間章 その3

 その男は、武器を提げていない。

 父から継いだ屈強な体格があり、幼い頃には王国一の弓手となる野望を持っていたが、彼にその才能がないことは早々に分かった。気の進まぬまま剣士へと転向したこともあるが、これも駄目だと分かった。二年の時を無駄にした。


 つばの広い帽子に隠れた目尻は低く、やや浮薄な風にも見られる、損の多い顔立ちである。旅の道具を詰めてあるのか、大きな木箱を背負っている。

 魔王侵攻阻止の義勇軍に賑わいを増すクタ白銀街から発って、半日。彼の立つそこが人族じんぞくと魔王軍の最前線であった。三年前の話である。


「サカオエ大橋街。へえ」


 地名は、血に黒く汚れた案内板で分かった。

 かつては噂に聞いた街の名であったが、このような形で訪れることになるとは。

 ……彼の視線の先。街道の水車小屋の傍らには、年嵩の女が屈みこんでいる。


「だ、大丈夫。まだ、生きてる。生きてるから。死んでないから。ね? すぐ、すぐ終わるから。すぐ……」


 男は苦虫を噛み潰した顔で、その光景を見ている。

 女は、鈍器らしきものを振り上げて、とうに倒れた年若い少女を殴打し続けているようであった。

 投げ出された娘の脚が小刻みに痙攣しているのは、飛散した大脳の、残る部分の誤作動なのであろう。


「フーッ、フーッ……だ、大丈夫。こうすれば大丈夫。怖い。怖い……うう……」


 彼は手も口も出さずにおく。無為に関わり、さらなる惨劇を招いた話は、この時代には無数にある。

 横をすれ違うとき、女が一心不乱に振り下ろし続ける鈍器の正体を見た。

 赤黒く歪んだ形状になり果てていたが、とても小さな腕があった。女が握っているのは、足の部分だった。


(――魔王軍め)


 今となっては誰も、敢えて魔王軍の只中に踏み込もうとは考えない。

 前線の兵達は彼らの姿と所業を追いやり、そして“本物の魔王”がいつか気まぐれにその線を踏み越えぬよう願うばかりだ。

 彼はその必要があって進んでいるが、それで正気を保って帰る未来は彼自身も保証できてはない。


 そして建物の密度が高くなり始めた頃、三、四の影が、ふらりと街路から現れた。

 それぞれが武器とも言えぬ武器を携えている。腐った木材。鉄の食器。錆びた斧の刃の側を手に握り締めている男すらいた。


「へへ。えへっ、へへへへへ……」

「いや……いやだ……助けてぇ、誰か、殺して……」

「兄ちゃん……おれ、おれは悪くないから……こんなの……夢……夢の……」


 彼らは発見した侵入者へと襲い掛かる――わけではない。

 木材を持つ男の目を、少女がフォークで抉った。謝罪の言葉と共に鉄が頭蓋に抉りこまれて、彼女の後頭はさらに別の男が殴りつける。

 首を異様な角度にへし曲げられながら、彼女は犠牲者の眼球を掻き出し続けた。また別の者が惨劇に引き付けられて、互いに殺し合った。


 男が何かをするまでもなく、彼らの残る数は、片腿を食いちぎられた中年の男一人になる。


「へへ、へへへ……痛い。痛いなあ……へへ……」


 絶望に笑っていた。言葉が届くこともない。

 ――彼と何も変わらない人間ミニアだったはずだ。小さな日常を送り、幸せを喜び、不幸を悲しむ者だったはずだ。

 魔王軍とは、そのような軍勢だった。


「……悪いなおっさん。俺が、勇者じゃなくてよ」

「もういやだ……怖い……楽になりたい……ああ……」

「チッ、しょうがねえ。ちょっと待ってろ」


 男は木箱の重みを落とすようにして、地面に腰を下ろす。

 中から愛用の道具を取り出した、その時のことであった。


「止マレ」


 幾人もの音声を同時に掛け合わせたような、それは奇妙な声であった。


 惨劇を囲む家屋の屋根の一つ。異形の存在が男を見下ろしていた。

 巨大な狼のようでもあるが、蒼銀の光を灯す毛並みは自然のそれではない。

 男は座り込んだまま、両手を掲げた。


「……止まってる」

「君ハ、ココカラ先ヘ進モウトシタナ」

「それがどうした。お前さんの巣でも先にあるのかい」

「“本物ノ魔王”ニ立チ向カエルト考エタノナラバ――ソレハ愚カナ錯覚ダ。野望ヲ捨テ戻ルカ。私ノ糧トナルカ。選ブ道ガドチラデアロウト……魔王ニ挑ムヨリ慈悲深キ結末ニ、違イハアルマイ」

「いきなり不躾だね。しかも物騒だ。黒獣バーゲスト? まさか狼鬼リカントじゃないよな」


 狼のような姿形で詞術しじゅつを解す獣族じゅうぞくとなれば、黒獣バーゲストであろう。

 その巨大さと、流線型の滑らかな体の形は、彼の知るものと全く異なっている。


「私ハ混獣キメラ。オゾネズマ」

混獣キメラ……? 嘘つけ。そんなちゃんとした形の混獣キメラがいるかよ。しかも、“本物の魔王”に出会っちまう前に食い殺すのが、お前さんの親切心ってわけだ」

「……食ウノミデ終ワル獣ガコノ場ニ居ラレルト思ウノナラバ、ソウ思エバ良イ。忠告ヲ聞カヌカ」

「ああ。俺を殺すつもりならさっさとやってくれ。俺は戦う技なんて何も持っちゃいないんでね」


 男はトントンと自らの首筋を叩いた。

 まったく偽りなく、男には戦う手段がなかった。


「……待テ。ナラバ、何故コノ先ヘト進ム。確カニ……君ノ身体ハ、持久ノ筋肉ダ。戦士デハナイ……」

「ごちゃごちゃうるさい狼だな……ほらどうした。殺るのか、殺らんのか」

「私ハ無益ニ殺シタイワケデハナイ」

「フッ……詩歌に出てくる魔王みたいなナリのくせに、いい子ぶりやがって。俺はただの詩人バードだ。このおっさんに歌を聞かせようとしただけだよ」


 獣は、男の取り出していた得物に目を向けた。それは五本の弦を持つ弦楽器の一種であるが、オゾネズマはその知識を持たない。


「魔王の門番を気取って、何人も英雄を殺したかい、オゾネズマ。だがな、俺はそいつらとは違うぜ」


 無骨な指が弦の表面を流れて、音を奏でた。


「彼の正義の炳乎たる/骸の原へと還り来て/双つの玄兎の交わりの――」

「……!? 待テ」


 オゾネズマの困惑の声が歌声を遮った。

 男は面倒そうに獣を見上げた。


「なんだ」

「歌ウノカ」

「詩人の仕事が他にあると思うか?」

「ダガ、ココデ歌ウノカ」


 数多の英雄を屠ったオゾネズマも、それは全く見たことのない行動様式であった。

 男はニヤリと笑った。力を持ち合わせぬ彼が持つふてぶてしさと肝の据わりの、その根源にある自信を伺わせる笑いであった。


 彼は歌った。


「緑の時節に朝影満たし/勇猛なる真王/此に万劫の栄あり――」


 歌と、音楽が続いた。


 ただの、かつてあった王の物語を歌う、子供でも知るような詩歌であった。

 彼が奏でた音楽は違った。魂の奥底を揺るがすように震えた。

 それは詞術しじゅつでも彼の異能でもなかったが、乾ききった絶望の光景の隅々にまで、染み透るような歌だった。


「……」


 片腿を食いちぎられた男すら、もはや狂気の笑いを浮かべてはいなかった。

 恐怖と悲しみの波がそれで凪いだかのように、押し黙って彼を見つめていた。


「……ソレハ?」


 巨大な獣すらも、聞き入っていた。

 それは生まれて間もない彼が初めて知った、激動たる世界の刺激であった。


「ソレハ、魔王ヲ倒セルノカ」

「そんなわけないだろ。けれどまともな方法で倒そうとして、何人も消えていった。誰か一人くらい、まともじゃないやり方をしなきゃあな。俺の音楽で……フッ」


 あまりにも荒唐無稽な言葉に、男自身が笑った。


「“本物の魔王”を感動させてやるのさ」


 オゾネズマは首を振った。無謀だ。相手は“本物の魔王”だ。どれほど素晴らしい音楽であろうと、それが不可能だということは分かりきっている。


「愚カナ試行ダ。ヤハリ君ハ、無惨ニ死ヌダケノ者ダ」

「そうかい。お前さんはどうなんだ、オゾネズマ。勇者になりたくはないのかい」


 ――無論、オゾネズマは“本物の魔王”の配下などではないのだろう。

 “本物の魔王”にそのような者がいないことを、誰もが知っている。

 誰も“本物の魔王”の仲間にはなれない。それはこの世に生きる全ての者にとっての敵だからだ。


 彼の告げていた警告は、間違いなく真実であったはずだ。

 無為な悲惨に死にゆく者を死で食い止めるしかないほどに、この先に待つのは完全の絶望でしかなかった。


「――私ニハ無理ダ。ダカラコソ、ココニ留マッテイル。私ハ……コノ先ニ進ンダ者ノヨウナ絶望ヲ、私ハ味ワイタクナイ」

「無理じゃないさ。こんな馬鹿ですら、“本物の魔王”と戦おうとしている。お前さんに同じ勇気は出せないかい」

「……」

「今は進まずにいても、いつか戦いに来るぜ」


 彼は、狂った男を背負う。

 一人だけは、歌によって鎮めることができた。けれどその心は二度と戻らないかもしれない。“本物の魔王”の恐怖は、それほどに絶大だ。


 ……しかし、僅かでも彼らの心に、届かせることができるのなら。

 彼は一つの未来を想像している。


「……そう構えるな。用は済んだ。今は引き返すさ」

「用……? 今ノガ、用ナノカ」

「確かに、こんな危険な場所で歌うなんて正気の沙汰じゃない。お前さんが眺めていてくれたお陰で、やっと試すことができた。実験は成功だ」

「……待テ」


 オゾネズマは、巨躯にも関わらず、しなやかに降り立った。

 継ぎ目のない体は、そのどこが混獣キメラであるのか。男の目からは理解できない。

 彼は、歩き出した男の後に続いた。


「危ウクテ、見テイラレン。ナゼ護衛ノ一ツモツケテイナイ」

「おいおい、俺の歌のファンになったかい」

「……ソウイウ訳デハナイ」


 彼自身すら信じることのできない、荒唐無稽な野望だった。

 ただ歌うだけの旅の詩人に、得体の知れぬ英雄殺しの獣。

 もしかしたら、それでも面白いのかもしれない。


 ――誰か一人くらいは、まともではないやり方を試さねばならない。


「ま、気が済むまでついてきて構わんさ。あんな場所にずっといたら、お前さんも気が滅入ってくるだろ」

「街マデノ、僅カナ間ダ。君ノ名前ヲ、聞イテイナイナ」

「漂う羅針のオルクト。俺の歌を、いつか皆に作らせてやるさ」


 ……三年前。漂う羅針のオルクトという名の男がいた。

 暗黒の時代。“本物の魔王”によって惨殺された、数多い英雄の一人である。

 歌声を響かせることすらできず、彼はその名を残さず死んでいくことになる。


 しかし。

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