静かに歌うナスティーク その2
「ありゃ、誰もいないのか。困ったねえこりゃ……」
それは、いつでもクゼを見守っている。
冷たい雨に濡れる屋根の上で、淡く光るその姿だけは、決して濡れずにいる。
純白の髪。純白の衣服。純白の翼。
柔らかな短髪と細い体躯はまるで少年のようだが、彼女の佇まいはいつもしなやかで、軽い。
「――や。ナスティーク。今日はそこにいたのか」
クゼがナスティークの存在に気付くと、彼女は微かな笑顔だけで応える。
彼女の姿は子供の頃から見えていたけれど、口角に浮かぶ少しの柔らかさを、笑いだと認識できるまでには、随分な時がかかったように思う。
『大丈夫?』。きっと、そう呼びかけている。
「大丈夫だって。こんな程度、挨拶みたいなもんさ」
だからクゼは、そう言って強がってみせる。
強く、持ち手をねじるように握りしめて、次の衝撃に備える。
木の扉を一斉に引き裂いて、機械で射出された矢の洪水が大盾に衝突した。
腰を落とす。耐える。恐れれば弾かれ、恐れは現実になる。
「あーあー、不親切だねえ。いるならいるって言ってくれなきゃ」
彼が踏み込んだ教会は、血と、肉と、罪で赤く汚れている。もしかしたら、まだ待っていてくれはしなかったか。もしかしたら、まだ無事な者はいないか。扉を開ける前に
祭壇の傍らに、鎖に吊られて、揺れている肉片がある。
赤く、黒い塊が滴っている。
それは見知った顔だ。クゼが好きだった者は、誰もがクゼより先に死ぬ。
「……ああ、ロゼルハ先生……。そっか、ふへへ……あんたもここまでか」
背後に漂うナスティークが、横顔を覗き込むのが分かった。
彼女の表情はほとんど変わらない。何を考えているのか、口に出すこともない。
『許せないの?』。そうじゃない。悲しいだけさ。
クゼは、瞼を閉じて――彼女の瞳に影を映さぬよう、その感情を隠す。大丈夫だ。
「なあ! あんたが今、ここの責任者ってこと? ここの教会がちょいと騒がしいってんでね。おじさんが、“教団”の方から、あー……寄越されてきたわけだけどさ」
――語り合いましょう。誰しもに言葉の通ずる
呼びかけと同時に、闘争の口火は切られている。
右から空気の揺らぐ気配。クゼは肩の動きで大盾を返し、鎖の一撃を受けた。
矢が雨のように降り注ぐ。全てが容赦のない殺意だった。
出会ったばかりのクゼを殺そうとしている。彼らは皆、
「いやいや、参った、降参! 落ち着いて! うわっ、おっ、やべぇってもう!」
――すばらしい奇跡のために、私たちはもう、孤独ではありません。心持つ生き物の全てが、皆の家族なのです。
死で満たされた海を漂流しながら、僅かな活路を見出す。見出し続ける。
それはか細い光で、必死にしがみついていなければ、永遠に見失ってしまう。
クゼにとっての戦いは、いつもそのようなものだった。
(殺さないでくれ)
いつでもそう願っている。だからクゼは、大盾を選んだ。
いつ終わるともしれない死の世界の狭間で、白い翼が、クゼの視界を横切った。
矢が、彼女の胸を通り抜ける。鎖が、胴を斜めに通り抜ける。
ナスティークは、決して死なない。クゼ以外の誰かの目に、映ることもない。
それは、創世の時――数多の“
創世を終えたとき、彼女たちの仕事は終わった。だから時代が下るに従い、天使は消えていって……もしかしたら人々が見ようとしなくなって、“教団”でも、その存在を語られるだけの伝説になった。今はもう、ナスティークだけが残っている。
(頼む。殺そうとしないでくれ)
敵の操る鎖は、ついにクゼの隠れる長椅子を切断した。
心は悲鳴を上げたいと叫んでいたが、それではあまりにも格好がつかない。
いつでも、天使様がクゼのことを見ているのだから。
「……ああ」
その攻撃に恐怖した一瞬が、生死の運命を分けたのだろうか。
振り返ると、一人の傭兵が死んでいた。
ナスティークはいつもの物静かな無表情のままで、心臓から短剣を引き抜いたところだった。
名前すら知らない絶対致死の魔剣を、クゼは“死の牙”と名付けている。
クゼは努めて明るく言った。彼女も、この場の誰も、負い目を感じないようにだ。
「うおっ、こっちから狙ってたのか!? 危ない危ない……! 死んでたな俺……」
「……今、何をした。隠し弓でも飛ばしたか?」
「まっさか。聖職者がそんなことしないでしょ。そんなの使えないし……っと」
――憎んではいけません。傷つけてはいけません。殺めてはいけません。あなたが、あなたの家族に対してそうであるように。
短槍を構える男を盾の技で制して、動きを押さえつける。
逆側を大盾で塞ぎ、強引に安全地帯を作る。ようやく深く呼吸することができる。
ナスティークは、クゼのすぐ傍らに浮かんで、天井に吊られた肉塊をじっと見つめていた。『この人は、誰なの?』。
「……ロゼルハ先生には、昔からよくしてもらっててさ」
ずっと一緒にいたクゼが、一番良く知っている。ナスティークはただの無慈悲な天使ではない。
人を悼み、悲しみ、善を為そうとする心が、きっとあるのだと信じている。
だからクゼは彼女に話しかけ続けている。そこに言葉が返ってこなくとも。
「芋のスープ作るのが凄く上手かったんだよ。救貧院の子は、皆あの味が好きでさ……まー神官にしちゃだらしないし、愛人作ってたりもしてたけどさ、優しいんだよな。皆のこと大事に思っててくれて……」
――死は永遠の別れではありません。行ってしまった皆の残した言葉は全て、残されたあなたがたの心に、今も残る
「てめえ、このッ……! 誰だそいつ! 知らねーよ!」
「やー……あ、そう。知らないんだ? 知らないで、やっちゃった?」
殺さないでくれ、と願う。けれど、いつもそれはできない。
どれほど努力をしても、クゼでは、そこまで強くなることはできない。
会話に答えたクゼの方に、隙が生まれた。押さえる力が緩んだその一瞬だった。
何か致命的な攻撃を、その傭兵は繰り出そうとしたに違いなかった。
天使はすぐさま、その脇腹を死の短剣で切り裂いている。
彼女の攻撃は致命傷になる。例外はない。
『平気だった?』。クゼは笑った。
「……ふへへ。死んじゃった」
分かっていた。彼らが武器を下ろすことは、きっと、決してないのだろう。
それだけの理由があるのだろう。それなのにクゼは、殺さぬように、殺されぬように、いつも足掻いている。
天使にすら罪を重ねさせたくない、そんな矮小なエゴでしかない。
彼は叫んだ。
「言い忘れてたけどなあ! 俺はあんたらを殺しに来たんだ! 悪いけど……死んでもらうぜ。全員だ」
「“教団”に……今更そんな権利があるとでも思うか……!」
「思わないね。もしかしたらもう少し、話ができれば良かった……本当に。でもね」
その表情は、地に突き立てた大盾で隠れた。
彼の背後では、いつも死の天使が、純白の翼を広げている。
「天使サマが……あんたらのこと、許さないんだってさ」
――――――――――――――――――――――――――――――
蝋燭一本の光でも淡く輪郭が分かるほどに、その小部屋は狭い。
まるで告解室のように――事実、改装する前はそうだったのだろう――対面する二つの椅子と、その中央の丸机。それ以外の物は存在しない部屋だ。
「……例の、王城試合の件だが。議会は試合を
「へえ……そりゃ、大変だ」
クゼの向かいに座る老神官は、空の湖面のマキューレという。クゼのような男と未だに付き合いがあることを除けば、聡く慈悲深い、敬愛すべき先達であった。
「どうしてこんな時代に
「……だからこそ、なのだろう。民にとって、勇者の出現は“緑の時節”の真王帰還にも劣らぬ一大事変だ。ならばその頃と同じく形式に則り、民の面前で力を披露するという考えも通る」
「正気じゃありませんね……。そこら中から英雄かき集めて、見つけ出したっていう勇者サマに皆殺しにさせるってわけですか」
「認めたくはないが……民もそれを望んでいるのだろうな。これほど大規模な
仮初の武器でも加減の
「……ちょっと待った。もしもそいつで勇者が死んだら、どうなる。せっかくのお披露目が台無しでしょう」
「死ぬと思うのか? “本物の魔王”を倒した、“本物の勇者”が」
「他の連中は、そう思うかもしれませんが。俺は……思いませんね。生きてる奴は死ぬ。誰だって死ぬんだ」
「――ならばこういう考えもある」
老人は、他に聞く者がいないと分かっていても、なお次の声を潜めた。
「議会は勇者など見つけてはいない。勇者が勝ち抜く戦いなどではなく、勝った者を勇者とするつもりだと」
「そんな馬鹿な」
クゼは一笑に付したが、根拠のある否定ではない。
頭の回転の速さで、マキューレに追いつけるとも思っていない。
「だとしたら、俺が勝ち残る目もあるんでしょうがね」
「……今なら、取りとめることもできる。“教団”からの君の推薦を取り消すことも」
この老神官が真剣にクゼの身を案じてくれていることは、痛いほど伝わっている。
敗北すれば死ぬかもしれない。万が一勝ち残ったとて、それ以上の陰謀に巻き込まれることは最初から目に見えている。
……だが、仮にこの催しによって“勇者”が生まれてしまえばどうなるのかも、既に先が見えている話だ。
今の議会の流れは、既存の権威を……少なくとも力の弱まった“教団”を解体しようとしている。援助は露骨に減少しつつあり、逆に三国併合に伴う民衆の不満の矛先は、議会ではなく“教団”へと誘導されている。
ゆらめく
“本物の魔王”を前に世を救うことのなかった
王城試合の出場者枠を“教団”に選ばせているのは、勇者が“教団”の象徴を打ち倒す様を、大衆の面前に見せるためであろう。
それが最後の雪崩の契機になる。
「本当ですよ。負ける気はどこにもありません。先生ならご存知でしょう。俺にはナスティークがついてる」
「よく考えることだ。絶対なるロスクレイが相手でもそう言えるか? “本物の勇者”が実在したとしてもか?」
「ふへへ……確かにそういう連中は、無敵の英雄サマなんでしょうな。俺にはとても勝てない」
クゼは軽薄に笑ってみせた。
表面だけでもそうでなければ、“教団”の始末人であり続けることはできない。
そして、無敵であり続けることも。
「けど――そいつらは、食事の間や寝ている間も、ずっと無敵の英雄でしょうかね? そいつらの友人やら家族も、やっぱり無敵の英雄サマなんですかね? 寝ている間の家族は? 友人は?」
ナスティークを知覚できる存在は、クゼの他にはいない。どんな存在であれ抹殺する権利を、
そして、恐らくはクゼだけに、そのような戦い方ができる。
最強であることへの自負も矜持も、何一つ持ち合わせぬ男であるからだ。
「……クゼ」
「“教団”がなくなったら、どれだけの子供が路頭に迷うか、俺は……考えたくない。誰かがやらなきゃならないなら、俺でしょう。俺は無敵ですからね」
老神官は暫く俯き、投げかけようとしていた言葉を止めた。
そして、絞り出すように言った。
「…………クゼ。頼む……頼んだ」
彼らのささやかな救いが、これ以上失われることのないように。
新たな時代が、始まることのないように。
「勇者を殺してくれ」
――クゼには、天使がついている。
例えばこのような時には、天使は何かを言いたげに、回廊の窓枠に座ってクゼを見ている。
少年めいた白い短髪と背の翼は、現実の風ではない流れにふわふわと揺れる。
今しがた小部屋の中でマキューレと話した物事も、全て知られているのだろう、とクゼは思う。
「……マキューレ先生も、俺の大切な人だよ」
天使はクゼの後ろをふわふわと浮かびながら、不思議そうな顔で声に聞き入る。
いつからかクゼは彼女のことを、教会に集う子供達と同じだと思うようになった。
退屈な話を聞き流しながら、それでも何か、ふと思い出に刻みつける瞬間を待っているような、子供だ。
「あの人、子供の前でもあんな感じだからさ。全然お説教の内容が伝わりゃしないんだよね。世界やら社会やら、いつもそういう、大きなことを考えてばっかりなんだ……哲学者にでもなれば良かったんじゃないかってさ、へへ……教え子に何回も言われてたってさ」
クゼが笑うと、天使も少し笑顔になる。
それは口角が僅かに上がるだけの微かな笑顔だが。
「……クゼ先生!」
彼を呼び止める声がある。彼女も、あの惨劇の中を生き残った、年長の孤児の一人だった。
マキューレは辛うじて残った神官や孤児達を、しばらくは彼の救貧院に預かるつもりだという。いつか彼女らを手放さざるを得なくなってしまう、近い未来までは。
何を見たのか、何を味わったのか、知る勇気はクゼにはとてもなかった。
「だめだめ。俺みたいなおじちゃんを先生なんて呼んだら、他の先生に失礼だってば」
「けれど、私達を救ってくださったのは、クゼ先生です」
「……」
クゼは曖昧に笑った。違うんだ。俺は弱い。自分以外の、誰も守れない。
「私は……わ、私は、生き残ってしまいました。たくさんの子供達が、死んでしまったのに。どうしてあの日、死んだ者と、死ななかった者がいるんでしょう……」
「辛い思いをして生きてしまうのも、きっと同じことさ。だから本当は、誰も平等なんだ」
「でも、それなら……どうして私達だけが辛い思いをしなければならないのでしょう!? 世の中の他の人々は? 私は……私達が“教団”だから、このような目に遭わなければならないのですか!?」
聖騎士は、強く目を閉じた。
ゆらめく
一人だけ天使の加護を受けたクゼと――それ以外の、全て。
――生きとし生ける誰もが平等であるように、
彼は笑った。軽薄に笑った。
悲しみと救い。選ばれる者。運命。それ以外の答えを持たなかった。
人の力で救える悲劇じゃないと、人は救えないんだよ。
「ふへへ。ごめんなあ……おじちゃん、分かんないや。頭、悪いからさ……」
ナスティークが、どのような物差しで生類を殺すのかを、クゼは知っている。
その天使は、クゼを殺す者だけを殺す。
通り
(――なあ。お願いだ。天使サマなんだろ? 助けてくれ。ナスティーク)
いつも、虚空へと語りかけている。
彼女は壊れているのだろう。心のどこかで、そう気付いている。
彼だけを守る、きっと壊れてしまった、世界原初のルール。
(俺以外の、みんなを)
純白の天使は、微かな笑顔だけで応える。
それはただ一人を除いた、この世の誰にも知覚されることはない。
それは実在すら持たぬ、一切異質の意識体として、確かにそこに存在している。
それは創世のその時から続く、生命停止の絶対の権能を保有している。
ただ静かに訪れ、見えることなく全てを奪っていく、死の運命の具現である。
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