星馳せアルス その1
かつて、魔王自称者という者達がいた。
組織や
力ある者たちがめいめいに王を名乗り、領地の所有と自治を主張していた時代。そのようにして乱立した小国家の王は、
王国の秩序を担う者たちからすれば、正当性を持たぬまつろわぬ民でこそあれ、それでも目的と意思を持つ悪であった。悪の定義が複雑だった時代だ。
ほんの二十五年ほど前まで、その魔王自称者たちこそが魔王と呼ばれていたのだ。“本物の魔王”が現れるまで。
“本物の魔王”が現れてからは、悪の定義はとてもわかりやすくなった。それまで存在していた魔王などは所詮“自称者”でしかなかったのだと、誰もが理解した。
悪は他の何をも生み出さず、ただ壊滅と悲惨だけを広げていき――そして今の時代がある。
慢性的な対立を続けていた三王国は、“本物の魔王”の脅威を前に統合を余儀なくされた。魔王自称者の殆ども秩序に流れ、あるいは“本物の魔王”に戦いを挑み、姿を消した。
――
誰もが唯一絶対の悪であると信じた“本物の魔王”が倒れた今、次に信ずるべき悪の定義は何か?
(それは、自分を裏切ることだ)
ハルゲントはそう考えている。体制の節目となる今もなお、彼は個人の欲望を打ち捨ててはいない。
たとえ小物狩りの竜騎兵団長と陰口を叩かれようと、権謀術数に心身をすり減らそうと、それは分不相応な権力を維持するために必要なことだ。より多い財、より高い名声、より安定した生。
形振りを構わずに進めば、その不相応な力を、まだ少しだけ伸ばしていくことができる。それが今だ。
――だからこそ今、他のどの将の助けも借りず、この討伐を成し遂げねばならぬ。敵は最も旧き黒竜の一柱、
北の辺境、ティリート峡に展開した竜騎兵団、総勢三十六騎。乾いた空気の吹き込むこの野戦陣地は、そのためにあった。
「お疲れのようです、団長閣下」
顔を起こすと、暖かな琥珀茶が目の前に置かれるところだった。参謀長の顔はいつもと同じで、疲れの色すらない。どこか中性的な顔立ちに似合う柔らかな笑みだ。
そして恐らくは、隈の浮いたハルゲントの疲労の顔がそれと対照を成しているのであろう。
「――十二秒ほど、お眠りになっていたようで? 兵に見られずに済んで、何よりでございます」
「うん。ピケ君。これはな、当然の道理ではある」
琥珀茶を口にすると、仄かな甘味が体の奥に染み渡っていく。
ハルゲントは眉をひそめて、できる限り
「何しろ
「まったくもって、存じておりますとも。林檎香はお入れになられますか?」
「実際に動いてみて思ったが、この距離自体、“
「追い立ての面々はご指示通り、配置についております。団長閣下と違って鍛えておりますから、疲弊もご心配なく」
まったく、参謀長の言う通りだ。野望は肥大する一方だが、ハルゲント自身の体力は、年齢ごとに衰える一方である。
「……。うん。結構。ラヂオ兵の巡回人数は」
「人員を三群に分けております。常時二人が峡谷の上で巡回、常時四人を交代で本陣にて休ませ、うち一人が受信手です」
「少ない。竜墜としに斥候を絞るのは、うまくない。明日から外に三人を置け。昼夜半日交代だ」
「かしこまりました」
静寂なるハルゲントは、“
ハルゲントの
谷のあわいに潜んだ射手が、矢と
巣に強襲を仕掛ける手は、安全策のように見えてそうではない。
無論、相手が周到と尊大で知られた邪竜、
「――“
「私は四十年だ。間諜隊を何度も疑い、裏付けを取った上でのこの遠征だよ。他の将どもが勘付く前に掴んだ好機でもある」
「右眼の白濁。左前肢が落とされ、長槍と思われる武器が腹部に貫通。尾の腐乱。俄かには、とても。……仮にそれらが全て事実として、あれは姿を見せるでしょうか」
ティリート峡の悪夢。気の向くままに里を焼き、一度の
それは災害にも等しい。このような千載一遇の好機に恵まれぬ限り、勝利の可能性は永劫ない相手だ。
この功績で、統合された
「ピケ君。これは城攻めに等しい。黒竜の腕や眼は、もはや癒える傷ではない。だが巣の備蓄は無限ではあるまい。必ず、飢えて飛び立つ時がくる」
加えて、この数の竜騎兵を知れるように展開しているのは、ヴィケオンに圧力をかけるためでもある。いつ巣へ攻め来ると知れぬ緊張で休ませず、驕慢で知られる彼を苛立たせることで、自ずから狩りの場へと引きずり出す目論見だ。
ピケの懸念は、長引く戦いを見据えて斥候のラヂオ兵の酷使程度を弱めるようにという遠まわしな進言でもあるのだろう。
だがハルゲントは、この戦いがそう長引くとは考えていない――あるいは、すぐにでも。
果たして。僅か数十分の後に、それは証明される。
作戦本部に現れた受信手の表情は蒼白であった。
「参謀長! 団長閣下! 緊急の通信であります! 射手六名死亡!」
ヴィケオン発見の前触れですらない。
「……なんだと?」
「つないでください! すぐに!」
ピケの即座の指示に応じ、透き通った鉱石と、いくつかの針金が作戦卓に並べられた。受信手の言葉が響く。
「【
針金が
ハルゲントの戦術において、遠隔通信術――ラヂオ製作の
「ハルゲントだ。状況を報告しろ! 正確に!」
〈右岸監視中のディオです! 黒煙が湧いて……! 峡谷の下を覆いました! 崖下に展開していた射手六名の安否は、確認不能! 恐らく、“
「地上だと……!」
あり得ない。
天からの黒煙で全てを焼き、地を這う有象無象を見下ろしてきた……あの傲岸なる
「何故だ……! どうして、そんなことが起こるゥッ! ふ、
空からは死角となり、射線を用いて獲物の意識を誘導し、最小の犠牲で巨竜を仕留める、ハルゲントが数十年の経験則より編み上げた、絶対の対空布陣であった。
だが、その長きに渡る経験の中にも、これほどまでに尊厳を捨てた
「団長閣下。撤退を。全て失敗です。
「そ、その程度の……ッ、その程度で済むかッ! こんな間違いがあるか! あり得ぬことは、正すべきではないのか!」
ハルゲントにも、もはや分かっている。彼の竜騎兵は、虚偽や誤解の報告を行うような愚鈍ではない。彼の兵は、誰もがハルゲントとは違うのだ。
ピケの言うとおり、この討伐は失敗に終わった。六名もの兵が無為に煙に焼かれた。今、何よりも危険なのは彼自身の命だ。
それを認めることができないことが第六将ハルゲントの無能であると、誰よりも自覚している。
「迷う時ではありません。今――【
諭す参謀長の言葉は、咄嗟の
「何を……」
どう、と風が吹いた。
作戦本部の陣幕より転がり出たハルゲントの背後に噴き上がった、黒煙である。
それは煙の内に取り巻いた全てを焼却する高熱の
一瞬にその虐殺を為した者が、遅れて現れる。
「そうか――貴様が将だな。残す算段などなかったが、それも、都合が良い」
ジリジリと空気を焼く熱を隔てて、漆黒の巨体が峡谷を塞いでいる。その熱にも関わらず、生物の本能が、ハルゲントの神経全てに寒気を走らせている。
存在のみで、全てを圧倒する魂。この地平における、真の最強種。
「……“
たとえ右眼が白濁していようと。左前肢が落とされていようと。長槍が腹部に貫通していようと。尾が腐乱していようと。
彼が狩り尽くしてきた
「答えることを許す。討伐の群れは、貴様が最初か、最後か」
「人の討ち手を畏れるか、
「【
ハルゲントの頭上を超えて致死の黒煙が空を通り抜けた。
敢えて外したのだと、咄嗟に認識することもできなかった。まさか
「答えろ。討伐は、貴様ら、だけか。答えぬならば、焼かず、苦しめ、殺す」
「……何が」
黒竜の声には焦りがあった。その行動は明白に異常である。
数百年間誰も傷つけることの叶わなかった、最悪の古竜であるはずだった。
ただ一人で黒竜と対峙しつつ、ハルゲントは問うた。
「……何が、貴様の身に起こった。“
「……英雄を」
ベシャリ、と音を立て、邪竜は膿んだ左腕を引いた。
その傷を恥じているのか。
「英雄を……! その目に見たことがあるか。弱きハルゲント。膨大なる群れ――
「それが貴様を討ったとでも……」
「驕るな
憎悪と共に、ヴィケオンは吼えた。
――否。今やハルゲントにも分かる。それは、憎悪ではなく屈辱である。
「ミ、
「ヴィケオン!」
「ああ、
傷の苦痛に悶え、恐怖の記憶に唸りながら、燃える片目がハルゲントを睨んだ。
ハルゲントの死はもはや避けられぬ。ヴィケオンが全てを詳らかにするのは、この矮小な一人の
「全てが無力だ。畏れるがいい、
ティリート峡の悪夢。気の向くままに里を焼き、一度の
災害にも等しいその存在を、既に打ち倒した者がいたはずだった。
ハルゲントは知っていた。何故思い当たらなかった。彼の知る限りは、最初からその他にいるはずがなかった。
思い至ろうとしなかったのは……それこそが数百という
「
その一羽が、そうしたというのか。
群れ、手負いを狩らねばならぬ
「我が屈辱、答えたぞ。……静寂なるハルゲント」
「私の後ろに、
「――ならば良かろう。貴様に従う群れ諸共焼き払い、その愚行を許す」
「させぬ。私がどれほど多くの羽を毟ったか、貴様などには想像できまい……! 我が頭上の空は、全て静寂となる!
続く
二つ名は静寂なるハルゲント。彼の誇る
それがヴィケオンを討ち果たせるかどうか、全て理解している。
それでも今の自分の心を裏切ることが、ハルゲントにとっての邪悪であった。
「無力だ。全て、無力だ!」
なにもかもが、一呼吸で終わる。
「――」
しかし邪竜はその一息を呑んだ。
彼は脆弱な
夕暮れの赤が広がっていた。
地平の際――膨れた太陽の輪郭が熱気の残滓に揺れる、落日の光景だった。
その終末の夕陽を背にした影を、見た。
「何故、また来る。……何故」
細い体が、一つの岩峰の頂点にある。
それは無言で翼を広げた。
その禍々しい影は、悪魔の具現か。あるいは。
最古の
「星馳せ――」
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