黄都 その4

 煉瓦道を覆う枯れ葉が、リナリスの革靴の下でさくさくと音を立てた。

 昼の街をこうして走るなど、幼い彼女にとっては、何年ぶりのことだっただろう。


「お父さま!」


 礼服姿の父は、振り向ことなく足を止める。

 ――黒曜レハート。誰よりも尊敬する、彼女の偉大な父。

 ずっと、そうであってほしいと願っていた。


「息を整えなさい」


 行く手に回り込んだリナリスの肩に手を置いて、金色の瞳が見据える。

 穏やかで……決して揺れることのない、低い声。


「そのような有様では、せっかく身につけた礼を正すこともできない」

「……ご、ごめんなさい……私、どうしても、お尋ねしたいことが……」

「大事な話なのだね。リナリス」


 涙を両目に溜めたまま、リナリスは頷く。


「お父さま……お父さまの仕事は、人の秘密を暴いて……殺したりもするのだと……それは、本当なのですか……? 先日の、エメラヴァ公のこと……あの優しいおばさまが死んでしまったのも、“黒曜の瞳”の仕業だったのですか?」

「……そうか。それを誰から聞いた? リナリス」

「ユフィクが……そのように……。お父さまは、いつも優しくて、大好きで……わ、私、きっと嘘だと思いたくて、でも……!」


 大きな掌が、リナリスの頭に置かれる。いつもと同じように。

 だから……ああ。この掌が、人殺しの手であるなどと、信じたくはない。


「必要なことだ」

「……お父さま」

「リナリスは知っているね。“黒曜の瞳”には、弱き者が数多くいる。それは力の強弱という意味ではなく、社会に生きていけぬ弱者だ。彼らと強き者との違いは、リナリス。なんだと思う?」


 レハートは狼狽えることも口を噤むこともなく、穏やかに尋ねた。

 苦悩と罪悪に揺れる心のまま、リナリスは絞り出すように答える。


「わかり……わかりません……」

「それはね。秘密を持てるかどうかだよ」


 父は腰をかがめて、諭すようにリナリスの背中を撫でた。

 それは正しくない振る舞いだと分かっているのに、言いつけ通りに身を正さなければならないのに、涙が次から次へと零れ落ちて、止まらなかった。


「ネヘルは、貴族のお金を盗まなければ生きていけなかった。フレイは、恋人のために主君を裏切ってしまった。ユフィクは、たくさんの友達を殺してしまった。彼らは皆、隠しておきたい秘密を白日に暴かれてしまった者だ。彼らの罪を、彼らが許されぬ者であることを、誰もが知っている。彼らはそう望まなかったはずなのに」

「で、でも、皆、素敵な人です……リナリスのように体が弱くて……何もできない子供にも、優しくしてくださいます……」

「――そうだね。私たちと何も変わらない。彼らを誰が救ってくれる? 貴族も将軍も……王族にだって、隠し通したい秘密がある。彼らは兄弟を殺し、民を搾取し、財宝を隠しているのに、弱き者を虐げている。彼らと私たちの友との違いは、ただ一つ。秘密が暴かれていないだけだ」


 顔を近づけて、父は囁いた。そうしていつも、正しいことを教えてくれる。

 ……けれど。


「弱き者はね。秘密を食べなければ生きていけない。自分の秘密を失ってしまっているから、誰かの秘密が必要なんだ。すべて、皆を……私とリナリスの友達を助けるために、必要なことなんだよ」

「皆の、ため……」

「お前は本当に賢い娘だ。分かってくれるね。リナリス」

「ええ……よかった……。やっぱり、お父さまは……お優しいひと……」


 リナリスは涙を拭った。自分と同じ色の金色の瞳を見て、精一杯微笑む。


(――嘘)


 まだ思春期を迎えていない、血鬼ヴァンパイアとしての支配の力を持たぬ年頃でも、リナリスにその力は備わっていた。人の心を洞察し、それを深く思考する力。父からの教えに対してあまりにも皮肉な、秘密を暴く力が。

 だからそれを理解できる。


 父が語った大義名分は、嘘だ。

 “黒曜の瞳”は、弱者を救うための組織などではない。

 数多の秘密を食らったその力で、黒曜レハートは昏き戦乱をこそ望んでいる。


 自分を抱きしめる大きな胸に強くしがみついて、流れる涙を隠した。

 それでもまだ、そう思ってしまうことを止められない心に、リナリスは耐えられそうになかった。


(お父さま。大好き。大好き。ひどいことをしているのに、ごめんなさい。リナリスは、それでも……お父さまのことが大好き。大好き。大好き。大好き――)


 翌日からユフィクの姿が消えた。

 秘密を失ってしまった者は、そうして死んでいくのだと知った。


――――――――――――――――――――――――――――――


 真夜中を過ぎていた。水辺に近いこの邸宅は、黄都こうとの中でも閑静な一角にある。


「……お嬢様。オカフの兵に動きがありました」


 扉の外から声が響いて、リナリスは甘い微睡みから覚めた。

 蝋燭の明かりすらない暗い寝室の中では、長い睫毛に覗く金の瞳だけが光る。


 真新しいシーツを胸元に引き寄せて、リナリスは扉の向こうに答えた。


「お父さまに代わって、私が伺いましょう。少しだけ、お時間をいただけますか?」

「危急ではありません。お嬢様もお疲れでしょう。どうか、ごゆっくりどうぞ」


 足音が離れていく。

 六合上覧りくごうじょうらんの候補者が伝えられて、三日目の夜であった。


「お父さま」


 美しい血鬼ヴァンパイアは、すぐ横に眠る父の頬を、慈しむように撫でた。

 今も生術せいじゅつで保存され続けている体は、かつてと何も変わらない。

 もはや言葉を投げかけてくれなくとも、導いてくれることがなくとも。

 彼女を支配する者は、ただ一人だ。


「リナリスが……必ず。お父さまのための栄光を、捧げます」


 僅かに開いた窓からは、冷えた夜の空気が染み込んで、リナリスの肌を撫でる。

 誰もが意識と警戒を解くこの時間にこそ、“黒曜の瞳”は動く。


 身支度を整えた後で、リナリスは階下の大部屋へと降りた。

 今の警護を担当する者は、古参となる杖使いの小人レプラコーンの女、目覚めのフレイ。

 ゼーエフ群より出奔した剛力の狼鬼リカントの戦士、光摘みのハルトル。

 邸宅に留まる者は時刻によって変わるが、ただ一人、六合上覧りくごうじょうらんの出場者であるゼルジルガだけが、常にエヌと行動を共にし、彼女たちと直接に接触することはない。


「ごきげんよう。フレイさま、ハルトルさま」

「ええ、お嬢様も。よい晩です」

「先頃、帰還したばかりで。帯刀の無礼をお許しあれ」


 この場にはさらに、“黒曜の瞳”ではない一人の姿がある。

 虚ろな眼差しで燭台の光を見つめ続ける、オカフの兵士だ。

 長い杖を肩に担いだままで、フレイが問う。


「彼を動かしても問題ありませんか?」

「……そうですね。すこし、試してみましょう」


 リナリスは淡く微笑んで、兵士の前へと座る。

 燭台の橙色の光が、透き通るような白い肌を照らした。


「私のことを覚えておいでですね?」

「……あ、ああ」


 兵士はやや虚ろなまま、それでも自らの意識で答えた。

 彼はとうに屍鬼ドローンだが、リナリスがそう望まぬ限りは、支配権は彼自身にある。


「ならば、どのようにしてここに来たのか。私がどうしてあなたを助けたのかを、思い出せますか? もう一度、お聞かせいただきたいのです……」

「……はい。私は……」

「フレイさま。彼の拘束を緩めてあげてください」

「はい、はい」


 椅子に後ろ手に縛られた手を解かれ、兵士は動きの自由を取り戻した。

 それでも彼は一切の抵抗なく、眼前の少女へと話しはじめる。


「私は……黄都こうとの軍に襲われ……貴女の兵に、救われました。そして、ここに……ずっと。どれくらい居ましたか? 今の時間は……?」


 一睡もせず、動きの自由すらなく、半日近くを拘束されていたはずである。

 その間はリナリスの支配によって、ひたすら燭台の光の一点を見つめ続けたままで、指一本触れられてすらいない。

 監禁の間、リナリスは彼に少しの話をして、長い時間を与えただけだ。


 病を感染させた屍鬼ドローンに対する、母体からの強烈な魅了。行動と言語の操作。極めて強力なその力すら、一つの糸口にすぎない。強制的に心の障壁を開いたその先。真に歴史を重ねた血鬼ヴァンパイアのみが知る応用の技はそこにこそある。

 他の修羅と同様に、リナリスもまた、生まれ持った天才性に留まらぬ研鑽を重ねている。彼女の場合は、肉体ではなく精神を破壊する技術。かつての黒曜レハート以上の精度で施され、強制支配を離れてなお心理に永続する、洗脳の手管だ。


「私の素性を、説明できますか?」

「逆理のヒロトの……部下で、連絡員。名前は……」

「……」

「名前は、わかりません……顔も……。けれど、貴女に報告すれば、偵察の任務を果たせる……だから、候補者の情報は……貴女に報告する」


 リナリスは二人の配下に向き直って、細い両指を軽く合わせて笑った。

 そのまま、命を下すまでもなく彼を退室させる。


「問題ありません」


 目の前に見えているリナリスを記憶できないことを、疑いすらしない。

 この段階にまで至れば、彼女らの陣営の擁立者――千里鏡のエヌと同様の状態だ。

 黄都こうとに潜入するオカフの兵のみを狙い、既に五人をそのように仕立て上げている。


「はいはい。それでは、報告をいたしますかねぇ。今夜の内に、少なくとも三十のオカフ兵が黄都こうとを離れました。私が思うに、全軍を撤退させるつもりではないかと」

「……潔いのですね。もうすこし、惜しんでくれればよかったのですけれど」

「察知も決断も早い……様々に方角を撹乱してはおりますが、どうやら、アディケ開発特区へ集めるつもりでいるかと。さあて、どのようにいたしましょうか」

「……」


 リナリスは色素の薄い唇に人差し指を当てて、敵の思考を追跡していく。

 彼女には人の心を洞察し、それを深く思考する力があった。


 オカフ全軍の撤退は、自身の有利を早々に捨てる手でありながら、この状況に対する最も根本的な対処といえる。

 黄都こうとにいない限り、オカフの兵は他の候補者を探ることはできない。全軍撤退の命令に従わぬ者は離反者として絞り込むことができ、追跡すれば裏でそれを操るリナリス陣営へと辿りつける可能性がある。


(……けれど。兵を一時退かせるとすれば、近く、人口も多いギミナ市の方が都合が良いはず。どうして、わざわざ開発特区にまで)


 恐るべきは、千一匹目のジギタ・ゾギ――あるいは彼の背後にいる逆理のヒロトか。どのような手練手管で哨のモリオと交渉したかは分からないが、オカフ自由都市の兵の離反を認知しながら……裏切りを疑うことも疑われることもなく、僅か二日足らずで、その大規模な行動を合意に至らせたということだ。

 他の候補者にヒロト陣営の関与を辿らせ、互いに食い合わせる策も、これでは進展が望めぬ。


「殺してしまおう」


 二人の会議を眺めていたハルトルが、腕を組んだまま口を開いた。


「手駒に変えたオカフ兵からこちらの素性を探られる危険が大きい。お嬢様……俺ならば手駒の連中はここで殺しておきます。我々の斥候の一番の強みは、すぐに用意でき、替えが効くこと。後生大事に抱えておくこともない。黄都こうとの兵の仕業に見せかければ、同じく両者の対立を望めるかと」


 “黒曜の瞳”の配下は、全てが屍鬼ドローンでありながら、彼ら自身の意思と思考があり、忠誠を誓っている。

 故に、“黒曜の瞳”は単なる血鬼ヴァンパイアの一族群体とは一線を画する。


「左様でございますね」


 剣呑な提案を受けてなお、令嬢は淑やかに微笑む。

 その微笑みのままで続けた。


「――どうせならば黄都こうとの兵も、“日の大樹”の兵も、“教団”の方も、いくらか殺してしまいましょう。明日の夜明けまでに、関係者の内からそれぞれ二、三人を見繕っていただけますか? 全てを、私たちの斥候であったことにいたします」

「な……なるほど。多数の勢力内での同時の死。多少なりとも偵察が行われていた内実を知る者なら、勝手に関連付けるということですか……」

「ええ。せっかくなのですから、敵の姿は大きく想像させておいたほうが、きっと都合がよいでしょう? ジギタ・ゾギさまにも……黄都こうとの皆さんにも」


 それはヒロトの陣営に対する、彼らの動きの意図を知ることを伝えるメッセージでもあり、他の勢力との協調を遅らせるための牽制でもある。黄都こうとのどの勢力に真に彼女の手が潜り込んでいるか、ヒロトには判別することができない。

 そして他の陣営に対しては、撤退したオカフの軍と、同時の不審死を遂げた関係者との関連を疑わせる一手ともなり得る。巨大な敵を想像させれば想像させるほど、彼らはオカフを背後に持つジギタ・ゾギを脅威視することになる。


 リナリスの目的を達するためには、必ずしも六合上覧りくごうじょうらんに固執する必要はない。

 この催事を利用して、黄都こうとに集う軍勢――オカフ自由都市と黄都こうとの間で戦乱を引き起こせたのならば、それで彼女の望む戦乱の世が訪れる。故に、最初に狙いを定めるべき候補者は、ジギタ・ゾギだ。


「はいはい。レナとヴィーゼに伝えて、すぐ殺してしまいましょうねぇ」

「お願いいたします。お父さまもきっと、そのように望んでいらっしゃいますから」


 “黒曜の瞳”の主は、この暗闇の邸宅から動くことはない。

 リナリスの血鬼ヴァンパイアの病原は、彼女本人からでなければ空気感染することはないためだ。他者に感染し定着した時点で、それは尋常の血液感染の病原となる。


 それは一見して短所だが、生存戦略という観点で見れば、むしろ長所になる。

 際限のない空気感染により黄都こうと全域が病に侵されたのなら、彼らは一致団結して感染源を辿り、彼女を始末するだろう。それはただの流行り病と変わりはない。

 だが、リナリスが動かぬ限り、感染経路は完全に彼女の手の内にコントロールできる。加えて、“黒曜の瞳”程の戦士であれば、血液感染の条件は容易に達成できる。

 思考する疫病。彼女自身が動くのは、真に重要な標的を狙う、その時のみだ。


「……そして、すべては秘密のうちに」


 もう一度、密やかな唇に人差し指を当てる。

 試合が始まるその時まで――始まった後ですら、正体を悟らせない。全ての謎を握り、影の計画を以て、目的を達する。それが“黒曜の瞳”。


「そうでなければ、私たちは生きていけないのですから」

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