第一試合 その2

 始まりを告げる試合は、正午と同時に執り行われた。

 職人も商人も、いつもより早くその日の仕事を切り上げた。試合場となる旧市街には、早くの昼食を取る観戦客のための屋台がひしめき、その全てが、黄都こうとへと収める多大な出店税を差し引いて余りある収益を上げた。

 大道芸人は極彩色の紙ふぶきを散らせ、王宮の管楽隊が市民の耳を楽しませた。


 かつて黄都こうとで行われたどんな祭りよりも盛大な喧騒は、しかし、その時が近づくに従って、少しずつ……徐々に。どこか緊張に近しい静寂に凪いでいった。

 ――第一試合。おぞましきトロア、対、無尽無流むじんむりゅうのサイアノプ。


 おぞましきトロアである。多くの者が子供の頃から聞かされ、遠い街の誰かがその殺戮の痕跡を見たのだと言い、剣に纏わる陰惨な殺人が引き起これば、その剣に魔剣の疑いがかかることすらあった。

 本当に存在するのか。それは本物であるのか。いかなる姿をしているのか。


 震えるような、動と静を併せ持った沈黙。それは、恐怖を伴った好奇である。

 その初日より、民の耳目を一心に集める催事とする。おぞましきトロアを第一試合へと采配した第三卿ジェルキの思惑は、この時点で達せられているのだ。

 ……そんな張り詰めた空気の只中で、誰かが言った。


粘獣ウーズだ……」


 ――おぞましきトロアが現れるべき側と、反対側の入場口である。

 黄都こうとの衛兵に護られ群衆の中を歩む存在は、定形を持たぬ透き通った原形質――粘獣ウーズに相違なかった。

 誰もが目を疑った。これがおぞましきトロアの対手たる、無尽無流むじんむりゅうのサイアノプだというのか。


「……昨日、どこかで戦ったな」


 戦場へと進む粘獣ウーズは、背後に歩くクウェルへと問うた。

 黄都こうと第十将は、周囲を囲む民と極力視線を合わせぬよう、厚い前髪に隠した瞳を更に伏せ続けている。


「えっ、あ、あれ……? あの。どうして分かるんですか……」

「つい前日戦ったかどうか、挙動で分からぬほうがおかしい。戦は全身全霊の運動だ。傷や疲労のみが痕跡ではないだろう」

「こ、困ったな……。そうです。ミジアルくんと少し……昨日の、夜……」


 この三日間、彼女が夜ごとに姿を消していた事実は、サイアノプとて知らぬところではなかった。加えて、トロア側の陣営である第二十二将ミジアル。事前工作に関する何らかの応酬があったと見るのが妥当だ。

 この小一ヶ月、サイアノプは所属不明の兵の襲撃を二度受けている。恐らくは、他の参加者も同じような状況であろう――それを仕掛けた側でない限りは。


「ならば、何かを仕込んだか。クウェル」

「……私は、何もしません」

「確かだな」

「り、六合上覧りくごうじょうらんは……細工の巧拙を決める場じゃ、ないですから」


 クウェルは、上ずった声で答える。

 だが、どこか普段の彼女とは異なる、熱のこもった声であった。


「私は、そういうことを考えられないですけど……と、止めることはできます。だから、ずっと見張ってました」

「策も一つの強さだ。戦わないことが勝利である場合もある」

「……けれど! 本当の強さって、そういうものじゃないでしょう!」


 サイアノプは止まり、背後のクウェルを見た。

 無数の戦いに使い込んだ長柄戦斧を、彼女は両腕で抱えるように震えていた。


「だからサイアノプさんは……! じ、自分が有利な細工でも、やめて欲しいって思ってるんでしょう。本当に、極めた強さが誇りなら……そ、そんなの、えへへ……くだらない。純粋じゃ、ないから……」

「……」


 クウェルは、まっすぐにサイアノプを見た。もっとも粘獣ウーズに目などはないので、ぼんやりと見下ろすような形ではあったが。


「……何も仕掛けていません。信じてください」


 サイアノプが彼女と出会ったことは、偶然ではない。必ず、そのような者がいると信じて出てきた。

 華々しい栄光の過去も、種族や身分のような外面も取り払って、純粋な力を信奉する者が、戦乱の時代の中には必ず生まれる。そのような者ならばきっとサイアノプを選ぶと、彼は自らの力を信じていた。


「構わん」


 敵は生ける伝説。強いのだろう。誰もその強さを疑う者はいないのだろう。

 この時代の真の伝説たる“勇者”に挑むサイアノプにとって、それは試金石である。


「僕が勝つ。その見立てだ」


――――――――――――――――――――――――――――――


「あーあ……。本当、かっこ悪いよねー。大失敗だ」


 時刻はやや遡る。

 その朝、屋敷に戻った第二十二将ミジアルは両腕と右の爪先が凶暴に砕かれており、馬車を使うこともできぬ有様で、玄関を開けてすぐに倒れた。

 粘獣ウーズを打ち負かす計画の全容を初めて知らされたトロアはほとほと呆れたが、同時に、彼のような子供がその妙手を思いついたことに感心もしていた。黄都こうとに辿り着いてから、これまでの生で思いもよらぬ物事を、彼は数多く見聞きしている。


「ごめんねー、トロア。上手くいけば楽しかったんだけどなあ。クウェルちゃんには勝てないなー、さすがに」

「謝罪は求めていない。元々、知らん話だった」

「そうじゃなくて」


 ミジアルはまるで拘束衣のように折れた両腕を固定されていて、ベッドから自力で起き上がることもできない。

 だが、声色が前夜と何も変わらないのは、生まれ持った図太さの故なのだろう。


「トロアはさー。星馳せアルスと戦いたくて、来てるわけじゃん。サイアノプなんかと戦ってる暇ないでしょ?」

「……そうだな。それが俺の生きる意味だ。ヒレンジンゲンの光の魔剣を取り返すまで、俺は死なない」

「本当は一回戦で戦わせてやれれば良かったんだけどさ! ヒドウが、どーしても先約があるって聞かないんだもん」

「…………そうだったか」


 都合の良すぎる対戦表だと思っていた。無尽無流むじんむりゅうのサイアノプを倒せば、次の二回戦で因縁の相手と当たることができる。

 それはミジアルの働きかけがあってのことだったのか。おぞましきトロアの、ただ一つの目的のために。


 それに思い当たるのと同時に、彼は苦笑を浮かべた。

 だからといって一回戦を飛ばしてしまおうと考えるなど、あまりにも子供過ぎる。


「ゴカシェ砂海の奥で、ただ一人……鍛錬を続けてきた相手らしいな」

「……大したことないよ」

「ある。俺も同じだからだ」


 父と実際に剣を交えたことは、何度あっただろうか。魔剣を用いてのこととなれば、一度もない。魔剣を振るえば、敵は死ぬ。父も彼自身も、家族を斬ることを望みはしなかった。

 戦う相手もなく、ただ一人、魔剣を振り続けた日々が、彼の心にはある。

 少し右に傾いだ木。日が昇り、沈んでいく、ワイテの山々の稜線。

 汗に塗れ、その日の成果を思い、そして父と共に夕日の家路を往く。


 ……そこにあるのは、求道の孤独だ。

 トロアとサイアノプは、長き孤独の果てに辿り着いた力を振るう機会を、生まれて初めて得ている。正体が一匹の粘獣ウーズであろうと、トロアがそのような武闘家を軽んじられるはずがなかった。


「試合を見ることはできるか?」

「んー……どうだろ。こんなボロボロだし、誰かに抱えられて見るのも、なんかかっこ悪いしなー」

「だけど、おぞましきトロアの戦いだ」

「……そうだね。見よっかな」


 トロアは剣を執る。振るえば敵を殺す魔剣の数々。

 それを、尊敬すべき相手へと振り下ろさねばならぬ日なのだろう。


――――――――――――――――――――――――――――――


 群衆は静まり返って、向かい合う両者を見ていた。とても、目を離すことなどできそうになかった。片方を畏怖の目で、残る片方を奇異の目で眺めていた。

 朗々とした声が、その静寂を割った。


「――真業しんごうの取り決めのもとに!」


 両者の間に立つのは、四角い印象を与える、いかめしい女であった。

 この試合の立会を担う、黄都こうと第二十六卿、囁かれしミーカという。


「片方が、倒れ起き上がらぬこと。片方が、自らの口にて敗北を認めること。そのいずれかを以て、決着とします。この二つに外れる事柄を、この囁かれしミーカが、黄都こうと二十九官として、厳正に判定します。各々、それでよろしいか!」

「佳し」

「異論なし」


 至近の距離で向かい合った両者は、口々に答えた。

 おぞましきトロアは、まだ抜剣をしていない。


 ミーカは睨むように二者を眺め渡して、設えられた石段の上へと引き下がる。

 しかし、真業しんごうの試合において……ましてやトロアとサイアノプのように、白兵の戦いを得手とする者同士にあって、彼女のような立会は不要であろう。そのような戦いであれば、決着は誰もの目に明白なものとなる。


「楽隊の砲火とともに、はじめ」


 誰もが、固唾を呑んでその様を見守った。

 誰かが、心の内で数を数える。二つ。三つ――そして。


「半歩遠い」

「……」


 サイアノプが、奇妙な呟きを漏らした。

 おぞましきトロアは、まだ抜剣をしていない――


 砲声。


 両者が踏み込み、旋風の如き砂塵が舞い上がった。

 トロアの抜いた剣はサイアノプに届かず、しかしサイアノプはその軌道延長を躱した。潜り抜けたその運動速度のままに、跳び、突いた。


 トロアの大柄な体は五歩分も吹き飛び、打突の衝撃が肝臓を走った。

 空中にある刹那の間に体を立て直し、地面に線を引きながら着地する。

 それが不利をもたらすと分かっていても、驚愕を漏らさずにいられない。


「知っているのか」

「構えの組み立てが半歩遠い。故にその剣の間合いは、半歩先だ」


 ――神剣ケテルク、という。

 それは実体の刃の外側へと不可視の斬撃軌道を延長する、近接戦闘の間合いを乱す魔剣であった。

 白兵距離において、初見の見切りが不可能とされる剣の一本である。

 サイアノプは、躱した。


「“刻み突き”」


 打ち放った最速の技の名を、残心の如く述べた。

 武闘家が、最初に当てた。

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