解けず、その場に本人が居ずとも交わせ、筆跡で本人の証明もできます。兵がこれを持っていた以上、あの場の重要な――ハーディさまかそれに近しい方が、兵を仲介に情報のやり取りを行っていたということかと」

「『“大脳”から“脳幹”へ。結果如何では“末端切除”の時期修正の必要有。“虫”との交渉を行い――』」

「……! 読み解けるのですか?」

「まあ……うん。これでも、一応ナガンの学生だったから。天言語なら運良く知ってるの。書いてある内容は……軍の隠語ばっかりで、結局分からないけれど」

「それを」


 リノーレが顔を近づけて、同じように文書を覗き込んだ。

 長い睫毛。金の瞳。どうしてこんなに美しい少女がいるのだろう。


「……それを、お読みいただけますか! 意味は、私が解読いたします!」

「わ……わかった。あの、少し離れててくれるかな……」

「あっ、ご、ごめんなさい……」

「いや、文字が読みにくくて……本当、それだけだったから、ごめんね……」


 何度目かのぎこちないやり取りの果てに、ユノは文書の内容を読み上げ、一方でリノーレはその意味するところを解釈していった。

 この美貌の裏のどこにそれほどの知性があるのか。ナガンで学んだユノが驚くほどの洞察の冴えであった。


「――つまり、これは」

「ええ。ユノさまが、もしも……ハーディさまに報いることを願うのなら。ユノさまが関わるには危うすぎる計画です。これを考えた者の周到さが……信じられません」


 リノーレは真剣な面持ちで、ユノの両手を握る。

 その肌の滑らかさを意識できぬほど、恐るべき情報を知らされていた。

 一矢を報いる? それどころの話ではない。


「……感謝いたします、ユノさま。このご恩は、いずれ必ず」


――――――――――――――――――――――――――――――


 夜。食後の琥珀茶と共に、リナリスは変動のヴィーゼより報告を聞いた。

 それは信じ難い状況ではあったが、リナリスが聞けば、次の一口に唇をつける間に経緯を納得することもできた。


「オカフの兵が再び黄都こうとに戻っているのですね」

「重ねて申し上げますが、断じてその兆候はなく。内の一人に気付くことができたのも、偶然のことです。関は全て我々の斥候が押さえております……まさか、関を通らず黄都こうとを出入りする手段など……!」

「いいえ。これで得心が行きました。素晴らしい計略です。きっと……ジギタ・ゾギさまは、私たち“黒曜の瞳”よりも、ずっと上手の戦術家なのでしょうね」


 リナリスは素直に敵の力を認めた。

 オカフの兵を洗脳し、内と外よりの疑心暗鬼を誘導し、勢力自壊を狙った。

 最低限の成果であろうと、事前の諜報活動を阻止することができたはずだった。


 それでもジギタ・ゾギの盤石を崩すことは叶わなかった。

 一度は撤退したはずのオカフの兵が、今や見えざる兵となって黄都こうとの内にいる。

 試合は始まっており、彼らへの対処はもはや手遅れだ。


「――奴隷です。ジギタ・ゾギさまは、兵を一度アディケ開発特区まで退かせておりましたね。程近いギミナ市ではなく。それはアディケの労働者として、敢えて兵の市民権を売却させるため……私たちに暴かれていた戸籍の洗浄が狙いだったのです」

「アディケの開拓労働者……つまり自軍の兵を、奴隷階級に」

「奴隷であれば、関を通る際の身分証明などは必要ありません。通った後ですら……それは購入した者の重要財産なのですから、市民戸籍を持つ者などよりもずっと、外からの踏み入った追跡は難しくなります。そうして私たちの“瞳”からも隠れて、これまで諜報活動を進めていた……妨害前と、なんら変わらず」

「しかし市民権の売却に値する兵への保障など。オカフには到底、不可能なのでは」

「そうなのでしょうね。けれど、ヴィーゼさま。オカフの傭兵は、そもそも魔王自称者の兵として討伐される身分だったのですよ? 黄都こうとの市民権など、彼らにとっては元よりジギタ・ゾギさまの六合上覧りくごうじょうらん参加に付随する、一時的な権利に過ぎませんから。ならばこれは、その意識の差を突いた計略です」


 恐るべき敵である。リナリスがこうして作戦の全貌を洞察できるのも、全てが終わった後だからだ。誰より明晰な知性を持っていた彼女ですら認識の檻に囚われていて、奴隷という抜け穴を意識できていなかった。

 それは人智及ばぬ策でこそなかったが、そうして思考の程度を探られているのだ。

 身分階級の先入観がある立場の……奴隷や傭兵からの視点を持たない、上流階級周辺の者であるという情報を、これで敵に与えてしまっている。


 ……ならば今のリナリスがこうして生きていられるのは、注意深く組織網の秘密を守り続けているからに過ぎぬ。互いに正体を曝けた上での謀略戦に至れば、確実に上回られ、負けるだろう。

 敵は確かに下等な小鬼ゴブリンの筈である。人間ミニアをも凌駕する繁殖と世代交代を経る小鬼ゴブリンの個体の一つには、これほどの突出者が生まれ得るものなのか。


(……秘密を守るのではない。むしろ、逆を)


 リナリスはこの小一ヶ月で得た、膨大な情報を組み上げていく。

 城下劇庭園の兵の勤務形態はどうであったか。候補者の内で、ジギタ・ゾギの陣営が利用する者がいるとすれば誰か。ジギタ・ゾギを確実に暗殺し、決して関与を疑われぬ機会はあるのか。


「お嬢様。我々の策は、どのように」

「険難の道ではございますけれど……ひとつ、考えが」


 それは賢しい手段である必要はない。

 むしろジギタ・ゾギが裏をかけぬほどに、単純なものでなければ。


 憂いを帯びた微笑みとともに、血鬼ヴァンパイアは決断を下す。


「私が赴きます」


 思考する疫病。彼女自身が動くのは、真に重要な標的を狙う、その時のみだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 その翌昼には、リナリスは劇庭園の内へと潜り込んでいた。


 試合を控えた会場警備は厳重であるが、リナリスならば容易く無力化できる。

 彼女と相対した時点で感染は完了している。まずは二分ほどの昏倒の指令を下し、目覚めた頃にはリナリスを忘れ去るよう操作するだけで良い。屍鬼ドローン化からの即座の行動指令は、母体である彼女の他にはできぬ技だ。

 その場の警備が万全であるほどに……誰もが見ていながら、誰もに見られなかった証明と共に潜入できる。斥候の姫こそが、最も強力な斥候である。


 第三試合の直前に予期せぬ事態が起こったようで、ハーディがその場を離れていたことも好都合であった。劇庭園の出入りの鍵は、リナリスが読んだ通りの一室に置かれていた。すぐさま予備の鍵をすり替え、続いて、詰めている兵の名の確認を。

 倒れた一人が撒き散らした背嚢の中身には、文書があった。リナリスが読めぬ文字である可能性は高いが、元のように戻す前に、一度確かめておかなければ。


 明かりの下で文字を読むべく部屋を出た途端に、少女と鉢合わせた。

 リナリスと同じ年頃だろう。その少女は面食らって、何かを言おうとした。


「あの、あなたは――」

(……書記)


 リナリスは冷静に見定めている。迷いを含んだ混乱は、一目で部外者の判別ができるほどに関係者と接する立場ではないためだ。年からしても、下働きであろう。中指の角質が僅かに厚い。筆記具を日常的に使っている証拠だ。ならば書記であろうと判断する。既に感染しているはずだ。問題なく昏倒の指令を下せばいい――。


「そこの者、誰だ! 名を名乗れ!」


 背後から声が響く。

 別の兵士が、不審な存在を見咎めて近づくところだった。

 リナリスはそちらにも意識を向ける。どちらにせよ兵への感染は必要となる。


「――遠い鉤爪のユノです! 申し訳ありません……彼女は、私の友人で。客席が埋まってしまっているので、選手通路より観戦できないものか、伺いを立てようとしていたところです。ハーディ様は今どちらに?」


 そこでリナリスの動きは止まった。ユノと名乗った少女の発言は、まったく突飛で、彼女の予測の外にあるものであった。


「“遠い鉤爪”か。場内に部外者は立入禁止。ハーディ様も今は所用だ! 処罰を受けたくなくば、すぐにその娘を外につまみ出せ」

「……っ、恐れ入ります」


 彼女の芝居に合わせて、反射的に頭を下げてしまう。

 不自然ではなかっただろうか。


「ごめんなさい、駄目だったね。……行こう」


 華奢な手を引かれて、地上への階段を登る。

 奇妙なユノは会話の最中に、扉をさりげなく閉めている。


「……あの」


 いくつか言葉に迷ってから、リナリスは細く呟いた。


「ありがとう存じます」


 恩に対する当然の謝辞だ。“黒曜”の娘として、それだけは失することはできない。

 あの場を離れた後、屍鬼ドローンと化した兵士はすぐに昏倒させている。目覚めたその時には、リナリスの顔を覚えてはいない。

 ユノをそうするべきかどうかは……


「……いいの。あなた……ハーディ様かソウジロウの敵なんでしょう?」

「……」

「答えづらいならいいよ。私は、遠い鉤爪のユノ。あなたは?」

「……申し訳ございません。私、先に名乗らせてしまったのですね」


 今、もう一つの礼を失してしまうことを、リナリスは心の内で恥じた。


「“影積み”。影積みリノーレと申します」

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