第一試合 その3

 おぞましきトロアは、自分自身を強いと信じたことは一度もない。

 ――弱い、と信じている。


 山で一心に剣を振るっていた頃、父を越えたと感じられたことは一度としてなかった。彼の想定する相手は常に想像上の魔剣士ただ一人であり、未熟な彼はいつでも、自分自身の理想に負け続けていた。

 その自意識は、対手である無尽無流のサイアノプの、孤独に最強を信じて積み上げた年月とはまるで正反対だ。この六合上覧りくごうじょうらんの出場者を見渡し……あらゆる意味で自らの強さに信用を置かぬ者は、他に通りのクゼ一人を残すのみであろう。


 彼は魔剣に使われる剣士だ。振るう技は全て、いつかの伝説の模倣にすぎない。

 自身ではなく、振るう魔剣が最強であり、かつて振るった魔剣士が最強である。

 ……故に敗北は許されない。惨めな敗北で、彼らの最強を汚してはならない。そして彼は、弱い自分自身であることを、今は捨てた男だ。


(……サイアノプも、最善手ではない)


 “刻み突き”を受け、着地した直後。一呼吸をつくより前に、それを直感している。


(神剣ケテルクに交差を合わせて俺に当てるための、最速の突きだ。……距離を詰めたまま追撃されれば、それで終わっていた)


 あの打撃だからこそ、吹き飛ぶことができた。

 サイアノプの交差の一撃を、あるいは予期してもいた――故の神剣ケテルク。


 神剣ケテルクは、実体の刃の外側に見えぬ斬撃延長を作り出す。当然のことながら、実体を持たぬ斬撃は踏み込みの重さを必要としない。届かぬ間合いを撫でるだけで済む。振るう者が幼子であろうと、全身鎧の騎士の中身を切断できる。

 強く踏み込まなかったトロアは、吹き飛ぶことができた。


「……後見人の不正の償いのつもりか?」


 サイアノプは、またも意味を図りかねる呟きを漏らした。


(惑わされるな。読み合いでは奴が上だ)


 おぞましきトロアに迷いはない。距離は五歩分。

 この距離から離れようとするなら、インレーテの安息の鎌の間合い。中距離に踏み込んでくるならば、必殺となるネル・ツェウの炎の魔剣。あるいはバージギールの毒と霜の魔剣で仕留める。


「会話で隙を作ろうとしているのなら、無駄だ。間合いに踏み込めば斬る」

「間合い? ふ」


 動かぬ。だが、次にはトロアが交差を当てる。

 まだ動きがない。まだ……


 ファイマの護槍が跳ねた。飛来物に反応し迎撃する魔剣。

 捻り込むような粘獣の打撃が、剣を抜こうとした右鎖骨を穿った。


「間合いが」


 今度は、それで終わりではなかった。脇の下を潜り、両肩を締め上げるようにして、半透明の仮足がトロアに巻き付いている。

 動けない。


「どうした」

「…………!」


 敵のあらゆる動きの予兆を、見逃してはいなかった。見えない。否。見えていないわけがない……

 おぞましきトロアですら、相対するまで気付かない。

 サイアノプは、とうに動き出していたはずだった。


 ――技術体系によって、それを“縮地術”、あるいは“無足の法”と呼ぶ者もいる。

 地面を蹴るのではなく、重心の移動。接地点を軸とした倒れ込みの速度を、踏み出しの初動へと運用する歩法である。

 粘獣ウーズの不定形肉体の内部重心を外から看破できる者が、この世のどこに存在するというのか?


「それで不正を埋めたつもりか。何故、最初から剣を抜いていなかった……!」


 ……そして。粘獣ウーズの武闘家が存在するというのならば――その無限の攻撃の選択肢において、もっとも恐れるべき技は、打撃などではない。


 トロアはネル・ツェウの炎の魔剣を握っている。それを前方に斬り込んだ姿勢のままで、首と、両肩が完全に固定されている。

 遍く人体には、構造がある。サイアノプのみが、一方的にその構造を無視して、敵の全関節を同時に破壊できる。


 彼岸のネフトとの戦いで、それを用いることはなかった。この小一ヶ月偵察に現れた襲撃者の誰にも、それを見せてはいない。

 一手が死に繋がる魔剣士にこそ、極め技という選択肢を隠す必要があった。

 トロアは動くことができていない。肩が、自らの頸動脈を閉塞しているのだ。

 それは砂の迷宮の書物に記述された技を元にしてはいるが、もはや完全に異なる、一撃必死の技だ。


「“肩固め”」


 拘束されていない左腕で、トロアはもがいた。炎の魔剣が力なく落ちた。

 当然、その可動域は抑え込まれ、これだけ近いサイアノプを斬ることができぬ。

 観客のざわめきが遠くなる。これで終わる。


(――そうではない)


 ミジアルの不正の償いではない。抜けば、どの類の魔剣であるか看破される。

 サイアノプは、彼の積んできた鍛錬の形を知らぬ。トロアは、体のどの箇所に括った魔剣も、右腕か左腕の一動作のうちで抜剣できる。

 無限の分岐を強要する格闘の選択肢。しかし次にどの剣を抜くべきかは、魔剣の声が教えてくれる――


「!」


 瞬時に仮足を引いた。異常極まるその選択肢を、サイアノプすら想定できていなかった。魔剣の銀閃が、そこを通過していた。


「……“換……羽”!」


 彼は、自身の肩ごと斬った。

 まだ捉えていたトロアの右肩が一回り捻れ、拘束から外れた。

 サイアノプを斬れぬ関節方向に固定していた。だが、トロア自身を斬ることは……


 腕を捨てたと判断し、サイアノプは右方より再び仕掛けた。一撃で破壊する。


「“八極貼山はっきょくてんざん――”」

「――“烏合”!」


 光のような刺突の群れが迎撃した。まったく同時の、無数の突き。ただ一つ風を切る一本を、サイアノプは見た。防御は間に合わない。


 深く突き刺され、山人ドワーフの膂力で間合いの外へと弾き出された。

 たった今、自ら切断したはずの右腕の突きであった。

 無尽無流むじんむりゅうのサイアノプは、おぞましきトロアを見た。


 何かしらの機械部品の一部めいた、細く長い直剣。ギダイメルの分針。

 幾何学的に不安を抱かせる、黒く捻れた刺突剣。瞬雨の針。


 ――斬撃が遅れて作用する。斬ったものを、斬られなかったかのようにできる。

 そのような魔技が現にあるとして、実戦にどのように使われるというのか?

 あるいは、このような状況だ。トロアは、自ら切断した右肩を、斬ってはいない。“換羽”と呼ばれるこの技のみが、ギダイメルの分針の持つ因果遅延、因果否定の作用を現実と化す。


「まだだ……。まだ……俺が、残っている。まだ……」


 深く息を吸い、吐く。サイアノプはどうしているだろう。

 トロアは目を閉じている。元より、姿から動きを見切ることのできぬ相手だ。


 これまで受けた負傷の全てが深い。最初の肝臓への打撃すらも。

 あまりにも強い。恐らく、父よりも。想像の域を隔てた強者。

 ならば、全てを魔剣に委ねなければ勝てない。これまで以上の、全てを。


「俺を残すな。俺は……俺は、おぞましきトロアだ……!」


 想像する。ワイテのどこかには恐ろしい化物がいて、それは毎日海まで下りて、深獣クラーケンを食べている。根獣マンドレイクの煮えた毒の酒を、耳まで裂けた口で、ニタニタと飲み干している。

 化物だ。彼は、魔剣の化物になる。


 そんな化物が、もしもこの世にいるのならば。誰にも負けない。


 タン、という音が響いた。指を添えた鎖の動きを知る。

 ファイマの護槍。今度こそはそれを使いこなせる。


「――!」


 ザババババ、と斬音が響いた。


 速度を持って接近するものに、ファイマの護槍は反応する。

 その反応の先へと鎖を振り、本来間に合わぬ迎撃を、無理に合わせる。手首を返し、逆方向に刃を離す。魔剣が敵を追う。再び手首を返す。離れた敵を再び魔剣が追跡する。全てを瞬時に行う。


 目を開く。サイアノプのよろめきが見える。

 振動する斬撃。仮足を寸刻みに破壊されている。


「“羽搏はばた”」


 おぞましきトロアの呼吸は、深く、長い。


 ギダイメルの分針。瞬雨の針。ファイマの護槍。それらを誰かが作り、誰かが扱い、誰かを斬ってきた者がいた。

 疲労や傷跡のみが戦いを証明するものではないように、その全ての過去は、確かに剣に刻まれている。おぞましきトロアのみが、それを読み取ることができた。


「あと、三本」


 サイアノプが呟く。

 その意味はトロアにも分かった。


 バージギールの毒と霜の魔剣。天劫糾殺てんごうきゅうさつ。インレーテの安息の鎌。

 取り落とした炎の魔剣を除き、試合に持ち込んだ内で見せていない魔剣は、三本。

 敵の残弾を数えている。トロアの攻撃への対処を組み立てている。


 サイアノプの恐ろしさは、絶域の格闘技量に留まるものではない。

 ありとあらゆる意と起こりを捉え、未来を予測する観察の力。

 だからこそ、トロアは考えてはならない。何も、この敵に読ませてはならぬ。

 全てを解かれてしまえば、その時に負ける。


「……三本もか」


 粘獣ウーズは、思わず吐き捨てた。


 彼にもまた、重すぎる現実が立ちはだかっている。

 遠隔斬撃。一撃必殺。謎めいた切断無効。幻影。自動迎撃。

 さらに三本。全く異なる攻撃手段が、おぞましきトロアには、残り三種も存在するというのか。


 一手の失着が死に直結する。全てを捌き切らなければ死ぬ。

 その手段を読ませてくれるか。眼前にあるはずのトロアの思考を、読めなくなってきている。

 そして、軽い突きの一つで間合いを突き放す、凄まじいほどの身体性能。


 おぞましきトロアは、自分自身を強いと信じたことは一度もない。

 ――弱い、と信じている。


 彼は魔剣に使われる剣士だ。振るう技は全て、いつかの伝説の模倣にすぎない。

 それでも、弛むことなく積み上げられてきたその力は、紛れもなく。


(……。強い)

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