第三試合 その4

 その夜、塚厳つかよしは抜かぬはずの刀を抜いて、何らかの古流剣術の鍛錬をしているようであった。

 毎日のことではなく、塚厳つかよしの気が向いた時に気まぐれに行う程度の修行である。

 それすらも宗次朗にとっては壮絶な労力の無駄としか思えなかったが、その指摘のために起きて出ていくのも面倒なので、何も言わずにいた。


「宗次朗ー。銃弾受けるのってどうやるんだアレ。昨日やってただろ」


 テントの外から声がかかった。どうしてこの男は、聞いても無駄なことをいつも聞きたがるのか。


「受けてねェーよ。受けたら刀折れんだろうがバカ」

「お前、師匠を馬鹿呼ばわりするなよ」


 心底面倒だが、答えずにいればまた何か話しかけてくるだろう。

 親子ほどに年が離れているはずなのに、まるで子供だ。

 眠い目をこすりつつも、適当な説明を続ける。


「……あのなー。あれ、弾の頭には当ててねえの。横腹に刀の腹を当てる感じでな、飛んでくる軌道に差し込んでやるわけ……。それなら横の力だからさ、刀身がバネになんだよ。弾の回転の具合に合わせてグッと引きゃあ、勝手に逸れるんだわ」

「いや……いやいやいや。どういうこと? ライフル弾の話だよな? 言ってることが受けるよりおかしいんだけど」

「だーから塚厳つかよしには無理だって。弱ェーんだもん」


 宗次朗の場合、一度に飛んでくるライフル弾の四発程度ならば対処は可能だ。中距離における集弾性を考えれば、小銃を相手にある程度立ち回ることは可能であろう。

 しかし、それだけで生き残ることは出来ない。火炎放射器やグレネードが現れた場合は、更に異なる対処が必要となる。

 全てを刀で捌き切るには、柳生塚厳つかよしは弱すぎる。


「剣とかナイフとかなら、多分もっと上手く逸らせんだけどな。縦回転だし、中心を横から叩けんだろ」

「縦? 銃弾が横回転なら、ナイフは縦回転か?」

「……ナイフも横っちゃ横だわな? どっちが縦だ」


 ――宗次朗が、刃で敗北することはない。

 異世界においても、それは変わらぬ真実であるはずだった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 英雄の多腕を相手取って無刀で斬り勝ったソウジロウが、刃で負けた。

 オゾネズマの告げた通り、それは安堵の隙であった。

 ソウジロウの平常では考えられぬ精神の波は、一本の死体の腕に支配されていた。


 必殺の恐怖である。しかもそれはただそこにあるのみでなく、オゾネズマという殺戮の獣の知性と戦術を以て運用される、最悪の抑止力だ。


(止血の時間はねェー……ってか)


 頭が朦朧とする。出血性ショックが起こっている。

 血圧が下がり、運動機能が低下し、戦闘のどの時点よりも弱体化している。

 右脚の一本が奪われるだけで、人間ミニアはなんと脆いものか。


(……動ける時間自体がもうねェわ)


 それでも動かねばならぬ。

 手術刀を構え、降参の意思がないことを示す。


 たとえそれがまったく無意味なことであっても、そうする必要があった。


「見事ダ」


 オゾネズマは長く語らず、再び駆けた。

 白く華奢な腕がすらりと伸びる。“魔王の腕”。

 ……ソウジロウには、迫りくるオゾネズマの命が見えている。


 全身に無数存在する、生命体としての命ではない。

 その一つを切断すれば。


(刀を下ろすな)


 恐ろしい。恐ろしい。

 彼の師は、もしかするとこのような心持ちでいたのか。

 ソウジロウが愉楽の他を見出していなかったあの戦火で、ユノはそうだったのか。


 刃を突き、命を斬ればいい。それでソウジロウは勝てるかもしれない。

 確実な死が待ち受けている以上、そうせぬ理由はどこにもないはずだった。

 恐怖を知らぬソウジロウならば、そうしていた。


 残り五歩。四歩。何度も見ている。読んだ通りの速度とタイミングであるはずだ。


(……下ろすんじゃねェ!)


 自らに強いる。恐ろしい。

 “魔王の腕”。それに対処する手段は、回避の一択しかなかった。

 意思の抵抗は不可能である。立ち向かえば敗北する、必殺の手。

 津波の怒涛と同じように、進行上の全存在を一方的に破壊する暴威であった。


 ――ソウジロウは回避することができない。

 頼りない短刀の一本のみで、その天変の恐怖と対峙していた。


 恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。

 皮肉にも――発狂に近しい恐怖は、加速した主観で幾倍にも濃縮された。

 残り一歩。そして。


(下ろ……)


 短刀を握る感覚がないことに、その時に気付く。

 ――精神性発汗。決して取り落としてはならない。

 それが地面につく前に、白い掌がソウジロウの視界を覆い尽くした。


 ソウジロウは斬りかかることができない。それは絶対の恐怖であるから。


 異界の剣豪は恐怖に負けた。


「ウ」


 呻きを漏らしたのはオゾネズマである。

 指は、触れる目前で止まっていた。


「……! コレ……ハ……!」


 忽然と飛来した手術刀が、“魔王の腕”の肘関節を貫通していた。

 オゾネズマの足は動揺で止まり、赤すぎる血が切断面から滴り落ちた。

 そして、止まるべきではなかった。


 続けて別の手術刀が、回転と共に“魔王の腕”の肉を捩じ切った。

 美しい腕は無残に刻まれて、今度は宙を飛んだ。

 それが二本目――否。


 ザク、ザクと音が続いた。それらの二本より僅かに位置がずれて、四本が地面に突き刺さった。六本もの手術刀が、天から降り注いでいた。……すなわち。


(手術刀ヲ! 打チ上ゲテイタ……ノカ……! 先ノ、一瞬デ!)


 ソウジロウに打つ手はない。それが分かっていた。


 ならば、そこに意思が介在しないとすれば?

 動けぬソウジロウを最も確実に必殺する“魔王の腕”による接触攻撃。

 混獣キメラがその判断に至ることを魔人の戦闘勘で確信し……

 確実に来るその未来に、逸らし弾いたオゾネズマの手術刀の自由落下を合わせることを可能とする超絶の技があったとすればどうか。


 治承四年。

 源頼政みなもとのよりまさ方にて奮戦した悪僧、五智院但馬ごちいんのたじまの逸話が遺されている。

 平家方三百騎に対し、宮方は五十騎の橋上合戦。彼は雨の如き平家方の矢の全てを長刀のみで切り落とし、矢切の但馬との異名を取ったとされる。


 それは斬れぬものを斬るだけでなく、斬れぬ速さで斬るだけでない。

 砲の威力で放たれた七本を打ち漏らしたのは、それが限界であったからだ。

 落下の地点と時点までもを考慮に入れて弾く限りは――その本数までが。


しかねェ」


 腕を切断した短刀の一つを、ソウジロウは空中で掴んでいる。


 自らを遥か上回る体躯。全てにおいて英雄を凌駕する身体性能。

 さらには自死を繰り返して死ねぬ無数の命を眼前にして、ソウジロウは吼えた。


「そいつをブッ殺すには……! 事故死だ!」

「オ……オオオオオオオオオッ!」


 接敵の距離で、二頭の獣が切り結んだ。

 短刀はすれ違いざまにオゾネズマの心臓を斬り、一つの神経節を断ち、さらにもう一つの心臓を割った。


 ……そこまでだった。


 装甲そのものの毛皮が阻んだ。鉄の如き密度の筋肉が阻んだ。

 何よりも恐怖と失血の消耗が、ソウジロウの技を阻んでいた。

 世界逸脱の剣豪は、そこで初めて刃を折った。


 べしゃり、と水音が鳴った。

 混獣キメラの獰猛な前肢が襲いかかって、肉が爆ぜて散った。


「……」

「ウ、ウウッ……グッ……グ、ウゥゥ~ッ……!」


 もう一度、爪が振り下ろされた。次は骨が砕けて、原型が失われた。

 歩くこともできぬソウジロウは、呆然とそれを見ている。


 切り離された“魔王の腕”を、オゾネズマが破壊するその様を。


「……おい」

「フーッ、フーッ……ウッ、ウウ……グッ……ウ……」


 ほぼ汗腺を持たぬ狼の形態でありながら、傍目からはっきりと見て取れるほどに、恐怖の汗が滴っていた。

 無敵の獣は、これまでの全ての反動が顕れたかのように憔悴していた。


 もう一度、爪が残骸を打つ。

 それはただの死体だ。意味持たぬ肉片と化していた。


「――やっぱ、そいつだったな。そいつがオメェの命だった」


 もしもオゾネズマが“本物の魔王”に執着していなかったのならば。

 たった今の交錯が“魔王の腕”を目指したものではなく……僅かでもソウジロウに意識を向け、切り結ぶことができていたのならば。ソウジロウは今このようにして、生きていられただろうか。


 到底そうは思えぬ。オゾネズマは真実、恐るべき獣であった。

 だが、さらに恐ろしいものが。


「そんな代物が。慣れるはずがねェ。もう分かってんだろうが……おれもオメェも、そいつにビビってたんだよ」

「グ、ウウ……私ハ……私ハ……!」

「……。オメェ……自殺してたな。死のうとしてただろ」


 自らを殺し、親しい者を殺す、“本物の魔王”の恐怖。

 それを取り除くことはできず、逃げることすらできぬ。

 自覚できぬままに狂っていく。


「チ、違ウ……! 私ハ偽リノ勇者ヲ殺ス! ソノ他ニ償ウ方法ガナイ! ワ、私ハ……! “魔王ノ腕”! コンナ冒涜ヲ……グッ……ウ……本物ノ勇者ハ……違ウ、違ウノダ……! スマナイ……オルクト……!」

「オメェの事情なんざ……知らねェーよ」


 ソウジロウは折れた手術刀を構えた。

 今度は、恐怖に屈することを悟った虚勢ではない。

 失血を待ち構えられれば死ぬと理解した上で、攻めさせるための構えではない。


「おれは楽しけりゃいい」


 自覚してしまった恐怖に打ち震えながら、オゾネズマは辛うじて絞り出した。


「……降参スル」

「……」

「フーッ、フーッ……貴様ノ……勝利ダ……! ソウジロウ……!」


 最高の素材によって形成された混獣キメラである。出場者全ての内で頂点に届き得る身体性能の密度を誇りながら、それでも、その一つの恐怖に抗うことはできない。

 ソウジロウは、地面に飛散した血溜まりを見た。


「……」


 オゾネズマが勝利を捨てても――あるいはずっと以前よりも、自らの命を捨てながら――ついに破壊した少女の腕は、もはや恐怖を発することはなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――


「本当に大丈夫? すごい怪我だけど、医者が来るまでもちそう?」

「……私ガ医者ダ。肉体ノ傷ナドハ……問題デハナイ……」

「そっか。もう駄目そうなら、遺言でも聞いとこうかって思ったからさ」


 オゾネズマは、獣族じゅうぞく用の巨大な馬車に収容されている。

 今の一戦で“魔王の腕”の恐怖が及んだ観客の数は決して少なくはなかったが、それらは混獣キメラの異形への恐怖であると解釈され、腕がもはや失われた今となっては、ユカですらもオゾネズマの真実を知ることは永劫にない。


「……ユカ」

「ん?」

「……私ハ……自殺シテイタノカ」


 そのような自覚は決してなかった。

 オゾネズマは、彼自身の正義に従って動いていたはずだった。


 偽りの勇者を許してはおけない。あの戦いを知る者は、もはや地上に自分のみだと信じていた。遺された者には、そうする義務があると信じた。

 ――だが。“本物の魔王”として勇者自称者を尽く殺し……そうして勝ち上がって、民の前で全てを暴露したところで、そこに待ち受けるものは何だっただろうか。


 オゾネズマの思考がそこに届かぬはずはなかった。

 死に突き進んでいたのだ。他でもない、自らが滅びを選んでいた。

 あの一瞬まで、それを分かっていなかったのか。


「うーん。よく分かんないけど、オゾネズマは頑張ったよ。あんな凄い戦いは見たことないもん。ちょっとでも勝ち目があったならさ、全然自殺じゃないでしょ」

「……ナラバ……“本物ノ魔王”ニ挑ムノハ、自殺ダッタカ?」

「変なとこに話が飛ぶなあ」


 ユカは困ったように笑った。

 偶然に選ばれた、単に扱いやすいだけの将。名目上の擁立者さえいればそれで良かった。それでも、彼が擁立者であったことが幸運であった。

 その気性はオゾネズマと正反対であったかもしれぬ。数奇な巡り合わせだ。


 深い疲弊がもたらす微睡みの中で、オゾネズマは言った。


「……事故死ダト言ッタ。アノ恐怖ニ勝ツニハ、事故死シカナイト……」

「まあ、あの魔王が死ぬなんてそれくらいしかないもんなあ。そりゃ名目上は六合上覧りくごうじょうらんの誰かが勇者ってことになるんだけどさ……実際戦場に出たことない市民じゃあ、あの怖さは分かんないよね」

「……違ウ」


 オゾネズマは、その顛末の全てを知っている。

 あるいは……この六合上覧りくごうじょうらんに関わる者で、ただ一匹。


「“本物ノ勇者”ハ、存在スル……。本当ダ……魔王ヲ倒シタ者ガ……コノ地平ニイタノダ……。私ハ……ソレヲ……」


 目を閉じる寸前、流れ行く雑踏にその姿を見た気がした。

 それはきっと、朦朧とする過去の錯覚であったに違いない。


 “最後の一行”。

 漂う羅針のオルクトがいた。移り気なオゾネズマがいた。……そして。


「……セテラ……」


 これが“本物の魔王”に挑んだ者の、結末の一つであった。

 かつて起こった出来事の結果は、これで全てだ。

 しかしその過程を読者諸兄が知るためには、今しばらくの時を待たねばならない。

 ――そしてこれは、一人の勇者を決める物語である。


 第三試合。勝者は、柳の剣のソウジロウ。

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