絶対なるロスクレイ その1
――絶対なるロスクレイ。武勇の頂。真なる騎士。
様々な答えが返るかもしれない。無数の迷宮をただ一羽で踏破した異形の
それでも、彼らの脳裏にあるのは、常にロスクレイの名だ。その伝説と輝きを知る者は全て、“最強”の二文字を、絶対なるロスクレイと比較せずにはいられない。
正々堂々たる騎士、ロスクレイ。
もしかしたら、破城のギルネスも知らず、同じ憧れを抱いていたのかもしれない。
湿った地下牢に繋がれ処刑を待つ、国を恨んだ反乱首謀者であっても。
暗闇に座り込んだまま、彼は格子の向こうに立つ男へ問い返した。
「……俺と絶対なるロスクレイとを、決闘させるというのか」
「そうだ。破城のギルネス。貴様の行いは、ただいたずらに民を脅かし、人命を奪っただけのことにすぎない。断じて許せぬ平和への裏切りだ」
このまま鎖を引きちぎり、千切れた鎖で格子の隙間を通し、その顔面を縦に割る。
……その光景を、脳裏に浮かべるのみだ。今、彼を殺して終わる戦いではない。
これは民のための戦いだ。民が立ち上がらねばならない。ギルネスはその信念のもとに戦ってきた。
「――しかし貴様はかつての名将。破城のギルネスであろう。慕う民も少なくはない。ならば貴様の取るに足らぬ主張を聞き届けぬまま処刑するのも、女王陛下の正義を損なう行いだ。故に機会を与える。これは正義を懸けた、
「貴様らはそれで構わんのか? 俺がロスクレイを殺し、潔白を示す。俺は、その場で民に議会の欺瞞を告発するぞ。止められる者はいまい」
「何を言おうと、貴様に拒否権はない。全力を尽くし戦え」
第三卿の表情は、冷たい眼鏡の輝きと同じく、無機質で、冷徹だ。
これは破城のギルネスにとっては好機と見えよう。だが事実は、
「
ギルネスは幽閉のうちに伸びた髭面に、獣じみた笑みを浮かべる。
あのロスクレイとの決闘。願ってもない。
「試合のその日まで、俺を閉じ込めておくつもりか? 剣を握らせることも、全盛の動きを取り戻させることもなく。それで全力を尽くしたと、貴様らは納得するのであろう。民はどう見る。貴様らの思うような、愚かな者ばかりか」
「無論、貴様はそのように主張するだろうな」
軽い金属音が鳴る。ジェルキの目配せに応じて、看守が牢の鍵を開けたのだった。
そのまま手際よく、ギルネスの枷までもが外されていく。
「決闘のその日まで、監視の上で貴様を釈放とする。決闘の日取りは布告してある。貴様の合意によって、一時の恩赦が果たされたと、既に民の尽くが知った話だ」
「……何を企む」
「何も。
破城のギルネスが釈放された姿を現に民へと見せることで、女王の寛大と正当性を示す心積もりか。
鎖で繋ぐ必要もないのだろう。かつてあった王権の正当性を拠り所とするギルネスにとっては、自らの正義と、民の期待の視線こそが、何よりの鎖となるのだから。既に、小二ヶ月後の決闘より逃れる手立ては封じられている。
「俺が再び、議会や兵舎を襲撃するとは考えないか」
「構わん。貴様は我らの恩赦を無下にした恥知らずとして、今度こそ討伐の名分が立つ。その時貴様に誅を下すのは当然、絶対なるロスクレイだ。どのように足掻こうが、貴様はロスクレイと戦闘する運命からは逃れられん」
「……いいだろう。ならば実行は、最も民に訴える場がいい」
元より、ロスクレイを恐れる心はない。ギルネスの決意は最初から決まっている。
“本物の魔王”の脅威を前に種族分け隔てなく呼びかけ、民を集め、今の
セフィトはただ、“正なる王”の中で唯一生き延び、その血統だけでこの国を乗っ取った侵略者に過ぎない。
女王を許すことはできぬ。彼女の手足として民を支配する、
王とギルネスが守ったこの王国は、他の二王国の民の流入に無残に歪められた。
ましてや“本物の魔王”との講和という愚劣の極みに滅んだ王国の娘が、女王など。
その日からギルネスの胸中を満たすのは、無限に燃える怒りだ。
彼らの愛した民を、この正当なる復讐に目覚めさせねばならぬ。
――――――――――――――――――――――――――――――
ギルネスの歩く街路の所々では、常に
それでも、監視の及ばぬ時は必ずある。風呂や寝室の中。あるいは告解室や娼館。
その時のための武器を、破城のギルネスは懐に忍ばせている。
――市民に見せ、用途を理解できる者はいないだろう。手に収まる程度の空洞の木の軸から、金板を加工した、中央で割れた三角形の先端が伸びている。
道具の名を、万年筆、という。
多くの者が識字の能力を持たず、貴族や王族ですら、家系や王国に伝統する独自の文字言語を用いるこの世界にあって、ギルネスの軍団は、彼ら自身の文字を定め、一兵卒に至るまで徹底的にその教育を施している。
ならば監視の兵程度が、理解できるはずもない。
市街の各所へと残した布片に残された、ただの液墨の染みが意味するところなど。
(全力を尽くせと言ったな)
彼は全力の鍛錬を続け、日々の営みを行い、試合を心待ちにする市民に笑顔で接し、あるいは支持せぬ者からの白眼を受け流した。
彼を監視する兵が、そう報告するように。
接触は決してない。それでも、各地に残した伝言で、互いの進捗を理解している。
百名の尽くが、その日へと向けた計画を進行している。
(後悔にはもはや遅いぞ。第三卿ジェルキ)
――――――――――――――――――――――――――――――
「ギルネス様、試合の日取り、もう大二ヶ月後になりましたか!」
「……ええ。この店の紅果も、そろそろ食べ納めになるやもしれませぬなあ」
「いえいえ、ギルネス様も大したものです。ロスクレイ様と、真っ向勝負! 他の誰にもできることではありませんや。息子も楽しみにしておりましてねえ」
準備と鍛錬の期間は過ぎ、小二ヶ月あった猶予は、残すところ大二ヶ月に迫っていた。この十四日で、各地に散らばっていた配下もこの
「真実のための戦いです。無論、正面から受けて立ちますとも。
「ははあ。俺は学がないもんでよく分からんのですが、言われてみれば確かに、今の議会は少しおかしいのかもしれませんなあ。うちの息子はロスクレイ様を応援していますがね、もちろん私は、ギルネス様のことも贔屓していますよ!」
この青果店の店主も、大二ヶ月後に行われる試合が真実殺し合いであることを、心の底からは実感していないのだろう。
呑気に両者を応援しているということは、そういうことだ。彼らの甘い認識が現実を思い知ったとき、その心はどのように変わるだろうか。
古代にあっては奴隷闘士の
「それはありがたいことです。正義の示されるその時には、是非、息子さん共々見届けていただきたい」
店主と話している間、果物の並ぶ棚を見定める客が、立てかけていたギルネスの剣を取った。監視の兵からは、それは観葉樹に阻まれる死角だ。
その客は代わりに、鞘と柄が全く同じ造りの剣を置いている。
ギルネスは口髭を撫でて、了解の意を示す。
「――それでこそ、戦いの中で犠牲になった者たちが浮かばれるというものです」
彼らが死んでいったのは、このような歪な議会政治を築くためではなかった。
さりげない風を装って、ギルネスは取り替えられた剣を手元に寄せる。
刀身の重量は、今まで用いていた数打の両手剣と、全く異なっていた。
(チャリジスヤの爆砕の魔剣。まだ残っていたか)
これまで、鍛錬の際に実剣を抜いたことは数えるほどしかない。
これから大二ヶ月をかけて、この刀身が元からその形であったよう、監視の者達の目に慣らさせていく。
当日に、すり替えに気付くことのできる者のいないように。
絶対なるロスクレイは、この刀身に触れた、その時に死ぬ。
――――――――――――――――――――――――――――――
四日後。破城のギルネスは、郊外の住宅を訪れている。釈放より懇意にしている酒場の主人の使い、という形を取っている。人気の少ない土地のためか、監視の兵は特段に姿を隠す様子もなく、ギルネスの後方の樹木に寄りかかっている。
ギルネスは呼び鈴を鳴らす。部下を用いて集めた情報が正しければ、今はこの隠れ家に、目的の人物がいるはずである。
呼び鈴の音と同時、重い音が後方で倒れた。
振り向くと先程まで立っていた監視は地面に伏し、代わりに、ひょろ長い初老の男がうっそりと佇んでいる。
「……ロムゾ先生」
「おや、これはギルネス将軍。お久しぶり。少し邪魔になりそうな者がいたのでね。ふむ。こうして眠らせてしまった」
学者然とした丸い眼鏡で、倒れた兵を他人事のように見下ろしている。
体術の凄まじさは、かつてアウル王が健在だった頃と、何ら変わるところはない。
「木に寄りかからせておこう。よいしょ。本人は眠ったことにも気づかないだろうがね、代わりに長くも持たない」
「分かっております。話は手早く済ませてしまいましょう」
――釈放の交渉。
星図のロムゾ。彼こそは“最初の一行”。
今の王国の在り方を憂う同胞の、ギルネス自身と並ぶ最高戦力の一人であった。
「御存知の通り、四日後の試合の最中に、我々は行動を起こすつもりです。場所は城下劇庭園。周囲を客席が囲み、“鳥の枝”の射程で十分到達します。そこでロムゾ先生には、援護を行う兵たちを護っていただきたい」
「ふむ。それは容易い。全く容易い……が、それだけではなさそうだね」
「――試合前に“
「ふむ」
ロムゾは、ぼんやりと木々を見渡した。葉が茶色になり、落ちていく時期だ。
その間、ギルネスは口を噤んで、“最初の一行”を見据えている。
「それは容易い。分かっているよね」
「無論です。その一戦を勝ちさえすれば、我らが宿願は叶う」
先の兵士を昏倒させた点穴の技は、ただ攻撃に用いるのみが用途ではない。
その本領は、むしろ自身や味方が戦闘する際の、肉体限界の解除にある。
“
「……絶対なるロスクレイは、強いぞ。なにしろ、絶対だ」
「重々、理解した上での承諾です」
「うん。それなら、まあいい」
老いた師は悠々と歩き、住宅の扉に手をかける。
そこで振り返った。
「ああ、そこ……最初と同じ位置。私の三歩前くらいの位置に立っていなさい。そこの男、目が覚めた時はちょっとよろめいたくらいの気分でいるから」
「は。ありがとうございます」
彼は深々と礼をして、同胞を見送る。今、全ての準備は為された。
客席からの百の援護。当たれば即死の剣。そして生命限界を越えた動き。
何もかも、ギルネスが持ち得る力の全てを尽くした準備だ。
清廉にして高潔な騎士、ロスクレイならば、自身の磨き上げた技術一つで戦うことを正義とするかもしれない。
ギルネスはそうではない。彼はロスクレイのような偶像ではなく、敵を殺すべく戦う軍人である。
――試合の日が来る。
――――――――――――――――――――――――――――――
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ! ロスクレイ!」
「ロスクレイ!!」
「ロスクレイ!」
群衆の声は、まるで耳が割れるようだ。
白昼の城下劇庭園。広大な草の広場を囲む客席には、興奮状態の
この中に青果店の店主もいるのだろうかと、ギルネスはふと思いを馳せた。
彼の対向に進み出た騎士は、まだ若い。金髪と赤い眼を持つその顔は、はっきりと分かるほどに美しい。
それも
加えて筋肉の付き方すらも、恐らくは生まれながらの体質が異なるのだろう。大きく太い筋肉を纏ったギルネスの威容と比べれば、細く引き締まった、彫像の如き印象を与える体だ。
――誰もがその顔を知っている。絶対なるロスクレイ。
(……なるほど。偶像として祭り上げられるだけはある)
こうして対すれば、どちらが『正義』であるかは瞭然と見える。
確かに、民を守る将軍として万の軍勢を率いた破城のギルネスも、彼と並べられればまるで山賊だ。
「ギルネス将軍。貴方の武勇は今なお民の記憶に新しい。此度の決闘を光栄に思う。遺恨なき闘争を、存分に見せよう」
「こちらこそ、光栄だ。こうして申し開きの機会を与えられたということは……我が正義がただの外道ではないと、議会にも認められたものと考えている。今、一人の対等の戦士として、貴殿と仕合うとしよう」
ギルネスは、剣の重みを預けた自身の腕が下がっていく動きを認識している。
僅か髪の毛一本下がった時、止める。動かす。髪の毛一本で止める。
軸が揺らぐことすらない。傍から見れば、ただ滑らかに剣を下ろしているようにしか見えぬだろう。
この僅かな時間で、ギルネスは肉体の性能の確認を終えている。
瞬時に、思う位置と速さで肉体を『止める』ことができる。
これぞロムゾの“
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
歓声の中、試合開始を告げる号砲が鳴る。両者はその瞬間、間合いを詰めている。
ロスクレイが大上段に振り上げた構えが見える。教練で習う通りの、最も速い打ち下ろしだ。だが。
(俺には当たらない。今の俺には)
ギルネスは、踏み込みを『止める』。
その体重を乗せた突進加速の只中であっても、今のギルネスにはそれが可能だ。
よってロスクレイは、初撃の間合いを見誤る。それが最悪の失着となる。
「一瞬だ。悪いが――」
――悪いが、百の兵力を用いるまでもない。
剣筋を受ける下段に構えたギルネスの剣は、先端に、ロスクレイの刀身を掠った。
太古の
チャリジスヤの爆砕の魔剣。
観客の目からは、あまりの膂力に防御も叶わなかった一撃ということになるか。
その軌道のまま、胸に浴びせるように、斬る。
「【――
ギルネスの剣の軌道の前に突如生まれた電荷が刀身を逆流して、一瞬、逃れ得ぬ生体反応として筋肉を硬直させた。
常人であればそのまま意識を失っていたであろう。耐え、踏みとどまる。
(……なんだ、今のは)
頭を振る。さすがに、眼前の相手の
武器を失ったロスクレイは、穏やかな表情を変えてもいない。
見えぬ予兆は不可解だったが、少なくとも、ロスクレイは今見せたような速度と威力の
実戦の場で、あの剣戟の速度に合わせる以上は、相当な研鑽を積まねばなるまい。
(騎士と思ったが、詞術騎士か。それも良かろう)
――その研鑽に費やした時間だけ、剣の武練を積めてはいない。
剣の技のみでロスクレイに勝つことは不可能と考えていた。ならば、年季にも経験の純度にも勝るギルネスが彼を越えることもできる。ましてや彼が振るうのは、接触が死の爆衝をもたらす、チャリジスヤの爆砕の魔剣だ。
「……その剣」
「中断でも申し立てるか? もう遅い。俺の一太刀は貴様の口よりも早く届くぞ」
「いいえ。私も、新しい剣が入り用かと思いまして」
「【――
ギルネスの横薙ぎの一閃は、剣に阻まれた。ロスクレイの剣――否。
爆砕したその一本は、地面から生えてギルネスの剣閃を防いだ。
今、ロスクレイを囲んで、四本の剣が大地の鉄質より形成されつつある。
「馬鹿な、これは……!」
ギルネスは剣を引いた。実戦で、この速度の
この男は騎士ではなく、正真の詞術士だったとでもいうのか。そんなはずはない。
「は……あっ!」
その動揺を逃さず、裂帛の気合が土を踏んだ。
ロスクレイの新たな剣は、教練通り、あまりにも正しい軌道で、ギルネスの剣を逆に辿って、篭手を割った。
腕を落とされなかったのは、“
平時のギルネスならば、この交錯で敗北していた。
篭手の内布を浸しつつある血が、そのおぞましい予感を思わせた。
「馬鹿な……馬鹿な……」
「……これで仕切り直しですね。ギルネス将軍。さあ、正々堂々」
「【――
「【――
「【――
「【――
剣が、さらに生まれる。電光が瞬く。宙へと浮かぶ。
これだけの
あり得ない。あり得ない。
そもそもが、異なる
(何が起こっている。そんなことが……絶対なるロスクレイは)
破城のギルネスも知らず、民と同じ憧れを抱いていたのかもしれない。
彼は正しき剣技で敵を打ち倒す、真なる正道の騎士なのだと。
「正しき技で、勝負しましょう」
(何もかもが、違う)
「ロスクレイ!」
「勝ってロスクレイ!」
「ロスクレーイ!」
「ロスクレイ!」
この男の強さは。もっと得体の知れない、何かだ。
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