全ての敵、シキ その2

 オカフ自由都市の日が暮れ、賑わいを示す灯がちらほらと眼下に浮かび始めた。

 中央砦のテラスからそれを見下ろしながら、逆理のヒロトは、ふと呟く。


「水村香月さんが言っていました」


 ……黒い音色のカヅキは、本当に死んでしまった。

 十三年前。既に活動の拠点を他の大陸に移していたヒロトが、彼女であればと見込むことのできた英雄であった。


「有山盛男さん。あなたに伺いたいことがあったと。今なら、彼女が何を恐れていたのか……何をあなたに尋ねようとしていたのか、私は分かっています」

「……俺に? 黒い音色のカヅキは最後まで、俺たちにとって最悪の『敵国』だった。奴と取引など、今更無理な話だ」

「あちらもそう考えたのでしょうね。だから攻め落として訊く他の手段はなかった」


 いつも、ヒロトの絵図が完璧に運ぶわけではない。

 モリオがヒロトの提案を考慮する程度に戦力を削り、かつ、カヅキが勝ちきらぬ程度の時に……最後に出会った日に、両者の渡りをつけられていたなら、と思う。

 この数十年は、失わずにいることのできた物事のほうが、ずっと少ないのか。


「それで、奴は何を知ろうとしていた」

「ヒントは僅かしかありません。何故、ここ最近で現れた“客人まろうど”が、私たちの国の者ばかりなのか――恐らく、私が推測で辿り着くことすら危険な情報なのだと、彼女はそう考えていたのでしょう」

「……。そうだな。そうかもしれん。あんたは違うが、俺もカヅキも、黄昏潜りユキハルも、ここ二十年の連中か」

「ですので、推測ではなく確信が必要でした」


 彼は、夕食の卓上に一枚の布地の切れ端を差し出す。

 この世界の殆どの者には、一瞥で意味を捉えられぬ物品であろう。

 朽ち果てた学生服――セーラー服の襟の一部分であった。


「ジギタ・ゾギを“最後の地”へと向かわせ、調査させました。表向きはある傭兵の支援でしたがね。渡りに船の仕事でした」

「つまり、そうか……カヅキの疑問っていうのは、それか」

「はい。有山盛男さん」


 ヒロトはすぐさま、その布地を燭台の火で燃やした。

 “最後の地”に現存する他の全ての物証をそうするように、ジギタ・ゾギには命を下してある。


「“本物の魔王”は、“客人まろうど”ですね?」


 何故、彼らの国の者ばかりが、逸脱者として転移するようになりはじめたのか。

 ……ヒロトには、“彼方”の超人の記憶がある。

 “彼方”の戦争において、あり得ざる戦果を残したパイロットや兵士。

 あるいは歴史上、人とも思えぬ超人的な奮戦を見せた武者。

 個々の具体例を引くまでもない。その異常性が世界逸脱を果たさぬ域であれ、彼らは尽く戦場より現れ出ている。


 みはりのモリオも、黒い音色のカヅキも、“彼方”では兵士だった。

 逆理のヒロトより後の時代……恐らく、“本物の魔王”以降の“客人まろうど”のほぼ全てが。

 ヒロトの想像を絶する大戦乱が、彼の国では起こり続けていることになる。


「言っておくがこいつは、オカフでは俺しか知らん。知ろうとした奴は消してきた。こればかりは、俺達全員に関わる話だからな」

「……やはり、そうでしたか」


 “本物の魔王”は“客人まろうど”だった。

 この一つの真実が明らかになるだけで、世界は再び転覆するだろう。


 異世界よりの“客人まろうど”を導き、天地を始めた詞神ししん。既に様々な形で、この社会の文明へと浸透してしまった“客人まろうど”の知識。

 今を生きる者の価値観の根本が恐れられ、排斥されることになる。

 その後は少なくとも、“教団”や“客人まろうど”の生きていられる世界ではあるまい。


(水村香月さん。あなたはやっぱり、私の見込んだ通りの英雄だった)


 ――英雄として。この世界への責任を、果たすだけよ。


 真実に直面して、彼女がどのような形でこの世界への償いを果たすつもりだったのかは、もはやヒロトには分からないことだ。

 けれど“本物の魔王”のような途方もない災厄を前に、そのように考えることはとても難しいことであると、彼は知っている。

 英雄ならざる逆理のヒロトにとっては、到底。


(もっとも……あなたは、きっと否定するでしょうけれど)


――――――――――――――――――――――――――――――


 地を滑るように短刀を投げ、足首を刈る。這うように低い投擲姿勢からでも、ユウゴは天井に達する跳躍を果たすことができる。下段を注視させ、そのまま頭蓋を唐竹に割る。“ケブリ”と名付けられていた技だ。殺した。

 あるいは正面よりの斬術。縦の振り下ろしにしか見えぬ動きで横薙ぎを放つ、“クラミ”と呼ぶ技を放つ。これでも殺した。

 脳裏に、それらの動きを仮想している。“ヒラキ”。“ススケ”。“ネムリ”。ユウゴの習得する術の内、この少女を殺せぬ技はない……。


(――殺せる、はずだ)


 移り馘剣かくけんのユウゴの足は、まったく動いていない。

 恐怖に片膝を突いたまま、立ち上がることができていない。


「つーか……つーかさ、ずっと変だったよな!? 俺!」


 色彩のイジックは、ユウゴの後ろで叫んだ。

 いつものように笑い混じりの声ではあったが、奥には、明確な形の恐れがあった。


「なんで……誰も気づかねえわけ? おかしいだろ、だって俺が……なんで敵の居場所が分かった時点でさ……蝗の屍魔レヴナントで、街ごとやっちまわねえのかな!? そういうこと、やるだろ! 俺はさあ!」

「……イジック」

「ま、まるで……ハハ……ビビってたみたいだ……。手を出したら駄目だって、おしまいだって、ビビってたみたいだろ……なァ!? ふざけんじゃねェ!」


 袖の内から、彼は屍魔レヴナントの触手を繰り出そうとした。肉を腐食させ崩壊させる、生ける鞭――

 それすらもが、少女に到達せずに停止した。生ける者は、尽く恐れた。


「……嘘だろ……嘘……」


 ルメリーも、その光景を呆然と見ていた。七名もの英雄が立っていて、攻撃を試みることができた者は、一名しかいなかった。

 誰もがすべきことを、誰もができなかった。

 まるでただの愚か者の集まりのようだった。


 ユウゴは、必死で息吹を整えながら思考を巡らせている。


(この現象に強制力はない。ただ……心が、恐怖を感じているだけだ。それだけだ)


 そうだ。体を動かすことができる。“本物の魔王”への敵意を抱くことができる。

 血鬼ヴァンパイアの感染や、あるいは化学兵器のような毒や幻の類でもないことは、ユウゴの体質であれば分かる。

 無論、詞術しじゅつのはずがない。どこにも、“本物の魔王”を殺せぬ理由などないのだ。


「……ね、君」


 “本物の魔王”は、既に眼前にいた。

 ……とても近い距離で屈んで、ユウゴの目を見ていた。

 彼女が椅子を立ち上がって歩いてくる間、一歩も動けていなかったことを知った。


 細い指先が彼の手を握って、小さな金属の棒を手渡している。

 迅速を誇り、何者も近づかせることのなかった、移り馘剣かくけんのユウゴの手に。


「これ、刺してみたい?」


 ユウゴは、自身の掌中にある物を見た。先端が潰れて、血や髄液の染み付いた何かだった。それは元はボールペンと呼ばれる器物であったが、“彼方”を知るユウゴですら、その判別は困難であった。

 息が短く、途切れる。呼吸法を続けることができない。仲間たちは何を言っているのだろう。聞こえない。恐ろしい。逃れたい。これまで恐怖を感じる必要なんてなかったのに。彼女が見ている。笑っている。脳の裏側を掻きむしられて、狂うほどに怖い。怖い。怖い――


 ブチリ、と弾ける感触が、ユウゴの手に伝わる。

 彼はいつの間にか、ボールペンを自らの眼窩へと突き立てている。生きた眼球を抉り、自らの手で掻き出している。


 それは恐ろしいことだと知っているのに、止めなければと意識が叫んでいるのに、紛れもなく自らの意志で、そうしている。

 恐ろしい。恐ろしい。どうしてこんなことをしなければならないのだろう。


「あ、ああ……ああああああ! がはっ! ああああ!?」

「――ああ、ああ。よかった。ふふふふ」


 何が楽しいのか、“本物の魔王”は、その様を見て笑った。

 安堵でも愉悦でもない、子供のように無邪気な笑いだった。


「おま……お前、なんなんだよォ……! くそっ、卑怯な真似しやがって……詞術しじゅつが……声が、かすれて、かはっ……」


 ルメリーの声も、実際には涸れてなどいなかった。

 ただ、ありふれた物事のように、恐怖で声が出せないだけのことだった。

 “本物の魔王”は同じように動けぬネフトの傍へと立って答えた。


「私は、人間だよ」


 そしてネフトに眼差しを向けた。


「大丈夫。怖がったりしなくてもいいんだ。楽にしていいさ。……ね?」

「来るな。グゥゥ……来るな……! やめろ! 儂を、見るなァ――ッ!」


 ネフトは、自らの腕で腹を裂いた。斧すら用いずに、素手で。

 彼は血を吐き、自らの生術せいじゅつで再生し、さらに自身を拷問した。

 生きた内臓が夥しく床へと広がり、己が細胞寿命を自らの手で縮めながら、ネフトは不死ゆえの苦痛と恐怖に悶え続けた。


「アアーッ! ガッ、グアッ、ガハッ……アッ……!」

「ああ。君はどうしたいんだい?」

「あ……ひぁ……!」


 深く黒い瞳は、次にアレナを見た。彼は座り込むことすらできていなかった。

 くすりと笑って、“本物の魔王”は彼の手を取る。


「ほら。好きなことをやっていいんだよ。君たちはお客さんなんだから」

「フ、フラリク……さんを……」


 アレナは槍を持ち上げた。そのようなことを、絶対にしたくなかったのに。

 この槍をただ突くだけで、“本物の魔王”の恐怖は終わる。なのに。

 彼女の前でそうしないということが……自身の思う最大の絶望と悲惨に塗れずにいることが、恐ろしかった。


「こ、殺したい……助けて……殺させて、ください……」

「……そうなんだね。なら、そうすればいいさ」


 “本物の魔王”は肩に手を置いて、優しく笑った。

 彼女は一言も、強制すらしていなかった。


 『仲間を殺せ』と、『自らを殺せ』と、そのように強いていたのであれば、どれだけ救われただろう。

 色彩のイジックは自らの屍魔レヴナントの触手に気管を詰まらせ、動かなかった。

 移り馘剣かくけんのユウゴは両の眼球と、自らの歯の全てを、手渡された一本のペンで抉り取っている。

 星図のロムゾが、動けぬままのルメリーの骨を砕いていた。

 誰もが泣き叫んでいた。自分自身の意思で狂い、自らを傷つけていた。


「うう……! う……う……」


 天のフラリクですらも、声の出ぬままに泣いていた。

 尊敬すべき彼を引き裂いて、永久に物言わぬ肉に変えてしまう。その手を下すのは、他ならぬ自分なのだ。まるで悪夢のようだった。アレナは恐ろしかった。


 ――ああ。どうして、人は


 どうして、恐怖を知って立ち向かうのだろう。そこに恐怖があることを、何よりも自分自身が分かっているというのに。

 彼らはここまで辿り着いてしまった。生命としてのあらゆる本能が、それを避けるように、触れてしまわぬように、叫び続けていたのに。


「ごめん……ごめんなさい、フラリクさん! ひっ、ひう……!」

「う~~! うッ、ああ! あ! おッ」

「嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ……もう、嫌だァァッ! ああああああああッ!」


 槍の柄を通して伝わる感触は、他でもないフラリクの肉だった。脂肪だった。脊髄や血管が、彼の赤槍に絡んで切れた。

 一息で死なぬように、可能な限り長く苦しめて殺せる槍術が、アレナにはあった。

 地獄だった。いつも正しかったロムゾに、もう一度導いてほしいと願う。


「ああ……あああ……。容易い。容易い。容易い。容易い。容易い」


 とうに首の千切れたルメリーを、まだ殴り続けているロムゾに。

 彼の知る限り究極の詞術しじゅつ士だった森人エルフは、何一つを為せずに死んだ。


 ネフトは終わらない苦役に死に続けていた。イジックの悪罵も、もはやなかった。

 

「――そうだ。本の続きを読まなくちゃ」


 “本物の魔王”は、何事も起こらなかったかのように言った。

 あらゆる地獄の光景の中で、彼女ただ一人が普通の少女のようであった。


 何か理由があるはずだ。

 極め尽くした心理の技や、知られざる系統の詞術しじゅつでも、異能でもいい。

 何か計り知れない仕掛けがあって、彼女自身の邪悪な動機があって、世界の全土を恐怖させているのだ。

 そうでなければならない。きっと何か理由がある。


 そうでなければ、


――――――――――――――――――――――――――――――


「……サイアノプ」


 壮年を過ぎてなお若々しさを保ち続けた体は、その一日で限界にまで老衰した。

 ロムゾ。アレナ。イジック。手遅れではなかった者を連れて、彼は生き延びた。

 “本物の魔王”は、彼らを打ち倒そうとすらしていなかったのだから。


 けれど一生逃げることはできないのだろう。

 “本物の魔王”の恐怖は、いつまでも彼の精神に巣食い続ける。

 英雄の心と誇りを永久に汚す……口にすることも悍ましい、正体不明の恐怖は。


「貴様は、挑んではならぬ。あれには勝てぬ。あれには……」


 生術せいじゅつに蘇り続けた細胞の命を測る。二年。否、一年と残っていないだろう。


「……も、最早。誰も勝てぬ……」


 彼岸のネフト。彼はゴカシェ砂海で、一人残した仲間を守り続けることになる。

 外敵からではない。勝ち目のない敵へと挑む、彼らと同じ絶望の死から。


――――――――――――――――――――――――――――――


 アツィエル貴族領の外れをうろつく、みすぼらしい男の姿があった。


「ふざけんな……ハハ……! 俺……俺は、魔王イジックだぞ……! うぶっ、こ、このくらいで諦めるかよ……」


 かつて、地上最悪とすら呼ばれた魔王自称者であった。

 自らの術に焼け爛れた内蔵を吐瀉しながら、彼は当てもなく進んだ。

 諦めないことで何ができるのか、誰にも分からなかった。


「まだ俺は生きてる……こ、殺して……殺してやるからな……ハハ……最強の魔族まぞくを作ってやる……! 今度こそ……こ、今度こそ……! ごぼっ、ぐっブエッ」


 山道の中から、同じ身なりの者たちが現れた。

 肉親の血に染まり、血涙と絶望に塗れた、それは今のイジックと同じ表情の怪物だった。誰もが、元は人間ミニアだった。今も人間ミニアだ。


「ハハハ……ふざけんなよ……?」


 彼は引き攣ったように笑った。

 その恐れに引き寄せられるかのように、魔王軍は彼に群がった。


「来いよ! 来いよ、なあ! 無学なカス野郎如きが、ふざけんっ……うッ、グッ、がッァあああああああ―――ッ!」


――――――――――――――――――――――――――――――


「ああ~……容易い。こんなに、た、容易いだなんて……ふふ。ふふふふふ」


 星図のロムゾは、虚ろな様子で市街へと帰還した。

 誰の言葉も届かぬようで、ただ、同じような呟きだけを繰り返していた。


 彼だけが、一つも傷を負うことなく“本物の魔王”との戦いより立ち返った。

 しかし彼の場合は、代わりに精神が破綻した。

 三年が経ち、表面では理性を取り戻したように見えても、そうではなかった。


「こんなに、容易かった」


 その時を境に、彼の心からは人間らしい一貫性が一切失われていた。

 正義や信念の何もかもを信じられぬ、無軌道な獣の心と成り果てながら、全てを捨てた隠遁の暮らしを送ることになる。


「な、仲間を殺すのが、こんなに。ふふふ」


 ロムゾの目にはいつも、血に塗れた自分自身の手が見えている。


――――――――――――――――――――――――――――――


「怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い」


 一つの影が、人の絶えた廃墟をふらふらと歩んでいる。

 その口は人肉と人血に汚れて、後戻りのできぬ堕落を物語っている。


 彼は、この地の生き物の尽くと同じように成り果てた。

 臓物の絡んだ赤槍が引きずられて、カラカラと虚ろな音を鳴らしていた。


「怖い……怖い。助けて。誰か……誰か!」


 “本物の魔王”に挑んだ英雄の多くが、彼のように成り果てた。

 その勇気の故に、真の恐怖に直面してしまった者たちだった。


「怖い……怖いんだ! 怖い! 魔王が見ている! あの声が、聞こえる!」


 ――故に、彼に関して語るべきことは何もない。

 無明の白風アレナの行く先を、誰一人知らぬ。


――――――――――――――――――――――――――――――


 それは一切の過去も動機もなく、力も技も備えていない。

 それは詞術しじゅつも異能も、魔具の力すら持ち合わせていない。

 それはただ一人の人間ミニアであって、ありとあらゆる現象の理由が存在しない。

 とうに敗北した過去の残影に過ぎない。彼女は既に死亡している。


 魔王アークエネミー人間ミニア


 すべてのてき、シキ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る