星馳せアルス その1

 かつて、魔王自称者という者達がいた。

 組織や詞術しじゅつの力を持ちすぎた個人。新たなる種を確立しようとする変異者たち。異端の政治概念を持ち込んだ“客人まろうど”。

 力ある者たちがめいめいに王を名乗り、領地の所有と自治を主張していた時代。そのようにして乱立した小国家の王は、詞神ししんより選ばれし三王国の“正なる王”ではない――“魔なる王”と呼ばれていた。

 王国の秩序を担う者たちからすれば、正当性を持たぬまつろわぬ民でこそあれ、それでも目的と意思を持つ悪であった。悪の定義が複雑だった時代だ。


 ほんの二十五年ほど前まで、その魔王自称者たちこそが魔王と呼ばれていたのだ。“本物の魔王”が現れるまで。

 “本物の魔王”が現れてからは、悪の定義はとてもわかりやすくなった。それまで存在していた魔王などは所詮“自称者”でしかなかったのだと、誰もが理解した。

 人族じんぞく鬼族きぞく、果ては獣族じゅうぞく竜族りゅうぞくまでもを侵した、恐怖と悪意。“本物の魔王”こそがただひとつの悪であった。


 悪は他の何をも生み出さず、ただ壊滅と悲惨だけを広げていき――そして今の時代がある。

 慢性的な対立を続けていた三王国は、“本物の魔王”の脅威を前に統合を余儀なくされた。魔王自称者の殆ども秩序に流れ、あるいは“本物の魔王”に戦いを挑み、姿を消した。


 ――黄都こうと第六将、静寂なるハルゲントのような男であっても、稀に悪の定義を考えることがある。

 誰もが唯一絶対の悪であると信じた“本物の魔王”が倒れた今、次に信ずるべき悪の定義は何か?


(それは、自分を裏切ることだ)


 ハルゲントはそう考えている。体制の節目となる今もなお、彼は個人の欲望を打ち捨ててはいない。

 たとえ小物狩りの竜騎兵団長と陰口を叩かれようと、権謀術数に心身をすり減らそうと、それは分不相応な権力を維持するために必要なことだ。より多い財、より高い名声、より安定した生。

 形振りを構わずに進めば、その不相応な力を、まだ少しだけ伸ばしていくことができる。それが今だ。


 黄都こうとに三王国の政治中枢が統一され、既得権益が再分配されつつある今こそが、新たなる実績を主張するまたとない機会であることは間違いない。

 ――だからこそ今、他のどの将の助けも借りず、この討伐を成し遂げねばならぬ。敵は最も旧き黒竜の一柱、ふすべのヴィケオン。

 北の辺境、ティリート峡に展開した竜騎兵団、総勢三十六騎。乾いた空気の吹き込むこの野戦陣地は、そのためにあった。


「お疲れのようです、団長閣下」


 顔を起こすと、暖かな琥珀茶が目の前に置かれるところだった。参謀長の顔はいつもと同じで、疲れの色すらない。どこか中性的な顔立ちに似合う柔らかな笑みだ。

 そして恐らくは、隈の浮いたハルゲントの疲労の顔がそれと対照を成しているのであろう。


「――十二秒ほど、お眠りになっていたようで? 兵に見られずに済んで、何よりでございます」

「うん。ピケ君。これはな、当然の道理ではある」


 琥珀茶を口にすると、仄かな甘味が体の奥に染み渡っていく。

 ハルゲントは眉をひそめて、できる限りいかめしい表情を作ろうとした。


「何しろ黄都こうとからの行軍に五日もかかったわけだからね。誰でも負担は大きかろう。特に管轄の……そう、責任と負担だ」

「まったくもって、存じておりますとも。林檎香はお入れになられますか?」

「実際に動いてみて思ったが、この距離自体、“ふすべ”が何百年と討伐の手から逃れ続けた要因の……うむ。……うん、入れてくれ」

「追い立ての面々はご指示通り、配置についております。団長閣下と違って鍛えておりますから、疲弊もご心配なく」


 まったく、参謀長の言う通りだ。野望は肥大する一方だが、ハルゲント自身の体力は、年齢ごとに衰える一方である。


「……。うん。結構。ラヂオ兵の巡回人数は」

「人員を三群に分けております。常時二人が峡谷の上で巡回、常時四人を交代で本陣にて休ませ、うち一人が受信手です」

「少ない。竜墜としに斥候を絞るのは、うまくない。明日から外に三人を置け。昼夜半日交代だ」

「かしこまりました」


 静寂なるハルゲントは、“羽毟はねむしり”の渾名で呼ばれることもある。鳥竜ワイバーンのみを、何百と討伐してきた実績からの敬称――あるいは蔑称である。

 ハルゲントの鳥竜ワイバーン狩りは定石とは異なる。獲物が巣にある間は決して討たず、群れが飛び立った後、空中にある間に追い込む手である。

 谷のあわいに潜んだ射手が、矢と詞術しじゅつで逃げ道を塞ぎ、本命と定めた狙撃点で仕留める。


 巣に強襲を仕掛ける手は、安全策のように見えてそうではない。鳥竜ワイバーンは個体ごとの知性の差が著しい。狡猾な個体であれば、巣に仕掛けられた罠によって、討伐隊が返り討ちになることもあった。巣の中のどの物品が詞術しじゅつの焦点となっているか、計り知ることもできない。

 無論、相手が周到と尊大で知られた邪竜、ふすべのヴィケオンであれば、それ以上の警戒を以てあたるべきは当然の成り行きである。


「――“ふすべ”は、確かに手負いなのでしょうか? 二十年生きて、そのような噂を聞いたことはありませんでしたが」

「私は四十年だ。間諜隊を何度も疑い、裏付けを取った上でのこの遠征だよ。他の将どもが勘付く前に掴んだ好機でもある」

「右眼の白濁。左前肢が落とされ、長槍と思われる武器が腹部に貫通。尾の腐乱。俄かには、とても。……仮にそれらが全て事実として、あれは姿を見せるでしょうか」


 ティリート峡の悪夢。気の向くままに里を焼き、一度のブレスで万軍屠り、無尽の財宝を独占したという、ふすべのヴィケオン。

 それは災害にも等しい。このような千載一遇の好機に恵まれぬ限り、勝利の可能性は永劫ない相手だ。

 この功績で、統合された黄都こうとの新王国でも将の座を得る。小物の鳥竜ワイバーン殺しと揶揄されることのない、真のドラゴン殺しになる。


「ピケ君。これは城攻めに等しい。黒竜の腕や眼は、もはや癒える傷ではない。だが巣の備蓄は無限ではあるまい。必ず、飢えて飛び立つ時がくる」


 加えて、この数の竜騎兵を知れるように展開しているのは、ヴィケオンに圧力をかけるためでもある。いつ巣へ攻め来ると知れぬ緊張で休ませず、驕慢で知られる彼を苛立たせることで、自ずから狩りの場へと引きずり出す目論見だ。

 ピケの懸念は、長引く戦いを見据えて斥候のラヂオ兵の酷使程度を弱めるようにという遠まわしな進言でもあるのだろう。

 だがハルゲントは、この戦いがそう長引くとは考えていない――あるいは、すぐにでも。


 果たして。僅か数十分の後に、それは証明される。

 作戦本部に現れた受信手の表情は蒼白であった。


「参謀長! 団長閣下! 緊急の通信であります! 射手六名死亡!」


 ヴィケオン発見の前触れですらない。にわかには信じ難い凶報である。


「……なんだと?」

「つないでください! すぐに!」


 ピケの即座の指示に応じ、透き通った鉱石と、いくつかの針金が作戦卓に並べられた。受信手の言葉が響く。


「【ライニよりクリアージアの鋼へ w r a i n y i o q u l y a s h a ! 波紋は頭に c e v o e m t o t a 鏡を通し両指を結べ r i g l e r i g l e s w e e d 通り瞬く道 m e e z i b h o l c o m 天の網 h a g t 起これ a r m e l f l o e h e !】」


 針金が詞術しじゅつによって定められた形へ変形し、鉱石を取り巻く。

 ハルゲントの戦術において、遠隔通信術――ラヂオ製作の工術こうじゅつを用いるラヂオ兵は、特に重要な兵種であった。わけても、このような不測の事態において。


「ハルゲントだ。状況を報告しろ! 正確に!」

〈右岸監視中のディオです! 黒煙が湧いて……! 峡谷の下を覆いました! 崖下に展開していた射手六名の安否は、確認不能! 恐らく、“ふすべ”は地上……地上を這って、本陣へと進んでいます!〉

「地上だと……!」


 あり得ない。

 天からの黒煙で全てを焼き、地を這う有象無象を見下ろしてきた……あの傲岸なるふすべのヴィケオンが。それどころか、他のどのドラゴンであろうと。

 人間ミニアの迎撃を恐れ、隠れ、まるで蛇竜ワームの如く地を這い、兵の死角よりブレスを浴びせ、まるで弱者が仕掛けるような奇襲を行うなど、あり得べからざる事態であった。


「何故だ……! どうして、そんなことが起こるゥッ! ふ、ふすべのヴィケオン――竜族の誇りを、喪ったかッ!」


 空からは死角となり、射線を用いて獲物の意識を誘導し、最小の犠牲で巨竜を仕留める、ハルゲントが数十年の経験則より編み上げた、絶対の対空布陣であった。

 だが、その長きに渡る経験の中にも、これほどまでに尊厳を捨てたドラゴンが現れたことなど、ただ一度としてなかった。


「団長閣下。撤退を。全て失敗です。ドラゴンの這い進む速度など誰も知りはしないでしょうが、今、この本陣が危険です。運が向かなかったのでしょう」

「そ、その程度の……ッ、その程度で済むかッ! こんな間違いがあるか! あり得ぬことは、正すべきではないのか!」


 ハルゲントにも、もはや分かっている。彼の竜騎兵は、虚偽や誤解の報告を行うような愚鈍ではない。彼の兵は、誰もがハルゲントとは違うのだ。

 ピケの言うとおり、この討伐は失敗に終わった。六名もの兵が無為に煙に焼かれた。今、何よりも危険なのは彼自身の命だ。

 それを認めることができないことが第六将ハルゲントの無能であると、誰よりも自覚している。


「迷う時ではありません。今――【ピケよりハルゲントへ p i k e i o h a r g e n t 傾きの陽 h i m a l飛べ w a l m i r l !】」


 諭す参謀長の言葉は、咄嗟の力術りきじゅつに変わった。何が起こったか理解する間もなく、不可視の力がハルゲントを吹き飛ばした。


「何を……」


 どう、と風が吹いた。

 作戦本部の陣幕より転がり出たハルゲントの背後に噴き上がった、黒煙である。

 それは煙の内に取り巻いた全てを焼却する高熱のブレスであり、作戦本部の兵士たちは尽く、炎すら発さず、黒く燃え尽きた。参謀長ピケ。ラヂオ兵ライニ。近衛射手ミリード、ヒケア。

 一瞬にその虐殺を為した者が、遅れて現れる。


「そうか――貴様が将だな。残す算段などなかったが、それも、都合が良い」


 ジリジリと空気を焼く熱を隔てて、漆黒の巨体が峡谷を塞いでいる。その熱にも関わらず、生物の本能が、ハルゲントの神経全てに寒気を走らせている。

 存在のみで、全てを圧倒する魂。この地平における、真の最強種。


「……“ふすべ”ェェ……! 貴様ァッ!」


 たとえ右眼が白濁していようと。左前肢が落とされていようと。長槍が腹部に貫通していようと。尾が腐乱していようと。

 彼が狩り尽くしてきた鳥竜ワイバーンとは一切が違う、それはドラゴンであった。


「答えることを許す。討伐の群れは、貴様が最初か、最後か」

「人の討ち手を畏れるか、ふすべのヴィケオン! 竜族りゅうぞくの……永久の笑い者になるが良い! その魂、貴様の体と諸共に地に堕ちたぞ!」

「【ティリートの風へ g o g i p y a e i s 烟れる月を涸らせ j y g u e g y u o r g ――】」


 ハルゲントの頭上を超えて致死の黒煙が空を通り抜けた。

 敢えて外したのだと、咄嗟に認識することもできなかった。まさかドラゴンが、人間ミニアに威嚇を行うなど。


「答えろ。討伐は、貴様ら、だけか。答えぬならば、焼かず、苦しめ、殺す」

「……何が」


 黒竜の声には焦りがあった。その行動は明白に異常である。

 数百年間誰も傷つけることの叶わなかった、最悪の古竜であるはずだった。

 ただ一人で黒竜と対峙しつつ、ハルゲントは問うた。


「……何が、貴様の身に起こった。“ふすべ”……! 私に……静寂なるハルゲントに卑劣と屈辱を与えながら、自らの屈辱のみを隠し立てするか! な……何者が、貴様を討った!」

「……英雄を」


 ベシャリ、と音を立て、邪竜は膿んだ左腕を引いた。

 その傷を恥じているのか。


「英雄を……! その目に見たことがあるか。弱きハルゲント。膨大なる群れ――人間ミニアの中より、数の原理に伴って現る、稀なる変異種。それは……それは飽くなき欲望で自らを研鑽し。欲望のままに力を収集し。そして欲望の行き着く果てとして、遥か強大な生命をも討ち果たす――」

「それが貴様を討ったとでも……」

「驕るな人間ミニア!」


 憎悪と共に、ヴィケオンは吼えた。

 ――否。今やハルゲントにも分かる。それは、憎悪ではなく屈辱である。


「ミ、人間ミニアの英雄など……! 飽くほど屠ったわ! この我に代わり世を巡り、傲慢故に命と宝とを差し出す……欲望に駆られて驕る何者も、尽く我が餌に……愚かな餌に、過ぎぬ!」

「ヴィケオン!」

「ああ、人間ミニア。愚かな人間ミニアよ! その認識こそが、ドラゴン以上に救えぬ傲慢よ! 英雄を生み出す群れは、貴様ら人間ミニアの他にはいないか!? 才知と力とに祝福された強者は、貴様ら人間ミニアの他に現れ出ないか!?」


 傷の苦痛に悶え、恐怖の記憶に唸りながら、燃える片目がハルゲントを睨んだ。

 ハルゲントの死はもはや避けられぬ。ヴィケオンが全てを詳らかにするのは、この矮小な一人の人間ミニアまでもを畏れるまいとする、堕ちた古竜の最後の誇りの一欠片であった。


「全てが無力だ。畏れるがいい、人間ミニア! もはや堕ちた、この我ではない! 全ての運命に愛された英雄が、人間ミニアのみではない! 鳥竜ワイバーンの中にも同じくあることを!」


 ティリート峡の悪夢。気の向くままに里を焼き、一度のブレスで万軍屠り、無尽の財宝を独占したという、ふすべのヴィケオン。

 災害にも等しいその存在を、既に打ち倒した者がいたはずだった。


 ハルゲントは知っていた。何故思い当たらなかった。彼の知る限りは、最初からその他にいるはずがなかった。

 思い至ろうとしなかったのは……それこそが数百という鳥竜ワイバーンを討ち果たし続けた竜騎兵団長にとって、もっとも忌むべき一つの名であるからだ。


鳥竜ワイバーンの、――星馳せアルス」


 その一羽が、そうしたというのか。鳥竜ワイバーンより遥か巨大なこの古竜の片目を奪い、左腕を切断し、脇腹を貫き、尾を爛れさせたというのか。

 群れ、手負いを狩らねばならぬ人間ミニア達と異なり、同じ弱種から突出したその個体には……もはや、それができるというのか。


「我が屈辱、答えたぞ。……静寂なるハルゲント」

「私の後ろに、黄都こうとの兵はいない。全てが、功利に走った私の愚かな独断だ。答えたぞ。ふすべのヴィケオン」

「――ならば良かろう。貴様に従う群れ諸共焼き払い、その愚行を許す」

「させぬ。私がどれほど多くの羽を毟ったか、貴様などには想像できまい……! 我が頭上の空は、全て静寂となる! 黄都こうと第六将の力を知れ!」


 続く詞術しじゅつの詠唱とともに、溶けた鉄材が組み上がる。仮設した作戦本部の骨材であったそれは、彼の生まれた黄都こうとより持ち出した鉄であり、故に詞術しじゅつを疎通できる。

 二つ名は静寂なるハルゲント。彼の誇る工術こうじゅつによって編まれるものは、馬車めいた質量を持つ、据え付けの機構弓。必殺の対空兵器――屠竜弩砲ドラゴンスレイヤーである。


 それがヴィケオンを討ち果たせるかどうか、全て理解している。

 それでも今の自分の心を裏切ることが、ハルゲントにとっての邪悪であった。


「無力だ。全て、無力だ!」


 なにもかもが、一呼吸で終わる。

 ドラゴンは呼気そのものが、全てを焼く熱術ねつじゅつブレスとなる。


「――」


 しかし邪竜はその一息を呑んだ。

 彼は脆弱な人間ミニアの向こう、その背後に広がる峡谷を見ていた。


 夕暮れの赤が広がっていた。

 地平の際――膨れた太陽の輪郭が熱気の残滓に揺れる、落日の光景だった。

 その終末の夕陽を背にした影を、見た。


「何故、また来る。……何故」


 細い体が、一つの岩峰の頂点にある。

 それは無言で翼を広げた。

 その禍々しい影は、悪魔の具現か。あるいは。


 最古のドラゴンの一柱、ふすべのヴィケオンにとっての、その一羽は。


「星馳せ――」

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