Chapter 1「(Thus) This could be my origin」

It was a magic

 記憶喪失、という四文字を見て、記憶を持っていたころの自分は一体何を想像しただろうか。

 それは一般人にとっては全く縁のない言葉であり、想像などしようにもできなかったと思う。しかし、僕が今遭遇している状況は、その四文字まさにそのものであった。

 何かを思い出そうにも、そこでストップがかけられている状態。自分の脳内にその情報がまだ存在するのか、それとも完全に消滅しているのかすら分からない。だが、それ以外は普通と変わりない。一般的な常識も、彼女と会話をした限りではどうやら問題ないようだ。


 そしてそれが、僕の今の状態をさらに不可思議にしていた。


「コレ」


 そう言って、彼女は僕に何かを手渡す。


「これって・・・」

「アンタの所持品」

 それは一枚の紙。水にでも浸かったのか、ボロボロになっていた。


「他には何かないのか?身分証明書的な・・・」

生憎あいにく、その紙一枚よ。ったく、身分証明書くらい常に携帯しときなさいよ、このバカバカ」

 全くその通りだ。今度は失くさないようにしなければ。名札を忘れた小学生のように、首からでも吊り下げておこうか。だがバカバカはやめてほしい。


 とりあえず、そのぼろきれを解読することにした。辛うじて紙の上部に残っている文字を読み上げる。


「ソ・・・ラ・・」


「そう、ソラ。それ、名前じゃない?」

 確かに、いかにも名前欄に見える場所に位置するその言葉は、ソラと読めた。


「これでようやくアタシの質問に一つだけ答えられたわね」

 そう言って彼女は僕を睨む。僕はどういった理由で睨みつけられているのだろう。僕は無実だというのに。

 しかし残念ながら、今の僕にそんなことを言う資格などない、ということだけは明らかだった。


「じゃあ・・・僕はソラだ」

 ソラ。別に悪い響きではないと思った。僕が名乗るのにふさわしいかどうかは分からないが。


「で、君の名前は?」

 そういえば聞いていなかったなと思い、名乗ったついでに質問してみる。


 彼女は僕よりも一回りも二回りも小さく、背丈は小学生くらいだった。しなやかな青紫がかったロングヘアーが、どこか不思議で独特な雰囲気を醸し出す。

 鋭い眉と目つきは、まるで何かを威嚇しているようだ。それが生まれつきなのか、この状況がそうさせているのかは分からなかったが、とりあえずその対象が自分でないことを祈りながら、彼女の返答を待つ。


「レノ」


 短い答えが返ってきた。


 レノ。この体の割には、何とも大人っぽいオーラの漂う名前だった。

「レノ、か・・・」

 もう一度彼女を見る。やはり名前と釣りあっていないような・・・


「ねぇ、アンタ、アタシのこと小さい、とか思ってるんじゃないでしょうね?」


 図星だ。ギクリとする。きっと彼女は、そのテの視線には別段敏感なのだろう。まぁ、この体なら無理もないが。


「ほら、また失礼なこと考えてるわね・・・ったく、誰がアンタを拾ったと思ってんのよ・・・これだから男は・・・」


 彼女がそう言いかけた時、突然、ガチャ、という効果音とともに部屋の扉が開いた。


「呼んだか?」


 男の声だった。


「あら、遅かったわね・・・買い出し程度、ちゃっちゃと済ませなさいよ・・・こっちはいろいろ大変だったんだから」

 彼女は「大変」という言葉に強勢を置いて発音する。


 僕は、大変で悪かったな、というメッセージを込めた視線を彼女へぶつけてみるが、本人は全く気付いていないようだ。


「ったく、誰のせいで俺が買い物に・・・って・・・お、やっと起きたみたいだな」

 彼は僕のほうを向き、ニヤッとする。


「え、あ、あぁ・・・」


 扉を開けたところには、一人の男が大量のレジ袋を手に立っていた。背の低い彼女とは違い、背の高い男。いや、彼女が小さい分、少し大きく見えてしまうのかもしれない。年はおおよそ、僕と同じくらいのようだ。


「ったく、最初にお前を見たときはビックリしたぜ・・・あんなに感動的な出会いは二度とないだろうな」


 どうやら僕は彼と、何か感動的な出会いを果たしたらしい。当然、僕が知っているはずもないのだが。


「そう・・・だったのか?」

「あれ、レノ、話してないのか?」

「え、えぇ・・・今さっき起きたばっかりだったから・・・っていうか、感動的って何よ・・・」

「じゃ、俺が適当に説明しよう。いいか?」

 彼女の言葉を無視して、彼は僕に尋ねる。コイツのほうが紳士的なのは目に見えて明らかだった。僕は頷く。


「つっても、短い話だ。昨日の夕方、ここの宿に入ってから、コイツに買い出しを任せたんだ。そしたら・・・・・・」

「・・・アンタが落ちてたのよ・・・だから・・・・・・拾ってやったの・・・」

 レノは赤面、というより朱面しながら、彼の言葉の後を継いだ。他人にストレートにこの事実を説明されるのがよほど嫌だったのだろう。


「まぁ、そういうことだ」


 ようやく成り行きが分かった。つまり、僕は言葉の通り、拾われたようだ。捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのことだろう。僕が誰に捨てられたのかは知らないが、拾う神には巡り遭えたわけだ。

 しかし、それがこのレノだったとは・・・意外な事実を知り、僕は彼女に視線を移す。案の定、彼女は僕から顔を逸らした。


 それにしても、落ちていた、という表現はいかがなものなのだろうか。その表現のせいで、本来の感動が水の泡になっている気がする。

 それとも、本当に「落ちていた」のだろうか。まぁ、拾ってもらえた、という事実だけで今は満足しているのだが。


「んで、お前はどういうわけで倒れてたんだ?」


 彼はその場の雰囲気を察し、質問を続けた。

 やはり僕は落ちていたのではなく、倒れていたようだ。


「えっと、それは・・・その・・・覚えて、ないっていうか・・・」

 彼の表情が少し固くなる。無理もない。


「記憶喪失、ってヤツらしいわ」


 彼女は彼に、先の会話の中で自分が得た唯一の知識を伝えた。

「なるほど、なぁ・・・」

 彼は混乱する様子もなく、頭をフル稼働させ、何とか状況を理解しかけているようだった。

 彼は大量のレジ袋を床に下ろし、僕に向かって言った。


「とりあえず、ジュースでも飲むか?」



 ジュース、と言われて出てきたのは、パック入りジュースだった。そしてそのパックにはでかでかと、「甘みに焦がれるバナナジュース」と書いてある。


 第一意味が不明だし、なぜバナナジュースなのだろう。床に置かれたレジ袋を見ても、ジュースはまだまだ大量に残っているようだった。それも、全てバナナジュース。僕はとりあえずその一本をいただいた。

 一滴口に含むと、自分は今までとても喉が渇いていた、という事実に気付かされた。喉を癒せるだけの量を飲むと、ジュースのパックは空になってしまった。



「記憶喪失、なんてのはフィクションでならいくらでも読んだことがあるんだが、現物を見たのは初めてだぜ・・・これはまた、珍しい出来事に出会ったもんだな」

 そう言いながら、彼は新しいバナナジュースのパックをくれた。


 「大変」を「珍しい」と置き換えてくれたことにささやかな感謝の意を抱きながら、僕は彼との話を続ける。


「僕も何が何だか・・・それで、ここはその、どこかの宿・・・ってこと・・・?」

「そうよ」

 レノが答える。初めの質問でそう答えてくれれば良かったのに。何なのだろう。僕は口から出かかったその不満を、喉元で撥ね返す。


「だが、俺たちはこう見えて多忙の身でな。すぐに出発しなきゃならないんだ」

「まぁ、別に今さらここで一泊延長したところで何も変わんないんだけど。でも、早めに行かないといけないのは確かだし、ね」


「そんなに急ぎの用事なのか?」

 僕は尋ねた。


「あぁ・・・センジ、だからな」

 センジ、煎じ、千字・・・僕の脳内で変換が行われる。そして、一つの候補に辿り着いた。


「戦時・・・」


「そうだ。記憶喪失って、やっぱりそういうことも忘れちまうのか?」

 僕は頷いた。どうやらそのようだ。



 戦争・・・?いくら思い出そうと頭を働かせても、それは空しく空回りするだけだった。


「だったら、常識的なもんも全部忘れちまったのか?」

「それは・・・分からない」

 自分が何を知っているのか、どこまで知っているのかすら分からない人間がそこにいた。「僕」とは何か。今の僕は本当に僕なのだろうか。僕は存在しているのだろうか。ふと、そんな妙な考えに駆られた。



「アメリカの初代大統領は誰だ?」

 不意に質問をされる。アメリカの最初の大統領。アメリカ、という国には何故か聞き覚えはあったし、その質問の答えが出るのにもそんなに時間はかからなかった。

「ジョージ・ワシントン」

 その人物の名前が自然に口をついた。どうやら、これくらいの知識はあるらしい。


「正解だ。これくらいは分かるみたいだな」

「そうみたいだ・・・」

 ふと、安堵を覚えた。



「・・・ねぇ、今のって一般常識なの?」

 隣を見ると、レノが不満顔でこっちを凝視している。今の問題が分からなかったのか。僕は彼女に思いっきりニヤッとしてやった。レノは記憶喪失の少年に記憶力で負けたという矛盾がよほど悔しいのだろうか、頬をさらに膨らませてこちらを睨みつけてきた。


「バカバカソラのくせに・・・」

 どっちがバカだ。


「まぁ、常識と言えば常識だな。この機会に覚えておけよ」

 レノは素直に頷いた。どうやら、彼はレノの扱いにはだいぶ長けているようだ。ありがたい。


「なら、ソビエト連邦の初代主導者は?」

「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」

 不思議なほどにスラスラと即答できる。なぜこんなことを知っているのだろう。僕はもしや、どこぞの名門学校の学生だったのだろうか。


「フルネームか。なかなかやるじゃないか」

 さっきまで僕の隣にいたレノは、今や、そこに異次元との壁でもあるかのように遠くに見えた。

 彼女をそっと横目で見てから、それなら、と間を置き、彼は僕に最後の質問をした。


「今から十数年前・・・地球に、歴史上最大とも言われる大事件が起きた。何だか分かるか?・・・」


「こ、これ・・・アタシ、分かる!・・・フガァッ」

「レノ、お願いだからここはちょっと我慢してくれ」

 突然次元の狭間から帰還したレノの口を押さえながら、彼は真剣な目で僕の回答を待つ。


 十数年前。一体何が起こったのだろうか。戦争だろうか?だが、歴史上最大と断言できるような戦争などあっただろうか。少なくとも分かっているのは、レノが答えられる程の常識だ、ということだけだった。


「分からないのか?普通の人間なら一発で分かることだと思うが」


 どうやら、僕は普通ではなかったらしい。むしろ、記憶喪失者としてはこちらのほうが自然なのだろうか。さっきまでスラスラと答えていた口は、嘘のように固く閉じられていた。


「じゃ、レノ、答えてくれ」

 彼はレノの口から手を離す。


「しょーがないわね・・・ったく、バカバカなんだから・・・」

 さっきの仕返しと言わんばかりにもったいぶるレノ。別に僕は勝負する気などないのだが。しかし、全く悔しくない、と言えば嘘になるだろう。


 彼女は勝ち誇ったような顔で続ける。

「・・・こんなの簡単よ。魔法の出現、ね」


「・・・・・・」


 僕は耳を疑った。彼女は今確かに、「マホウ」と言った。それは、僕の持つ常識を遥かに超える答えだった。僕は思わず聞き返す。


「何だって・・・?」


「だから、魔法、よ」


 彼女の勝ち誇った顔は、いつの間にか驚きの顔になっていた。流石に彼女も本当に知らないとは思っていなかったらしい。


「アンタ、本気なの?」


「当ったり前だろ・・・」

 驚いた、というより、信じ難かった。いきなり魔法と言われても、そんなものが信じられるはずがないではないか。


 百聞は一見に如かず。もしそんなものが存在するなら、あるいは・・・


「じゃあ、もしかして、本当に使えるのか?・・・その・・・魔法を、さ」

「あぁ・・・まぁな」

「当たり前よ」

 二人とも、当然のように言い切った。


「だったら・・・見せてくれないか?」

 半信半疑だった。この二人はどこかの凄腕マジシャンで、僕に新手の詐欺でも仕掛けようとしているのだろうか、とさえ思った。


「いいぜ」


 彼はそういうと、片手を暖炉へ向けた。


「マース・フレア」


 その一言とともに、暗かった暖炉の中に、小さな光が生まれる。その光を、僕はしばらく見つめていた。

 それは徐々に大きくなり、やがてくべられた薪を巻き込んで大きな炎を生んだ。暖かい。その炎は、本物だった。



 僕が目にしたものは、恐らく誰が見ようとも、魔法以外の何でもなかった。

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