不言のウハク その2


 あの日の出来事について書き記すことは、あるいはウハクの名誉を損なうことであるかもしれません。

 しかし、他ならぬウハク自身が、偽りや隠し事を決して望みはしないことを、私はよく知っています。そして私が目の当たりにしてしまった真実の一端を誰かに残すために、あの血腥い争いを避けることもできません。


 太陽は真上を過ぎた頃で、少しの雲が遠い山影に差し掛かっていました。

 私は井戸から水を汲んでいる途中で、村の方角から細く立ち上る煙を見ました。


「ウハク。ウハク、あれを」


 私の言葉は聞こえなかったでしょうが、足音の調子だけで何が起こったかを察して――ウハクに聞こえないのは、詞術しじゅつの言葉だけでした――ウハクはすぐに院の中庭へと出てきました。

 火事か、狼煙か。子供が悪ふざけで焚き火をして遊んでいるだけならいいのですが。私はウハクの引く荷車で、村へと急ぎました。


 村へと近づくにつれ、街道の様子は不穏の色を増していきました。

 鳥が方向を定めずにめちゃくちゃに飛び、羽や肉を枝に千切られていました。

 野兎は宙を見つめたままぼうっとして、巣穴に潜ることもなく、街道の中央に立ち尽くしていました。

 ――同じような有様を、私は知っていました。“本物の魔王”が生きていた頃。あの漠然とした、何もかもがおかしくなる恐怖。


 村が近づくと、引きずられた夥しい血の痕が、筆で描くように曲がりくねって、村の方向へと塗りたくられているのが分かりました。

 何が訪れたのか、何が起こっているのか、考えずにいたいと強く思いましたが、ウハクに止まるよう伝えることもできませんでした。

 この貧しい老婆だけが、彼らにとっては、きっと心を支えるよすがなのですから。


「クノーディ様! 今、村に入っちゃなんねえ!」


 逃げ出してきた村人の一人が、血相を変えて荷車を阻みました。

 衣服は誰かの血飛沫と煤の欠片に汚れていて、事態を物語っていました。


「ありゃあ……俺ぁ知ってる! 裂震のベルカ! 誰も勝てねえ! あいつまでおかしくなっちまってたんだ! 魔王……やっぱり、魔王だ……」

「……。どうか、落ち着いて。苦しいとき、互いに助け合うのは当然のことです。私には詞術しじゅつの加護と、ウハクがいます。何が起こっているのですか?」

「ベルカ……裂震のベルカだ。魔王をブッ殺しに行った英雄……皆、死んだと思ってた……でも、違った」


 その老いた職工は唇を震わせ、強く目を閉じました。


「生きてたんだ。死ぬことができなかった。“最後の地”から、奴は戻ってきた。……戻ってきた……狂って。もうあれは、化物だ」


 私は彼の背を撫でて、いくつかの言葉で落ち着かせると、荷車を引くウハクを急がせました。

 すぐに、惨状が見えました。村の入り口からいつも見えていた青い屋根の納屋が、天からの掌によって押し潰され、砕かれていくところでした。

 巨大すぎる手の持ち主はやはり天を衝くほどに大きく、村の建物の全てを見下ろしていました。


 裂震のベルカ。職工の話が確かならば、“本物の魔王”を討つべく旅立った巨人ギガントの英雄の……その成れの果て。


「た、助けて。助けて。聞こえる……! まだ、の声が聞こえる! 恐ろしい! 助けて! あああああ!!」


 彼女の狂気の咆哮は、ただそれだけで私の鼓膜と精神を苛み、自身を幾度も切りつけたと思しき巨大な鉈は、叩き潰された村人の血や内臓にもまみれて、赤い光沢に濡れていました。


「【ベ、ベルカよりアリモの土へ b b b b e r r u k a i o a r r r i m m o 蠢く群影 w e l l l l n m m e t t t t……助けて……鉄の起源 l l l l o s s e a a n e t t t 砕ける波 n o o o r s t e m s ……怖い、怖い……怖い怖い怖い……孵れ u i o m t e s t o p !】」


 ベルカの足元に――つまり私たちの立つ地上に、蟻塚のような土の小山が、いくつも土中から衝き上がりました。

 私はその詞術しじゅつの恐ろしさを予感し、咄嗟に雑貨屋の建物の背後へと隠れ……そして、ウハクを連れていないことに気付きました。


「ウハク!」


 私が必死に叫んでも、ウハクは言葉を聞くことができませんでした。

 彼は潰された水車小屋の近くに立っていて……そして、恐ろしい炎と光を伴って破裂した小山の破壊に巻き込まれました。

 馬の死体が軽々と飛んで、物見櫓の骨組みを折り倒しました。血の水溜りは一瞬にして乾ききって、木の外壁は全て、熱の余波だけで自ら燃えました。

 裂震のベルカがどのような詞術しじゅつを用いたかは分かりませんが、きっと、炎や音と共に爆裂する何かを、土から生じさせる生術せいじゅつではなかったかと思います。


「ウハク! ああ……なんてこと……!」


 ――ウハクは無事でした。破壊の波の中心で、傷一つ負っていませんでした。

 一つとして?


 その通りです。そこに身を守るものは何もなく、ウハクは動いてすらいなかったのに、灰色の肌には切り傷一つ、火傷の一つもありませんでした。

 彼の体がどれだけ屈強でも、そのようなことが起こり得るでしょうか。私も、この世にあり得ることとあり得ないことくらいは理解しているつもりでした。


「う、うう……ううう~~ッ、声……声を止めて……助けて……」


 狂った巨人ギガントは、焦点の合わない濁った瞳で生き残った者を見回して、半身が吹き飛んで、僅かに息の残っていた一家の母親を掴み、咀嚼しました。

 本来巨人ギガントが食するべきでないものを噛み締めるたびにゴボゴボと唇から血が零れ、それすらも意に介せない狂乱を物語っていました。


「もうやめなさい! 裂震のベルカ! “本物の魔王”はもうこの地平にはいません! あなたを恐れさせる者も、苛む者も、もはやどこにもいません!」

「……………………。うぞだ」


 噛み砕いた村人の骨で自らの喉の内を傷つけながら、巨人ギガントは答えました。

 私は……その時も、本心では逃げたくてたまらなかったのです。死んでいった仲間たちとは違って、本当は、心から立派な神官などではありませんでした。

 それでもウハクが逃げずにいるのなら、そうすべきと自らを強いただけのことにすぎません。


「じゃあ、ごの声は……あたじの中で、ずっと聞こえる。ま、魔王の……気配が、する……! まだ、あいづは、生きてる!」

「いいえ! 声などありません! 私たちは、自らの心の内の恐怖と戦わなければいけません! 全てを疑い、恐れ、憎しみ、殺しあうようでは、“本物の魔王”が死んでも、まるで“本物の魔王”の時代と同じではありませんか! どうか、英雄としての心を取り戻すのです! ベルカ!」


 ベルカは次の口を開きました。それは殺意の言葉でした。


「ベ、ベルカよりアリモの土へ……蠢く群影……鉄の起源。砕ける――」

「クノーディよりアリモの風へ。滝の流れ、眼の影、折れる細枝! 阻め!」


 私は破壊の詞術しじゅつよりも早く、自らを守る力術りきじゅつを唱えねばなりませんでした。

 私たちはどちらも、同時に詞術しじゅつを唱え――そして。

 そして……その後には、何も起こりませんでした。


 土が小山を生やすことも、風が防護の布を編むこともなく、そのとき私たちの発した言葉は、ただの音でした。

 ベルカは信じ難い物事を見たように、目を見開き……そして膝から崩れました。


「……ベルカ?」


 ベルカは私の呼びかけに答えられず、恐怖心の突き動かすままに、無理矢理に身を起こそうとしているようでした。

 私はその様子を、間近で見ていました。彼女がもがけばもがくほどに、肩が外れ、どこかの骨が潰れて折れ、肉が裂けていく様子を。

 まるで……まるで先程まで歩み、立っていたはずの彼女の巨重を、彼女自身が支えられなくなったとでもいうかのように。


 血と、苦痛と、恐怖の表情で、ベルカは顔を上げました。ウハクがいました。


「ク……クノーディよりアリモの風へ――」


 ウハクを護るべく、私は詞術しじゅつを唱えようとしました。あるいは……そう、先の試みが、何かの間違いだったのだと証明したかったのでしょう。

 風は呼びかけに答えませんでした。私の言葉は、ウハクだけでなく、ベルカにすら届いていないように思いました。世界の何もかもから切り離されたような孤独が、そこには厳然とした事実となって存在していました。


「ウウウ。ウウゥ……フ……」


 ベルカは不明瞭な呻きで鳴いていました。助けを求めたのでしょう。

 まるでそれは、心持たぬ獣の鳴き声と何も変わりませんでした。


 ウハクは、壁から剥がれ落ちた大きな石塊の一つを拾って、彼女の額へと叩き付けました。嘆きと恐れの悲鳴が上がりました。ウハクは再び、石を振り上げました。

 もう一度、石が振り下ろされました。


 彼はいつものように勤勉に、為すべき義務を為すように、女巨人の頭を叩き、続けて叩き――割って、叩きました。


 巨人ギガントの英雄が、詞術しじゅつも使えず、身を起こす事すら許されずに、殺されました。

 遠巻きに見ていた村人の誰もが、その行いを止めることができませんでした。この私ですらも。


「……ウハク?」


 全てが終わり、ようやく私は、本来の言葉を取り戻したことに気付きました。

 ウハクは答えませんでした。彼には言葉が届く事はなく……そして、彼は今や、食事をしていました。


 彼はいつものように静かに座って、砕いた巨人の頭の中身を、黙々と食べ続けていました。

 誰もが。私も含めた村の誰もが、そのことを初めて理解しました。


 ウハクは……人を食べることのできない大鬼オーガなどではなく。

 ただ、なのだと。


――――――――――――――――――――――――――――――


 それからの状況は、次第に悪くなっていきました。

 ベルカが運んできた恐怖は、その頃には村の誰もに伝染していて、皆が疑いと恐れの目でウハクを見ました。

 家族や隣人を失った者たちを少しでも救えれば良いと思い、私は村へと足繁く通いましたが、彼らの抱く呪いを解くことはできませんでした。次は何者が訪れるのか、自分達は、どのように死んでいくのか……そして、“本物の魔王”は生きているのではないか。


 村人たちの言うとおりでした。絶望で未来を閉ざし、恐れに駆り立てられる人々の姿こそ、“本物の魔王”の時代に私が見ていた光景でした。

 この恐怖が人々の心に刻まれている限り、魔王は何度でも、私たちの心に蘇り続けるのでしょう。とうに死んでいたとしても、生きていた頃と同じように、未来へと悲惨をもたらし続けるのでしょう。


 “本物の魔王”から世界が救われて、少しずつ復興の道を歩みつつあったアリモ列村の清流は、今は赤色に濁っています。

 家を持たぬ者が虚ろな目で街を彷徨い、逆に家を持つ者は、扉を固く閉ざして何者もその中に入れぬようにしています。

 絶え間ない緊張と恐怖に耐え切れなくなった誰かが暴力の沙汰を起こせば、その者は必ず、村人たちの凄惨な私刑によって一家諸共に惨殺され、死体の形が残っていたならば、それは村の入り口へと吊るされました。


 どうかお許し下さい。村が急激に絶望の時代へと逆戻りしていく姿を見ながら、何一つ彼らを救うことができなかった、無力な私を。

 誰もが、詞神ししん様への信仰は“本物の魔王”の恐怖の前には無力と信じ、そして人食いの大鬼オーガと暮らす私のことを、受け入れようとはしませんでした。教会へと攫って、あの大鬼オーガの餌にするつもりなのかと。


 この結果も当然の成り行きだったのでしょう。彼らを救えなかった私を、彼らは恨む権利があります。

 火を焚いた村人たちが教会へと詰め寄り、私とウハクを処刑すべく集いました。

 ――それが昨夜のことです。


 「“教団”を殺せ」。「人食い鬼を殺せ」。そのような声が口々に聞こえました。私はもう、彼らにとっては“教団”という名の、漠然とした敵となっていました。

 蝋燭の光に包まれた、共に文字を学んだ書斎で、私はウハクに語りかけました。


「ウハク。あなたの為したことは、間違ってなどいません。あなたは多くの村人の命を救った。ベルカの肉を食らってしまったことも……それは、間違いではありません。鬼族きぞく人族じんぞくの肉を食べる。この世の始まりから決まっていることです。それなのに、あなたは……ずっと私たちを慮って、食べずにいてくれたのですね……」


 ずっと、ウハクは戦い続けていました。大鬼オーガに生まれついた罪と飢えとの戦いでした。どれほどの信仰と節制がそれを為し得たのか。人間ミニアの私には、想像することすらできません。どちらかが死ぬ運命であれば、それは誰も救えず、信仰者としても無力であった、私であるべきだと思いました。


 文字に書いて、私はウハクに伝えました。


「森を抜けて、まっすぐ川を越えて……そしてどこか別の村の“教団”を頼りなさい。私の書いた手紙が、いくらかの助けになるでしょう。私には、言葉があります。人の心に落ちる影を……恐れの呪いを、私は解かなければいけません」


 ウハクは手紙を受け取って、僅かに頷いたようでした。けれど彼は、教会の外に出てようとする私を押しのけて、一人で彼らの元へと進んでいきました。


「……ウハク! やめて!」


 私の言葉は、ウハクには届きません。誰の言葉も、決して。

 私たちが守るべきだった村人の中から、恐れと怒りの声が上がりました。

 彼らはめいめいの武器を持って、ウハクに打ちかかりました。そのどれもが、放たれた矢さえも、棍の一閃に払われました。


 さらには、互いに会話が出来ぬこと、詞術しじゅつが用を成さぬことへの困惑が、彼らの間に広がりました。

 怯え、逃げ出そうとする者が現れました。ウハクはその一人の首筋を後ろから掴みました。枝を手折るようにへし折り、振り向きざまの棍で、別の村人の頭を砕きました。拳を打ち付けるだけで、村人は布人形のように折れ曲がって死にました。


 ウハクが戦う時、そこには何も起こりませんでした。

 私の十倍もの大きさを持つ巨人が、まるで存在を許されぬかのように。

 事物に呼びかけ通ずる詞術しじゅつが、最初からあり得ない業だったかのように。


 彼の前ではこの世の全ての者が、神秘を失った心持たぬ獣と同様であり――そして彼自身は、ただ大きく、ただ強いだけの、ただの大鬼オーガでした。

 村人も英雄も、何一つ違いはなく。彼は棍を振るい、粛々と、勤勉に、村人を血の染みへと変えていきました。


「……ウハク。どうすれば……私は、どうすれば正しかったの……」


 その惨劇を作り出しているのは、私の息子。私の同志。ただ一人の家族でした。

 きっと、その現実から逃れたかったのでしょう、私は一人で森へと逃げ込み……そして足に糸がかかったと思った時には、矢が腹に突き刺さっていました。


 ――村人が私たちを仕留めるべく仕掛けた罠でした。

 まるで獣を狩るのと同じように、私は。

 私は、自らの過ちと愚かさを悔いました。恐ろしさからウハクを見捨てて、自分だけが逃げ延びようとした、心の弱さの招いた罰でした。


 遠くで殺戮が続く中、何人かの村人が、槌や棒切れを持って、私を囲みつつありました。私は、今度こそ運命を受け入れようと心に決め、しかし湧き上がる恐れのためにそうできず、そして……彼らの一人が倒れる様を見ました。


 まるで道を空けるように、武器をそちらに向けた者から、次々と倒れ、起き上がることはありませんでした。

 ついに全員が倒れたとき――見知った顔が、その中から現れました。通りのクゼという名の、かつての教え子でした。


「……先生。やあ、クノーディ先生。生きてるかい」


 傷口からの熱が回った体には、頬を叩く彼の冷たい手が心地よく感じました。

 もっと伝えたいことはいくつもありましたが、意識が薄れ行く中で口にできたのは、僅かな一言だけでした。


「……大きくなりましたね。クゼ」

「ごめんな。俺はいつもこうだ。いつだって、間に合う事ができない。俺のせいだ」

「……」

「……大丈夫だ。待ってろよ、先生。必ず家に帰してやるからさ。みんな……悪い夢はみんな、片付けてくるから」


 ――私は今、クゼの外套に包まれて、寝室に臥せっています。

 彼は励ましてくれましたが、この傷では、明日の朝まではもたないでしょう。

 ならば何か一つでも……言葉を知らぬ哀れなウハクに私の最後の心を伝えるために、こうして書き記しておきたいと思います。


 あの日に殺した狼の仔のことを、ずっと、忘れることができません。

 庭の片隅に、ウハクが僅かな石を並べて沢山の花を供えた、その仔を供養する墓が今もあることを、私は知っています。


 私たちは全て、生まれながらに詞術しじゅつの祝福を与えられています。それが与えられなかった獣たちとの違いは、何だったのでしょう。

 言葉を使えずとも、ウハクには心がありました。人を思いやり、困難に耐え、信仰に尽くす……私たちと同じ、紛れもない心が。


 幼い頃から何気ないものとして見続けてきた情景が、いくつも巡っていきます。

 荷物を運べなくなった馬が斧で潰され、食肉にされる様子を幾度も見ました。

 子供たちが遊びの中で猫を蹴り飛ばして殺した時も、私は野生の生き物に近づく危険を注意しただけでした。

 ……私たちは、私たちのために死にゆく家畜に、敬意も愛情も注ぐことなく、当然の権利として命を消費していました。


 “彼方”の世界ではそのようなことはなかったのだと。この世界はひどく残酷な世界であるのかもしれないと……私が十一の頃、旅の“客人まろうど”が、父と話していたことを、なぜ今まで忘れていたのでしょう。


 ――あの狼の仔は、ウハクと同じではなかったでしょうか。

 言葉を伝える術がないだけで、そこには確かな心があったのではないでしょうか。


 もしもそうだとするなら、それはどれだけ恐ろしい罪なのでしょう。

 私たちはこの世に生きている限り、その恐ろしい罪を、ずっと積み重ね続けているのです。


 あの日からずっと、神官としてあるまじき考えに苛まれています。

 詞術しじゅつとは絶対の法則なのでしょうか。

 ドラゴンが飛び、巨人ギガントが歩み、人が言葉を通わせ、詞術しじゅつを現象と化す。

 私たちが当然と思っている物事は、本当に、そこにあるべきものなのでしょうか。


 ……ウハク。あなたの眼にはずっと、心持たぬ獣と私たちが、同じように見えていたのでしょうね。あなただけが一人、平等に全てを慈しみ、語り、命と向き合うことができたのでしょう。

 殺した命を食べることが、あなたにとって、命への責任の取り方なのでしょう。


 あなたは、多くの村人の命を奪いました。私が狼の仔を殺したのと同じように。

 けれど、それはあなたの罪ではありません。

 私たちは、間違っていました。詞術しじゅつに溺れて破滅した、不言ふごんのメルユグレ様の兄弟と、まったく同じだったのです。


 いつか教えましたね。

 神官は、呪いを解く者でなければなりません。


 不言ふごんのウハク。私があなたに与えた教えを、明日より捨てなさい。

 人間ミニアの作り出した道徳に縛られることなく、あなたの思うように、全ての命に平等に、食べて、生きていきなさい。

 ……私はもはや、生きていることの罪に耐えられはしません。その償いの時が来ただけのことです。


 私が死んでしまったなら、私の肉を食べなさい。


――――――――――――――――――――――――――――――


 黄都こうと第十六将、憂いの風のノーフェルトの部隊が到着したのは、惨劇の過ぎ去った翌朝である。

 教会を襲撃した村人は尽く体を叩き潰され、食いちぎられていた。また、森の中に身を隠していた者は、急所を短剣で抉られたような死体となって発見された。それを行った下手人の一人を、既にノーフェルトは発見している。

 ノーフェルトは、老婆の遺した遺書を置いた。


「ウケる」


 全てが遅きに失した。“教団”に関わる事件への対応はいつもそうだ。たとえ生まれ育った救貧院であっても、それを軍が助ける許可のために、一日の時間がかかる。


「……バッカじゃね。クノーディの婆さん、どうかしてるっしょ……なんか、俺に言わずに、勝手に死んじまったしさ」


 異常長身の剣士の心の内には、軽薄な笑いとは裏腹の憎悪があった。

 故郷を見捨てた黄都こうと。何も救えぬ詞神ししん。“本物の魔王”に踊らされる世界。

 勇者も王族も、誰も死んでいく弱者のことなど考えてはいない。


「よう、ウハク。婆さんの教え子ってことはさ。つまり俺の後輩なんだろ? もう、いいっしょ。どうでもいい。全部台無しにしちまおうぜ」


 大鬼オーガは、静かに祭壇に向かって、背を向けて座り込んでいる。

 言葉を発することはないが、彼が日々続けてきた祈りであった。


「――勇者やんぞ、ウハク」


 聖堂に横たえられた彼女の死体には、沢山の花が手向けられている。



 それは生まれつき詞術しじゅつの概念を理解しないままに、世界を認識している。

 それは自らの見る現実を他者へと同じく突きつける、真なる解呪の力を持つ。

 それは厳然たる現実としての強さと大きさを持つ、ただの大鬼オーガである。

 疎通なき沈黙のままに世界の前提を覆しゆく、公理否定の怪物である。


 神官オラクル大鬼オーガ


 不言ふごんのウハク。

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