星馳せアルス その2
そも、翼に加えて両の腕すら備える
そして、かつて“彼方”の大型爬虫類が鳥類にその姿を置き換えていった歴史をなぞるように、こちらの世界においても、種としての成功を遂げているのは
最強の種は
――そして
その
虫のそれのような、か弱く細い腕で、内の一本は三年の月日が経つまで神経が通ってすらいなかった。
逆行進化の皮肉であろうか。
祖先より分かれ二足歩行をはじめた
ゆえに飛翔と生存に不利でしかないその貧弱な器官を、彼は敢えて千切り捨てずにいた。
やがて腕は筋力を得て、物を掴み、運ぶようになった。
武器と道具に長く触れるうち、腕は技術を獲得した。
腕は、新たなる何かを欲した。
太陽の高い時期に、その
腕によって肥大した彼の欲望は、もはや
明日を生きる捕食欲でもなく、種を活かす繁殖欲でもない。
その腕に、まだ見ぬ物を掴み取りたい。自身がただの
群れすら持たぬ一羽の
いつしか小さな個体のその欲望は、一つの街の宝を得た。
一つの敵を打ち倒した。一つの迷宮を攻略した。一つの土地を征した。
そして一つの――
「星馳せアルス……これ以上の……、何を、欲する……!」
「…………」
――いまや一つの
「我が財宝の全てを、奪ったはずだ! 漲る誇りの全てを、もはや奪ったはずだ! これ以上を、何故奪う!」
「……なぜ……?」
岩峰に留まったまま、
理解できぬ、という様子であった。
「おれは、当然のことをしてるだけだよ……」
バツン。
恐るべき空気の破裂が、遅れて響いた。
唐突に撃ち込まれた豪速の矢を、アルスは僅かに身をそらすのみで回避している。
「――“星馳せ”ェッ!」
それは静寂なるハルゲントの
連射不能の弩砲を彼は“
「き、貴様は……貴様は手を出すなッ!」
「……」
男の声に対して、ただ気怠げに頭を振って、
その三本の腕には、まるで
そうでありながら、その飛翔速度は――。
「おのれ……おのれ、おのれ“星馳せ”……!」
ハルゲント同様の怨嗟と共に、ヴィケオンは空を見やった。消える。追えぬ。
熱殺の黒煙の
まさにその様が答えであった。
この黒竜は、
この入り組んだ谷底で……空の強者より身を隠し、迎撃する他にないのだ。
同じように飛べば、彼に勝ち目がないことを思い知らされたから。
この空において、自分以上の生態系が存在することを刻み込まれていたから。
「【
第六感で視界の端に捉えた影へと、ヴィケオンは全力の
命中はしない。あまりにも速く、頭上へと回り込んでいる。
「そんな、馬鹿な」
愕然とした声を上げたのは、ハルゲントである。
上空。星馳せアルスは、
“彼方”からの武器――マスケット銃。
紙一重に等しい攻防の隙間。ヴィケオンの意識の隙に、その弾丸は飛んだ。
「グッ……ウゥゥアアア!」
バチ、という音が響いた。遠い空中の銃声ではなく、巨竜の肉が……残る右眼が爆ぜる音であった。
一握りの竜騎兵しか扱いこなせぬ、最新至難の武器であるはずだった。
立体にして高速の攻防の中、僅か一点を正確に、眼球を防護する竜の瞬膜すらをも貫いて。
「…………。痛いでしょ、これ……。西の断崖……摩天樹塔のね……毒の魔弾……」
伝説の竜が苦悶の嘆きに悶える醜態を、ハルゲントは見てしまった。
空気を震わす叫びの中にあって、アルスは淡々と、静かに告げていく。
疑いなく、それは自らの収集物を誇っていた。
「
声を頼りに、ヴィケオンはさらに敵意を向けようとした。
飛翔で競ることはできぬ。両眼と左腕を奪われては、格闘もできぬ。
残された優位は、
「【
「【
ざくり。
竜の右眼から、細い針が生えた。
撃ち込まれた弾頭が一瞬の内に変形して、ヴィケオンの脳を、更に深く穿ったのであった。
言葉による
「…………駄目だよ、ヴィケオン……。それは、おれの撃った弾なんだから……」
「グウッ……ウッ、グウウウゥッゥゥゥゥ……!」
「おれの言うことを聞くに決まってる。あんたの腰に刺した槍だって、おれは同じ手で、やったよ……?」
――どの物品が
バツン。
再び、空気が金切る。
矢を放ったのは、やはりハルゲントであり、それが狙ったのも、同様にアルスの方であった。
敵わぬと知っていても、ハルゲントの自尊の心がそうせざるを得なかった。
「ふざけるな“星馳せ”……! 私の敵だ! どうして奪う! ……私の、私のような男の命を、助けているつもりかッ!」
「……ハルゲント。なんか……おかしなこと、きくね……」
災厄と恐れられ、
そして軍団を失い、ただ一人だけになった
この場の生態系において誰が頂点であるのか、そして誰が死にゆくのか、それはもはや明らかであった。
頂点の者は、答えた。
「友達を助けるのなんて、あたりまえだろ……」
そうだ。
数百という
星馳せアルス。ハルゲントは、他の誰よりもその名を厭っていた。
そのようなことがあってはならないからだ。
「私は、貴様の友ではない……! 今、私は竜騎兵団長だッ!
黒い竜が死んでいく。
筋肉を震わせ、翼からは力が抜け、今、初めて本物の
まるで
「……そっか……。兵隊の王様に、なったんだね……。よかったじゃないか……」
アルスはその様子を、いつものように、ただ陰鬱に眺めているだけだ。
喜びも快楽も、その心の内のどこにも存在しないようにすら見える。
「そうだ……! 成り上がるために、貴様の同族も、何百と殺してやったぞ。この歳になっても、まだ栄光が欲しくて、こんな愚かな……愚かな、真似をしている……」
唇を震わせて、ハルゲントは告げた。
その矮小な欲望のために、これまでも何人もの部下が、市民が死んでいった。
誰もがハルゲントを恨んでいる。形振りを捨てた犠牲の上に積み上げてきた、分不相応な地位。
「……うん。だから、おれはハルゲントを尊敬してるんだよ……」
アルスは、地面に荷袋を置いた。
いくつかの武器がその内から覗いている。
「自慢することにしてるんだ……もしも、これから殺すやつでも……」
世界を巡って奪い、集めた武器。彼はもはや
「……中央山脈の棘沼の盾とか……カイディヘイで拾った鞭とか……弾だって、たくさんあるから……」
その伝説のいくつかを、ハルゲントは聞いていた。
権力闘争に醜く足掻き、何もかも思うとおりにならず、無様に権力にしがみついている間――
星馳せの
「……」
「……でも、ハルゲントには見せられないよ……」
越えられぬ壁の向こうにいる者は、ハルゲントが欲するものの全てを、当然のように得続けていた。
より多い財、より高い名声、より安定した生。
ハルゲントが欲したものは、それではない。彼はただ。
「だって、ハルゲントは凄いやつだ……。手の内をバラしちゃ、ハルゲントには先を越されちゃうからさ……」
ハルゲントの醜い欲望を肯定してくれる、ただ一人の、種族すら違う古き友。
何もかもが自分と違う、彼に勝ちたかった。
彼の前に立った時に惨めではない、自分自身に誇れるものが欲しかっただけだ。
「アルス、そうだ……私は、何も掴めていないんだ。この何十年、ずっと……無為に……」
「風の噂で聞いたよ、ハルゲント……。
三王国が併合し、議会制による新たな政治体制が始まろうとしている。
民を統制するための偶像は、もはや王だけでは足りない。
“真の魔王”を倒して、どこかにいる勇者が――本物の英雄が、望まれている。
今は、多くの将がそのために動いている。勇者を担ぎ出した者は、新たに生まれる偶像の、巨大な後ろ盾を得ることを意味する。
たとえそれが、出自の怪しい勇者らしき者であっても。
「おれが出たっていい」
……ああ、まさしく彼ならば、その栄光を当然のように簒奪するだろう。
この
難攻不落の迷宮をどれだけ制覇したのかを知っている。
不可思議にして希少な財宝の尽くを得たことを知っている。
誰も勝ち得ない敵であるほど、彼が打ち倒してきたことを知っている。
部下の大半を失い、屈辱に落ちたハルゲントであっても。その王城試合で、必ずや勝つであろう星馳せアルスを擁立できるのであれば。
「……あっ」
アルスの平静な呟きで、ハルゲントは気付く。
しかし既に遅すぎた。
とうに死に体と思われた
――だが
「まいったな……自慢しないって、言ったばかりなのに……」
円形の首飾りのような、ごく小さな装飾物である。
アルスの腕の一本が握るそれが、何もかもを殺滅する
「……死者の巨盾」
「オッ、オオオ……ッ! “星馳せ”ェェ……!」
「……で、これが……」
フ、とアルスの姿が消えた。それが羽音すら立たぬ超高速の飛翔であると、この場に立つ者達は知っている。
影すら残さぬその突進に、眩い光がきらめいた。
ヂィアッ――と。何かが焼ける、恐ろしい音までもが続いた。
それは剣であっただろうか。
人ならぬ
「――ヒレンジンゲンの光の魔剣」
伝説の竜はもはや正中線から二つに別れて、峡谷の底に転がっていた。
凄いやつだ、とハルゲントは言いたかった。
かつて、海の見える町で出会ったときの彼は、三本目の腕を動かすことすらできていなかった。
その驚くべき研鑽と、それを為し得た意志の力を認めたかった。
けれど、それだけはできない。
この歳月を重ねて、誰もがハルゲントの悪名を囁いている今でも……
アルスの前で敗北を認めることだけは、したくなかった。
「……アルス」
「…………」
「お前も、知っての通りだ。私たちは……私だけではない、二十九人いる
そこに続く言葉を、友はもう分かっているようであった。
「だが、私はお前を選ばない。他の何者かに選ばれるがいい。私は……決してお前の力で、栄光を掴むことはしない」
「……そっか」
短いが、どこか誇らしげな声色であった。
「……その欲望が、おれには本当に眩しい……尊敬できるところなんだ……。ハルゲントは……いつか、おれよりずっと凄いやつになれるよ……」
本当に、そうだろうか。
この世の全てを制覇した
全てを失ったとしても、まだ間に合うだろうか。
「……アルス!」
夕陽に向かって、その影は飛んだ。
次の何かを掴みに行くのであろう。新たる天地へと飛び立っていくのであろう。
――そしていつか勝利して、勇者となるのだろう。
「……」
ティリート峡の陽が沈んでいく。失われた全てのものを、闇の中へと隠していく。
アルスが別れの言葉を告げなかった意味を、ハルゲントは思った。
後悔はしていない。少なくとも、ここで彼を見送ったことを後悔することはないと確信できた。
……何故なら彼は、その悪の定義を信じている。
(それは自分を裏切ることだ)
それは異常の適性で以て、地上全種の武器を取り扱うことができる。
それはこの地平の全てよりかき集めた、無数の魔具を所有している。
それは既に、広い世界の遍く敵と戦いを知り尽くしている。
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