魔法のツー その1


 かつて、クタ白銀街と呼ばれる街があった。東西の交通の要であり、主に観光業によって繁栄した大都市である。

 その活気は今の黄都こうとにも引けを取らぬほどで、特に商業区などは、訪れるたびに新たな建物が建つ、“形の変わる街”とも称されていた。

 今は別の名で呼ばれている――“最後の地”。


「……小鬼ゴブリンだと?」


 元は兵の詰所であった一室。戸口に現れた協力者の影を、厄運のリッケは訝った。

 醜く裂けた口に、小柄で浅黒い体躯。細い耳。だが呪われし“最後の地”を臨むウックベ城砦跡を夜も更けた時刻に訪れる者など、他の用向きではあるまい。


 用心のために、使い慣れた短弓を取る。扉前の来訪者に今一度尋ねた。


「止まれ。俺が厄運のリッケだ。二つ目の名は?」

「……随分な用心ぶりですな。ま、そうでもないと名うての傭兵にゃなれませんか。間違いなくアタシが“千一匹目”です。千一匹目のジギタ・ゾギ。お見知りおきを」


 驚いた事に、それは流暢な言葉をも語った。リッケが父や祖父から聞いていた話と、相当に食い違っている。

 “本物の魔王”が現れる以前、地平に横行した種族なのだという。人間ミニアという名は、森でも山でもない“間”の地に暮らすことがその由来と聞くが、その人間ミニアの居住地のさらに“間”には、小鬼ゴブリンがいた。


 彼らは人族じんぞくの生産性と治安を悪化させていた大要因であり、効率化が求められた時代の要請で、鳥竜ワイバーンと共に主要な駆除対象とされた。

 結果として、個体が強く、空を飛翔できる鳥竜ワイバーンは生き残ったものの、数ばかりで知性が低く、単純な水攻め火攻めに弱い小鬼ゴブリンは、ある時を境に姿を消したと聞く。


「……あんたとの取引は、昨日今日の付き合いじゃないけど。仲介人は人間ミニアだっただろ。人間ミニアに協力者がいるのか?」

「さあ? 人間ミニアの協力者がいるというなら、リッケさんも山人ドワーフの協力者でしょう。要は……顔を見せずに取引する方法なんざ、いくらでもあるってワケです。顔を見せずに戦う方法もね」

「まあね。だが、今日顔を見せた」

「アタシも別の依頼主から仕事を仰せつかってましてね。直接出向く必要があったとお考えください。それとも、小鬼ゴブリンはお嫌いで?」

「……」


 リッケは息をついて、再び腰を下ろす。どうだろうか? 実際のところ、彼も小鬼ゴブリンに対して特段の差別意識があるわけでもない。まだ年若い彼は、小鬼ゴブリンのいた時代を知らないのだ。

 取引相手が珍しい種族だった。確かに、ただそれだけのことに過ぎない。


「まあいい。あんたは自分で戦えるか?」

「本来の戦いをするなら――今は、少々難しいですな。リッケさんには、これまでと同じことしかできません」

「助けを期待してるわけじゃない。だけどここまで出向いたからには、俺の獲物も当然知ってるんじゃないか?」

「……これはしたり。お気遣いを流してしまいましたか。噂には聞きましたなあ」


 無人の砦に野営具を広げながら、ジギタ・ゾギは暖炉へ新たな薪をくべる。

 簡素な熱術ねつじゅつと共に、火がその顔を照らす。


「“魔王の落とし子”がいる、と」


 “本物の魔王”が倒れたその周辺は、今なお恐怖と危険に満ちた、正常な生物を拒絶する地帯である――故に、そこに住まう者は正常ではない。

 “最後の地”から彷徨い出た狂気の獣が、程近い街を襲う。よく話に聞く事件だ。

 その上、最近になってその地には凄まじき怪物が現れ、都市からの討伐者は誰も手が出せぬという。


「もしも触れ込みが本当なら、敵は魔王と同種だ。ジギタ・ゾギ。俺自身はともかくとして、あんたを守る余裕はない」

「……謙虚ですな。しかし今なら、北方のギルネス将軍の陣やらオカフ自由都市攻略やら、得体の知れて割の良い仕事は、いくらでもあったでしょうに」

「俺は旧王国主義者じゃないし、黒い音色のカヅキと仕事を取り合える腕とも思ってはいないさ。……それに、良くないことだからな」

「良くないこととは?」

「“最後の地”の獣に脅かされる者がいることだ」


 厄運のリッケと幾度か取引を交わす中で、ジギタ・ゾギもまた、彼の人となりをよく認識していた。

 彼は自分自身が信じているよりも、数段に上の使い手である。若い無名の傭兵だが、生存力と技巧に限るならば、黒い音色のカヅキに並ぶ。

 質実にして素直な人柄は欠点である。このような損のくじを引くことも多い。

 ジギタ・ゾギは、室内を見渡した。遥か昔に放棄されたまま、無人の一階を。


「――残念ながら、そう考えたのはリッケさんだけのようですな。“魔王の落とし子”の情報は多くはありませんが、たった一人で倒す算段がおありで?」

「一人? ……まさか。誰がそう言った?」

「ほう。すると」


 言葉の途中で、ジギタ・ゾギは詰所の奥を見た。石造りの階段を下りて、その男は幽鬼の如く現れている。


「……話し声ガ……二階に、響クぞ。リッケ」

「こ……こいつは驚いた……。まさか、あなたのような方まで」

小鬼ゴブリン。我らの邪魔は、すルな。邪魔をすれバ殺す。一ツ目の忠告だ」


 濃紺のローブに隠れた顔面は、夜よりもなお暗い闇に包まれ、表情を窺い知れぬ。

 杖を頼りに体重を預けて歩む姿は、まるで老人の弱々しさであった。

 名を、真理の蓋のクラフニルという。詞術しじゅつ第五の系統を見出したと豪語する隠遁者。当代最高峰の術士とされる。


「……ランナ農耕地からの依頼だ。“最後の地”の全生物の駆除。クラフニルと俺とで、“最後の地”を攻略する」


――――――――――――――――――――――――――――――


 空は黒く淀み、吹く風も生温かい湿り気を帯びて、疎らに生える草木すらも、その呪われた地を避けているように思えた。

 用意された最新の馬車を駆って、三人は“最後の地”へと到達している。

 極めて精度の高い軽金属の矢と、注文された薬品類。長期の攻略を見越した城砦跡への兵站提供。そしてこのように行き来の段取りを整えたなら、ひとまずはジギタ・ゾギの最初の仕事は終わりだ。


「“魔王の落とし子”。“本物の魔王”が、子を作りますかね?」

「さあね。知らない。奴の正体を正しく知っていた奴なんていないさ。それこそ……本物の勇者でもない限り」

「その頃は魔王軍とやらがいたんでしょう。その残党ってセンは?」

「……フフ」


 笑いを漏らしたのは、後部座席に座るクラフニルだ。

 リッケは、不思議そうに目をしばたたかせて、ジキタ・ゾギを見る。


「……まさか、魔王軍のことを知らないのか?」

「はあ。まあ、少々事情がありましてね。街をだいぶ滅ぼしたんでしょう。強い連中でした? どんな戦術を使いましたかね?」

「いいや。魔王軍は……弱かったよ。あれを軍と言えるなら……どんな軍より、間違いなく弱かった」


 リッケは昨晩から彼と話しこんでいたが、どうも、このジギタ・ゾギについては奇妙な事実が分かってきた。

 彼の頭脳は、今まで知られていた小鬼ゴブリンからは考えられないほど明晰だ。リッケどころか、ナガンの学士が語るような知識を、当然のように話す。

 ――だが一方で、“本物の魔王”の時代についてを


 ジギタ・ゾギの持つ暗黒時代の知識は不明瞭な伝聞で得たものばかりで、所々に穴があったり、実感を伴っていない。

 “本物の魔王”に関する伝聞が不明瞭な理由は明らかだ。誰もそれのことを思い出したくなどないのだから。だが、魔王軍と戦った経験すらないのか。


(……そんなことがあり得るのか?)


 地平の全てを脅かした“本物の魔王”であれ、恐怖の影響が及ばなかった秘境は、確かにある……が、この新型の馬車や、内を綺麗な中空に加工した矢柄やがらの伝手を持つほどには、文明に馴染んでいる。

 そして、その数の殆どが死滅したと思われている、下等な小鬼ゴブリンである。


「……あれカ?」


 後部座席のクラフニルが、馬車の向かう先の存在に気付いた。

 丸く透き通った、淡い赤色の生物。粘獣ウーズか。


「かもしれない。ジギタ・ゾギ。ここで待てるか」

「もっと離れなくても? 危険が近づいたら、アタシは逃げるかもしれんですよ」

「あんたはしないし、逃げる前に俺が追いつくさ。とにかく、先には進むな」


 馬車から降りた二人は、慎重に距離を詰める。土は奇妙に湿っていて、不吉だ。

 粘獣ウーズは不明瞭に呟いた。


「ごめん、ごめ、ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんなさい」

「……“魔王の落とし子”に遭った兵士は、誰も敵の姿を見ていない。動きが速すぎたからだ。負傷度合いもまちまちだ」

「フー……。コの粘獣ウーズが、そうだト、思ウか」

「どうだかな……」


 恐怖に震える粘獣ウーズに、二人は近づかず――そして粘獣ウーズの直下の地面が割れた。


「ごめ……!」


 莫大な質量が地中より現れ、末期の言葉ごと粘獣ウーズを呑んだ。

 それは間欠泉のように現れ続けた。恐ろしく巨大な、地上最長の獣。蛇竜ワームである。

 しかも所々が金線で補強され、腐敗した両眼の代わりに水晶が収まった、自然界の生命としてはあり得ない形態のそれであった。


「おい、クラフニル!」

「……何カ? こうシテしまえば、話も早イだろウ……。私のミガムド、は、“落とし子”ヨり、速く呑ムゾ」

「そういうことじゃない……。周りの生き物が気付く。気付くとどうなる? 奴らは“本物の魔王”の影響で殺気立ってる。そういう場所なんだぞ、ここは」

「無論、そうスルためよ。生物……全てノ、駆除。なラば一所ひとところに集メタ方が、ヤリやすかろウ」


 蛇竜ワームの名を、ミガムドという。それは特に大型の蛇竜ワームの死骸を選び抜き、心を吹き込んだ屍魔レヴナントだ。

 魔族まぞくの生成。一部の魔王自称者が、その天賦の才によってのみ初めて扱える“魔の術”。クラフニルは、その内に系統を見出した初めての者とされる。


「……それトモ一人の体デの戦イは、自信が、ナイか。私の見た心術しんじゅつ、教授しテも構わヌぞ」

「まさか。厄介なだけだ。自業自得で死んでも、助けてやらないからな」

「クッフッフッフッフ……。餓鬼が、よクほざく」


 続いて現れた者があった。襤褸を纏い、無残に痩せさばらえた者。人間ミニアであろう。ミガムドが動いた。

 ――それよりも遥かに速く、矢が命中している。一撃で倒れ、起き上がらない。

 短弓の引き手に多量の矢を構え、リッケが叫ぶ。


「まだまだ来るぞ。クラフニル!」

「私の先ヲ、越スナ。これハ一つ目ノ忠告だ……」


 粘獣ウーズ角獣ユニコーン。次々と引き寄せられ、そして多くは互いに食らい合い始める狂気の軍勢を、リッケは正確な射撃で打ち倒していく。

 おぞましい姿と成り果てた小人レプラコーンの一団すら現れたが、それも何かを試みる前にミガムドの大口にまとめて呑まれる。


「なんでこんなひどい土地で暮らしてるんだか!」

「……そレが、“本物の魔王”ダ。恐怖の力。逃げタイと思うホどに、それが、出来ヌ。貴様も、よく知っテイるダろう」

「魔王め……とっくに死んでるってのにな……!」


 リッケは次の矢を番え、そして強烈な赤い予感が彼の脳裏を叩いた。

 彼が無数の戦いを経て生き延びている理由の一つに、死の前兆を赤色の色覚として感じることがあり――。


「おおっ!?」


 躓いて身を投げ出すように、リッケは跳んだ。

 地平線のどこかから、光のような勢いで何かがまっすぐに飛来し、瓦礫を破砕し、地面を抉って、数百m先で止まった。


「嘘だろ……!」


 太陽の方角に、小さな影がある。抉れた地面の軌道はそこまで直線を描いていた。

 影が動いた。これほどはっきりと見える赤い予感を、リッケは感じたことがない。

 避ける。交差の矢を合わせられるか。


(無)


 パギン、と空気が割れる音が、今度ははっきりと聞こえた。


(――理、だ!)


 しかしリッケの生まれ持った天才は、直線の突撃を再び回避すると同時に、最小の動きで撃ち放った矢を直撃させていた。

 逆速度の直撃。恐るべき相対威力であったはずである。だが。


「矢が、折レている……」

「当たったのか!?」

「――通っテいナイ! 右ダ!」


 右を向く。突撃が来る。間に合うか。

 ミガムドの体が割り込む。竜鱗に守られた分厚い巨肉は容易く貫通され、飛び出した存在はその勢いのまま、リッケの体を掠めた。


「何者だ……」

「……何者だって!?」


 存在が走り抜けた方角から、思いもかけぬ返答があった。

 鈴の如く透き通って響く、高い声である。


「君たちこそ何なんだよ! 勝手に皆を殺すな! そういうの、なんか……悪いことだって教わらなかったのか!」

「……!?」


 リッケは面食らって、その一瞬、警戒を忘れてそちらを見た。

 幸いなことにその瞬間に追撃はなく、リッケはそれ以上に驚くべきものを見た。


 崩れ果てた民家の屋根に、一つの影が腰掛けている。

 動きの余波に揺れる、細い栗色の三つ編み。中央の紳士が着るようなジャケットを羽織っているが、成人に僅か手前程の少女である。

 スカートの内から覗く白い細足には履物すら見当たらず、つまりは生身の裸足であの速度を駆けたというのか。


「君たちが何なのか、全っ然分かんないけど! 蹴り飛ばしてわからせてやる!」

「……。こいツは、何だ……」


 クラフニルすら同じ問いを繰り返してしまうほどの、それは不条理であった。

 山人ドワーフならば、常人を遥かに越えた膂力と速さで動けるだろうか。あるいは“彼方”の法則を逸脱した“客人まろうど”ならばどうか。

 ――無論そのような領域ではない。ましてや、リッケより年若い少女にあり得る身体性能ではない。


「……ヤるぞ。【クラフニルよりミガムドの骸へ c r a f f n i l i o m i g m a m d 泥玉の穴 n e x o p e n e s――】」

「待て」


 リッケは、後ろ手で制した。信じ難い強敵だ。クラフニルにとっては知らぬが、リッケはそうする必要がある。彼は短弓を構え、告げた。


「俺の名前は厄運のリッケ。“最後の地”の者を尽く討つべく来た!」

「なんだそれ……! かわいそうだろ! 怒ったぞ!」


 少女は叫んだ。言葉の通りに激怒しているようだったが、戦闘者が当然伴うべき威圧や殺気といえるものが全くなく、それが不気味でもあった。

 もはや間違いない。彼女こそが“魔王の落とし子”。“最後の地”に突如として現れた、正体不明の徘徊獣。


「教えてやる! ぼくの名前はツー!」


 少女は立った。黒いジャケットの内……白い布地の腹が破れて、傷一つない、綺麗な肌が見えている。

 リッケの矢が被弾した箇所だ。


 技量はリッケが上だ。詞術しじゅつでクラフニルに及ぶ筈もない。

 避けられる。当てられる。だが。


(……倒せるのか、こいつを!)


「魔法のツーだ!」

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