静かに歌うナスティーク その1

 ゆらめく藍玉あいぎょくのハイネは、幸せだった。

 静寂に満ちた教会の長椅子の中央で、背を投げ出すように座って、高い天井を仰向けに眺めていた。

 ここ久しく味わうことのなかった、安らぎの時。


 子供の頃から、その静けさが好きだった。

 誰もが、それの前では自らの矮小を知る。どれだけ横暴な領主であろうと、無知な浮浪者であろうと。


 厳かな何かがそこにいるからなのだと、その頃は信じていた。

 あるいは詞神ししんの恩寵だと、錯覚してしまっていたのかもしれない。


「……待てよ。誰が、その子まで殺していいって言った……」


 視線を宙に向けたままで、ハイネは部下を咎めた。

 彼らは新たに二人の子供を、外に連れ出そうとしているところだった。


「はあ。その子って、どっちですか」

「分かんないのか? 男の子のほうだよ。僕の顔を見て、悲鳴を上げなかった」

「……。まあ、餌は他にもいるんで。いいですけどね」


 一人解放された少年はハイネを見て、苦悩に唇を噛んだ。恐怖と怒りを必死に抑え込んでいることが、誰の目にも分かった。


 もちろん、それは仕方のないことだ。ハイネ達は今こうして、教会と、彼の暮らした救貧院とを暴力で制圧しているのだから。

 飛び散った血痕や肉片が、神聖な教会の床を、飾り窓を、残酷に濡らしている。残るもう一人の少女が外の大鬼オーガの餌になったことくらいは、この少年も理解しているだろう。

 そうだとしても、最初にこの顔を見た時に悲鳴を上げなかったことが、ハイネにとっては大切なことなのだ。


 顔を覆う包帯の隙間へと深く指を突っ込んで、ハイネは火傷に爛れた皮膚を掻く。血と膿が爪に絡んだ。

 祭壇の方向には、天井から吊るされた神官がいる。まるで赤い棒のようだが、辛うじて、頭と体の芯だけがまだ残存している。

 ――ハイネは幸せだった。


 少年を戻した先……隣の救貧院では、部下達は孤児をどう扱っているだろうか。

 有毒な教えを広めた大人達は構わないが、あまり酷いことをしないでくれればいい、と願う。それでも犠牲は必ず出るのだろう。

 それが奴らの許容した世界である限り、仕方のないことだ。


「……なあ、みんな! まだこんなもんじゃないよなあ!」

「はい?」

「こんなもんじゃないよな……! 王様や詞神ししん様はさ、助けてくれないんだよ。そういうのを、きちんとみんなが分かる世の中にしないと。だからもっと、“教団”なんか潰すために、どんどん殺そう。まだ、今日のは手始めだ」

「あ……はい、そう……ですかね?」

「そうさ……知ってる? “彼方”の世界には、詞神ししんなんていないんだってさ……」


 熱めいた演説を行いながらも、ハイネも理解している。

 この部下達もきっと、彼の思想ではなく、力に付き従っただけだ。もしかしたら、教団施設を襲って得られる、財や奴隷が欲しかっただけか。


 それでも構わないと思う。彼らも、ハイネの顔を恐れたりしなかったのだから。

 それだけでいい。詞神ししんや天使などより、余程心を救ってくれる仲間だ。


 教会の扉が叩かれる。戻った見張りではないことが、次の一声で分かった。


「すみませーん。雨に濡れちゃいまして! 少し屋根貸していただけませんかね?」

「……弓。使える奴いる?」


 ハイネは長椅子にもたれたまま、気怠げに傭兵を見渡した。言葉に応じて、六人ほどが連射式のいしゆみを引く。

 彼は視線で、扉の方を示した。


 ――旅人であるはずがない。偽装が下手すぎる。

 外の見張りをどう越えたのか。人間ミニアの官吏の十人を叩き潰せる、あの大鬼オーガは?


「ありゃ、誰もいないのか。困ったねえこりゃ……」

「タイミング、合わせよっか。はい、三、二、一」


 指を全て折った瞬間、機械仕掛けの矢の激流が、戸口を呑んだ。

 大鬼オーガだろうと人間ミニアだろうと、薄い木の扉越しに生存の可能性はあるまい。

 だが、ハイネは長椅子の横の得物を取った。


 破壊された扉の裂け目の奥に、さらに扉がある。

 ――違う。それは鋼鉄だ。人体一つを隠して余りあるほどの、長方の大盾だ。

 声の主は、何事もなかったかのように言葉を続けた。


「あーあー、不親切だねえ。いるならいるって言ってくれなきゃ」


 無精髭の目立つ、覇気のない目付きの中年男だった。

 古びた神官服を上着のように羽織っているが、黒尽くめの無気力な身なりには、あまりにも釣り合っていない。

 何よりも、大盾だ。

 槍も、剣すらも下げていない。神官ではあり得ない。しかしそれは戦士であると仮定しても、なお異様な存在だった。


「……ああ、ロゼルハ先生……。そっか、ふへへ……あんたもここまでか」


 男は天井に吊られた肉塊を見て、僅かだけ、目を閉じた。

 奥に座する首謀者へと視線を向ける。


「なあ! あんたが今、ここの責任者ってこと? ここの教会がちょいと騒がしいってんでね。おじさんが、“教団”の方から、あー……寄越されてきたわけだけどさ」

「君、僕の顔を見て」


 得物の鎖をジャラジャラと引き上げながら、ハイネは包帯の奥の目を細めた。


「……怖がらないね」

「ああ、何が? とりあえず、穏便に行こう……ねっ? 俺は聖騎士なんだ。通りのクゼっていって」


 ジャリ。

 金属を裂く音が響いた。ハイネの振るう鎖の先端が、大盾を傷つけた音だった。

 ハイネは教会の奥、背を向けて、長椅子に座ったままだ。

 その体勢からでも、一撃は遥か後方の入口付近にまで届く。クゼの防御が一瞬でも遅れていたなら、骨肉ごと断裂されていたであろう。


「――続けていいよ。僕はゆらめく藍玉あいぎょくのハイネ。昔には……“黒曜の瞳”の一陣後衛だった」


 ハイネは、指に速度を伝える。生きた蛇がのたうつように、それは予測外の軌道となって、遠い先端の斬撃となる。

 同時に部下達も連続に矢を装填し、侵入者へと浴びせかけていく。

 前衛が出ていく隙間もない。大盾の防御を踏まえた、全方位の飽和攻撃である。


「いやいや、参った、降参! 落ち着いて! うわっ、おっ、やべぇってもう!」


 盾の丸みで矢を逸らす。跳ね上がろうとする鎖を寸前に踏みつける。曲射の弾道を、長椅子を潜るようにしてやり過ごす。男は障害物と巧みな体勢、そして大盾の面積で尽く攻勢を凌ぎ続けている。


 ここまで、特段に驚くべきことはない。

 ハイネ達の如き不逞者を“教団”が本気で討とうと考えたのなら、その程度の人材は現れ得るだろう。だがその技量の高さが、疑惑にもなる。


(……どうして、武器の一つも携えていない)


 男は防御の一方で、攻め手はどこにも見当たらない。後続の仲間が現れる気配もない。ただの大盾一つで、ハイネ達全員を叩き伏せる腹積りでもあるか。


「……距離。取っておいてね。盾で殴ってくるかもしれないから。それとも、詞術しじゅつでも仕込んでるかな?」


 左指の返しのみで攻撃の波を継続しながら、ハイネは部下に指示を下した。

 ……敵は亀の如く身を守り続けている。防御技術こそ大したものだが、それだけだ。見た限り、ハイネよりも身体能力は下。


 その場から腰を上げ、多少鎖の操作に本腰を入れる。

 銀の軌道はついに音を割り、男の隠れる長椅子を掠めて裂断する。


 異変は、一人の傭兵が彼の防御の及ばぬ方向へと回り込もうとした時だった。


「……?」


 部下の足が突如もつれて、倒れたのが見えた。

 うつ伏せの体の下より、溢れる血液が細く流れた。


「うおっ、こっちから狙ってたのか!? 危ない危ない……! 死んでたな俺……」

「……今、何をした。隠し弓でも飛ばしたか?」

「まっさか。聖職者がそんなことしないでしょ。そんなの使えないし……っと」


 状況を見る者の僅かの意識の隙が重なった一瞬、長椅子の背もたれを蹴って、クゼは壁際へと跳ぶ。

 不意に距離を詰められた傭兵が、短槍で応戦しようとした。

 だが、盾はその巨重を思わせぬ動きで回転して、遠心力で穂先を弾いた。


 反対側の壁から、いしゆみの一射が到達する。クゼは盾持たぬ側の腕で受けた。それは鋼鉄の篭手だった。

 そして短槍を失った傭兵を右肩で壁に押さえつける。

 壁と逆側を大盾で守り、再びハイネ達は攻めの手を失う。


「……ロゼルハ先生には、昔からよくしてもらっててさ」


 彼らが攻めあぐねる中、クゼは世間話のように言葉を続けている。


「芋のスープ作るのが凄く上手かったんだよ。救貧院の子は、皆あの味が好きでさ……まー神官にしちゃだらしないし、愛人作ってたりもしてたけどさ、優しいんだよな。皆のこと大事に思っててくれて……」

「てめえ、このッ……! 誰だそいつ! 知らねーよ!」

「やー……あ、そう。知らないんだ? 知らないで、やっちゃった?」


 キキキン、と、金属音が響いた。大盾に刻まれた傷はさらに多く、深くなった。

 それでも、衝撃に盾を取り落とす気配すらない。

 死の恐怖を感じていないのか。クゼの目は変わらず、魚めいて覇気がない。


「――そこに吊るされてる人のことだよ」


 押さえつけられていた傭兵の力が、がくりと抜けた。

 膝から崩折れ、倒れた。そして動かない。


(死角に手を回して、暗器で刺したのか? ……)


 ハイネには、答えが分からない。彼の目には、そのように見えないからだ。

 竜騎兵の弾丸をも見切るハイネの動体視力を以てしても、なお。

 クゼは脱力したように、ヘラヘラと笑った。


「……ふへへ。死んじゃった」

「みんな、注意しろ。詞術しじゅつを使える奴、いる? 焦点を持ってる奴は準備だ」


 “黒曜の瞳”としての経験が、得体の知れない危機感を伝えていた。

 弱敵だ。ハイネが一対一で相手取っても、負ける相手ではない。しかし。

 何かが異常だ。知れない部分で、戦力を測り違えている気がしてならない。


「言い忘れてたけどなあ! 俺はあんたらを殺しに来たんだ! 悪いけど……死んでもらうぜ。全員だ」

「“教団”に……今更そんな権利があるとでも思うか……!」

「思わないね。もしかしたらもう少し、話ができれば良かった……本当に。でもね」


 その男の表情は、地に突き立てた大盾で隠れた。

 そこには、羽根を広げた天使の図像がある。


「天使サマが……あんたらのこと、許さないんだってさ」


 既に、長剣を抜いた傭兵が斬りかかっている。盾の防御の隙間からねじ込むように刺す。白兵戦ならばそれが可能だ。

 ――可能ではない。足がもつれ、顔から倒れ、指が大盾を僅かに掻いて、倒れる。

 死んでいる。


「なんだ、こいつは!」


 ハイネは恐れた。回り込もうとした一人。短槍で迎撃した一人。そして今、長剣を抜いた一人。

 何一つとして攻撃を受けていないのに、敵はただこちらの攻撃を防いでいるだけなのに、命を奪われている。


「……全員下がれ! 今殺る! 【ハイネよりクケククの紐へ h a i n e i o q u q i c i k u k ! 走る黄道 h a m n n a g r e 軸は右肘 m e g 9 f r a n 天光に触れ o r p e d b o r g 5186! 刻め z a i d o l e b e h e !】」


 弱敵と侮り、力を隠すべきでなかった。

 熱術ねつじゅつ力術りきじゅつ、そして両指を用いた鉄鎖術を複合した全力の破壊は、武器とする鎖自体をも熱の負荷で損耗しかねぬ。

 それでも、この男が現れた瞬間にそうすべきだった。


 詞術しじゅつでもない。武器でもない。この男の攻撃は、全てが不可解だ。


「――“赤竜剣樹せきりゅうけんじゅ”!」


 三人、退避していない者がいる。違う。

 それは死んでいる。立ったまま、先程の者達と同じく、意味不明な現象によって絶命しているのだ。

 先に、殺す。


 ハイネは、指先の速度を解き放った。

 床に張り巡らされていた細い鎖の全長が赤熱し、暴れ狂い、教会の床から天頂までを四条の曲線に裂いた。

 無秩序な破壊は長椅子を、祭壇を、部下を切断し、ついには根本にあたるハイネ自身の指をもねじ折った。

 今や足元に転がっている、ハイネの指を。


 ハイネはそれを見下ろしていた。


「そ、んなことが……」

「あるさ。こういうこともある」


 必殺の奥義は、放たれたその時に、手首ごとハイネの制御を離れていた。

 両の手を切断された自身の腕を、ハイネは呆然と眺めていた。

 理不尽だった。不条理だった。彼がこれまでの人生に味わってきたのと同じ、それは絶望的な不運であった。


 クゼは鋼鉄をも切断する破壊の暴流の中を、自明のように生存している。

 大盾の上半分だけが、曲線に抉れて切断されていた。


「……死ぬんだ。ゆらめく藍玉あいぎょくのハイネ。あんたにも、死ぬ時が来た。他の誰もと同じようにだ」

「そ……そんなこと、誰が決めるんだ? なんで、こんな事が起こるんだ。……なあ。詞神ししんがそう決めたとでも言うのか……?」


 男はゆっくりと歩いて、ハイネの前で足を止めた。

 殺せる間合いだ。最初に現れたその時から、そうであるはずだったのに。

 何故殺せていない。何故自分が死ぬ。


「……誰だってそうだ。なんでもかんでも、詞神ししんサマの責任じゃない」

「違う。違うね……!」


 ハイネの包帯の奥は、憎悪に歪んでいる。

 癒えぬ火傷を負ったその日から、見る誰もを恐れさせる醜貌のままだ。


「全部、詞神ししんと、お前ら“教団”のせいだ。……世界を創り、全能を謳い、それなのに詞神ししんは、自分の世界に……責任を持たないのか!?」


 規模こそ違えど、ハイネの如き過激派は、今や少数ではない。

 武装した者達が各地の教会を襲撃し、略奪や、それ以上に無意味な暴虐を繰り返している。


 詞神ししんと、その詞神ししんに選ばれた王族への不信が、貴族たちには見えない水面下で高まり続けている。

 “本物の魔王”が世を脅かした二十五年、彼らは一体何をしたのか。その絶望と恐怖から、何を救い上げてくれたというのか。


「……そうだよ。ただそういう話をしてくれればよかった」


 半壊した長椅子に、クゼは座った。

 血の海に沈んだ、酸鼻の坩堝と化した教会。

 ハイネが子供の頃に好んだ静けさとは、何もかもが違ってしまっている。

 何もかも。


「これでも聖職だしさ。あんたが死ぬまで、聞くよ。告解だ。そういう積み重ねだけが、人を救うんだ……」

「なら。どうして、詞神ししんは助けてくれなかった。僕は……皆は、見捨てられたのか」

「……そりゃ、違うさ。これまで、あんたの命を助けてくれたもののことを思い出すんだ。それは偶然の機会だとか、幸運だってあったかもしれない。けれど……人に与えられる救いはさ。そういう形のない運命とかじゃないって、俺は思うんだよ……」


 切り落とされた両腕から、命がとめどなく流れていく。

 死んでいくのか。皆が行ってしまった、どこか知らない、寒い世界へ、ハイネも消えていくというのか。


「……誰も見捨てちゃいない。あんたを虐げたのも人なら、助けてくれたのも、いつも人の善意だったはずだ。人が人を助ける良心。その一つ一つに、詞神ししんサマがいたんだ。世界全部を作った神サマならさ。一つの種族だけを贔屓するわけないだろ? だから、人が人を救うように。それが全能の詞神ししんサマの……与えてくれた救いなんだ」

「そ、それなら……それならどうして……僕を助けてくれた奴らは、皆、死んだんだ……」

「人だからだ。人の力で救える悲劇じゃないと……人は、救えないんだよ」

「違う……違う違う……もっと、皆を救う力があったはずだ……! 許せない……詞神ししん様も……魔王も、僕は……」


 彼らが何故絶望するのか、クゼは知っている。

 人の手の届かぬ絶望の中にも、希望があると信じたかったからだ。

 誰か、正しい何者かが、全てをすくい上げて、世界をあるべき姿に正してくれるのだと。


「……ちく……しょう……怖がらな……この顔………………」


 殺人者の命の終わりを見届けたクゼは、空に祈りの印を刻む。

 ここで途絶えてしまった、全ての命のために。

 “本物の魔王”の残した傷跡は、この時代の誰もを苛み続けている。


「…………ふへへ。終わったよ」


 やはり覇気の感じられない笑みで、彼は宙に笑いかけた。

 血と死に彩られた教会は、ひたひたと陰鬱な雨音だけを返した。

 そこには何も残っていない。救いも、希望も。


 一人、煙草に火をつけて呟く。


「ありがとね。ナスティーク」


 クゼは正真の、ただの人間ミニアである。断じて異才超人の類ではない。

 ――ならばは何者なのか。

 彼の敵は、何故尽く死んでいくのか。

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