逆理のヒロト その2
(――気に食わない)
陣の中央で双眼鏡を覗き込む男は、
ここイマグ北部平原は、陣を敷くに絶好の地形だ。東には広大な運河。北には深い森。さらに背後にはイマグ市があり、補給物資に困ることもない。有害な虫獣の少ない乾いた台地で、この場を押さえている限り、イマグ市の陥落はない。
……だが。だからこそ、この布陣の易さを利用されている気がしてならない。
森の反対側、旧王国主義に賛同したトギエ市をも取り込んで陣を構える破城のギルネスの軍は、今もなお
(気に食わない。俺の軍だけでいつまでも抑えられるものか。王城試合だと……どいつもこいつも……勇者だ英雄だと、戯言を抜かしやがって。現実の問題が目に見えているのは、俺しかいないのか)
この北方方面軍を率いる将は、第二十四将ダント。そして第九将ヤニーギズ。現状は、それで十分な戦力であると考えられている――その通りだ。敵はただの烏合の反乱分子でしかない。現状は、まだ。
明らかに、王城試合の運営に伴う用兵の硬直である。
第六将ハルゲントなどに至っては、武官としての体裁すら捨て、どこぞで“本物の勇者”を探しているのだという。呆れた話だ。
(こちらに援軍は来ない。だがあと何日、ギルネスは粘るつもりだ。いや。ギルネスはまだトギエ市内。前線で指揮を取っているのは、
生まれつき筋骨が極めて肥大した、ギルネスにも劣らぬ力の女丈夫であると聞く。
この膠着が意図的に仕組まれたものであるなら、知謀も侮れぬ相手だ。
イマグ北部平原は、守りには向く。だが攻めはそうはいかない。
正面に向かうためには低地の森を潜らねばならぬ上、森を西に迂回すれば一転して地形が荒れ、数の優位の生かせぬ乱戦となる。
事実ダントは、最初の数日に幾度か部隊を送り込み、敗走の憂き目に遭っている。
それでも、ここを後退してイマグ市で籠城戦を行うこともできる。だが、そのようになれば市民の消耗も少なくはなかろう。
それは、ただでさえ不満の多い
何より、そうなればいよいよ援軍要請が必要になる。無能の誹りを逃れられない。
「団長閣下。森林へと差し向けた斥候部隊ですが」
伝令が報告を持ち帰ってきた。
遊撃能力に優れた少数の兵で森林の中を抜け、敵陣を探る――
現状の膠着を打破する、一縷の望みを賭けた作戦であったが。
「帰還者は、現時点ではおりません。やはり遊撃戦の相当な手練が敵にいます」
「チッ! 森は連中の城壁か……! 把握した。すぐに持ち場に戻れ!」
「……了解」
森を焼き払うべきだろうか? ……恐らくは、それが容易く出来ないことすら、敵は承知の上だ。
この森は林業を営むイマグ市の財産であり、
一方で、旧王国主義者にその枷はない。相手はいつでもこの緑のカーテンを焼き払い、必要十分な軍勢に達した時、正面より攻め込むことができる。
やはり、西。容易なことではないが、粘り強く戦線を伸ばし、迂回してギルネスの陣を叩くべきだ。だがトギエ市を背にして、盤石の防衛布陣で立ち向かうギルネスを相手に勝機があるか……。
「……団長閣下! 西方方面の斥候より報告です! オカフ自由都市と思われる軍がこちらに向け進行中!」
「オカフだと!?」
「規模二千! 現在カミケ街道を行軍中とのこと!」
ダントは、急ぎ地図を広げる。オカフ自由都市。黒い音色のカヅキの攻城戦に少なからぬ被害を受け、攻勢に出ることはあるまいと考えていた。
いや。それよりも何故わざわざダントの陣へ。仮に彼らが
「傭兵どもめ……旧王国主義者と合流するつもりか……! 撤退だ! すぐさまイマグ市に取って返す!」
「この平原を放棄するということですか!?」
「そうだ! 奴らが横合いから割り込むのならば、こちらの退路を断ちに来る! イマグ市との繋がりを断たれれば、この台地などただの野晒しの棺桶だ! 全員干上がりたくなくば退けと、兵に伝えろ!」
オカフ軍はカミケ街道。全軍を撤退させる時間はある。そして両軍を阻む森がある限り、ギルネスの軍が撤退中の後背を突くこともできぬ。
だが、結局は籠城の選択へと追い込まれた。どこまでが敵の手の内だったのか。
ダントは歯噛みする。
(――気に食わない)
――――――――――――――――――――――――――――――
「そう」
陣の前線指揮官、
それが本当に笑みであるのか兵の目からは分からぬが、血風吹きすさぶ戦場においても、彼女の表情が変わったためしはない。
「オカフの軍の狙いはなんでしょうか?」
「
カニーヤの太い腕が、肉厚の包丁の如き剣をくるくると回す。
彼女は戦闘を予感している。それも互いに死線を交える激闘ではなく、勝利を伴う蹂躙の予感だ。
「けれど、利用できるわね」
「敵が動くのが今なら、我らが動くのも今です。どのように?」
「森を抜ける」
「……抜けることができますか?」
「できるわ。十分速度を保ったまま、抜けられる道があるの」
何のために精鋭を森に置き、その奥の偵察を阻んだのか。
それはこのような状況が来ることを見越していたからだ。イマグ市側から森を見ていたダントの認識には、致命的な穴がある。
トギエ市側から見れば、分厚く茂る森は大きく抉れている。
密集し、侵入者を阻むはずの密林は運河沿いのその一帯のみ立ち枯れており、兵の道行きを阻むことはない。
この間隙を抜け、逃走する
……彼らが生きてイマグ市にまで辿り着くことはない。
「行きましょう。ギルネス様もきっと喜ぶわ」
「はい!」
――かくして、カニーヤの率いる騎馬部隊を先陣に、大軍が鳴動する。
その誰もがかつて王国の正規軍として武を振るった戦士であり、そして一つの思想の下に統制されていた。
「騎馬部隊に続け! 伏兵のないことを私が証明する!
カニーヤの鬨を受けて、おう、という声が重なり響く。
敵の死角であった森の空白地帯へと、今は全軍が詰めている。
これほどの数が今や眼前に迫っていることを、敵の将は一切知らぬ。
「さあ、さあ、さあ。第二十四将ダント。首級をくれ。私に首級を!」
彼女は早馬で丘を駆け上る。当然、森を出た先に伏兵はない。
彼らにとっては寝耳に水の負け戦だ。時に猶予があるとも思い込んでいる。命を賭して殿を務める部隊がいようはずもない。
何故なら、あの地形は誂えたように彼女の軍のみに追い風となる――
……ふと。
カニーヤの脳裏に疑惑が浮かんだ。
(……誂えたのか?)
その時であった。
世界の終わりの地鳴りと共に、背後に悲鳴が響いた。
次々に兵が馬を止め、味方の軍を振り返った。カニーヤは、最後にそれを見た。
怪物が、彼らを呑んでいた。
――誂えたように。
その地に、知らず集うように。最悪のタイミングで東の運河の堤防を切った。
あの地形を事前に仕組んでいた何者かが。あの地形は罠だった。
(……誰だ。誰が。
流れ込む洪水から散り散りに逃げる兵を、一人一人、打ち殺している者達がいる。
小さく、素早く、見たこともない……少なくともこの数十年見られることのなかった種族が。
森の中より
罠。戦技。集団戦術。全てが精鋭の遊撃兵を上回る、あり得ざる
「出遅れた者を救出する。異論あるものは」
「……カニーヤ様! あれ……あれは!?」
兵の一人は、答えず指差した。その先をカニーヤは見た。
カニーヤをさらに見下ろす膨れた地形の上に、その異形が待ち受けていた。
まるでそこに彼女ら騎馬部隊が現れることを知っていたかのように。
「――誰モガ。誰モガ英雄ノ素養ヲ、ソノ身体ニ持ツ」
巨大な狼のようでもあるが、蒼銀の光を灯す毛並みは自然のそれではない。
それはカニーヤの右手側で事態を恐れる、若い新兵を見た。
「ソノ男ノ足ノ腱ハ、素晴ラシイ瞬発ノ力ヲ持ッテイル。健脚ナラバ、緑帯のドメント……彼ニモ迫ル才ガアル」
もう一人の兵を見た。彼が弓を構える姿を、品定めしたかのようだった。
カニーヤが攻撃を制止することはない。間違いなく、危険な存在だ。
「…………。君ハ……弓手ニ向ク身体デハナイ。上腕筋ニ上下ノ動キノ適性ガアル。例エバ振リ下ロス豪剣――」
パン、と弦の弾ける音が響き、怪物はぐらりと身を揺らした。
だが、それだけである。
牙で受け止めた矢を地に捨て、獣は言葉を続けた。
「……ソウデナケレバ、コノ程度ノモノダ」
「こいつを仕留めるぞ」
ぐるぐると巨剣を回して、カニーヤは告げた。
平静な瞳のままで、怪物は答えた。
「敵対行動ト取ラレタノハ心外ダ。ダガ、同ジコトダナ。名ヲ伝エテオコウ」
ぐばり、と――巨大な背が開いた。
それは流麗な狼の形態からは考えられぬ、名状しがたい変化であった。
空洞の胴体内よりぞろぞろと生え現れたのは、無数の腕である。
「……私ハ、オゾネズマ」
金線と腱で補強され、それぞれが鋭い医療器具を携える……白い人体の腕。
「
――――――――――――――――――――――――――――――
「……どういうことだ……!」
オカフ軍よりの使者は、イマグ市に取って返すより早く第二十四将に接触した。
撤退を引き止め、横合いから攻める罠であるとも考えたが、現にギルネスの軍が一瞬にして壊滅している以上、彼らはダントの考えていたような勢力ではないことは明らかでもあった。
「オカフが動いた! ギルネスの軍が壊滅した! 訳が分からん!」
「……。お初にお目にかかります。ダント閣下」
使者は、落ち着き払って茶を飲んでいた。傍らには一人の
逆理のヒロト、という男だ。耳に挟んだことのある名だが、得体が知れない。
ダントは折り畳み卓の上の地図を払い除けて、乱暴に席へと座した。
「逆理のヒロト……! 何を……貴様は何を目論んでいる! 言え!」
「やはり、そう見えますか」
「当然だ! 理由のない援軍など、外患以外の何物でもない! オカフの兵を率い、俺に取り入るのが狙いか!」
「……そうですね。正直に申し上げますと、その通りです。あなたに任されていた仕事を我々が片付けた。今しがたの戦闘の流れで行くと、目先の勝利のために外患を引き入れたのはダント閣下、あなたということになりますが?」
「我々は全軍が残っている。貴様らを討てば誰も知るまい……!」
「……それは脅しです。実質の伴わない脅しにすぎない」
ダントの恫喝に一切動ずることなく、ヒロトは軽く指を組んだ。
あまりにも冷徹に……ダントの内心を見透かしている。
自身の席の横に立つ
「ご紹介しましょう。彼の名はジギタ・ゾギ。トギエ市にてギルネス将軍が兵を募っていると知ったその頃より、配下に伐採の指示を下していました。あの膠着の形は、あなたが作ったのではない。無論、
「――船ですな。傍に運河があるなら、船で運べる。誰にも見せずに更地にしたのは、まあそういう仕組みです」
「……」
「いかがでしょう? あなたの軍が無傷ならば、我々の
「こ、交渉……では、ないのか」
外見は十代の前半で、白髪混じりの灰髪だけが老成している。
間違いなく、この男は弱い。
にも関わらず……この男は。
「そうとも言いますね。恫喝とも。それを決めるのはあなたがたです」
「……俺も、
「勇者を集めているようですね。あなたがた、
またも、勇者だ。誰も彼もが、その一つばかりを気にかけている。
気に食わない。この戦いは最初から、ダントにとって気に食わない物事ばかりだ。
何よりも気に食わないのは、ダントがその流れに巻き込まれつつあることだった。
逆理のヒロトは、小さく笑った。親しみを錯覚させる笑みだった。
「そこで……疑問に思ったのですが。もしも勇者が一人でなかったとしたらどうなるのでしょう? 例えば軍を動かせる者が、その兵力を以て“本物の魔王”を倒したとしたら?」
「そんな話があり得るか……! 恐怖で誰もが狂う“本物の魔王”の力を見たことがないのか! 弱者が集まり立ち向かうほど、それは尽く死ぬ!」
「なるほど、確かに。では勇者の背後に軍がいた、ということにしましょう」
「それは……」
「ジギタ・ゾギです。千一匹目のジギタ・ゾギ。彼が、
ダントの額にじわじわと汗が浮かんだ。
それが意味するのは、王城試合への出場の権利だけではない。
勇者の関係者であった可能性がある限り、オカフ自由都市への手出しができなくなる。少なくとも民への建前の上では、そうせざるを得ない。
この男が狙っているのは、王城試合への出場枠。
「二枠をいただきます」
「……二枠……!」
「はい。すぐに話が通り、あなたにとって扱いやすい
北方のギルネス将軍の陣を利用して、壊滅させる。
オカフの兵に一滴の血も流させることなく戦いを終わらせる。
そして……新たなる戦場を用意する。
逆理のヒロトならば、その公約の全てを果たすことができる。
「ヒロト」
ヒロトの背後に、巨大な影が音もなく着地した。
それは狼のようであるが、誰もが見たことのない形態の獣である。
衛兵の目にすら留まることなく、この陣屋の内へと現れたというのか。
「マダ続ケテイタノカ? 私ノ方ハ既ニ片付ケタゾ」
「そうか。いつも助かるよ。オゾネズマ」
「……君ヲ助ケテイルノデハナイ。私タチハ、アクマデ対等ナ協力関係ダ」
……いつの間にか。
今のこの場においてすら、この脆弱な少年を殺すことができなくなっている。
話に注意を惹いている間に、彼は二種の暴力を手元に呼び集めている。
どこにも助けを呼ぶことができない。彼の要求を、もはやそのまま呑むしかない。
「二枠。彼らが、私の勇者候補です」
――そして。
「貴様……貴様はッ……逆理のヒロト! 貴様は一体、何なんだ!?」
机を叩いて立ち上がるダントを前に、ヒロトは両手を広げた。
今や支配下へと置いた全ての軍勢を背負って、彼は完璧な微笑みを笑った。
「それを決めるのは、あなたがたです」
それは聴衆の選択肢を一切封ずる、世界逸脱の演説と交渉の才を持つ。
それは一瞥のみで心を理解し、敵の欲し恐れる全てを知ることができる。
それは知られざる国家を生み、人の文明すら追い越す発展を成し遂げている。
異世界の理によって、旧き理の全てを捻じ曲げる文化侵略者である。
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