間章 その1

 一年前。


 王宮より僅かに東。臨時の政府機関として設えられた中枢議事堂は、黄都こうとの他の建造物と比べても、目立って新しく見える。

 かつては地平を三つの王国に分けて争っていた者達が、今はこの一所ひとところで共に政を敷いているのだ。それは言うまでもなく、容易な道のりではなかった。


 民が国家の在り方を捨てて、併合の道を辛うじて受け入れることができたのは、そこに“本物の魔王”という脅威が存在していたからだ。

 恐怖と狂気の侵食を受けた都市は次々と放棄され、今や人族の生存圏は、かつての時代の十分の一にも満たぬという。


 だが、そのために黄都こうとはかつてないほど栄えた。

 異なる文化圏が混じり合い、残された数少ない都市に、膨大な人口が集約された。

 暗黒の時代は、新たなる統一国家への萌芽を残したのだ。


 ――故にこそ今、何を措いても勇者を探し出さねばならぬ。

 残された猶予の時はあまりに短い。黄都こうと第三卿、速き墨ジェルキはそう考えている。


「……確実にそうである、と断言できる者は、おりません。今回も、名乗り出た者は売名目的の自称かと」

「理解した。下がっていい。……魔王自称者の時代の次は、勇者自称者か……」

「……調査を引き続きます」


 険しく寄った眉間に眼鏡を直して、ジェルキは議事堂の廊下を一人歩く。

 彼は生粋の文官であり、黄都こうと二十九官の内でも保有兵力は下から数えた方が早い。しかし従える間諜隊は、二十九官随一の練度だ。

 それが小九ヶ月動き続けて、未だに勇者の名の特定すらできていない。


 分かっている。誰もが当然の帰結として、その結論に至るだろう。

 それは今後の世界にあってはならぬ可能性だ。


(――果たして勇者は、人知れず死んでいるのではないか?)


 発狂。あるいは自害。“本物の魔王”の力を思えば、仮に打ち倒すことができたのだとしても、そのように至った可能性は、極めて高い。

 しかし……


「相変わらず怒った顔してるなあ。大丈夫?」


 扉の前を通り過ぎた時、野太い声がかかった。

 ジェルキは不機嫌な表情のままにそちらを見て、思い直して眉間に指を当てる。


「……ユカか。何、いつもの案件だ。顔が険しいのも、いつものことだろう……」

「ってことはいつも通り、勇者が見つかってないってことじゃんね。相談乗るよ?」


 丸々と肥った、赤い軽甲冑姿の巨漢である。第十四将、光暈牢こううんろうのユカ。

 ジェルキとは担当分野もかつての所属国家も異なるが、権謀術数渦巻く二十九官の中では数少ない、信頼のおける男だと認識している。


「君に向く類の問題とは思えん。人には適性がある。君の仕事は…………いや。また、反乱分子の鎮圧だったか。だから甲冑のままか?」

「んー。実はそうなんだよね。二人斬り殺しちゃった。気分悪いよね。魔王軍との戦いが終わったのに、今度は同じ人間ミニアだもんなあ」

「……。魔王軍も同じ人間ミニアだったぞ」

「あー……まあ、そうね。言葉の綾だよ。うん。気持ちは分かるでしょ?」


 実際、粛清や鎮圧などの汚れ仕事を率先して買って出ているユカの働きは、ジェルキの心労をいくらか和らげてくれてはいる。少なくとも、この期に及んで他種族討伐などに精を出している第六将ハルゲントなどよりも、余程評価されるべきだ。

 これは仕事の適性の問題だ。本物の勇者が見つかるまで――“そうした風潮”が高まらぬように、誰かが時を稼ぐ必要があった。


「……まだ、勇者の件などに心を砕いておられるのですね。第三卿」


 その場を通りすがったか、女の声が割り込む。

 ジェルキの眉間の皺はいよいよ深まった。

 声の主の怜悧で静謐な美貌は、尋常の者にとって、好感を抱くに十分なものだ。しかし第三卿ジェルキは、同じ文官として、この第十七卿エレアを心の底より嫌悪している。


「君には関係のない話だ。君の兵が先日、魔王自称者の兵を拷問したという噂を聞いたぞ。そのような女が――」


 刺すような視線が、エレアの背後へと向く。

 低い位置。強い日差しの影の只中に浮かぶ瞳と、目が合った。


「女王陛下を連れ出して、これから何を吹き込もうとしている」

「……。僭越を仰いますね。先程、女王様御自ら、散策の伴にと指名されました」

「なるほど。『女王陛下を連れ出して』のくだりは取り消そう」

「……」

「まあまあ、陛下の前なんだから、喧嘩しちゃだめだよ? ねー、陛下?」


 ユカは平時通りのマイペースさで、目線を合わせて彼女に笑いかけてみせた。

 大きな瞳がぱちぱちと瞬いて、一言だけを返す。


「そうね」


 年に似合わぬ、落ち着き払った物腰である。

 長く滑らかな銀の髪と、人形のように整った顔立ちまでも、王族代々に取り入れられてきた、優れた血統を示すかのような――まさしく一輪の花の可憐。


 一つの国の王族は、最初の六年、“本物の魔王”の侵攻を食い止め続けたが、王国に蔓延する恐怖と犠牲の中、革命と称する民の狂乱によって尽く処刑された。

 一つの国の王族は、息子達を死に追いやったものと同様の病に冒されながらも民の統制に身を砕き、今の黄都こうとの礎となるも、戦いの終わりを見ることなく倒れた。

 一つの国の王族は、“本物の魔王”との和解の可能性を探し続けたが、それ故に王城へと乗り込まれ、民諸共に虐殺された。


 その虐殺の渦中、ただ一人生き残った娘。この世に残った最後の王族こそが、王女セフィトである。

 年は、僅かに十。にも関わらず、この少女の佇まいには、常に昏い死の影がある。


「ジェルキ。勇者様は、どこかにいるのよね?」

「……いる、と願っております」

「それなら、どうして現れないの?」

「……。まだ、探していない地域はございます。人間ミニアであるとも限りません。世界の全てを探索します」


 彼女と話す時には、ジェルキも片膝を突き、目線を合わせて答える。

 たとえ政治の実質が、黄都こうと二十九官による議会制に移行しているとしても――三王国が併合したこの国は、今なお『王国』であり、詞神ししんより選ばれし“正なる王”の血筋を上回る権威は存在しない。


「エレアはどう思うかしら?」

「……勇者などがおらずとも、私達にはセフィト陛下がおります。今は政務に携われぬ身なれど……女王陛下にはいずれ必ず、民を治める器があると、この赤い紙箋しせんのエレアが保証いたします」


 ――それではいけないのだ。

 確かに、セフィトの明晰さは、稀にジェルキすらも驚かせる一面がある。

 容姿や振る舞いに、民を率いる王器があることも確かなのであろう。


 だが、いずれ幼い彼女に実権が与えられたのなら、それは必ず、傀儡政権と化す。

 ジェルキは、彼女の傍らに立つエレアを見た。前第十七卿の殺害容疑すらある、卑しい血筋の女を。


「ユカ。あなたの意見も聞きたいわ」

「んー。俺にはよく分かんないよ。でも、勇者が出てきて、困るってことはないとは思うな」


 ユカは首の後ろを掻くようにして、呑気に言った。

 僅かに覗いた袖に、斬り伏せられた民の返り血が染みているのが見えた。


「勇者がもしどこかにいるんなら、俺達みんなを救ってくれた恩人だもんなあ」


 女王はじっと目を見開いたまま、少しだけ、首を傾けた。

 何かを考える素振りであるようだった。


「それなら、見つけたほうがいいわ。名誉と見返りを与えればいいのでしょう?」

「……それは今の時点でも、十分に提示しております。それでも、本物が現れ出ないのです」

「本物が必要?」

「……っ……、と……言いますと」

「本物でないといけないの?」


 ……そうでなければならない、はずだ。


 仮の勇者を立てるのならば、例えば第二将――絶対なるロスクレイにそう名乗らせるだけで、民は満足する。

 だが、その後に本物が見つかったとしたら。その証拠が挙げられたのなら、その反動の不信がどこで、どのような形で爆発するのか、ジェルキには到底算出できない。


「勇者様を決めるとお触れを出しても名乗り出ないような方は、きっと決まった後にも、名乗り出ないわね」


 幼い女王の言葉を受けて、エレアが小さく呟く。


「私達が勇者を探していることを、民にも広く知らせる……」


 ……これまでのジェルキのように、間諜隊を使って探らせるのではなく。

 もっと大々的な布告を打てるなら。民の関心を一挙に集める大きな催しを、引き起こせるのだとしたら。


 その後に他の何者かが『本物』を主張しても無意味になるほど、決定的な周知を。


「はははは。そんじゃあいっそ、ジェルキのとこに名乗り出てる勇者自称者を集めて、王城試合でもさせてみるかなあ。勇者なら一番強いだろうってさ」

「……ユカ」

「ああ、乱暴な物言いだった。悪い悪い」

「………………。いいや……気にしていない。こちらこそ、悪い」


 ジェルキは今一度、可憐なるセフィトを見た。

 落城をその目で見て、ただ一人生き残った王女の瞳の中には、今でも滅びの炎の残滓がある。

 その赤い虹彩を覗くと、渦巻くような深淵へと落ちそうになる。


「ジェルキ?」

「……いえ。少し、考え事が。女王陛下。おいとまいたします」

「ええ。ずっと元気でね、ジェルキ」


 彼の構想は、誰にも……光暈牢こううんろうのユカにとて、明かすことはできぬ。


 速き墨ジェルキは、常に考えている。残された猶予の時はあまりに短い。

 これからの時代のために、勇者が必要だ。

 “本物の魔王”の時代の結果として、王族に並ぶ権威の象徴が、今はある。


 その勇者の権威を以て、女王セフィトを廃位する。

 詞神ししんより選ばれし“正なる王”は、“本物の魔王”の時代に殺されすぎた。

 これより始まる新時代に、これまでのような王政はもはや持続不可能だ。


(……誰かが。誰かが、この事業を成さねばならない)


 今の、二十九の貴族による議会政治を、民より選ばれた政治家に運営させる。

 三王国を寄せ集めた戦時体制である二十九官は、彼自身も含めて廃止する。

 そして一部の魔王自称者が行ったような、共和制の国家へと転換させる。

 それは今しかない。勇者という『別の偶像』が現れぬ限り、いずれ民は必ず、再び王の統治を求める。そうして訪れるのは陰謀と対立に満ちた傀儡政権だ。

 幼い王は併合したこの王国を統治できず、魔王の脅威を前に一度は集った民は、再び分裂し、争い始めるだろう。


 人が死にすぎた。平和が喪われすぎた。

 もう二度と、戦乱と混沌の時代に世界を逆行させてはならない。


(誰かが成さねば。この事に気づいた、誰かが)


 勇者自称者。彼らが勇者を自称するほど、己の力に自負を持つというのなら。

 彼らはいずれ、統一国家に仇をなす魔王自称者と化す。力を持つ者が、各々に“魔なる王”を自称した、かつての時代。

 共通の敵……“本物の魔王”がいた間は、彼らは国家への脅威とはならなかった。

 しかしこの二十五年間は、魔王を倒すべき英雄を、作りすぎた。


 勇者は一人でいい。

 新たな時代を始めるためには、彼らをも全て一掃せねばならない。

 その口実がいる。


(それができるのは)


 眉間に眼鏡を直して、ジェルキは議事堂の廊下を一人歩く。

 今は何をすべきかが分かっている。


(――私だけだ。それができるのは、私しかいない)


 そうして作られる平和な時代に、ジェルキの座るべき席は残っていないだろう。

 誰よりも、彼自身が理解している。


 それが、一年前。

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