窮知の箱のメステルエクシル その1


 何の罪で、こんな恐ろしい出来事に巻き込まれているのだろう。暴雨のミンレには理解できなかった。

 ガカナ塩田街で慎ましく暮らす、“本物の魔王”の時代を生き延びた幸運の他に優れたところもない、一介の主婦のはずであった。

 一つの年を数えたばかりの娘を胸に抱いて、彼女はそれが再び来ないことを祈り続けている。


 周囲には世界の果て――海が荒れ狂っていて、彼女の背丈よりも切り立った岩礁はまるで迷路のようだ。それらがこの海の果てから、彼女の世界を滅ぼしに来たと言われても信じることができた。


「発見しています」


 冷たい鐘のような調べの声だった。二つの異形の内一つは、天に浮かんでいる。

 その姿は、まるで“教団”の教えに……宗教画に描かれた天使の姿そのものだ。

 だが、違う。本物の天使には、金属と歯車で造られた翼は生えてはいない。無慈悲な光を照らして、犠牲者を追い立てたりはしない。


「あなたは行動を起こしていない。しかし、私はあなたを発見しています」


 いくつもの金属の軋みが重なり合う、耳を塞ぎたくなるような轟音が響いた。もう一つが動き出したのだ。

 それは空に浮かぶ天使が導くようにして訪れる。


「ZZZYYYYYAAAAAAAAA!」


 残る一つ――真の脅威が、入り組んだ岩の一つを破砕する。

 中央で見た汽車にも近い。厚い金属で装甲された節を持つ体は、あの怪物のような乗り物にとても良く似ている。

 違うのは、それが意思で動き回る本物の怪物で、線路すら必要としないことだ。


 胴直径だけでも彼女の三倍になる化物から姿を隠すにはあまりにも心もとない、ようやく身を屈める岩陰で、ミンレは震えている。

 絶望だった。大人しい娘は大きな物音にただ目を白黒させているだけだが、いつ泣き出して、機械の悪魔に気付かれてもおかしくなかった。


 何が悪かったのだろう。子供の頃から好きだった世界の果ての景色を、娘に見せたがったことだろうか。その帰路で、娘が欲しがった岩場の花を摘むために、少しの寄り道をしたことだろうか。

 彼女の人生の中の何が、ここまで恐ろしい罰に値することだったのか。


「ああ、お願いします……詞神ししん様、どうか、私は構いません、どうか娘に言葉の加護を。私は……」


 ――嘘だった。ミンレは死にたくなかった。


 才にも容姿にも恵まれず、ひなびた塩田街で三十二年の人生を送り、この世に何も残せぬ者だとしても、死にたくなかった。

 あるいは幼い娘の育った先に幸福が待っているかもしれないと信じることのできた、その矢先の出来事であった。


「わ、私の命を捧げても構いません。ですが、娘に私の幸運をお与えください」


 必死の祈りを終えて、彼女は俯いていた頭を上げた。

 機械の天使の顔が間近にあった。


「熱源。探知の妨げになります。これを解体しますか?」

「う、うう……」


 表情筋のない顔面が、ギチギチと歯車の音を立てながら首を傾げた。

 天使の言葉に答えるように、汽車めいた機械蟲がぞっとするような駆動音を発した。悲鳴を上げることすらできない。

 彼女は死ぬのだ。抗いようもない、理由も分からない、神秘と異変に満ちるこの地平にありふれた、不条理な死であった。


 天使の機械の翼が開いて、真鍮の刃が無数に溢れ――


「はは、はははははははは!」


 哄笑する巨体に殴り飛ばされた。

 ガシャン、とガラスのような音を立て、細かな部品をキラキラと零しながら、天使は岩礁の陰へと落下していった。

 割り込んだ巨体は、人ではなかった。


「ひっ……! ひ……! ひい!」


 致命の危機を逃れたミンレは、恐怖の悲鳴すらも遅れて発した。事実、彼女の前に立つ存在も、同種の恐怖には違いなかった。

 身長は彼女の二倍だ。際限なく大型化した全身甲冑のような、黒青色の金属の人型である。彼女の知るどんな生命体とも異なっていたが、詞術しじゅつの言葉を発した。


「は、はやい……ぞ! ぼくの、ほうが、はやくて、つよかった!」

「う、うう」


 抱えていた娘が、ぐずる声を上げた。

 機械の巨人はぐるりと振り返って、ミンレ達を見た。頭部に当たる構造内部は深い闇で、紫色の単眼の光だけがあった。


「あ、いき、いきものだあ! おおきいいきものと、ち、ちいさい、いきもの!」

「ひい……ご、ごめんなさい、殺さないで。お願い。この子は……どうか……!」

「このこ。このこがしぬと、わ、わるいのかな!? なんで!?」


 ――間違いなかった。機魔ゴーレムだ。あの天使や、汽車も同じだ。

 魔王自称者が効率的な殺戮のためだけに運用する、機械仕掛けの怪物達。

 心の紛い物を吹き込まれた、相互理解不能の兵器。


「う、うう……どうか、どうか……」

「な、なんで、ちいさいほうが、しぬと、だ、だめなのかな!? おおきいほうで、かわりになるのに!」


 心底から理解を欲しているかのように、機魔ゴーレムは重ねて訊いた。

 ミンレは見た。彼の背後から――岩盤を乗り越えて、残る汽車の怪物が襲い掛かるところだった。

 昆虫めいた顎部が大きく開いて、内には火砲の光が煌いた。


 爆ぜる。つんざく。

 立て続けの砲撃音で、ミンレと娘の耳は割れたかもしれない。

 頑丈な岩盤が砕けて砂と散った。


「は、ははははははは! き、きかない!」


 だが彼女らの体が砕けることはなかった。

 海岸線を照らす爆炎を、巨大な機械鎧はその体で防いだ。


「ぼくは、さ、さいきょう、だから!」


 しかし、頭部自体の質量打撃が砲撃に続く。機魔ゴーレムはその双腕で、振り下ろされた鋭利な顎を受け止めた。

 一瞬のうちに何度も襲い来た死の光景と、それの尽く防がれた様を見て、ミンレは単調な反応しか返すことができない。


「ひい……ば、化物……化物……!」

「ばけもの、じゃ、ない! こ、こいつは、ネメルヘルガ! さっきのね、はねの、はえたやつが……レシプト!」


 家ほどもある大重量を正面から押さえ込みながら、機魔ゴーレムは叫んだ。


「そして、ぼくは――ははははは! メステルエクシル! か、かあさんの、さいきょうの、こども! こいつらより、つ、つ、つよいんだ!」

「母さん……?」


 機魔ゴーレム同士が、戦っている。汽車のネメルヘルガと、天使のレシプト。

 その二体を相手にしているのが、このメステルエクシル。

 ミンレは知らぬ間に、彼らの戦場の内へと踏み込んでしまっていたのか。誰も目の当たりにすべきでない、死の嵐の只中に。


「ち、ちいさいのが、しぬのが、だめなら! は、ははははははは! ぼ、ぼ、ぼくが、まもってあげるよ! ぼく、ぼくは……つよいからね!」


 ギュイン、と金属が擦れる不快な音が響いて、拮抗していたネメルヘルガとメステルエクシルは、互いを弾き飛ばした。

 ミンレの二倍ほどの体躯の内に、汽車一つを押し返す暴力が渦巻いているということを意味していた。


「ZZZYYYYYYYYYYYYY!」


 機械の巨蟲は岩を砕きながらうねり、尾の先端をメステルエクシルへと向ける。


 注意を自らに引き付けようとしたのか。メステルエクシルは隠れず、飛び出した。

 怪汽車の尾の内で、火薬が爆発した。


「はははははははは!」


 彼の右腕は、空中で根元から千切れた。軌道の先、硬質な音が岩肌に刺さって、そこには金属の杭が食い込んでいる。

 その結果しか見えない。信じ難い射出速度であった。

 メステルエクシルは一切意に介することなく、蹴りの一撃を尾に見舞った。

 少なからぬ衝撃が伝導するも、それでも埒外の巨体には有効打にならない。


「ネ、ネメルヘルガ。ぼくのほうが、つよいぞ。ぼくは、きみと、ちがって、か、かあさんに、つくってもらった!」


 彼は尾の先端を掴み、さらなる破壊行為を試みようとしたのだろう。

 その頭部が縦に割れた。メステルエクシルの足元はぐらりとふらついた。

 降り注ぐ細い熱線が、そうしていた。装甲が溶けて、背中までを深く溶断された。射出点は背後の上空である。

 天使は続けざまに第二射を唱えた。


「【――レシプトよりハレセプトの瞳へ r e s i p k t i o h a l e s e p t 金に浮かぶ泡 u o m o r t m o r p 水路の終わり b y a r o w o r o 虚ろを満たす k u q u r e i t n o s t a m t 灼け s i n d e r m o s t e k 】」

「ふ、あはははははははは!」


 頭部の半壊したメステルエクシルは、左腕で受けた。装甲はその熱の大部分を防いだが、関節を焼き切られた。

 肘から先が地面に落ちて、異常持続する熱線はさらに胴を焦がし続けた。


「き、きか、きかないぞ! ぼくは、さいきょうだ! ははは! だから、いたくないんだ! ほんとうだぞ!」

「ZZZGGGYYYYYYYYYYYYY!」


 熱線に耐え続ける必要があった。だから頭上から振る巨重を、メステルエクシルは今度こそ受け止める事が出来ない。

 彼の体躯を遥か上回るネメルヘルガの頭部が、鎧の体へ直撃する。

 鉄人はなおも笑った。加速の勢いを乗せたネメルヘルガの顎が、胴を貫いていた。


「はははははははははははは!」


 ネメルヘルガは、食い込ませた顎を展開した。

 万力のような力で上半身と下半身がねじ切られた。火花のような熱術ねつじゅつの光が内から飛び散った。

 機械蟲は凄まじい機構によって、さらに顎部を回転させた。


「目標の破壊を」


 胴が、脛が、足首が四散した。脳漿とも羊水ともつかぬ生暖かな液体が散って、海岸をしとどに濡らした。

 断片は見る影もなく歪み、機魔ゴーレムとしての再生も、もはやあり得ない。

 真鍮の天使は無機質に告げる。


「――完了しました。我が父。証明を終了します」


 幼い娘が泣き出した。

 ミンレは自らの運命を、ただ恐れ続けることしかできなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――


「勝負ありましたかな。貴女の機魔ゴーレムも見事な知性でしたが、私の作品も中々のものでしょう」


 海岸線を見下ろす崖上。そこには似つかわしくない丸机と椅子が設えられており、二人の老人が席を共にしている。

 穏やかな風貌の老紳士は、満足げにというよりも、事実を確認するように頷く。

 橙茶の一杯に口をつけた。


「レシプトの熱術ねつじゅつは、オカフでの取引で入手した魔の宝を応用しております。威力と持続性はご覧になった程度のものですが」


 一方、彼の向かいの席に座るのは、深く皺を刻んだ小柄な老婆だ。

 紳士とは全く違った乱雑な身なりで、苛立つようにテーブルを叩く仕草にも落ち着きがない。心底不機嫌そうに言葉を漏らす。


「……ご覧になったも何も、ありゃアタシの考えた仕組みじゃないかい。前の子供だ。嫌なこと思い出させやがる……ケッ!」

「フフフフフ。これは失敬。しかしこのサイズへの小型化は、相応に有用な改良だと思いませんか」

「威力が全然だ。クソッタレだね」

「……? しかし、貴女の作品を滅ぼす程度の威力はありましたな」


 彼らの囲むテーブルや椅子はよく見れば岩盤と同じ材質であり、その精緻な彫刻までもが、その場の工術こうじゅつによって形成されたものだと分かる。

 その土地に長く住まう専門の職人であれば可能な芸当であろうが、纏う空気の異質さが示すとおりに、彼らは無論、他の地よりの来訪者である。


 つまり二人ともが、そのような領域の術士であった。


「ですが、この程度で貴女に勝利したと考えてはおりませんよ。魔王自称者同士、また別の形で競うこともありましょう。今日は久方ぶりに童心に帰り、楽しく遊ぶことができました」

「……別の形だァ~?」

「はい。機魔ゴーレムを競わせる形では、こうして今日、決着がつきましたので。何か?」

「アタシに別の形なんかないンだよ。アタシの子供は機魔ゴーレムだけだ。ナメてんのか。棺の布告のミルージィ」

「ほう」


 老紳士は変わらず穏やかな表情のままであるが、僅かに眉が上がった。


「つまり敗北を認め、私の軍門に下ると……解釈するのは、都合が良い話ですか」

「この程度で音を上げる魔族まぞく使いなんざ、クラフニルの小僧くらいのもんだ」

「フフフフ……しかし、ここから何ができます?」


 かつて、魔王自称者という者達がいた。

 組織や詞術しじゅつの力を持ちすぎた個人。新たなる種を確立しようとする変異者たち。異端の政治概念を持ち込んだ“客人まろうど”。ほんの二十五年ほど前まで、その魔王自称者たちこそが魔王と呼ばれていた。“本物の魔王”が現れるまで。

 だが、彼らはただの隠遁者ではない。広い世界のいずこかで、このように牙を研ぎ続けているのだとしたら。


「勝負はついちゃいないさ。見ていろ。あれはメステルエクシルだ」


 崖上から見下ろす岩礁には、破砕されたメステルエクシルの体が散乱している。

 それはもはや完全に命を失い、そして健在であったとて、ミルージィの二体の機魔ゴーレムに及ぶ力ではなかった。

 しかし、そうだったとしても……


「――軸のキヤズナの、最高傑作なんだからな」


 かつての世界。人域の外まで届く工術こうじゅつの才を持ち、“本物の魔王”への抵抗の果て、ナガン迷宮市街をただ一人で作り上げた個人がいた。

 彼女は牙を研ぎ続けている。魔王自称者。軸のキヤズナという。

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