全ての敵、シキ その1
ウメデ街道の途中に、一つの野営の光があった。
旅路を共にするソウジロウは、少し離れたところで簡易寝袋に包まっている。
彼の傍らには、まだ訓練用の練習剣がある。
「ごめんなさい。私、ナガン市から外に出たことが、あまりなくて。野営具もそういう……最低限のやつしか持ってないわ」
「んァ。いいんじゃねーの。獣もいねェ。安心して寝れりゃ上等だろ」
何日か旅をして分かったが、ソウジロウはこのような突然の野営に、とても慣れている。“彼方”の文明はこちらよりも進んでいると聞いていたユノにとっては、僅かに意外な事実であった。
ユノはふと、頭に浮かんだ問いを尋ねた。
「……この世界に来る前は、どうだったの?」
「あァ?」
「この前教えてくれたでしょう。M1エイブラムス……って、別の国の戦車なんだって。そういうのも含めて……“彼方”の世界って、どうなっているのかなって」
「ああそれ……なんか、おれも正直、わッかんねェんだよな」
「……?」
――――――――――――――――――――――――――――――
「や、やめっ……やめてください! もう死にます! 死んじゃいますから!」
生きる声がとうに途絶えた廃墟の中、狂った
アツィエル貴族領。この地がそう呼ばれていたのも小一ヶ月前までの話だ。
この地の全ての住人は、人でありながら、もはや心は人でなくなってしまった。
“本物の魔王”によって全てが狂った地の中では、正常に整理された路地など望むべくもない。小柄な少年の逃走経路を、崩れた瓦礫の山が阻んだ。
「ああああ!? 死ぬ!」
彼は明るい赤髪をガシガシと掻く。もはや終わりだ。
血と腐肉の臭気を漂わせる
「――ああ……ああもう! 死んじゃいますから――ッ!」
振り向きざまの槍の刺突が、すれ違いざまに巨獣の口内を掠る。
少年の着地は僅かに返り血の尾を引いて、そのまま
ただ掠ったのみの交錯に見えるそれは、竜鱗に覆われぬ口内より頭蓋の隙間を通し、脳の一点を穿って切った、神速の絶技であった。
「ハァ……ハァ……ハァ、畜生……! 死んだらどうすんだよこの野郎……! 僕だって頑張ってるんだぞ……頑張ってるよな……? こんな、毎日……! こんなことされる謂れはないだろ……!」
振り抜いた赤槍を支えとして、彼は荒い息をついている。
あまりにも若すぎる槍術の天才。その名を無明の白風アレナと呼ばれていた。
彼の逃げ惑う様を眺めていた者は、塀に腰掛けたまま、手を叩いて笑う。
「ヒャハハハハハ! 相変わらずすげーなお前! 本当に
「ル……ルメリー……まさか見てたの!? 僕が!? 死にそうなのを!?」
「どこが死にそうなんだよ」
落ち着いた印象の二つ結びを揺らしながらも、その口は対照的に意地悪く笑う。
汚れた地のルメリーという、
――彼に分かっているのは、彼女が計り知れぬ領域の
「お前は鼠が出ても
「あのね……僕だって、いつも必死なんです。死にたくないから、毎日鍛えて、もう火事場の全力で、ようやくこれくらいの速さが出るわけ。ルメリーみたいなお気楽な天才じゃないんだからね」
「おっ、言うに事欠いてあたしを天才扱いか? すっげー面白えな! ま、そう思われてた方がいいか! ヒャハハハハハ!」
……当然だ、とアレナは思う。
“本物の魔王”が現れるよりも前、最強にして最悪の魔王と呼ばれた色彩のイジックと
黒く、蝕むような
「君が来てるってことは、他の皆も?」
「あァ。イジックのクソ野郎が準備がどうのこうのってまだグズグズ言ってやがったから、引きずって来てやったよ。……魔王」
石塀の上で屈み込んだまま、彼女は一つの砦を睨んでいる。
彼女は一行の誰よりも、その存在を憎悪していた。
「――“本物の魔王”。ようやく殺れるな」
正義や道徳のような価値観を、尽く冷笑するような少女であった。アレナ自身と同じように、英雄としてあるべき志で戦っていないようでもあった。
彼女は、何故あれほど恐ろしい“本物の魔王”に挑もうとしているのだろう。
その理由を尋ねられる日が来るのだろうか。もしも魔王を倒したのなら。
「ふむ。アレナ君は、また喧嘩に巻き込まれたのかな」
ふらりと路地を曲がって現れたのは、丸眼鏡をかけた、朴訥とした風貌の男だ。
星図のロムゾという、これも彼らの同行者の一人であった。
「いや先生、喧嘩じゃないんですってば! 魔王軍ですよ!? 僕……今日こそはもう、真面目に死ぬところだったんです!」
「同じことだよ」
ロムゾの後方には、筋肉の力を失った住人がまばらに倒れている。
狂い果てた魔王軍と化した者達を、このように傷つけることなく……何より自身が一切恐怖に呑まれることなく、制圧可能な達人であった。
「場末の喧嘩でも、魔王軍の暴徒であっても。心の乱れを悟られれば、それは相手の感情の炎を煽るだけになってしまう。だから君は不運に巻き込まれやすい」
「……それは、そうかもしれないですけど。でも怖いのはどうしようもないですよ。僕もサイアノプと一緒に行けばよかった……」
「そうだね。君はそうできた。なら、どうして“本物の魔王”に挑もうとしたのかな」
「それは……」
――何故だろう。誰かがやらなければならない。それは間違いなかった。
だけど無明の白風アレナに、それを果たすべき信念があるだろうか。
この期に及んでも、そう思う。彼の旅はもう、“本物の魔王”の、その目前にまで辿り着いてしまったというのに。
「じゃあ、三人で行こう。イジックが待ちかねてるよ」
「……はい。行きましょう」
「待たせたのはあのオッサンだろ! 相変わらずふざけた奴だなあの野郎……!」
二十一年前。“最初の一行”と呼ばれる七名がいた。
弓の一つで奴隷から英雄へとのし上がった、天のフラリク。
連綿と続く秘めたる業を極めた
世界より放逐された邪悪なる
天運に見放された不世出の槍の神童、無名の白風アレナ。
地上最悪の異名で恐れられた魔王自称者、色彩のイジック。
異界の影の技を振るう“
人体経絡の全てを理解した技術医療の先駆者、星図のロムゾ。
彼らはこの地平に生きる全ての希望の星だった。初めて“本物の魔王”に挑む勇気を出した七名だった。時に敵対し、時に共に魔王軍へと立ち向かった彼らは、今日のこの日に、最後の戦いに挑んだ。
「――ルメリー。ティリート峡での戦い以来だな」
「ユウゴさん……! あの時の約束、覚えてるよ。あたし、きっと力になるから。“心の刃を隠せ”。ユウゴさん、言ってくれたよね」
口元を黒いマフラーで覆い隠した男は、かつての敵の言葉に穏やかに頷く。
移り
ただ一人だけが胡座をかいて座り込んでいる。
緑の外套を羽織り、くたびれた印象を与える中年の男であった。
彼は常の飄々とした態度で、指で作った窓から砦を覗き込んでいる。
「んー、いやいやいや、まずいねこれ。やっぱこれ、かなーりキツいよ」
「おいイジック! クソ野郎!」
「痛っつ!」
異端の
「四の五の言わねえでやるッつったろ! つい今朝だぞ! ビビってんじゃねえ!」
「いやあルメリーちゃん、俺、ビビってないよ? あー……嘘ついた。ごめんね。ビビってるんだよ、正直。おかしくない? 血も涙もない色彩のイジックがだよ?」
存在するだけで、その地を狂気へと染め上げる“本物の魔王”。
誰もその姿を見たことがない。近づく者も、近づかれた者も、尽く狂ったからだ。
未知の恐怖に立ち向かうためには、勇気が必要だった。
ここに集った七名のように、自我を支える力がなければ辿り着けなかった。
目を背けたくなるような恐怖がある。
何も異常のない領主の砦であるはずなのに、そこに“本物の魔王”がいると、一目で理解できるほどの、実体を持つ恐怖が。
「どうする、フラリク。俺はどちらでもいい」
「……う」
ユウゴは、腕を組んで尋ねた。
天のフラリクは常のように不明瞭な答えのみを返し、砦をじっと見据えている。
先天的に、そのような発声しかできぬ男であった。
「あ……」
「――フラリクは、行くと言っている。ならば俺も行く」
「クゥ、クゥ……今日殺るしかなかろうよ。すぐ先に人里がある。そこが滅ぶぞ」
ユウゴの言葉を継いだのは、彼岸のネフト。
座り込むイジックの他の者たちは頷き、イジックも渋々と立ち上がった。
「まー、別にいーけど。いつ死んでも悔いないように、好き勝手悪いことばっかやってきたんだしさ! ハハハハハハハ! 死ぬか殺すかなら、まあ派手派手にやってやろうか! 精々、楽しくさァ!」
「……ん」
フラリクは微笑んだ。言葉を語ることはないが、彼は常に一行の中心にいた。
――そして、彼らは砦へと踏み込んでいく。死地へと。
そう。それは死地である。
後の時代の誰もが知るように、“最初の一行”は敗北した。
後に続く多くの英雄と同じように、あまりに無力なままに。当時の誰もの希望とともに潰えた。その未来を、無論この時の彼らは知らぬ。
「……分かるぜ。“本物の魔王”……この先だ」
生成した
足首程度の大きさしかない
得体の知れない威圧を、死の予感を、七名の誰もが感じている。
真っ先に扉に手をかけたのは、無明の白風アレナ。
「僕が開けます」
そうするべきだと判断した。フラリクの矢とルメリーの
今は全員がロムゾの点穴の技を受けており、尋常ならぬ集中力を発揮できるはずである。しかし、常人の発狂するこの恐怖の重圧に耐える点穴の技はない。
心臓が高鳴り、口の中が乾く。
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
アレナは恐ろしさに震えている。他の英雄は、そんなことを思わないのだろうか。
(……“本物の魔王”)
扉を開いた。ぞっとするような寒気が、神経を撫でた。
すぐに、全てを焼き尽くすルメリーの
「【
詠唱が、止まった。
誰よりも疾かったはずのフラリクの弓の弦すらも動かなかった。
影に乗じて全てを切断するはずのユウゴも、その場に立ったままだった。
何故だ。鳴り止まぬ動悸に怯えながら、アレナはその理由を探そうとした。
探すまでもなく明白すぎる理由を。
――恐ろしい。
「ああ。お客さんかな」
綺麗な声だと思った。それは寝室の中で、ごく普通に椅子に座って、ごく普通の
さあ、と風が吹き込んだ。外の世界に吹くのと同じ……この絶大な恐怖のない世界と、同じ風であるはずだった。
黒く長い髪がさらさらと揺れて、そして真っ黒な瞳が彼らを見た。
彼女は微笑んだ。
恐るべき魔王。全てを蹂躙する荒廃の悪魔。
あるいは形持たぬ、破滅という現象そのもの。
どれでもなかった。
ただの少女だった。
“本物の魔王”が彼らと異なるのは、ただ一点しかなかった。
単純な縫製の黒い生地に走る白い線。胸元に目立つ赤いスカーフ。
……それは、どこよりも遠い異文化の衣である。
「――こんにちは」
セーラー服、という。
――――――――――――――――――――――――――――――
要領を得ぬソウジロウの答えを、ユノは訝しむ。
ソウジロウは、自分の世界が自分で分かっていないとでもいうのか。
「……どういうこと?」
「なんつーか、おれの国さ。随分昔にめちゃくちゃになっちまって、色んな国の連中もやって来てさ。戦いっぱなしで、分かんねェのよ」
「それって……。その、戦争ってこと……よね。あなたの国って、もう……」
「ウィ。そうなんのかな。子供の時からそうだったし、おれは聞いただけだけどよ」
そうだ。考えてみれば、当然の話であった。ソウジロウは異国の兵器と戦ったことがある。言われるまでもなく、そのような状況があったということになる。
ユノにとっての迷宮都市の滅びを、この異界の剣士はとうの昔に味わっている。
「相原四季ってやつが、滅ぼしちまったってさ」
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