黒曜、リナリス その2


「“客人まろうど”がこの世にもたらした知識は数多い。そのうち、最も重要だったものは何だと思うかな、シロク君」


 その日の深夜である。本題を語る前に、黄都こうと第十三卿は前置きをそう始めた。

 実際の学校がどうであるかをシロクは知らないが、彼の持つ黒く細いステッキは、まるで教鞭のようだとも思った。


「俺は、学があまりないので。“客人まろうど”なら、銃……? それとも、ああ……メートル法でしょうか」

「……意外と着眼点がいいね。吝嗇なるヴィクトルの伝説を良く知っていると見える。“メートル原器”の到来。単位系の統一は、確かな大偉業だったよ。ただしそれが世界を救うに値したかというと、その域ではない」


 “客人まろうど”はこの世界の者たちを圧倒する力と寿命を持ち、自らのルールによる社会の書き換えを、一代で強引に成し遂げてしまうことが多くある。吝嗇なるヴィクトルなどは、その最たる一人だ。だが、エヌは他にそうした転換があったという。


「ならば、答えは何なのですか?」

「疫学。近代、我々人間ミニアの平均寿命を著しく延ばしたのは、何よりも疫病への正確な基礎認識だった。病が目に見えぬ小さな生命体によって運ばれることを、君も知っているだろう。教育機関で学ばぬ者でも、それは親から子に伝わるように、世に定着している。だがその知識は、つい百年ほどの最近にもたらされたものなのだ」

「……百年は、最近ではないのでは」

「最近だよ? それまでは漠然とした衛生観念こそあれ、王家が生まれた頃からずっと、病の正体を誰も分からぬままだったのだからね」


 第十三卿は真面目くさった顔のまま、おどけたように片眉を上げてみせた。

 シロクは、黄都こうとから来ていた同門の話を思い出す。剣の才能がない粗暴な男だったが、たまに語る話だけは面白かった。

 都市部の他ではなされていなかった上下水道の整備も、そうした疫病の蔓延を恐れて徹底されたのだと聞いた。逆にあまりの辺境ともなると、まだ便所も汲み取り式の村があるらしいが、シロクは見たことがない。


「――しかし、それがどうして今必要な話なんですか?」

血鬼ヴァンパイアの形質に関わる話だからだ」

「……」

「事実を教えよう。“黒曜の瞳”統率。黒曜レハートは血鬼ヴァンパイアと目されている」


 血鬼ヴァンパイア。その言葉を聞いてシロクの心に思い浮かんだのは、リナリスである。

 日を厭うように白く、人とは思えぬほどに美しく、そして夢のように魅了する……


血鬼ヴァンパイアも、近代まで正体を知られなかった種族の一つでね。当の血鬼ヴァンパイアすら、自分がどういう生き物なのかを分かっていなかった。……彼らは“病”の逸脱種だ」

「病……!? だって彼女らは人の形をしていて……目に見えるし、触れることだってできます」

「事実だよ。血鬼ヴァンパイアの本体は、血中に寄生し、脳の思考の力を借りた病原生物だ。彼らは、それを傷口や粘膜の接触から血液感染させる。そして働き蜂が女王の指令で動くと同様の仕組みで、感染者を母体のフェロモンに逆らえぬ奴隷と化す――屍鬼ドローンとして知られるものだね。これが、第一段階だ」


 ドラゴン大鬼オーガ粘獣ウーズ。この地平には多くの逸脱種が“客人まろうど”として訪れ、そして独立した種として定着している。

 その範疇にどこまでが含まれるかは、この世界に住む者達すら、誰にも計り知れるものではない。

 仮に目に見えぬ真性細菌が尋常の進化を外れ、世界の跳躍にも足る逸脱を果たしたというのであれば、それはどのような生命形態であるのか。


「第二段階。血鬼ヴァンパイア屍鬼ドローンかを問わず、感染者の子は生まれながらに病原に侵され、発生段階で体を作り変えられる。自分自身で血鬼ヴァンパイアの病原を生成できるようになる。それが新たな感染母体。次の世代の血鬼ヴァンパイアだ。彼らは、このようにして自らを運ぶ感染者を増やす」

「生まれてくる子を、作り変え……そ、そんなおぞましいことが、あるんですか」

「我々の体の構造はね、シロク君。細胞よりもさらに微小な、先祖より受け継ぐ因子の鎖によって決定されているのだよ。……加えて言えば、彼らはその鎖の繋がりを組み替えることにおいて、我々よりも『専門家』だ。そして賢い。より血液感染を果たしやすい、他者を魅了する姿形。あるいは流血を招く身体能力をも、容易く作り上げてしまう」


 流れる水を渡れない。日光を浴びて死ぬ。殺菌作用のある香草を厭う。銀の武器が抗し得る。“彼方”の伝承上で弱点とされるそれらの要素は、現実の血鬼ヴァンパイアには、ほぼ当てはまらない。

 だがそれらの言説は、ある側面における彼らの真実を見事に言い当ててもいる。


「――さて。前置きが長くなったね。だが、ここまで説明しておく必要があったのは、君に事実を理解してもらうためだ」

「いえ……残念ですけど俺は、今の話のほとんどを分かっていません。なぜ俺みたいな子供に、そんな話を? リナリスは屍鬼ドローンだってことなんですか?」

「君だ」

「……俺が、何か?」


 文官は無機質な微笑みを浮かべて、一枚の布地をテーブルの上に出した。

 リナリスが手当てに巻いた……そしてシロクの話を聞いた後、エヌが替えさせたものであった。


「君の血を兵に調べさせた。既に感染して、屍鬼ドローンになっている。これで、君の見た館に血鬼ヴァンパイアがいたことが事実と分かった」

「そ、そんな……!? 俺は死んでいません! 今だってこうして、自分の意思があります!」

「それが事実だ。屍鬼ドローンはただ母体の行動指令に従うだけで、一般的に信じられているような動く死体でもない。母体さえ消えれば、人間ミニアの生活にも戻れる……病棟の中ではあるだろうけどね。諸々の処置は、無論必要だ」


 シロクは眩暈に頭を押さえた。自分は人間ミニアではない。形のない病に支配される働き蜂だ。こんなに呆気なく?

 左の中指。あの時の軟膏に血液を混ぜていたなら。彼女の差し出した琥珀茶も飲んだ。あるいは……


「リ、リナリスは……リナリスは、最初から……俺を、騙していたんですか……!?」

「あらゆる事実からそう判断せざるを得ない。黒曜レハートもそのリナリスも、共に人族じんぞくにとって脅威でしかないということだ。協力してくれるね、シロク君」


 打ちひしがれて、シロクは頷いた。リナリスへの思慕がなお消えないままだとしても、そうするしかなかった。

 ……あるいは、その心すらも。

 言葉通りの病がもたらした、まやかしの感情であるかもしれないのだから。


 ――そして明朝。シロクの持つ広大な屋敷には、集結した野戦兵団が出撃の時を待ち構えていた。

 彼の自宅は第十三卿の兵の駐留地として、その空間を初めて役立てている。


「招集指令から四半日も経っていないのに、もうこんなに……」

「ああ、言い忘れていたかな? 私がこのイターキに来たのは、潜伏の疑いがあった黒曜を討伐するためだったんだ。どこに隠れているか分からぬ敵の警戒を招きたくはなかったのでね。近隣の町に待機させていた」

「まさか、あの住民調査の仕事も……! じゃあ俺は……」


 ――そのせいで屍鬼ドローンに。

 恨み言の一つも吐きたくなったが、すぐに根本の原因は自分がリナリスに惑わされたことだとも分かり、シロクの怒りはやり場のないまま、ただ胸を締め付けた。


 住民の有無を調べるだけならば、リナリスの姿を見て引き返すこともできた。

 血鬼ヴァンパイアを知らなかったわけではない。気付ける機会はいくつもあった。彼が油断していたのだ。

 それほどまでの隙を晒していた原因も、明白だった。


「シロク君。君には現地までの案内をお願いすることになるが、両腕は拘束していく。また、フェロモンの影響下にあるかどうか、瞳孔の状態も定期的に確認する。それで構わないかな」

「……はい。血鬼ヴァンパイアの支配は、嘘を言わせることはできますか?」

「もっともな懸念だね。しかし言語に関わる高度な指令は、母体が直接に口で伝えねば不可能だよ。暴れ出すことさえ封じていれば、君が館への道を導くまでは問題ないということだ」


 一方でエヌは、シロクが到底把握しきれないほどの膨大な知識に基づいて、的確な作戦の布石を積み上げていた。なんでもない、住民台帳の作成を装っていた時から。

 これが黄都こうと二十九官。剣のみが身を立てる唯一の道とシロクは信じていたが、そうではなかった者もいる。


 日の出と共に、彼らはリナリスの館へ発った。野戦兵は足音を立てずに進むため、その行軍の姿を見た者は、道中で牛の乳を搾っていた牧場主だけだった。

 しばしの道のりの後、再び訪れた薄暗い館を前に、シロクは尋ねた。


血鬼ヴァンパイアは、太陽を嫌いますか」

「一般的にはそうだ。行動できぬほどではない。ただ、少しでも有利となり得る事実があるのなら、私はそうするというだけのことだ」


 日の出ている中での包囲作戦。シロクは腕の拘束の重みを感じたまま、流れるように動く兵の手際を見ているしかない。

 千里鏡のエヌは一切の容赦なく、リナリスを屠ろうとしている。


(……もう一度話がしたい)


 きっと彼女の支配下にあるせいで、そのように思うのだろう。

 シロクを屍鬼ドローンと変えた母体がリナリスであるなら、彼女が生きている限り、シロクは人の暮らしに戻れない。

 ただの不合理な錯覚に違いなかった。


 ――またお会いできますか?


 館を巻いて、爆炎が噴き上がった。


「リナリス……!」

「気持ちは分かる。血鬼ヴァンパイアは人とも思えぬ美しさと聞くからね」


 黄都こうと十三卿はパイプを咥え、真面目くさった顔でその炎を眺めている。


「――だから、姿を見る前に倒しておきたい。君の情報には本当に助けられた。協力の謝礼に、入院先の紹介程度は一筆書こう」


 言葉すら、一度交わすことができなかったのか。

 この野戦兵の数は、多数の兵で囲み、強大な血鬼ヴァンパイアを倒すためではなかった。

 その人数で分業した即座の火攻めで、相手が何も対応する間もないまま瞬時に決着をつけるためであったのだ。


(……でも、あの手紙は)


 もしも彼女たちが、何かひとつでも対話を求めていたなら。

 エヌはその好機を知って、こうして不意を打つような手に出たのではないか……。


 炎が燃えている。月を晴らす太陽のように燃え続ける。

 けれどそれは彼の心の暗幕を焼いてはくれない。


「六分儀のシロク。二つ、焼死体がある。顔の判別もつかねえけどな。確認してみるかい?」

「……いいえ」


 兵からその報告を受けたときも、シロクの心は暗幕に閉ざされていた。

 美しいリナリスの体が無残に焼け果てた様を、見たくはなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――


「――恋というものはね、シロク君」


 長い事後処理を終えて、日の暮れ行く帰路の途上、エヌはそんな似つかわしくないことを言った。


「最初がもっとも美しい。しかし最初の恋だけは、誰も手に入れることはできない」

「……慰めなら、いりませんよ」

「事実だ。誰もが美しい最初の恋を忘れることができず、故に恋を求める。故にこの世に愛憎の沙汰も尽きないのだ。ははははは!」


 一切表情を変えぬまま、第十三卿は口だけで笑った。

 ……そうなのかもしれない。彼女は血鬼ヴァンパイアだった。もしも二度三度とリナリスと出会っていたなら、それはただ美しいだけの記憶で終わらずに、見たくないものを見て、恐れたくないものを恐れたかもしれない。

 きっと、凄惨な再会になっていたかもしれない。


 今のシロクの心にあるのは、庭園に立つ彼女の美しい姿だけだ。

 もう一度出会いたいと願いながら、別れることができて良かった。

 全ての謎も秘密も、時に流れて消えてしまえばいい。


 エヌの言葉は慰めとも言えぬし、短い言葉だったが、自らの家に辿り着く頃には、シロクはそう思えた。


「この一晩が過ぎれば、我々は黄都こうとに発つつもりだ。君も治療を受けるといい」

「……ありがとうございます」


 素直に頭を下げた。この両親から継いだ家もしばらく離れることになるのか。

 あるいはずっとそうなるのかもしれない。


 これほど多くの客が集まる賑わいなどは、これが最後になるのだろう。

 最後尾の兵が到着して、扉を閉めた。


 ――プン、というような音だった。


「う」

「ぐぶ」


 二人の兵士が、ドサドサと混ざり合って倒れた。

 言葉の通りに、混ぜ合わされていた。


 弦楽器のような奇妙な音とともに、首が、四肢が、バラバラに崩れたのだ。

 その体に詰まっていた分の血が、一斉に溢れて玄関を汚した。


「な、何が……!?」


 シロクは爪剣を抜こうとした。その光景を見たとき、確かにそうしようと思った。

 しかし体は動かぬままで、次に起こった出来事を見た。


 兵の一人がこちらを振り返って、いしゆみを撃ち放った。

 狙いはシロクではなく、隣に立つ文官であった。

 護衛から離れていた千里鏡のエヌは右膝を貫かれ、矢の勢いのまま倒れた。


「ムッ……!?」

「エヌ様!」

「――ッ、敵襲だ! メズデ君とシロク君を拘束しろ! 屍鬼ドローンになっている!」


 痛みに怯むことなく、エヌは叫んだ。いしゆみを放ったメズデは、彼自身ひどく当惑しているようであった。

 しかし彼はまたもいしゆみを別の兵へと向けて、すぐさま抑え込まれた。


「ま……待ってください! 俺は感染するようなことなんて、何も!」


 シロクが見ていた限りでも、そうであったはずである。

 屈強な兵がシロクの腕を掴み、拘束具が嵌められた。メズデという兵にも同じように枷が嵌められていく。


「……まさか。どうして読まれていた? 何があった?」


 表情を奇妙な具合に歪ませながら――それは怒りの表れだったのかもしれない――エヌは、近くのテーブルクロスを顎で噛み、傷口を縛っていた。


「母体がいる……元から感染者を潜まされて……いや、そんな馬鹿な……!」


 次は別の兵が狂った。メズデを拘束していた者が、剣を抜いて背後の者へと斬り掛かった。彼は反射的に切り捨てられたが、平時らしからぬ膂力が、身を守る鎧ごと半ばまで胴を切り裂いていた。


「あ、ああ……! ひ、ひい……ひいい~ッ!」

「ちくしょう! まだ屍鬼ドローンがいる!」

「お互いの瞳孔を確認しろ!」

「扉の二人が殺られた攻撃がある! 警戒を怠るな!」


 重傷を負った兵は、しばしの間もがき苦しんで死んだ。脅威。恐慌。

 シロクは状況を飲み込むことができない。何が起こっている?

 血鬼ヴァンパイア。母体が死ねば、全てが終わるのではなかったのか?


「リナリス!」


 拘束されながら、彼は叫んだ。心の納得を裏切っても構わない。

 彼女がどこかで見ていて、言葉が届くことを強く願った。


「六分儀のシロクを友と思うのなら、姿を現してくれ! これは君の意志なのか!? 黒曜がこの仕業をしているのか!? ……リナリス!」


 しんと、広く不気味な邸内に声は響いた。

 兵たちは身動きすらをも恐れるように、武器を構えて、周囲を警戒していた。

 感染が判明した屍鬼ドローンの全員が拘束されて床に転がっている。多すぎる。


「シロクさま」


 静かな声が返った。カラカラと車輪の回る音が聞こえる。

 見慣れた廊下の奥から、夢に見たリナリスが現れる。


 彼女が押しているのは車椅子で、綺麗なローブを纏った何者かが座している。


「約束の通り、またお会いできましたね? ……けれど、ひどいお方」


 美しい血鬼ヴァンパイアの少女は、寂しげに笑んだ。


「私を殺そうとしたのですね」


 それは最初に会った時と同じように、穏やかな口ぶりのままだった。

 リナリスの佇まいは兵の誰もが息を忘れるほどの美貌だったが、それでも矢の一つすら飛ばずにいるのが不可解だった。


「喋らせてはならない。撃て」

「撃てはしません。千里鏡のエヌ様」

「……撃て!」


 パン、といしゆみを放つ音が響いた。それは兵が互いに顔面を撃ち抜いた音であった。

 瞳孔を確認して、未感染が確かな二人であったはずだった。

 恐るべき光景であるはずなのに、それを見ていた誰もが身動きできず、逃避も防御もできず、リナリスはその様子を、柔らかに微笑んで眺めていた。

 エヌの声は恐怖に震えた。


「違う……せ、戦闘すべきじゃない……撤退だ……! こんなことがあり得るのか……こんな変異が……ッ! 全員すぐに、この屋敷から出ろ!」


 一度も日差しを浴びた事のないような、硝子のように透き通る純白の肌。

 令嬢然とした繊細な指先。剣どころか、鉈すらその手に握ったことはなかろう。


 彼女は、戦士ではなかった――だが。


「こいつは、する!」


 恐慌が爆発した。

 第十三卿の兵は互いが互いを斬り、撃ち抜き、自らが命乞いをしながら他の誰かを殺し、逃げようとした者は尽く、見えぬ弦の切断で解体された。

 リナリスは少し困ったように首を傾げて、それでも彼女の体には返り血の一滴飛ぶことはない。

 地獄の惨劇の中で、シロクは呻いた。


「黒曜……。リナリス……きみが本物の黒曜だったんだな……」

「まさか。偉大なお父さまの名を、私ごときが名乗ることなど、とてもできません。黒曜はお父さまの組織です。永遠に強く、永遠に繁栄して……全てを、あるべき理想に導くための。私が黒曜であるはずがない」


 リナリスは、車椅子の人物の手を慈しむように握った。

 蝋のような質感の皮膚が覗いて、肘は力なく揺れた。

 ……“黒曜の瞳”は既に壊滅している。エヌの言った通りだった。

 理由すらも今や明白だった。


「リナリス! やめろ……事実を分かってくれ! そ……その人は、もう……!」

「お父さまの“黒曜の瞳”が終わるはずがありません。優しく、強く、大きかったお父さま。全てが元のようになります。リナリスが、いつもお傍におります――」


 乾いた手の甲に口づけをして、彼女はゆっくりと振り返った。

 彼女の前で身動きのできる者は、誰もいない。……否。


「……ここから始めましょう。我ら黒曜の下に集った瞳。蓋世不抜の英雄たち。あなた方の生きるべき時代を、お父さまがお与えになられます。――さあ、名乗りを」


 蠢く者がいる。

 物音一つを立てぬ野戦部隊をして、その潜伏に気付くことのできなかった者たち。

 糸の仕掛けで兵士を殺傷できる技術を持つ者が、この世にどれだけいるだろうか。

 “黒曜の瞳”には、それがいる。闇の中に、無数の瞳が浮かぶ。


 後方から。上から。広大な夜の恐怖の、いたるところから。


「――五陣前衛。奈落の巣網のゼルジルガ」


 両の十指に糸を引く砂人ズメウがいた。


    「七陣後衛。変動のヴィーゼ」


 背が曲がり、四足で歩く異形の人間ミニアがいた。


 「よ、四陣前衛、塔のヒャクライ」


 何の異常もない直剣だけを携える人間ミニアがいた。


   「一陣前衛……。韜晦とうかいのレナ」


 両眼を包帯によって封じた森人エルフがいた。


  「四陣後衛。目覚めのフレイ」


 仕込み杖を構える小人レプラコーンがいた。


 その一人一人が、研鑽と異能の果てに、英雄の目前にも到達した強者たち。

 しかもそこに立つのは、加えて血鬼ヴァンパイアの病原によって人体限界を知らぬ力を得た、一つの意志によって統率される屍鬼ドローンの軍勢なのだ。


「……亡霊どもめ……!」

「“黒曜の瞳”は生きております。ここに、こうして。貴方もすぐにご理解できるようになりますよ。千里鏡のエヌさま」


 リナリスは微笑んで、まるで子供にそうするように、地に伏すエヌの前で屈んだ。

 体温の低い掌が、ひたりと頬に当たる。


黄都こうとの王城試合に、私たちを推薦してくださいますね? 勇者として、再び英雄たちの時代を。お父さまのために……もう一度、私たちの生きる時代を作りましょう」

「誰が……お前などの、思うように……」

「貴方が。最初から、そのようになっております」


 千里卿のエヌの名を、彼女は最初から知悉していた。

 最初からそれだけが目的だったのだ。彼らをこうして支配下に置くつもりでいた。

 白紙の手紙がなければ、領主の館の貴族に、シロクは包み隠さず彼女のことを伝えただろうか。エヌは確かに白紙から、彼女の伝えたかった意味を読み取った。

 シロクの感染の事実が、彼に血鬼ヴァンパイアの存在を示した。

 第十三卿の兵が駐留できる広さの屋敷がここにあることを知っていた。

 分かりやすい感染の経路を見せて、真の感染手段をその裏に隠していた。

 シロクが館に招かれなければ、この惨劇は起こらなかったのか。


 そして、最初の傷は……あの、小さな切り傷で。


「リナリス、嘘だよな……!? 俺の指の傷は、棘を刺しただけで……ただの……本当の、偶然だったんだろう!?」


 リナリスは戦士ではなかった。

 けれど存在も思考も、全ての次元が違う、手の届かぬ存在だった。

 彼女は終わっていく時代の妄執のために、再び世界を逆行させるつもりだ。


「きみは、ずっと一人で……寂しかったって言ってた! 自分がたった一人だって分かっているんだ! 俺は、もしかしたら……!」


 白い少女は、淑やかに微笑んだ。

 ああ。シロクのこの心が嘘であるはずがない。

 たとえ支配されていなくても、自分の意志で。


「シロクさま。ありがとう。……普通の娘のように誰かと話せて、本当に良かった」


 憂いを帯びた金の瞳がある。

 消え入りそうな白い肌も、細い手足も。彼女の美しい姿の何もかもが。

 これより踏み込んでいこうとする流血の惨禍には不釣り合いだ。

 そんな残酷なことがあっていいはずがない。


「さようなら」



 それは見えざる指先で蜘蛛糸を引く、周到と狡知の力を持つ。

 それは誰一人対抗策を打てぬ、新たな感染経路を得た疫病変異種である。

 それは最大の組織が地平全土より集めた、究極無比なる精鋭の部隊を持つ。

 深い闇中に潜む一つの意志にて統率された、最悪の諜報群体である。


 斥候スカウト血鬼ヴァンパイア


 黒曜こくよう、リナリス。

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