黒曜、リナリス その1

 六分儀のシロクが暮らすイターキ高山都市は、一年を通して曇天が空を覆う、物寂しい街である。

 貧しい街ではない。澄んだ水と良質なラヂオ鉱石が産出するこの地は、“本物の魔王”の侵攻に一度放棄されるまでは上流階級の別荘地でもあって、かつてはそれなりの賑わいを見せていたと聞く。


 今は、まるで風景の全てに薄い暗幕がかかっているかのようだ。

 道行く人は見えない暗幕の重みを常に感じていて、市場に並ぶ色彩も、暗幕越しにどこか褪せて思える。


 この世に残り続ける、“本物の魔王”の恐怖の影響なのだろうか。

 それともそれは……若い心に魔王から街を取り戻すことを誓い、自らの力でそれが叶わなかった、シロク自身の心が落とす影だっただろうか。


 そんな町並みを抜けた先に、目的の館を見た。


(――大きい屋敷だ)


 鬱蒼と茂る黒緑の森の中に隠されて聳える館は、単純に不釣合いだと感じた。

 これが貴族の別宅であったとしても、行き来の便も悪く、日当たりの悪い場所に邸宅を構える意味などないだろうに。

 門や外壁の所々には蔦が這っているが、この立地では元より、立派な造りを人に誇示することもできなかっただろう。


(この分だと、住んでる人もいないだろうな)


 シロクは出戻った住民数の正確な把握のため、大人達に雇われている身だ。

 十八という若さ故の体力と、戦士となるべく鍛えた足腰は、広いイターキを駆け回る仕事に十分役立っている。

 たとえシロクの望んでいたような方法でなくとも、これからはそのように生きていかねばならない。両親が遺した財など、どこかの貴族よりの拝領らしき、無意味に広大な自宅の他にないのだ。


 よって、この時のシロクは門の隙間から少しだけ中を覗いて、それで無人を確認したことにして立ち去るつもりでいた。


「……あっ」


 つまり、そこに人の姿があった場合のことを考えていなかった。

 門の内にはよく手入れされた庭園が広がり、綺麗に形の整った黒薔薇がいくつも咲き乱れていた。


 少女がいた。

 薔薇の植え込みの一つの前で、淑やかに屈んで、葉を切り揃えていた。

 鬱蒼と暗い森林。闇夜のような黒薔薇。

 けれどその横顔は――暗幕を晴らすほどに、息を呑む白さだった。


(……人だ。元からいたんだろうか。それとも流れて住み着いた人なんだろうか)


 年もシロクと然程変わらない。それでも、幻をすら疑う美しさである。

 俯く黒髪から覗く、滑らかなうなじ。憂いを帯びた長い睫の奥の、金色の瞳。

 ……その瞳はふと、こちらを向いた。

 僅かな、鼓動が停止するような時が流れた。


 そして微笑んだ。


「…………っ、あの、俺は領主会からの依頼で、住人の確認をしていて……!」


 咄嗟に口を衝いて出たのは、言い訳であった。

 たった今彼女を見ていたのは、そんな理由ではなかっただろう。シロクは自らを恥じた。


「左様でしたか」


 少女は慈しむように笑って、門前より動けないままのシロクへと歩み寄った。

 淡い花のような少女の香りは、シロクの心を大いに惑わせた。


「――御機嫌よう。リナリスといいます。お名前を伺っても?」

「ろ……六分儀のシロクといいます。こちらにお住まいの人……ですよね?」

「……」


 リナリスは答えない。何か他のものに気を取られたようであった。

 形の良い眉をやや顰めて、自身の唇に指を当てた。


「恐れ入ります。……そこ、お怪我をされているのですか?」

「……えっ」


 その視線のお陰で、自分の左中指から滴る血に気付いた。

 鋭利な切り傷だ。鉄門の縁で掻いたか、巻き付く薔薇の棘に触れたのか。

 少女の姿に心を奪われすぎて、痛みがあったことすら、その時にまで気付けていなかった。


「ああ、失礼……! でもこの程度の傷、大したものじゃ……」

「すぐに、手当てをいたしましょう」

「平気です」

「……私の育てた薔薇でシロクさまの血を流させてしまったことを、ご両親と雇い主さまに申し開きができません。……どうか、招かれていただけませんか?」


 金色の瞳にじっと見つめられると、シロクは答えることができない。


 少女は、軽い軋みの音と共に門を開く。

 シロクは迷い、自身の来た道と少女との間で、何度か視線を往復させた。

 今日の遠出はこの一軒だけだ。他の家は戻るついでに確認してもいい。

 それに……それに住人の有無を確かめるのなら、はっきり誰が住んでいるか、見ておくべきなのではないか。


「分かりました。長居はできませんが、それでよければ」

「……ああ。幸甚に存じます。琥珀茶の一つもお出しいたしましょう」


 リナリスの後に続きながら、シロクはようやく庭の様子を見渡すことができた。

 屋敷の石壁には皹が目立ち、廃墟と言われれば信じる有様なのに、庭だけが繊細に手入れされて、余分な小石一つない。


 その光景は彼の住むイターキと地続きであるはずなのに、儚く消え入りそうな美しさの少女と同じく、あまりにも日常からかけ離れた異界だ。

 もしかしたら彼女に連れられて屋敷の扉を潜ると、“彼方”の地平にでも連れていかれるのだろうか。

 ……リナリスは、いつからこの寂しい屋敷に住んでいたのだろう。この少女は、果たして何者なのだろう。


 疑惑を浮かべたシロクの心中を刺すかの如く、リナリスは僅かに振り返った。

 金色の流し目が彼を見た。


「足元に、どうかお気をつけて」


 ――心を見透かされていたわけではなかった。

 土にやや埋もれるように、玄関に続く石の段差が突き出ているのだ。今の一瞥だけで浮かんだ背中の汗を悟られないよう願いながら、シロクはその小さな段を越えた。


 屋敷の内は、やはり外観とは裏腹に整頓されている。

 調度は少なく、シロクの自宅と同じような殺風景だ。

 ただ、薄暗い。


(……今は、昼間のはずだ)


 普通は確認するはずのないことを心に確かめながら、彼は帽子を掛けた。

 他の家族がこの家に住んでいるのか。リナリスに尋ねようとした。


「――すこし、お待ちくださいませ」


 その時、彼女も黒いケープを肩から滑らせ、脱いでいた。

 今まで隠されていた白いブラウスが露わになって、豊かな乳房の丸みが分かった。それだけでシロクは面食らった。


 同じ年。いや少し下だ……なのに。外で見た彼女の手足の印象は細く、どこか幽魔ゴーストのような生気の薄さにすら思えたが、その下には。


 リナリスはシロクの傷口に、薬と真新しい布を巻いている。

 シロクの目線の少し下に、美しい金色の瞳がある。どうしても、考えてしまう。

 彼女の親切心に仇なす自らの低俗な情動には怒りすら覚えたが、同年代の少女の名を覚えるより前に武の道を志していたシロクにあっては、無理からぬ衝撃でもある。


「いま、持て成しの準備をいたしますから。この屋敷には、使用人もおりませんの」

「きみ一人で住んでいると……?」

「お父さまがおりますわ。シロクさまは、そちらの部屋でどうぞお待ちください」


 そうしてシロクは罪悪感と、早鐘のような心臓の鼓動に包まれたまま、所在なげに座っている。

 事実、所在がない。彼女は、父がこの家にいると言った。

 ここまでの立ち振る舞いを見るだけでも、リナリスの家柄と育ちの良さが分かる。恐らくはこの別荘の元の持ち主か、それに近縁の貴族の家系なのであろう。


 ではシロクのように身分の低い男を、年頃の美しい娘が招き入れたとして、その父親はシロクをどうするだろうか。

 まったくの自意識過剰と理解してはいても、不穏な想像が止まぬ。さらには、気を抜けばリナリスの顔が思い浮かんでしまいそうでもある。


(しっかりしろ)


 腰に吊った爪剣に指を掛けて、心の波を武の集中へと鎮めていく。


(しっかりしろ、シロク。あの娘とはさっき出会ったばかりだぞ。ただの、仕事だ)


 リナリスの戻ってくるまで、その集中を持続できたかどうか。どちらにせよ、ただの茶の準備にしては予想以上の時間がかかった。


「申し訳ございません。このような暗い家で……退屈ではありませんでしたか?」

「……いえ、そのようなことは。俺が突然に訪れたのですから、当然のことです」

「お気遣い痛み入ります。どうぞ。カイディヘイからの葉を用いております」


 琥珀茶を口につけたが、味の差異は良く分からなかった……というより、普段飲み慣れた茶の方が美味くすら感じた。

 勿論、穏やかにこちらを見つめるリナリスにそう伝えるわけにもいかず、精一杯の笑顔で答える。


「美味しいです」

「ああ、良かった。……シロクさまのお話を、いくつかお伺いしても? イターキに戻られたのは、いつ頃のことなのでしょう」

「殆どの住人と同じです。“本物の魔王”が倒されてから、すぐ。もっとも……先祖からの家くらいしか俺には残ってませんが。武功を立てる道もなくなって、今は領主会の下働きです」

「……そう。剣の道を、志していらっしゃったのですね」


 愁いを帯びたリナリスの伏し目が、シロクの爪剣を見た。

 いくら森深くとはいえ、イターキに人を襲うような獣はいない。シロクのそれは必要のための武具ではなく、終わっていく時代への未練のようなものだった。

 勇者が望まれた、誰もにそんな可能性が与えられていた、物語の時代。


「男子であれば、珍しくもないことでしょう。魔王がいなくなって、若者たちがあたら命を散らす必要もなくなった。良いことです」

「……寂しいことでもございますね」

「ふふ。そんなことを口に出せば、“本物の魔王”に苦しんだ者たちの顰蹙を買いますよ。それに俺の両親だって、魔王軍に殺されてしまった。武功などより、彼らを取り戻したいと思う。これまでの時代が歪んでいたんです」

「いえ……シロクさまのお話を聞くと――私と、同じように思えて」


 リナリスは、言葉の通りに少し寂しげな、薄く上品な微笑みのままだ。

 まさか、と思い、彼女の体つきを改めて見る。

 一度も日差しを浴びた事のないような、硝子のように透き通る純白の肌。

 令嬢然とした繊細な指先。剣どころか、鉈すらその手に握ったことはなかろう。


 まさか、戦士であるはずがない。


「それは……」

「私も“本物の魔王”のために多くを失って、この屋敷と、お父さましかおりません」

「ああ、そうか……そうですね。俺と、同じだ」


 一体、何を考えていたのか。

 当然、そういう意味合いであるはずだった。時代のために、理不尽に奪われた者。

 これからの時代は、彼女のように力持たぬ者が何も失わぬための平和だ。


「お父上の名を、伺っても?」

「……“黒曜”。黒曜レハートといいます」

「黒曜……!?」


 シロクは危うく立ち上がりかけた。まったく予想もしない名であった。

 “黒曜”。その二つ目の名を名乗る者が他にいるはずがない。


「――“黒曜の瞳”」


 この地平で最大にして最強を誇った、恐るべき諜報ギルド。

 その全貌を知る者はいない。正確な構成員を知る者も。

 それでも頂点に座す“黒曜”の名だけは、誰もが。シロクですら知っている。


「? ……いかがなされましたか?」

「いえ……そ、それは本当なんですか」

「ふふふふっ……尊敬すべき父の名に、偽りを伝える意味など。何か私の話に、おかしなことでも?」

「……いや」


 この場でリナリスを問い詰めて良いものだろうか。

 彼女はあまりにも落ち着き払っていて、そもそも“黒曜”の名が意味するところすら知らないようにも見える。

 だが、彼女の言葉が真実だとするなら――シロクは知らぬうち、一つの時代の黒幕の正体に、同じ敷地にまで近づいていたというのか。

 ならば、危うすぎる。シロクは、別の方向へと話題を逸らそうと試みた。


「では……リ、リナリス。リナリス……さんの、名を聞いても、構いませんか」

「……? リナリスです」


 リナリスは無垢な微笑みのまま首を傾げた。

 これまでの礼儀正しさを見る限り、名を聞けば答える常識が彼女になかろうはずもないが、何か誤解があっただろうか。

 シロクはもう一度尋ねる。


「リナリスさんの、二つ目の名です」

「ございません」

「……ない?」

「――はい。私はリナリス。まだ、二つ目の名を持っておりません。ただのリナリス。そのようにお呼びいただければ」


 そのようなことがあり得るだろうか。

 いくら若い娘とはいえ、どのように見積もっても十六か十七には達している。

 たとえ後の自らの功績でそれを変える積もりでいたとしても、二つ目の名を、とうに与えられていていい年頃のはずだ。


 人の目届かぬ荒れ果てた屋敷に、幽魔ゴーストのように儚く美しい少女がいる。

 彼女は、自らの父親を“黒曜”であると言う。

 そして……自分の二つ目の名を、彼女は持っていない。


(まるで、怪談のようじゃないか……)


 この少女はおぞましきトロアと同じ類なのか?

 窓の隙間から僅かに差し込む光が、少女の輪郭の線を淡く浮かべている。


「領主会は、どうして今になって住民の確認などを?」

「税の収支を合わせるためとのことです。また、文字の書ける貴族が台帳を作るとかいう話で」

「……左様でございますか。シロクさま。不躾なお願いなのですが……ひとつ」

「お……俺にできる限りなら。何か?」

「文字の読める方がいらっしゃるのでしたら……こちらの手紙を持ち帰ってはくださいませんでしょうか。きっと、お父さまに必要なご用件ですので」


 封蝋で閉じた、丸めた羊皮だ。あるいはこれを書き記すために、先程の茶の用意に時間がかかったのだろうか。

 それよりも、然程年の変わらぬリナリスが文字を読み書きできることに驚く。

 簡易な教団文字か。それともそれぞれの家系に伝わるという、貴族文字だろうか。


「もちろん、構いませんけれど……でも家系が違うのですから、リナリスさんの文字を、貴族が読める保障はないですよ」

「ご心配なく。必ず伝わります。どうか、お願いいたします」


 リナリスの薄い両掌が、シロクの手を優しく包んだ。

 身を乗り出した彼女の胸元を、どうしても意識してしまう。


 暗い館。黒曜。手紙。美しいリナリス。

 シロク一人の頭では到底飲み込みきれぬ物事ばかりが起こっている。

 その時。


「……」


 ふと、リナリスが振り返った。

 どこかで、何かがカタリと動く音がしたためだった。

 何か、別のものがこの家の中にいるのか。それが黒曜レハートなのか?


 ――危うい。


 先程呼び起こした戦士としての感覚の残滓が、辛うじて警鐘を鳴らしている。

 この館に、このままいるべきではない……。


「……では、すぐに持ち帰りましょう。琥珀茶をありがとうございました。いい休息になりましたよ」


 他の住人に接する時のような愛想笑いを浮かべて、そのまま立ち去ればいい。

 再びここに来ることは……いや、来ることがあるとしても、それは落ち着いて全てを考えてからでなければ。


「またお会いできますか?」


 そんな内心を見透かしたか、リナリスは困ったように言った。


「……そうですね。きっと」

「シロクさま。お恥ずかしいことですけれど、私。ずっと一人で――」


 髪の一筋が、頬にかかった。

 今は夜ではないはずだ。けれど彼女の微笑みは、一夜の幻のようであった。


「寂しかったのです……」


――――――――――――――――――――――――――――――


 ……街に戻った頃には、遠くの地平線に夕陽が沈んでいた。


 一時の出会いの名残りに想いを馳せつつも、シロクは頼まれた通りに、羊皮を領主の館の貴族へと手渡した。

 今の時期に、特別に調べたいことがあったのだと聞いている。

 名を黄都こうと第十三卿、千里鏡のエヌ。


「ふーむ。それで、この手紙を渡すよう言われたと」


 髪を全て後ろに撫で付けて、傍からは確かな年齢の窺い知れない、とかく胡散臭い印象の貴族である。

 だが、シロクのように身寄りのない子供を侮ることもない男であった。


「はい。“黒曜”の名の件も、確かなことです。リナリスの虚言なのでしょうか」

「それはこの内容を見てから判断しなければならないだろうね」


 彼は語られた全ての報告に困惑することなく、といって信用せぬわけでもなく、ただ淡々と、リナリスの羊皮を開いた。


「見たまえ」

「これは……」

「白紙だね? シロク君」


 その声にシロクを責める調子はなかったが、シロクの心は愕然と揺れた。

 何かの間違いだと思った。


「……馬鹿な! 嘘じゃない! あの館に入ったんだ! 手紙だって、こうして残って……リ、リナリスだって、確かにいたんです、エヌ様!」

「落ち着きなさい。事実だ。過去でも未来でもなく、今ある事実より始めよ。私は、自分の部下にはそう教えている」

「しかし……!」

「事実を見なさい。私が開けるまで、ここには封蝋が捺されていたね」


 砕けた蝋の欠片を指で弄びながら、エヌは淡々と続けた。


「君は、手紙は嘘ではないと言った。その通り。君が“黒曜”の印璽いんじを奇跡的にどこぞで手に入れていない限りは、確かにこれを君に手渡した者がいたということになる」

「でも、どうして……白紙の手紙なんかを……」

「そこが、事実としてある疑問だ。それだけだ」


 彼女は必ず伝わると言った。意図が分からない。

 今日起こったことのどこまでが夢で、どこまでが現実だったのか。


 エヌは何かを思案するように、トントンとこめかみを叩いている。


「そして……まあ。傭兵稼業に携わっていなかったのなら、この件に明るくないのも無理からぬことだね。もう一つの事実を教えよう」


 表情は、常のように冷静である。

 だが黄都こうと二十九官に名を連ねるほどの彼もまた、シロクの見た出来事の真実を測りかねているようであった。


「“黒曜の瞳”は既に全滅している」


 ――翌日。約束の通りに、シロクとリナリスは再び出会う。

 それは想像を絶するほどの、凄惨な再会となる。

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