絶対なるロスクレイ その2

 白銀の脛当てを纏うその脚が、大地を踏む。

 鋭く、速い、瞬発の初動。


 ギルネスは、踏み込みに合わせて下がる。“宿威しゅくい”の状態にある限り、相手の動きを見て、自身から仕掛けた動作を即時に切り返すことも容易い。

 だが突如展開された詞術しじゅつの乱発に注意を奪われたギルネスは、剣の間合いを避けても、握る魔剣の先端までに意識を巡らせることができていない。

 正眼に構えられたままの剣の先端を、ロスクレイの剣が絡め、巻き上げる。


 力任せに撃ち落とすのではなく、側面を押さえるように静かに当て、そして逸らしていく、極めて正しい王城騎士の形であった。


(……爆砕の魔剣の仕組みが)


 ――見破られている。今、魔剣に触れたロスクレイの剣は爆ぜてはいない。


 続く動きは決まっている。剣の峰に沿って滑るように、ロスクレイは距離を詰める。その手がギルネスの篭手を押さえ込み、互いに鍔迫りの形になる。

 力ではギルネスが上だが、後退に合わせて押さえられ、重心を前に乗せることができていない。それで拮抗している。

 闘志を再び奮わせるべく、ギルネスは吼えた。


「貴様が何者だろうが。俺は勝つ……!」

「――速度。斬撃の速度で、固体への接触。その条件で爆砕する」


 ぞっと、ギルネスの背に冷や汗が浮かぶ。

 間近で見るロスクレイの美貌には……先に観客に見せていたものとは全く違う、冷徹な、沈思の表情が浮かんでいた。

 ギルネスの言葉を意に介することもなく、口の中で、呟き続けている。


「剣を鞘に収めることができていた。触れるのみが発動条件であれば、このように」


 ロスクレイが、押し合う両手剣の峰へと片手を添え、さらに力を込める。

 必然、ギルネスもそうして抵抗せざるを得ない。


「……刀身に手を添えることもできない。剣術の幅も狭まる。そのような武器をここで用いるはずがない。よし」


 互いの力の反発によって、ロスクレイは跳ねるように後退し、再び距離を取る。

 それで悟る。今の鍔迫りは、体格に勝る破城のギルネスを押し切ろうとしたものではない。あるいは最初にギルネスの剣がロスクレイのそれを掠ったことすら、偶然の成り行きではなかったのか。

 ――チャリジスヤの爆砕の魔剣の特質は、完全に看破された。


 ロスクレイが後退した位置には、地中より生成された剣の複製が、今なお浮遊し続けている。

 打ち合いの最中、ずっとこの複数種の詞術しじゅつを持続できるはずが――

 考えるべきはそれではない。心乱されるべきでないのだ。それは敵の付け込む隙となる。本体の剣術に限ったとしても、ロスクレイは間違いなく、ギルネスと同等以上の使い手である。


(もはや、使うべき時だ)


 ギルネスは掌中の握りを変え、右手側の手甲を落とす。

 事前に備えた、残る最後の手段の合図である。


 それを彼らは、“鳥の枝”と呼んでいる。

 細く折り畳める形状へと改良された、単発式のいしゆみの名だ。

 独特の射出音は決して小さくはないが、それは人の声域に掻き消える調整の周波数であり、群衆の怒号や悲鳴の中。あるいはこのような興奮の歓声の中にあっては、その射出点を特定できない仕掛けである。


(撃て)


 ――その狙いは無論、絶対なるロスクレイではない。


 客席へと仕込んだ兵より、ギルネス自身の背を射たせる。

 矢が目立ち、致命傷にはならず、その後に卑劣を糾弾する声が張れるように。

 第三卿ジェルキの言動から判断する限り、黄都こうとはこの試合に伴う風評を、勝敗以上に重視している。

 そして……考え得る手を尽くしたとして、なおロスクレイの力に及ばぬことを、ギルネスほどの将が一切想定していなかったわけではない。


 観客席に紛れ騎士の背を射る、『卑劣な手段』。

 これよりそれを用いるのはギルネスではない。ロスクレイの陣営だ。

 実力差とは無関係に試合を切り上げるための手立てを、ギルネスは最初から整えていた。続いて客席に紛れた百の仕込みが、一度に暴動を扇動する。数の力は、場の空気を動かす運用において、最も効果を発揮する。


「……」

「はあっ!」


 宙に浮く剣の一つを、ロスクレイは取った。基本に忠実な、袈裟懸けの剣閃。

 ギルネスは爆砕の魔剣で受けた。敵の剣が爆ぜ折れ、そして再び一瞬、ギルネスの動きが止まる。

 先程ギルネスを硬直させた電流の熱術ねつじゅつが、ロスクレイの剣から流されていたことが分かった。斬撃と同時に、自身の剣に電流を流していた。


 何故。援護の射撃は何故来ない。


「素晴らしい反応です! ギルネス将軍!」


 観客へと聞こえる、朗々とした賞賛とともに、ロスクレイは次なる剣を手に取る。

 彼の周囲には、今や六本もの剣が生成され、彼を中心に旋回している。

 反応を。腕を犠牲にしてでも、胴に切り込まれることだけは避けなければ。


 “宿威しゅくい”の作用を以て強引に、剣の軌道を左腕で阻む。

 しかし軌道は、蛇が巻き付くように不自然な曲線を描いて、自ら避ける。


「【――軸は第四左指 l a e u s 4 m o t b o d e 音を突き t e m o y a m v i s t a 雲より下る i u s e m n o h a i n 回れ x a o n y a j i 】」


 力術りきじゅつ。剣を浮かせることができるなら、その軌道を変化させることも――。


「ぐうっ!?」


 体重を乗せた一撃が、ギルネスの胴を、胸当てごと割った。

 肋骨が断たれ、内蔵深くにまで達した傷であることが分かった。


 何もかもが異形であるロスクレイの戦闘の中にあって、その剣術だけが、完全に正しいままの、王城騎士の剣。


「ロスクレイ!」

「やれるぞロスクレイ!」

「これにて終着です。ギルネス将軍。素晴らしい試合だった」

「ロスクレイ!」

「お前は……何者、だ……」

「ロスクレーイ!」

「ロスクレイ!」


 絶対なるロスクレイは、見る者に安心を与う、穏やかな眼差しでギルネスを見下ろしている。彼は果たして英雄なのか。

 誰も気づかないのか。今のこの試合は、尽く異常だ。


「ギルネス将軍。立ち上がってください。敗北してしまいますよ」

「……」

「将軍」


 ロスクレイは、頭を垂れたギルネスに追撃の剣を下ろすことはない。

 しかしその代わり、囁く声で言った。


「鉄張りの柄は、いかがでしたか」

「……!」


 末期の走馬灯の中、破城のギルネスは、その意味するところを察した。

 チャリジスヤの爆砕の魔剣。刀身のみを取り替え、鞘と柄を、同じ造りに誂えた。

 誰もそのすり替えに気付くことのないよう、黄都こうとに用意された剣のままに。


 故に電撃の熱術ねつじゅつは、ギルネスの剣を、使い手まで逆流した。

 ロスクレイの剣はどうだったか。石より生んだ剣だ。柄を絶縁している。


「お前は」

「……そしてもう一つ、お見せするものがあります」


 客席に見えぬよう、ロスクレイは腰の飾り布の内を見せた。


(……馬鹿な。こんなことが……!)


 そこには幾つかの鉱石が輝いている。

 一つ一つから針金が伸び――それは通信兵の用いるものと同じ、ラヂオであった。


「【オノペラルよりコウトの土へ o w n o p e l l a l i o k o u t o 形代に映れ y u r o w a s t e r a 宝石の亀裂 v a p m a r s i a w a n w a o m ――】」

 「【ヴィガよりコウトの風へ v i g e r i o k o u t o 蛍の湖面 n a m f a t q u m z i z 土の源 n i n h o r t a s ――】」

「【エキレージよりロスクレイへ e g i r w e zi i o r o s x l e y 歪む円盤 t o r t e w b i j a n d ――】」


 あの詞術しじゅつを用いていたのは、ロスクレイではない。

 人の経験の総量には限りがある。

 星馳せアルスのような例外を除き、


「ロスクレイーッ!」

「ロスクレイ!」

「ロスクレイがやったぞ!」

「ロスクレイ!」


 破城のギルネスも知らず、民と同じ憧れを抱いていたのかもしれない。

 彼は正しき剣技で敵を打ち倒す、真なる正道の騎士なのだと。


 何もかもが違った。この男の強さは、得体の知れぬ異才ですらなかった。

 この小二ヶ月の準備期間で、彼もギルネスと同じことをしていたのだ。

 ロスクレイ本人に詞術しじゅつの予兆が見えなかったことすら、至極当然の話だった。


 ずっとそうだったのか。人間ミニアが単独でドラゴンを殺せるはずがない。

 彼は真に単独だったと、誰が保証していたのか。その時に彼は、己の剣技のみで戦っていたとでもいうのか。

 この卑劣こそが黄都こうと二十九官の実態、民の信奉する英雄の正体だというのか。


「おお、おおおォォォ――ッ!」


 ギルネスの内に燃え続ける無限の怒りは、その時に爆ぜた。

 それは憤怒であり、悔恨であり、何よりも深い失望でもあった。

 もはや死に体だったはずの彼の肉体は、精神の激情に任せて剣を振るい。


「――はあっ!」


 そしてあまりにも正しい軌道の、剣技の袈裟懸けに倒れる。

 先程割った胸当ての間隙を通って、銀閃は生命を停止させた。


 ロスクレイは深く息を吸い、真摯な表情を作って、観衆へと訴えかける。

 その興奮が冷めてしまわないうちに、計算された演出を。


「……皆様方の目の当たりにした通り。ギルネス将軍は、私の降伏勧告を拒絶し、剣を取りました。……そして今、我が剣の前に斃れました!」

「ロスクレイ!」

「ロスクレーイ!」

「ロスクレイ!」

「彼は命を拾い思想を広めるのではなく、自らの理想と共に殉ずる道を選んだ! 旧き時代を終えるべく、自ら命を差し出したのです! 剣を交えた私には分かる! 市民の皆様方! 将軍の勇気に喝采を! 彼の犠牲は……旧王国主義者と我らが共に新たな時代を歩む、その始まりの一歩となるのですから!」

「そうだロスクレイ!」

「ギルネス! ギルネス!」

「ロスクレイ!」

「ギルネス!」

「こうして誅を下した今、私は、もはやギルネス将軍を恨みはしません! 皆様もそうあって欲しいと願います! 彼らは、誰もが平和を築くべく戦った! その犠牲を背負い、進歩する時です!」


 剣の白銀の光を煌めかせて、黄都こうと第二将は語る。

 絶対なるロスクレイ。正々堂々たる英雄。

 如何なる敵が現れようと、その白銀の鎧に汚れ一つ付けることはない。


「皆様の目の当たりにしたこの戦いこそが、我が真業しんごうきたる大試合において、私が修めたこの絶技の全てを以て、敵を討ち果たすと誓いましょう!」

「ロスクレイ!」

「ロスクレイ!」

「ロスクレイ!」


 演説を終え、ロスクレイは一人、入退場口へと戻る。

 当日に同じ庭園で戦うとも限らぬだろう。この度の決闘がそうであったように、互いに対等の条件とも限らぬ。

 最初から、対等ではなかった。


 煉瓦造りの回廊の中で、一つの影がロスクレイを待ち受けている。

 それはひょろ長い、朴訥とした雰囲気を纏った男であった。


「ロムゾ様。ありがとう存じます」

「――容易い。百人かそこらを眠らせるだけなら、全く容易い。顔も知ってるしね」


 “最初の一行”の一人。星図のロムゾは、平時の通りに緊張感のない笑顔で答えた。


「ギルネス君は死んでしまったね」

「……ええ。残念なことです。御心中、お察しいたします」

「まあ、うん。仕方ないよ。彼のことは好きだったけど、別に私は、裏切ってもいいんだ。自分を高く売れる先があれば、最初からどうでもよかった」


 丸眼鏡の奥ではにかむ笑いは、この暗がりの中では、一転して邪悪に見える。


「とっくに魔王に負けてる、臆病者だからね。その程度は、全く容易い」


 多数の兵を動員した戦略は、蟻の一穴に崩れる。

 ロスクレイもまた軍団を率いる将であり、ギルネスの取り得る策を読むことができた。彼が戦闘において最初に頼みとするのは、剣ではなく、その知略である。


「“宿威しゅくい”の一件も、感謝いたします。聞きしに勝る威力。心胆が冷えました」

「そのことだが、ふむ。分からない。どうして君は態々、敵を強めるよう言ったのだろうね。私の処置なら……ギルネス君を、そうだね。五歳の子供くらいには弱めることもできた」

「――それでは、足りません。きたる大試合には、ギルネス将軍や私よりも弱い者はきっと現れないでしょう。その強者にどの程度及ぶか、実の経験で知らねばならなかった。お陰で、多くの課題を見出すことができました」

「……真面目だね。難しい生き方のようだ」

「恥じ入るばかりです」


 自らの手を握り、開き、先の試合の記憶を反芻する。得難い経験である。

 いずれ来る日と同様の強者。同様に周囲を囲む観衆。同様に命を懸けた実戦。

 現実にこれを味わった上での勝負であるか否かが、未来の生死を分けるかもしれない。その可能性が僅かでもあるのならば、必要なことだ。


「じゃあ、うん。私は失礼するよ。反乱軍ごっこも、もう終わりだ」

「……いずれ、また。星図のロムゾ様」


 この日、この会場に一同に集った旧王国主義者は、百余名の全てが捕縛された。

 指導者である破城のギルネスと、顧問である星図のロムゾを同時に失い、彼らの勢力は急速に衰えていくことになる。


――――――――――――――――――――――――――――――


 ――庭園の試合の夜。


 黄都こうと辺境の川沿いに、その薄汚れた小屋は存在している。

 早くに働き手の父を失い、母親と、体の弱い娘の二人だけで暮らす家であった。


 周囲の住宅すらない暗がりの中、橙色のランプが戸口を照らし、来訪を告げる。

 扉を開けた母親が久々の顔を見て、表情を綻ばせる。


「……ああ、お待ちしておりました! イスカ! イスカ! 起きてらっしゃい!」

「いいえ。既にお休みのようなら……イスカさんに、無理をさせるようなことは」


 男は全身をローブで覆って、慎重に顔と姿を隠している。

 それでも彼女らにとっては、すぐに判別できるほど見知った姿だ。


 寝室から彼を出迎えた少女は、長身の男の顔を上目遣いに見て、笑ってみせた。


「もう遅いですよ、第二将様。起きてしまいました」

「……イスカさん」


 今年で十六になる。栗色の髪と、同じ色の瞳。以前よりも少しやつれて見える。

 ロスクレイは地面に目を落として、その場で頭を下げた。

 この家にいるときのロスクレイは、外の姿とはまるで別人のようである。


「まずは謝罪を。見苦しい戦いを、民に見せてしまいました」

「あらあら。そうなのですか? 困りましたねえ。それは、どのように見苦しかったのでしょう」


 村娘は人間ミニアの英雄の前に屈んで、いたずらっぽく尋ねる。


「……最初の踏み込み。剣を折られたまま魔剣を浴びせ斬られていれば、私は死んでいました。雷撃の熱術ねつじゅつで止まらなければ、本当に……紙一重のところで」

「また、危ない戦いをしていたのね。本当に……本当に、仕方のないひと」


 イスカはロスクレイの金髪を撫でて、困ったように笑った。

 彼の戦いは、いつもそうだ。圧倒的な力で上回っているように見えて、本当は誰よりも、命の綱渡りをしている。打てる策の全てを巡らせるのも、日々の鍛錬を怠らぬのも、それは誰よりも命を惜しんでいるからだ。

 人間ミニアの英雄。彼女がいくら望もうと、彼が戦いの螺旋から降りるのは、誰よりも最後になるのだろう。


 ロスクレイはまるで年相応の青年のように視線を迷わせて、一つの箱を取り出す。


「……ですから、その……お渡しするのは早いほうが良いと思って、来ました」

「これは?」

「市場で買った、珊瑚の指輪です。イスカさんに似合うと思います。今までずっと、贈り物のひとつもできていませんでしたから」

「ふうん」


 少女は箱の中を検めて、小さな銀色のリングを見る。

 柔らかな光沢の、赤く磨かれた珊瑚。ロスクレイの瞳の色のようでもあった。

 彼女は笑顔のまま、それを突き返した。


「いりません」

「えっ」

「第二将様? 私が学のない村娘だと思っているんでしょう。“彼方”では、指輪を贈るのが婚約の印なんですってね?」


 イスカの追求の目を逃れるように、ロスクレイは露骨に目を逸らした。


「い……いいじゃないですか。こんな贈り物、自己満足なんですから」

「こんな重いもの、いりません。いいえ。形に残るようなものなんて、金輪際送ってはだめです。他の誰かに問い質されたら、どう言い訳するつもりだったのかしら?」


 ロスクレイの眉根が下がる。イスカは、あとどれだけ生きられるか分からない。

 いつか死んでしまったときに何も残さぬようにしていることを、彼は知っている。


「何もいりません。絶対なるロスクレイさん。あなたが英雄であるだけで、ただの村娘には過ぎた贈り物だと思えないかしら?」

「いえ……私は、英雄でしょうか」

「……あらあら。今日の第二将様は、随分弱っているのねえ」


 既に、母親は席を外している。食事の準備もあるだろうが、それ以上に、ロスクレイが来るときには、こうして二人だけで話す時間が必要だと理解しているからだ。

 民の英雄ではなく、青年として、重すぎる責務から逃れられる時間が。


「ギルネス将軍を殺しました。武勇と知性に秀でた……尊敬に値する人を、卑劣を尽くして殺すしかなかった」

「……ひどい人ね」


 ロスクレイは跪いている。数多の戦いで、彼が敵にそうさせてきたように。

 ……この世でただ一人、彼女だけがそのような彼の姿を見る。

 告白を受け入れるように、イスカは彼の頭を両手に包み込んでいる。


「私には剣しかない」

「……ええ、そうね。それしか鍛錬していないのですもの」

「あなたの存在が誰かに知られるだけで、勝つこともできない」

「そうね。本当に、弱い人なんですから」

「本当は……正しく、戦いたい――」

「……知っているわ」


 彼がいなければ、彼女も母親も、あの日に奴隷に売られるだけだった。

 決して口には出さない。けれど絶対なるロスクレイが最初から英雄の資格を持っていることを、彼女だけが知っている。


 だからその日はただ、彼の言葉を聞いている。

 彼の心の救いになれるなら、イスカはそれでよかった。


 ――夜が更けて、ロスクレイが王城へと去った頃。


「……馬鹿な人」


 暗闇のテーブルに置かれた小箱を取って、イスカは呟いている。

 あれだけ言ったのに、結局忘れて帰ってしまっている。


 彼女は一人寝室へと戻って、寝台の脇のランプを灯す。

 指に摘んだ小さな指輪の輪郭は、オレンジ色の光の中に暖かく滲んでいる。

 こんな、形に残るようなものなんて。


「……ふ」


 暗闇の寝台に、仰向けに横たわる。

 ランプの光へと伸ばした左薬指には、赤く輝く珊瑚の指輪がある。

 ロスクレイ。誰よりも強くて、けれど誰よりも弱い、彼女だけの英雄。

 病の息苦しさすら、今は忘れられる気がした。


 そんな未来があるのなら、それはなんて美しいんだろう。

 涙が溢れてくる。だけど同じくらいに嬉しくて、イスカは笑っている。


「……ふふふふっ」



 それは個人として、正当にして純粋の剣術を極めた最高峰の剣士である。

 それは調略と工作によって、戦闘の以前に決着を導き出す知謀の力を持つ。

 それは国家を味方とした、勝利を必然と化すあらゆる支援を授けられている。

 地上最強の社会動物が持ち得る全種の力を託された、人工英雄である。


 騎士ナイト人間ミニア


 絶対ぜったいなるロスクレイ。

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