黄都 その5

「ようヒドウ! 頑張ってるか!」

「ああ」

「あらヒドウ、うちで食べてくかい? 量多くしとくよ!」

「気が向いたらな」

「へへ……二十九官って、女王様に謁見できるんだろ。どうだヒドウ、セフィト様はよ? 凄え美人じゃねえのか?」

「まーな」

「おーいヒドウ! 六合上覧りくごうじょうらん、楽しみにしてるぜ!」

「おう」


 人の声の波をかき分けて、白昼の広場を抜ける。噴水の飛沫が髪の端を濡らした。

 黄都こうと第二十卿、かすがいのヒドウ。帽子を斜めに被り、適度に着崩した貴族服を纏う姿は、名家の奔放な次男坊といった出で立ちである。彼の自認もそうだ。

 だが、世間の目から見れば、この都市を動かす最高幹部の一人、黄都こうと二十九官ということになるらしい。


(……くだらないな)


 人目から外れた公園の長椅子で一人、包みを開く。昼食時には、ヒドウは常に同じ店のパンしか食べない。


(明日を気楽に過ごせればいい。黄都こうとも、六合上覧りくごうじょうらんも……星馳せアルスも。本当は、くだらないことばかりだ)


 上がっていく地位に伴って、ヒドウには不要の心労ばかりが付き纏ってくる。

 どこで道を誤ったのか。もはや彼は、家督を継ぐべき兄よりも政治上の地位は上だ。子供の頃より彼が思い描いていた人生では、そうなるはずではなかった。

 社交的な気質の彼が一人の昼食を好むことには、そういった理由がある。せめて一日に一度は、身分から解放される時を必要としていた。


 柔らかな白いパンは均一な焦げ目が施されていて、まだ十分に温かかった。

  黄都こうとにおいては然程繁盛している店ではないが、店主の熱術ねつじゅつの加減がうまい。パンの間に包まれたアヒル肉も、鮮やかな赤身から溶け出した脂が周囲の菜に照りを与えていて、素朴でありながら素晴らしい一品である。

 ――なので、その気配はヒドウを苛立たせた。


「……何の用だ。俺は昼休み中だぞ」


 食事の手を僅かに止めた。彼の身の安全に関してはロスクレイが十分に気を配っているはずだが、他の陣営からの刺客である可能性もあった。

 声は、背中合わせに並べられたもう一つの長椅子より返る。


「貴様の場合、他の連中が居合わせない場は少ないだろう。かすがいのヒドウ」

「……これ以上、問題は抱えたくないんだ。勘弁してくれ」


 無論、ヒドウは背中越しの声で分かる。第六将、静寂なるハルゲント。

 生まれながらの才覚でここまで取り立てられたヒドウとは正反対に、どこか海辺の辺境の生まれから下積みを経て這い上がった、旧時代の軍人である。

 その凋落すら、二十九官におけるヒドウの経歴と正反対の位置にあった。


「悪いが……悪いが、私もこの点だけは、貴様に譲るわけにはいかん。私には冬のルクノカがあり、貴様には星馳せアルスがいる。どちらも地上に最強の二文字を知られた無双の竜族りゅうぞく。ならば――」

「長い長い。話が長いんだよ。俺とオッサンで戦うようにさせろってことか? 何なんだアンタ……本当に」


 うんざりしながら、ヒドウはパンに口をつけた。

 落ち目の老将との会話などより、彼にとってはそちらの方が遥かに重要だった。


「まあ、ジェルキなりロスクレイなりに掛け合って、そうさせてみろよ。できるもんならな。話は終わりだ」

「頼む、わ、私は……! 私は、星馳せアルスと決着をつけなければならないのだ! 奴よりも大きなものを掴むと誓った! それが生きる意味だ! そ、そうでなければ、私のような男が、冬のルクノカを連れてこれるものか!」


 ――知ったことではない。

 この男にどのような感傷があり、どのような正義があるのかに、ヒドウは一切興味を持たぬ。

 ヒドウは別段、彼らのことを否定しているわけでもないのだ。与り知らぬところで勝手にやっていればいいとすら思う。

 にも関わらず、誰も彼もが、勝手な事情でヒドウに問題を持ち込んでくる。そうして、彼の取り組むべき仕事だけが膨れ上がっていく。


「あのなオッサン? そのルクノカの話だけどな。……言わせてもらうよ。冬のルクノカは、元々人族じんぞくに興味なんざ持ってなかった。奴が本気で人里を滅ぼそうとしたら、どうなるか分からなかったのか? なんでわざわざ呼んできた? 俺はあんたと違って、そっちの問題も考えなきゃならないんだ。その上さらに俺に我儘を聞かせようってか? あんたの中で、そいつはどういう了見になってるんだ?」

「……。間違ったことを、しているものか。地平で……この地平で最強の者を。勇者に比肩し得る英雄を探すという話だったはずだ……!」

「はぁ……その年なんだからさ……。いい加減、考えてくれよ。本当にどうしようもない奴連れてきてどうすんだ。本当は、こんなもん……文句が出ない程度に有名で、人族じんぞくに味方していて、ロスクレイが勝てる程度の連中だけでよかったんだよ。なのに、アホが勝手にクソ野郎どもをかき集めてきやがった。どいつもこいつも……権力が欲しいからって、自分が勇者を担ぎ出したいからって」


 パンの包み紙を、片手で握り潰す。

 どうして、どうせ能力に持て余す権力などを求めるのか。先の展望もなしに成り上がったところで、何を得ようというのか。ヒドウには全く理解できない。

 彼はただ――何も心配することなく、自由に暮らしていたかっただけだ。

 広場で彼に声をかけていた市民たちのように、何も知らずに日々を生きていければそれで良かった。


「……貴様らはいつもそうだな」


 背後に座る将は、自らの膝に目を落としたまま、低く呟いた。積もった無念と、怒りが込められた声色のようであった。

 暖かな日差しの降る白昼の市街とは全く乖離した、凋落の世界に生きている。


「ああ?」

「いつも、そうだ。貴様らには、何もかもを決める権限がある。そうして作った決まり事に、私たちを従わせようとする。だが、貴様らが最初に決めた事を、私たちが貴様ら以上に上手くこなした時……貴様らは、いつでもそう言うのだ」


 “羽毟り”のハルゲント。時代の趨勢を読み切ることができず、ただ惰性のような鳥竜ワイバーン狩りのみで功績を主張し続けてきた男。

 時代遅れの官僚だ。これからの時代には一切必要とされることはないだろう。そしてそのようになる未来も、恐らくは既に決まりきっている。


「『本当はそうではなかったのだ』と。『少し考えれば分かったはずだ』と。『もう違うルールになったのだ』と。私たちは、何も賞賛されることはない。何もかもを決める権限は、常に貴様らのような連中にあるからだ。“本物の魔王”が現れる前は、小鬼ゴブリン鳥竜ワイバーンを狩れと言った。人里を襲い、開拓を脅かす、彼らこそが悪だと言った。だから私は、鳥竜ワイバーンを狩れば成り上がれると信じた。それだけをした」

「頭が湧いてるのか? 俺が言ったわけじゃない」

「――同じことだ。貴様らは誰も、まったく同じだ……! 次は魔王を。次は勇者を。いつでも貴様らは賢く、『本当はそうではなかったのだ』と言う! 私は悪の定義すら変えた! 誰も見たことのない冬のルクノカを、ここまで連れ出したのだ!」


 ハルゲントが立ち上がったのが分かった。ヒドウは心底から、彼のことをくだらない人間だと感じている。

 自分自身の言葉で、自分自身の不遇と怒りを増幅させている、愚かな男だ。


 ヒドウは目を細めて、目の前に広がる草むらを眺める。このまま全ての言葉を無視して、公園を横切って立ち去っていく自分を想像する。この無力な将ができることは、何もない。二十九官として、ハルゲントがこれからの決定に携わることはない。


「ふ、冬の……冬のルクノカだぞ!? 紛れもない、伝説の、地上最強を! 何故誰も私を賞賛しない!? 何故誰も驚かない!? 貴様らはどうすれば満足なのだ! ただ一つ、アルスとの戦いすら、貴様らは正当な報酬ではないと言うのか!」


 その主張はあまりにも支離滅裂で、八つ当たりにしか思えぬ論理だ。

 常軌を逸して名誉と地位に執着するハルゲントは、詞術しじゅつが通ずるにも関わらず、まるでヒドウとは価値観が違う。別種の生命体であるかのようだ。


(……)


 だが。理解できぬなりに、腹が立った。

 彼もまた、片手の包み紙を叩きつけて長椅子を立った。


「……おい、オッサン。あんたに俺の何が分かるんだ?」


 この六合上覧りくごうじょうらんにおいて、一切の野心を持たぬかすがいのヒドウが、真っ先に星馳せアルスを擁立した真の理由を、誰が理解しているだろうか?

 彼はこの王城試合の行く末を、真に憂慮している。心の内で刃を向けながらも、この世の誰よりも星馳せアルスの力を信じている。

 誰よりも先に星馳せアルスを押さえていなかったなら――


 他の誰かがアルスを擁立し、


 どうして望まぬ役割ばかりを、ヒドウが引き受ざるを得ないのか。

 この世界に、ハルゲントのような男が存在しているからだ。

 誰も彼もが、この世は絶望的な無能ばかりだ。ヒドウは無能でいたかった。


「好き勝手言ってくれるよな。そんなに冬のルクノカがご自慢かよ? 伝説を見つけたあんたはそんなにお偉いのか。そんなに、冬のルクノカは強いか。なァ」


 振り返り、帽子の下から睨めつけただけで、第六将ハルゲントはたじろいだ。

 両の拳は震え、虚勢を張っていることがありありと分かった。

 この場で泣かせることすらできただろう。そんな可能性を思い浮かべるくらいには、ヒドウは腹が立っていた。


「……」

「――いいよ。勝負してやる。静寂なるハルゲント」


 どうしてそのような弱者に腹を立てているのかを、ヒドウは理解していない。

 心からの憎悪を込めて、彼は告げた。


「殺してやるよ」

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