iii キャラクター

 

 1

 

「ゲームを作るのに必要なものは何だと思いますか?」

 ひかりは僕にそう問いかけた。僕はふむん、と考え込んだ。

 ゲームの制作に必要なものはいろいろある。プログラマー、シナリオライター、グラフィッカー、フリーのBGMを使わないならコンポーザーや必要だし、音声を入れるならボイスアクターや音響監督も必要だ。そして人員の間の調整やスケジューリングを行う制作も大事な役割である。

 でもこれはプロが作る場合の話である。僕らはどうせアマチュアで、開発チームと言ったって僕たち二人しかいない。だったら、できることはそれを自分たちで分担するだけだ。となると僕らにとって大事なものは限られてくる。

「情熱、かな」

 ひかりは養豚場の餌箱でも眺めるような目で僕を見た。

「……冗談だよ」

「それじゃあなんですか?」ひかりが質問を繰り返す。

 これで間違えたら今度はどんな目で見られるかわかったもんじゃない。僕は慎重に言葉を選んでゆっくりと答えた。

「材料、かな」

「材料?」ひかりが先を促した。

 僕たちは脳のニューロンの発火パターンを読み取ることからVRを作ってゲームを作ろうとしている。となるとまず必要なのは、たくさんのニューロンの発火パターンだ。それがすべての材料になるのだから、それがなければ始まらない。

 僕が答えるとひかりは「半分正解です」と、出来の悪い生徒にしぶしぶ合格点を与える教師の目で僕を見た。「半分外れなので、お茶を汲んできてください」

 そう言ってひかりはサイドテーブルのポッドに目をやった。ふたを開けると水が切れていた。僕は教えられた給湯室に水をもらいに行った。

 なんで僕はこんなに下手に出てるんだろう……

 僕が入れたお茶をずびずびと飲みながら、ひかりは宣言した。

「水城さんには、キャラクターを集めてきてもらいます」

 

 2

 

「キャラクターはゲームにとって非常に重要な要素です。キャラクターはプレイヤーに最も直接触れる要素であり、シナリオや、場合によってはシステムそのものにも大きくかかわってきます」

 ひかりはごく普通に、当たり前のことを口にする。

「水城さんには、そのキャラクターの材料を取ってきてもらいます」

 キャラクターの材料を取る、つまり、キャラクターの元となる人物に取材しろと言うことだろう。

「誰から取ってくるのですか? というか、どんなキャラクターが必要なのですか? それによって取材する相手は変わりますよね」

 僕の質問に、ひかりはサイドボードから一本のゲームソフトを取り出しながら答えた。

「ヒロインと親友、それにラスボスです」

 ゲームソフトは、『ときめきメモリアル』(PS版)だった。

 ……そのゲームだとヒロインとラスボスは同一人物になってしまうがいいのだろうか。

「ていうか、ギャルゲー好きなんですか?」

「割と」ひかりが答える。

「……そういえば、君いくつ?」

「いくつというのは、年齢のことですか」

「一応聞いておきたくて」

 僕の問いに、ひかりは少し悩むようなそぶりを見せたが結局、今度の8月には12歳になります、と答えてくれた。

 ときメモが好きな小学生かあ。僕は先ほど小学生の命令で汲みに行かされたお茶をすすりながら、この国の将来を憂いた。僕の憂慮なんて毛ほども気にせずひかりは続けた。

「親友ですが、あの水城さんとよく一緒にいらっしゃる背の高い方にやってもらいたいと思います」

「背の高い……山田のこと?」

「そうそれ」ひかりはぞんざいに指摘した。

 確かに山田は親友役として適任かもしれない。丸坊主でモテなさそうだしギャルゲーの親友っぽい。

「それでヒロイン役なのですが、水城さんは仲の良い女性というのはいないのですか?」

「それは言外に彼女がいないかって聞いているのか」

「別に言外のつもりはありません。送信されてきたデータにあまり女性の姿が映らなかったものですから、そうかと思っただけです」

 ひかりはバッサリと切り捨てた。ここで素直に認めたら負けな気がした。とはいえ、いないものは今すぐいるようにはできない。僕は話をすり替えることにした。

「そういえばヒロインとヘロインは綴りが似てますよね?」

「はい。それで彼女の件なのですが」

「ハロウィンも音が似てます」

「かの――」

「なんですか彼女彼女って、そんなに彼女が好きなら彼女と結婚したらいいじゃないですか!」

 僕は椅子を蹴って立ち上がった。

「私には彼女はいません」

「僕だっていませんよ」

「そうですか」

 僕は蹴り飛ばした椅子を取りに行き、椅子に座りなおした。安っぽいパイプ椅子は、蹴った拍子に足が曲がってしまったのかうまく立たなくなっていた。怒りからは何も生まれない。

「で、彼女がいたら何かいいことがあるんですか?」

 僕はグラグラする椅子に無理やり座ってから話を戻した。

「別にいなくても構いません」

 構わないのか。それなら聞かないで欲しかった。

「ただヒロインは必要です」ひかりは突然話を変えた。「ところで水城さんは私がどういう意味でキャラクターを取ってきてと言ったかを理解していますが?」

「理解しているつもりですけど」

 答えながら、僕はもう一度その意味を考える。僕たちが作ろうとしているゲームは、言ってしまえば実際に製作者が体験したことを編集して作るゲームだ。だから、例えばあるキャラクターをゲームに登場させたかったなら、そのキャラクターを製作者が体験しなければならない。キャラクターを取ってくるということは、その人を体験するという意味に他ならない。病院から抜け出せないひかりと僕だったら、僕のほうが体験できる出来事の幅は広い。僕が素材を集めるのはごく自然な流れだろう。

「つまり僕がその人と見たり話したり、すればいいのでしょう?」

 僕の答えにひかりはため息をついた。

「それだけじゃありません。私たちの方法でVRを作るためには、その人をあらゆる意味で体験しなければなりません。体の隅々まで眺めて、あらゆることについて話して、匂いを嗅いで、体温を感じなくてはなりません。そういうことをできる異性は、普通限られるのではないですか?」

 それこそ恋人とか奥さんとか、とひかりは続けた。

 僕の背中に冷や汗が流れる。そんなことできる相手、僕にはもちろんいない。僕は紳士で有名なのである。

「ところで水城さん、水城さんのクラスにとても美人な女性がいますね」

 突然話題を変えられて、僕は戸惑う。

「ほら、あのスレンダーな、明るい方です」

「もしかして西條さんのことですか?」僕は高校で一番美人なクラスメイトのことを思い浮かべながら聞いた。確かに彼女はスレンダーで、明るい美人である。僕が彼女について説明すると、ひかりは、たぶんその人であっていますと頷いて、言った。

「私、あの方をヒロインにしたいのですが」

 ひかりの言葉を3秒ほどかけて咀嚼する。

「え、でもそんなの無理ですよ? だって全然話したりしたことない相手だし」

「でも水城さん、あの方のこと好きでしょう?」

 ひかりがさらりと言う、僕は思わずせき込んだ。

「大丈夫ですか?」全然心配してなさそうな声が僕に聞く。

「大丈夫だけど、なんだって?」

「好きなんでしょう? その西條さんのことが?」

「好きじゃない!」

「じゃあ嫌いなんですか」

「そんなことはないですけど」

「じゃあ好きなんですね?」

「嫌いじゃなかったら好きってなんだその小学生みたいな論法!」

「小学生ですが」

 そういえばそうだった。

「無理をなさらないでください。水城さんは西條桜のことが好き。私にはわかります」

 女子小学生に優しく諭された。

 僕は情けなくなった。

 ていうか、僕は西條さんのことが好きなのだろうか。確かに美人だと思うし、悪しからず思っているのは事実だ。むしろ告白されたら二秒でオーケーする自信がある。けど、今好きかって言われると、なんか困る。好きってこう、違うじゃん?

 というか自分自身にも誰を好きとかよくわからないのに、なんでひかりがそこまで断言できるのか、とそこまで考えて僕はハッとして自分の頭につけたヘアバンドを触った。この端末は僕の脳内の情報を常に記録している……

 ひかりは僕の心を見透かしたように言った。

「ニューロンの発火パターンを解析して水城さんの感情を読み取ったんじゃないかと疑念を抱いていますね? 安心してください。それくらい見てればなんとなくわかりますよ」

 あんまり安心できない言葉だった。

「ていうか僕ってそんなにわかりやすいですか?」

「そうですね……推理小説で犯人を当てるよりかはわかりやすいです」

 そうか、僕は紙に書かれた物語よりもわかりやすいのか……

「作者を当てるのよりも簡単です」

「表紙見たらわかるよね!?」

「しかし、いろいろな情報が私に送信されているのは事実です」僕の渾身の突っ込みを無視してひかりは続けた。「その中には一般に他人に見せるべきでないとされるものが含まれます」

 彼女は何が言いたいのだろう。僕が見返すと、ひかりは僕に訊ねた。

「嫌じゃないんですか?」

 それはもちろん嫌だった。

 自分の生活を誰かにずっと盗み見されているようなものだ。いやそれよりなおひどい。盗み見んだけなら取られるのは視覚情報だけだが、このヘアバンドはそれ以上のものを取っていくのだから。

「でも、そんなこと気にしていたら、その世界で一番のゲームは作れないんですよね?」

 僕が確認すると、ひかりは「はい」と頷いた。

「それなら気にしません」

「水城さんは、変わっていますね」ひかりが言う。

「そうですかね?」

 そうかもしれないと僕は思った。なぜだか自分でもわからないが、僕にはそのことがとても簡単に割り切れてしまった。たぶん僕は世界で一番のゲームという言葉に夢中になっていたのだ。僕が何も言わないでいると、ひかりはしみじみとつぶやいた。

「水城さんは、変態ですね」

「それは違う」

「そうでしょうか」

 ひかりは可愛らしく小首をかしげた。

「でも、だからこそ私は水城さんを選んだのかもしれません」

「それだとまるで君が、僕を変態仲間として選んだ変態みたいに聞こえるけど、それでいいのか!?」

「構いません。覚悟はできています」

 何の覚悟だ。僕には理解できなかった。

「……それで、何の話でしたっけ?」話を戻す。

「告白しないのですか?」ひかりが問う。

「いや、今のところ予定はないかな……ほかに案はないんですか?」

 僕が聞くと、ひかりは「もう一つ、案があるにはあるのですが……」と、言い淀んだ。あれだけ人の心をズバズバと断定するひかりが何をためらうのか。よほど難しい話なのだろうか。でも西條さんに告白するよりかはきっと簡単だろう。

「そっちならヒロインは誰になるんですか?」僕は恐る恐る訊ねた。

「そちらならばヒロイン自体必要ありません」

「なんだ、そんな素晴らしい案があるならそっちで行きましょう」

「代わりに、山田さんをヒロインにするという――」

「ぜひ、新しい人間関係に挑戦させてください」

 僕は小学生に頭を下げていた。難しいというよりひどい話だった。ていうか何なのだろう。最初に見せたVRと言い、実はBLが好きなのか。

 小学生で腐ってるって……僕はこの国未来に深い懸念を抱くのだった。

 

 とは言ったものの、僕には西條さんと仲良くなる方法なんてちっとも思いつかなかった。

「告るしかありませんね」とひかりは言ったがそれは却下した。理由はゲーム制作のために告白するなんて不純だと思うからである。決して僕がチキンだからではない。

「水城さんはなにか面白い勘違いしているようですね」ひかりは告げた。「告るというのは告白するという意味です」

「それくらい知ってますけど」僕が口答えすると、ひかりは諭すように言った。

「告白とは、事実を告げるという意味です」

 僕は目が点になった。

「ですから、水城さんも事実を告げればいいのです」

「といいますと……?」

「ゲームを作るのに協力してほしい、と告げればいいのです」

 とひかりは至極真面目に言うのだった。

 僕は、そんなことをいきなり言ってくる相手に協力してくれる相手は、よほど天使のようなお方くらいだろうと思う。いくら西條さんが天使と言ってもそこまでの天使ではないだろう。そして西條さんに変な奴だと思われたら僕の高校生活は絶望に染まる。そんな案は絶対に受け入れられなかった・

「なら代案はあるのですか?」

 ひかりが問う。むむむ、と僕は唸り声をあげた。

 代案なんて、ない。

 僕は話をそらした。

「……そういえばまだ聞いていませんでした」

「何をです?」

「ラスボスは誰になるんですか?」

 ひかりはキョトンとした顔で僕を見た

「ほら、ラスボスの素材も取って来いって言ってましたよね? 親友は山田、ヒロインは西條さんなりほかの人なりでいいとして、残りの一人、ラスボスは誰がやるんですか?」

 僕が訊くと、ひかりは、ああ、と頷いた。

「そんなの決まってるじゃないですか」

 ひかりは小悪魔チックな笑みを浮かべ宣言した。

「私がラスボスです」

 ひかりは美少女だが、小さくて体も細い小学生である。ラスボスって感じではない。

「それで水城さん」

「はい」

「代案」

 僕は彼女ならきっと素晴らしいラスボスになるだろうとやけくそ気味に思ったのだった。

 

 3

 

 僕からゲーム制作を手伝ってほしいと聞いた西條さんは、

「ゲーム制作?」

 と僕の言葉を繰り返し、キョトンとした表情で僕を見た。

「ゲーム作るの? 水城君が?」

「ええ、まあ」語尾を濁す。

 僕は早くも後悔し始めていた。

 

 西條さんは天使のような方だった。

 ろくに話もしない僕がいきなり、ちょっと話したいことがあるんだけど、と声をかけても笑顔で応対してくれて、少しここじゃ話しにくいからと、教室を連れ出すと、はやし立てる周りを軽く流して、素直についてきてくれた。ちょっと天使過ぎて心配になるほどである。悪い奴に騙されたりしないだろうか。そんな僕の心配をよそに、すたすたと先頭を歩いて人気のない中庭まで僕を案内した西條さんは、「それで、話ってなんですか?」とそう切り出した。僕はストレートに、「ゲームの制作を手伝ってほしい」と言うと、彼女はキョトンとした顔をして僕を見た。

 どうやら思ったことと違ってびっくりしているらしい。

「ゲームってあれだよね? 人と人がある一定のルールの下で競い合う遊びのこと?」

「うん、まああってる」別にそういうのばっかりじゃないけどね。

「ルールっていうのはフランスとドイツの国境の工業地帯であってる?」

「うん、それは完全に間違ってる」

 どうしてそんな、第一次大戦の賠償問題の発端みたいな場所で競い合わなくてはいけないんだ。思わず突っ込むと、西條さんは目をぱちくりとして僕を見た。

「水城君って意外と、その元気がいいんだね。ちょっとびっくり」

 元気という言葉でごまかしていたけれど、彼女は今、絶対違うことを言おうとしていた。僕はなんだかいたたまれない気持ちになってきた。僕の頭にちらりと視線を送って言う。

「端末もかわいいし、意外とお茶目?」

「勘違いしないでください。これは僕の趣味じゃないですから」

 僕は思わず赤い大きなヘアバンドを隠しながら否定した。西條さんは、じゃあなんでつけてるのと聞きたそうだったので、僕は慌てて口を開いた。

「それで、どうでしょう?」

 西條さんはうーん、と可愛らしく唸り声をあげ、僕を見た。

「ゲーム制作ってどういうゲーム作ってるの?」

 来たか、と思った。いや本当はここまで聞かれるとは思っていなかった。ゲーム制作? ふーん、大変だね。頑張って。って感じで受け流されれば御の字、最悪、キモイくらいは言われるかもしれないと思って、その時の対処法までイメージトレーニングを積んでから挑んだのである。

 いやさすがに西條さんにキモイと言われたら立ち直れないかもしれないが……

 とにかく、イメトレは完全なのだ。ゲームの内容について聞かれたときに答えることくらいは考えていたのである。

「とてもかっこいい女性が、バシバシと悪人をしばき倒していくゲーム」

「つまり、アクションゲーム?」

 僕はうなずいた。

 ここで言っているゲームはひかりと作っているゲームではない。あの話は突拍子もなさ過ぎて、引かれてしまうと思ったのだ。それにひかりが作ろうとしているゲームについては、まだ詳しいことは教えてもらえてないから、僕もよくわからない。だから、今西條さんに話しているのは、ひかりに会う前から一人で構想を進めていたゲームのことだ。

「アクションゲームに主人公の声がないと締まらないと思うんです。それでその声を西條さんにやって欲しくて」

 僕はそう説明した。

 ひかりのゲームのことを話せないとなると、西條さんにゲームにかかわってもらう方法は限られてくる。僕は声優くらいしか思いつかなかった。

 僕の説明をふんふんと鼻を鳴らして聞いていた西條さんは大雑把な話を聞き終わると、一番大事なところを聞いてきた。

「そのゲーム面白いの?」

「どうですかね……全然つまらないものにするつもりはないけど、めちゃくちゃ受けるかっていうと」

 難しいだろうと僕は思う。少なくとも僕のゲームは世界で一番のゲームにはならない。素直に言うと、西條さんは頷いた。

「うん、わかった」

 何がわかったのだろう。僕にはわからなかった。

「今まで作ったゲームとかあったりしないの?」

「あるけど、それがどうかしたのですか?」

「それやらしてよ」西條さんは面白そうなものを見つけた、という目で僕を見ながら話をまとめた。

「それがおもしろかったら考えてあげる」

「考えるって、声優やってくれるってことですか?」僕は驚き訊ねた。

「うん」

 西條さんはあっさりとうなずき、にっこりと笑って僕を見た。

「楽しみにしてるからね?」

 僕は、やっぱり西條さんは天使のような人だと僕は思った。

 

 その日の放課後、僕は『ブレイン』内のロビーで西條さんを待ち合わせた。ゲームは『ブレイン』内で渡すということにしたのだ。西條さんが『ブレイン』をやっているのも意外だったし、西條さんは学校にはVRマシンを持ってきていないというのも意外だった。理由はVRを使う時と使わないときのメリハリをつけていたいから、らしい。僕はてっきり彼女のバレッタはVR端末なんだろうと思っていたからなおのこと意外だった。

 西條さんの『ブレイン』内のアバターは、赤いマントで体のほとんどを覆い隠した女性の姿をしていた。僕から受け取ったゲームは家に帰ってからプレイすると言っていた。それだけじゃつまらないからと、そのあと少しの間二人で遊んだ。西條さんは僕が今まで一緒にプレイしたプレイヤーの中で一番『ブレイン』が上手かった。僕が「西條さんもゲーム好きなんでしょう?」と聞くと、西條さんは神妙な顔をして「普通だよ」と答えた。

 

 翌日、僕が西條さんに話しかけようかどうか迷っていると、彼女のほうから近づいてきてくれた。

「水城君」

「なんですか」僕が聞き返す。

「やったよ」

 早いと思った。渡して一日でやってくれるなんて、少しくらい面白いと思ってくれたのだろうか。

「感想言っていい?」西條さんが問う。僕はできるだけ平静を装って、「はい」と答えた。

 心臓の鼓動がうるさい。やっぱり面と向かって人に感想を言われるというのは何度やっても慣れない。僕は黙って西條さんの言葉を待つ。西條さんは言った。

「短すぎ」

 バッサリだった。僕はがっくりと肩を落とした。

「でも」と西條さんはつづけた。

「悪くもなかったよ」

 僕は顔を上げた。

「協力してくれるんですか?」

 西條さんはうなずいた。

 やっぱり西條さんは神様のような人だと思った。

 

 4

 

 僕は西條さんと少しだけ話すようになった。話すのは天気の話とか、勉強の話とか、それから何よりゲームの話だった。

 その日は、帰りの路面電車を待つホームの上で西條さんと出会った。

「水城君も『モンクエ』やってたんだ。私もやってたよ。どうしてもソロでギガントドラゴン倒したくてやりこんだなあ」

「いや、あれは一人じゃ無理ですよ。僕はクラスの友達と20人がかりで倒しました」

「最終形態までは行けたんだけど、それから先がつらくて」

「それは、相当すごいですね……」

 僕は5年前のゲームのラスボスの耐久を思い出しながら答えた。20人で削りきるのに1時間以上かかったのに。どうやって一人でそこまで行けたのか……。

「西條さんって、やっぱりゲーム上手いですよね?」

「そんなことないって、それくらい普通だよ」

 西條さんは顔の前でぶんぶんと手を振りながら謙遜した。

 ちょっと犬っぽいっと思った。自然と表情筋が緩むのを感じた。

 6月の土砂降りの中、プラットホームに路面電車が近づいてくる。その行先を確認して僕は西條さんに別れを告げた。

「それじゃあ、これから行くところがあるので」

「そうなの? また明日ね」

 西條さんの満面の笑みに見送られて電車に乗り込む。また明日、か。その言葉だけで、僕は心の底があったかくなるのを感じた。

 電車で揺られること30分ほど、僕は慈恵総合病院のロビーに立っていた。

 

「今日はまた、間の抜けた顔をしてますね」

 読んでいた本から顔を上げ、僕を見るや否や、ひかりはいきなり言い放った。

「大方、たまたまホームであった西條さんと話ができてうれしいとか、そんなところなんでしょうけど、もう少しシャキッとした顔をしたほうがいいですよ」

 ひかりは容赦なくえぐってくる。というか西條さんと仲良くなるように言ったのはひかりの方なのに、ひどい話である。

 一週間ぶりに会うひかりは、一週間前と同じように見えた。黒い髪に簡素な入院着、強いて言うなら前回より少し血色がよさそうである。

「それで水城さん、何があったんですか?」

 そのまま答えるのもしゃくだった。というか、そんなの聞かなくても、僕のデータは常にひかりのところに送られているのではなかったのか。僕が訊くと、ひかりは「常に水城さんから送られてくるデータを見るほど私は暇じゃありません」と答えた。この間は暇だと言っていたくせに。

「なんですか?」ひかりが問う。

「いえ」僕は言葉を濁した。

 ひかりに強く出られないのは何故だろう。

 僕は話を変えることにした。

「そういえばひかりは何を読んでいたのですか?」

 ひかりは黙って持っていた大判本の表紙を見せてくれた。表紙には『現代の量子力学』と書いてある。

 最近の小学生が進んでいるというのは本当らしい。

「ところで水城さん」

「なんですか?」

「ゲームに関するクイズを一つ出してもよろしいですか?」

「ゲームに関するクイズ?」僕は質問を繰り返す。

「より正確には、世界で一番のゲームに関するクイズ、と言えばいいでしょうか」

 そんなことを言われて逃げるなんて選択肢はありえなかった。

「受けて立ちましょう」

 僕は襟を正し、真正面からひかりを見る。ひかりの榛色の瞳が意地悪そうに光った。

「全く同じ深さの井戸が二つ並んでいます。どちらの井戸の底にあるボールが一番安定な状態かわかりますか?」

「え、なにそれ、それってゲームにかかわるクイズ?」僕は面食らう。

「はい」

 全く意図がつかめなかった……というか安定って、どういう意味だ? 

「安定と言うのは、その場でボールが動かない、くらいの意味合いでとらえてください。あるいはエネルギーが低い、と言ってもいいです」

 ひかりが補足する。僕は考えながら答えた。

「井戸の底に落ちたボールなんて、よぽどのことがなければ地上に上がってきません。そういう意味ならどちらも安定です。その上、井戸は二つとも同じ深さなら、どちらの井戸に落ちたボールも、同じくらい安定なんじゃないのですか」

「本当にそれでいいですか?」ひかりが念を押す。

 怪しい。何か落とし穴がある気がする。

「もう少し考えます」

 僕はそれから5分ほど考えてから白旗を上げた。

「わかりません。正解は何ですか?」

 ひかりは得意そうに答えた。

「正解は、両方ともの底にある状態のボール、でした」

「……それはとんちとかそういうのではなく?」

「純粋に物理的な答えです――水城さんはトンネル効果という言葉はご存知ではないですか?」

「名前くらいなら……」

 僕は言いながら検索ウィンドウを開き、ネットと切断されていたことを思い出した。ネットとつながっていないと本当に不便だ。今度来る時までに、オフラインで使える辞書をインストールしておこう。

 検索するのをあきらめて、僕はひかりに尋ねた。

「それで、トンネル効果って何なんですか?」

「簡単に言うと、トンネル効果というのは高さか幅が有限の壁ならば、どんな壁でも物体はある一定の確率で、向こう側にすり抜けることもあるという話です」

「それは壁を壊したとかそういうわけじゃないんですよね?」

「はい。そうじゃなくて本当に壁に何の変化も与えずにすり抜けるということです」

「僕の経験ではそういうことは全然ないですね」

「普段の私たちの生活で感じることはまずどありません。けれどミクロの世界――量子力学の世界では支配的な効果となることもあります」

 僕はひかりが読んでいた本を思い出す。

「それで、それと井戸の底が何の関係があるのですか?」僕が問う。

「例えば井戸の底にあるボールについてトンネル効果を考えてみてください。トンネル効果を考えるなら、一方の井戸から別の井戸へ移ってしまうこともあるということです。ですから、どちらか一方の井戸だけに偏って存在する状態は安定ではありません。一番安定なのは両方共の井戸の底に同時に存在している状態となります」

「でも両方ともの井戸の底にどうやっているんですか?」

「それが量子力学の面白いところです。波動関数の重ね合わせということでそれを実現します」

「重ね合わせ?」

「ざっくりいえば、それぞれの井戸の底にある状態を足して2で割った感じですかね」

 僕は2つの井戸の底にあるそれぞれのボールを足して二で割ろうとした。頭の中でボールは真っ二つに割れてしまったが、たぶんこういうことではないだろう。

「ていうかひかり」

「はい」

「暇なんですか?」

「正直かなり」

 ひかりは暇だと勉強を始める。どうでもいい知識が一つ増えた。

「どこかの誰かが、なかなかヒロインのデータを取ってきてくれないですからね」

 ひかりはすねたように唇を尖らせた。

 結局話は西條さんのことに戻ってくるらしい。

 僕は言い訳できずに視線を反らした。それを言われると僕には何も言えない。

 僕は西條さんと仲良くなった。

 少なくとも、顔を合わせたら挨拶したり、暇だったら話をするくらいには仲良くなった。西條さんがかなりのゲーマーだともわかったし、好きなゲームもわかってきた。彼女は基本的に最近のVRゲームばかりしているらしい。山田とは大違いである。あいつはVRゲームを昔のゲーム機の仮想マシン置き場くらいにしか考えていない。

 もっとも、彼女はゲーム好きを隠しているつもりらしくて、ゲームの話題を振ってもまずは興味のないふりをする。その時の西條さんは大変可愛らしい生き物なので、僕としてはその保護のために全力を尽くしたい所存である。

「水城さん」

 僕が熱弁しているのを、ひかりの冷たい声が割り込んだ。

「私たちの目的は覚えていますか?」

「はい」

「それくらいの情報じゃ、全然足りません」

「……すみません」

 僕は素直に謝罪した。

「いいですか? 私たちのゲームには基本的に水城さんと、それから一応私の体験したことも反映できますが、それしか反映されません。こんな調子だと、ヒロインがしゃべることと言ったらゲームと天気の話題ばかりの、謎のゲームになってしまいます」

 僕は反論できなかった。

「もっとおしゃれな会話してください」

「おしゃれ?」

「こう、恋人らしい話をして欲しいのです」

「恋人らしい話って例えば?」僕が訊く。ひかりは少し考えて答えた。

「例えば……今日の夕飯の話とかですかね?」

「夕食?」

「ねえ今日の夕食はホッケとシマアジどっちがいい、みたいな」

「えらい所帯じみてるな……」

 恋人というより夫婦の会話である。

「じゃあ水城さんには何かいい案がありますか?」

 ひかりが問う。もちろん僕にはそんなものない。生まれて16年、恋人がいた時間なんて一秒もないのだ。

 僕たちは二人で考えこんでしまった。

「とにかく、そういうのを調べるのも水城さんの仕事ですから」

 ひかりが断定するように言う。無茶ぶりだと僕は抗議した。

 ひかりはわざとらしくため息をついて、布団にもぐりこんだ。

「調子悪いんですか?」気になって尋ねる。

「別に良くも悪くもありません。強いて言うならいつだってこんな感じです」

 ひかりはだるそうに答えた。思い返すと、いつもより顔が赤い気がする。実は熱っぽいのかもしれない。

 そういえば、ひかりはなぜ入院しているのだろうか。僕はそんなことすら知らない自分に気が付いた。

「なんですか?」

 僕の視線に気が付いたのか、ひかりは視線で僕に続きを促す。僕にできることは何だろう。

「ひかり、何かしてほしいことありませんか?」

「早く西條桜と付き合ってほしい」

 僕は答えられなかった。

「というのはヘタレの水城さんには無理だってわかっています。その代り、今週末に行って欲しいところがあります」

「どこですか」僕はできるだけひかりの望みをかなえようと思った。

「ここです」

 そう言ってひかりは一枚の地図を取り出した。随分と年季の入った地図である。使い込まれた折れ線はすでに山折縦折の区別を失っており、四隅は擦り切れて丸くなっている。ひかりはその地図の上の一点を指さした。

 そこは、駅の近くのショッピングモールだった。家からも電車一本で行ける場所だ。

「いいですけど、なんでですか」僕が聞くと、ひかりは「理由は二つあって、一つはゲームの舞台にしたいんです」と答えた。

 僕はなるほど、と思った。ゾンビといいスーパーヒーローといい、ゲームはショッピングモールが好きである。

「それからもう一つの理由は、体験してきてもらいたいものがあるのです」

「体験してもらいたいもの?」

「下着」

「下着、ですか?」予想外の言葉に戸惑う。ただ、なんとなしいやな予感はあった。僕の戸惑いを無視して、ひかりは告げた。

「そこで女性用の下着を体験してきてもらいたいのです」

 

 5

 

 VRが普及しだしたころ、ショッピングモールなどの実際の物質を売るショップは衰退するんじゃないかという予想があった。

 けれどそれはあまりに浅はかな考えだった。

 もちろん現在のVRが完全にあらゆる体験を完全に再現できるわけではない、という事実も影響しているのだろう。けれど、それ以上に、多少VRが発達したくらいでは現実の物質が持つ魅力というのは失われるものではなかった。

 それどころか、全く新しい別の価値を持つようになった。

 VRによって体験が容易に複製されることになった現代社会において、複製することが困難な物質はそれだけで価値を持つようになったのだ。

「それで、どこに行くんですか?」

 僕が隣に声をかける。

「そうですね、まずは、服でも見ましょうか」

 宙に浮かぶ黒猫のぬいぐるみが答えた。黒猫はまぶしそうに眼を細め、

「楽しみですね」

 と口を動かさずに答えた。頭につけた端末がかすかに熱を持つのを感じる。なんでこんなことをしているのかと思わないでもない。

「さあ、早くいきますよ」

 黒猫は楽しそうに尻尾を振りながら僕を促す。誘われるように僕は一歩を踏み出した。

 広島駅から1駅ほどの場所にあるそのショッピングモールは、今日も物質を求める人でいっぱいである。

 

「水城さんは、ゲームの中で可愛らしい女性キャラクターが現れたとき、プレイヤーがまずどんな行動をとるかわかりますか?」

 ベッドに座ったひかりが問いかける。

「え、さあ、とりあえず話しかける?」僕が答える。

「ぶぶー」ひかりは両腕を胸の前でクロスさせ僕を見た。別に僕にクロスチョップをしたいわけではないだろう。

「正解は、パンツを見る、です」

 ……いや、あるいはしたいのかもしれない。

「別に冗談を言っているわけではありません。すべてのプレイヤーが、というわけではないですが、そういうプレイヤーがいるのは事実です。例えば、水城さんとか」

「ひどい誤解だ」

 確かにスカートの中が見えるなら、まあ見ることもやぶさかではないけど、いきなりスカートの中に頭突っ込むみたいな安易なキャラ付けはごめんである。

「ですが水城さんは、それで下着が作りこまれてなかったらクソゲー認定して、開発元に苦情のメールを書いたりするのでしょう?」

「しないよ!?」

 そんなことをするのはよほど暇な奴かただの変態だし、僕はそのどちらでもないからそんなことしない。僕の抗議を無視してひかりは続けた。

「とにかく、下着というのはゲームにとって重要な要素です。世界で一番のゲームのキャラのスカートの中が謎の黒い空間なんてことがありうるでしょうか?」

 僕は少し考えた。世界で一番のゲームについてはまだよくわからないが、もしもそれが本当に世界で一番なら、確かにそれくらい作りこまれていてしかるべきかもしれない。でも、これを認めてしまうと――

「だから、水城さんも女性用の下着を体験しないといけません」

 こうなるんだよなあ。

 あまりに予想通りの展開に僕はため息をついた。

「でも、僕一人で下着を調べるのは難しいでしょう?」

「なぜ?」

 ひかりは不思議そうに僕を見た。僕にはなぜ、なぜと聞けるのかが不思議である。

「なぜって、僕は男で、男が女性用の下着を物色していたらおかしいからです」

「そうなのですか? 男性は女性の下着が好きだと本で読みました」

「そんな本すぐに燃やしてしまえ! じゃなくて、そんな人ふつういませんよ。男性が一人で女性用の下着を買いに来ることなんて、まずないです」

「つまり、水城さん一人だから難しいと?」

「まあ、そうですね」僕は頷いた。

「それじゃあ山田祐樹に一緒に行ってもらったらどうですか」

 僕は180センチの大男と一緒に下着を物色している僕の姿を想像した。ひとつもマシになっていない。むしろ絵面は悪化している。

 絶望的な顔になる僕に向かって、ひかりは飛び切りチャーミングにウィンクをした。

「冗談です」

「なぜ冗談を……」

「水城さんが面白いから……」

 僕は絶望的な気持ちで膝をついた。僕は一体何なのだろう。

 ふと別の考えを思いつく。

「……というか女性の下着なら、ひかりのを見ればいいのでは」

 言ってから、しまったと思った。恐る恐る視線を上げると、ひかりは性犯罪者を見る目で僕を見て、無言でナースコールを押した。数分後、そこには小学生女子に必死に謝り倒す高校生男子の姿があった。

 僕はひかりに謝り倒し、飛んで来たなんとか看護師をごまかしてもらった。

 

「水城さんがわたしの下着を見たいのはわかりました。でも、西條さんの下着にコラージュするなら私の下着は子供っぽ過ぎるのでダメでしょう」

 看護師がナースステーションに戻ってから、ひかりは話を再開した。

「わかりました。ショッピングモールでもなんでも行きますから勘弁してください」

「一人が難しいなら、私が一緒に行きましょう」ひかりが言う。

「いや君が一緒でもあんまり変わら……え、ていうか君、外出できるの?」

 僕は驚く。なんとなく、ひかりは外出一切禁止の重病患者だと思っていたのだ。僕の質問にひかりは頷いた。

「別にその認識で間違っていません。私は外出できませんが、今はどこでも高速通信が可能ですからね」

 と言って、ひかりは僕のヘアバンドを見た。

 

 6

 

 つまりひかりは僕の端末を通じてARとして一緒に来てくれるということらしい。

 黒猫のアバターがふわふわと僕を先導する。 僕の両手にはすでに5個以上の買い物袋が握られており、正直これ以上増えるのは勘弁してほしい。ちなみに買い物袋の中身は主に子供用の服で、もちろん僕のものではない。

「次はどこに行くんですか?」僕が訊くと、ひかりは「そうですね……そろそろいい時間ですし、ご飯にしましょう」と答えた。僕は胸をなでおろした。

「私、一度行ってみたいお店があるのでそこにしましょう」

 黒猫はそう宣言してさっさと進みだす。僕はそのあとを追いかけた。

 当たり前だが、このショッピングモールはVR空間中の店ではない。なので、ひかりは病院から直接ショッピングモールにアクセスすることはできない。そこで登場するのが僕の持っている端末である。ひかりは病院から僕の端末にアクセスすることはできる。僕の端末がネットにつながっているからである。僕の持っているヘアバンド型の端末にはカメラとマイクが付いているから、そこからひかりは周りの状況を知ることができる。さらに、そこから僕の視界に僕自身のVR端末を通じて僕にアバターを見せることができる。今やっているのはそういうことである。

 最も、それだけだと、ひかりのアバターは僕にしか見えないし、僕は公衆の面前で一人でプライベートなVR空間に浸っている痛い奴になってしまうのだが、幸いなことにIEEE標準規格のVR端末にはアバターのグローバル表示設定というものがある。これは一言でいえば、ある人が見ているVRを近くのVR端末使用者にも人にも見せるという設定である。この機能は、なんらかの障害があり実際に外出するのが困難な人間や、あるいは年齢や持病により動けない人間が、他人と一緒に旅行やショッピングをするために最初期のVR端末から実装されている機能である。

 ひかりはこの機能を使ってくれた。おかげで周りのVR端末使用者からは、僕は黒猫のアバターに罵倒にされながら買い物をする客に見えるというわけである。悲しい。

 とにかく、おかげで僕が一人で入ったら間違いなく場違いと思われるような、子供服の店でも特に奇異な目で見られることなく買い物できた。黒猫のアバターはきっと、体が不自由でショッピングに来られない子供のアバターと思われたことだろう。実際ひかりはその通りなのだし、当然と言えた。

 僕はなんだと思われたのだろうか。兄とかその辺だろうか。

「たぶん、下僕とかその辺じゃないですかね」

 僕が話を振ると、黒猫は気持ち悪そうに僕を見て、まるで吐き捨てるようにそんな言葉を言った。なかなか人間味のある黒猫である。

「そういえば、あの病院ネットつながっていたんですね」

「当たり前です。今時ネットにつながってない病院なんてありません」

「でも僕は外部との通信を遮断されましたよ?」

「電波通信を禁止しているだけです。有線でつなげるのには何の問題もありません。だいたい、どうやって私が水城さんのマシンから送られてくるデータを受け取っていたと思っているのですか?」

 言われてみれば、それもそうである。

「なんなら今度病院のネットワークにつないでみますか? たくさんファイアウォールがあって楽しいですよ?」

 僕はファイアウォールだらけのネット空間を楽しいと思う感性はないので、丁重に断った。

 ひかりは現在僕のVR端末にアクセスし、僕の視界上に彼女のアバターを表示させている。

 それだけではなく、例のヘアバンド型端末についたカメラとマイクの画像を取り込んで、周りの状況を楽しんでいる。

 ふと疑問を抱いた。

 なんでわざわざそんなことをするんだろう。

 ひかりはヘアバンド型端末を通じて、僕のニューロンの発火情報を直接取り込んでいる。だったらわざわざカメラとマイクの情報なんか使わなくても、直接僕のニューロンの情報をひかりの脳に移せば、僕の体験をひかりが体験できるんじゃないのだろうか。

 僕がそのことを訊くと、ひかりはなかなか鋭いですね、と言ってから続けた。

「でも私に送られるのは水城さんの脳で、どのニューロンが発火したのか、という情報だけです。私の脳と水城さんの脳は、基本的には同じような構造をしています―――例えば私の脳でも視覚野は後頭部に、角回は頭頂部にあります。でも細部は違います。脳という器官は成長とともに変化していくのです。水城さんのニューロンの発火パターンをそのまま私の脳にコピーしても、私にとっては意味が分からないでしょう」

 まわりくどいが、つまり僕とひかりは別の人間であると、そういうことである。だから僕の脳の情報はそのままひかりには使えない。当たり前の話だ。

「でも、それじゃあどうやってゲームを作るんですか?」

「どうやってとは?」

「だって僕のニューロンの発火パターンは僕にしか意味が分からないのでしょう? それじゃあどうやってそれからみんなが遊べるゲームを作るのですか?」

「それには水城さんのVR端末を使います」ひかりはあっさりと答えた。

「僕のマシン?」

「脳が個人個人で異なるように、VR端末も人によって違います。水城さんのVR端末は常に学習を行い、水城さんの脳でより良いVRが再現できるように進化し続けています。言ってしまえば脳とVR端末は一つのニューラルネットワークと言ってもいい。逆に言えば、VR端末は水城さんの脳の構造の情報を持っているということです。それを使って、水城さんのニューロンの発火情報からVRイメージファイルに逆コンパイルします」

 僕はひかりの話を理解しようとした。僕たちが普段体験しているVRはVRイメージファイルというファイルをVR端末で読み込んで、読み込んだVR端末が使用者のニューロンに刺激を与えて作っている。つまり端末はVRイメージに対して脳のどの部分を刺激すれば良いかを知っているということである。だから逆に、脳の状態を読み取ればどのようなイメージファイルを作ればいいのかを原理的には計算できる。ふと違和感を覚える。

「あれ、じゃああの時見せてくれたVRは何だったんですか?」

「あの時?」

 黒猫が首をかしげた。

 あの時とは、ひかりに初めてVRイメージを見せてもらった時のこと、紙屋町のVRイメージを見せてもらった時のことだ。僕はまだ自分のマシンをひかりに渡していない。それなのになぜ作れたのだろう。僕が聞くと、ひかりはばつの悪そうに僕を見た。いや、黒猫の外見からはわからないが、そんな風に感じたのだ。

「あれは実は生のデータを、つまり水城さんのニューロンの発火データをそのまま使っています。だからあれは、水城さんの脳にしか受理されない仮想現実です」

 なぜそんなことを、と聞こうとして僕は思いとどまった。

 だって答えはわかっていた。つまり彼女は、できるだけ早く僕をその気にさせたかったのだ。だから一番驚きそうなものを用意した。

 僕の口元にかすかに緩む。

「なぜ黙りこむのですか」黒猫が不審そうに僕を見た。

「いえ、なんでもないです……ここがひかりが言っていたごはん屋さんじゃないですか?」僕は一軒のおしゃれな洋食屋の前で止まった。「でもなんでここに来てみたかったのですか?」

「雑誌で見ました」ひかりが答えた。

 ひかりってそういうのも見るんだ、と少し意外に思う。それに、これを言うのは酷かもしれないが、味覚についてはVRが対応している店はほとんどない。なので、ひかりが来る意味は薄い気がする。

 僕がそのことを指摘するとひかりは「それでも来てみたかったのです」と答えた。

 それなら僕は何も言うことはなかった。僕は黒猫のアバターを連れて可愛らしいお店に入っていった。

 

 僕たちはショッピングを続けた。

 歩いていて見つけたベンチを僕に振り回せようとするひかりをなだめすかしていると、ひかりは不機嫌そうに黙り込んだ。

「ベンチを振り回すのは無理ですよ。だいたいなんで、ベンチを振り回さないといけないんですか?」

「水城さんはゾンビが現れたときにベンチがつかめなかったらどうやって生き延びるつもりですか?」

「いや普通逃げる……ていうかひかりのゲームにはゾンビが出るのですか?」

「出ませんが」

 出ないのか……出ないならベンチは動かせなくていいのではないだろうか。少なくとも再考の余地はあると僕は思う。

「わかりました。そんなにベンチを振り回したくないなら、早く例の場所に行きましょう」

「例の場所?」

「約束の地、Tutuannaです」

 なにと約束したのだろうか。

「ていうか、本当に行くの?」

「あたり前田のクラッカーです」

 調べると、1960年代の流行語らしい。古い。なんでこんな古い言葉知ってるんだ。本当に小学生か。

「あれ、水城君?」

 突然後ろから声をかけられて、僕はびっくりして飛び上がった。

「水城君は買い物?」

 後ろにいたのは天使っぽい人、西條さんだった。休日の西條さんは白いシャツにデニムのミニという動きやすそうないで立ちで僕を見ていた。

「西條さんはどうしてここに?」どぎまぎする心臓を抑えながら訊ねる。

「私は気分転換に歩いてたんだ。家近いんだよね」

「へえ、そうなんだ」

 僕の頭に西條さんの情報が書き込まれる。西條さんの家は横川近く。学校も近いし、なかなかいい場所である。

「水城君は何買ったの?」

「いや別に特に何も買ってないけど」

「たくさん袋持ってるけど?」

 僕は自分の両手を見た。そこにはひかりに言われて買った子供服がたくさん入っていた。

「しかもそれ、女の子用の子供服だよね……?」

 それを見て、西條さんはなぜかおびえたように後ずさった。

 ……なにか愉快な勘違いをしていらっしゃるようだ。僕はあたりを見回した。さっきまでその辺を浮かんでいた黒猫の姿が見当たらない。どうやら逃げたらしい。大事な時に使えない黒猫だ。

「い、妹の」僕は言葉を振り絞った。

「妹さん?」西條さんとの距離が心なしか詰まる。

「うん、妹の誕生日が近いんだ」

 僕には妹が一人いる。事実である。僕の妹は無駄に元気のありあまった小学生女子である。彼女の誕生日は七月の頭、そろそろ誕生日が近いと言えないこともない。

「誕生日プレゼントってこと?」

「そうです」

 西條さんは目に見えて安どした。なんとかごまかせたらしい。

「なんだ、私はてっきり水城君が小さい女の子が好きな人なのかと思ったよ」

「そんなわけないじゃないですか。ええ、僕が服を買う女性は妹だけですよ」

 勢いに乗って言い切る。西條さんは僕が両手に抱えた紙袋をじっと見て言った。

「……妹さん好きなんだね?」

 別の誤解が発生した気がしないでもない。僕は慌てて言いつくろう。

「別に好きってわけじゃないですけど、プレゼント買わないと怒るので」

「ふーん」

「でもちょっと今年は買いすぎたかもしれないですね。何買えばいいのかよくわからなくなって、ショップの人の言うこと聞いていたら」

「あはは、わかるわかる。店員さんって買わせるのうまいよね」

 僕はほっと胸をなでおろした。どうやらごまかせたようだった。

「妹さん、何歳なの?」

「小三だから今度9歳です」

「9歳かあ、それならもうちょっとかわいい感じの服でもいいんじゃない?」

「そうですかね」

 言いながら、僕はひかりに買わされた服を見て、妹を思い浮かべた。もちろんこの服を妹が着ることはないが、仮に着たりしたら一週間で破きそうな服ばかりだ。思案顔の僕を見て何を思ったか、西條さんはいきなり僕の手を引っ張った。僕の心臓が跳ね上がる。

「なんですか?」無理やり胸のどぎまぎを抑えながら聞く。

「暇だしさ、プレゼント、一緒に選んであげるよ」

 何度も言うけど、西條さんはマジで天使だった。

 

 ショッピングモールの最上階、一階から続く大階段の終わりにテラスがある。そこのベンチに座って僕と西條さんはお茶を飲んでいた。そろそろ6時、6月の太陽も次第に高度を下げ始め、東の空から紺色に染まってくる時間だ。

「本当にありがとうございました」

 僕は心から頭を下げた

「頭なんて下げなくていいって」

 西條さんは朗らかに笑った。

「けど――」

「それにここのケーキ、おごってもらったし、それでチャラってことで」

 それくらいは当たり前だと思った。

「もお、これ以上頭下げたら怒るよ?」

 怒られるのは嫌だったので頭を上げた。西條さんは満面の笑みで僕を見ていた。

「でも、意外。水城君って妹思いなんだね」

「そんなつもりはないんですけど」

「プレゼント、選ぶ目が真剣だったよ。そういうのって案外隠せないものだと思うよ?」

 それはたぶん、できるだけ安い奴で済ませようという守銭奴の目だったと思うのだが、僕はあえて訂正はしなかった。

「私にもいるんだ」西條さんが言う。

「西條さんにも妹が?」

「正確には妹ってわけじゃないんだけど、ずっと昔から知り合いの女の子で、もう妹みたいな子……ちょうどあれくらいの年頃だよ」

 僕は西條さんの視線を追う。階段のそばで小学校高学年くらいの女の子が遊んでいる。近くに大人の姿はない。ここの階段は1階から最上階まで続いている。足を踏み外したら、どこまで落ちるかわからない。僕は本能的に危ないなと思った。それは西條さんも同じだったようだ。西條さんが腰を浮かすのが見えた。

 その時、女の子が階段を踏み外しバランスを崩した。

 声を上げる暇もなかった。

 僕にできたのは、西條さんの姿を目で追うことだけだった。

 女の子が足を踏み外した瞬間、西條さんは階段前まで全力で走り込み、そのまま宙に飛んだ。そして落ちている子供を空中でキャッチし、そのまま空中で一回転してから踊り場に降り立った。

 僕は慌てて、西條さんを追いかけた。

「大丈夫ですか!」

「だいじょうぶー」

 踊り場にへたり込んだ西條さんが、気の抜けた声を上げた。西條さんの胸の中に抱え込まれた女の子は、状況がわかっていないのか、目を白黒させ僕が見ていた。二人とも無事なようだ。僕は安どのため息をついた。

「無茶しないでください」

「心配してくれるの?」

「そりゃしますよ」

「でもあれくらいの段差なら飛べるって思ったから」

「運動神経いいんですね」

 僕は自分が下りてきた階段を複雑な気持ちで見上げた。自分なら骨の一本くらい粉砕しそうである。

「すみません、うちの子が!」

 階段の上から女性が一人降りてくる。

「大丈夫ですよ、何もないです」

 言いながら西條さんはそれまでかかえていた女の子の腕を離した。駆け寄ってきた女性が女の子を抱きしめる。僕は素直によかったと思った。

「ありがとうございます。本当に、ちょっと目を離したすきに……ほら、祥子もありがとうって言いなさい」

「お姉ちゃん、ありがとう」

「どういたしまして。今度から気を付けるんだよ?」

 女の子がうなずく。二人のほほえましいやり取りを見ながら、僕はあることに気が付いた。

「それで、あのね、お姉ちゃん」女の子が無邪気な目で西條さんを見る。

「なあに?」西條さんは聖母のような目で問いかけた。

「パンツ見えてるよ」

 西條さんは視線を自分の体に向けた。それから僕に目をやった。僕はいたたまれなくなって目を反らした。

 さっき走って飛び跳ねたときに、西條さんデニムのミニが思いっきりめくれていたことは、もちろん僕は知っていた。けど言い出すタイミングがなかったのだ。けっして、できるだけ長く、そのピンク色の布が目に焼き付けるために黙っていたわけではない。

 西條さんは立ち上がり、無言でスカートを直した。

「見た?」西條さんが僕に聞く。

「……わりと」僕は正直に答えた。

「あはははは」とごまかすように笑いながら、西條さんは僕の背中をバシバシと叩いた。痛かった。

 気の毒そうに僕を見て、親子は去っていった。

「水城君」去っていく親子に笑顔で手を振りながら西條さんが口を開く。

「……誰にも言わないでね?」

 正直言う相手もいないのだけど、僕は西條さんを安心させようと、はっきり「はい」と答えた。

 

 家に帰ってぼんやりしてると、ひかりからメッセージが届いていた。

『すみません。検査の時間だったので』

『嘘だ』と返すとすかさず新しいメッセージが届く。

『ところで水城さん、盗撮犯は『スカートの中を撮っていた』から捕まりますけど、これってスカートを履いてなかったり、めくれていたりしたら下着は撮影しても許されるってことなんでしょうかね?』

 僕は、『しるか』と返信してチャットアプリからログアウトした。

 

 7

 

 次の月曜日、ひかりは僕に向かって、下着はもう大丈夫です、と言った。

「もう充分データは取れました」

 ひかりが言う言葉の意味を、僕は考えないことに決めた。

 

 8

 

 ショッピングモールで西條さんと語らう。

 主な話はゲームの話やショッピングの話、それから僕の妹の話だ。ちょっと用があるからと言って西條さんが立ち上がる。西條さんはなかなか戻ってこない。僕は心配になって西條さんを探しに行く。最上階のテラスで、西條さんは誰かに羽交い絞めにされている。180センチを超える大男、山田だ。

 なんで山田がここに、混乱する僕に向かって山田は、彼女は貰った、といってテラスから飛び降りる。

 水城君、というか細い悲鳴を残して二人は消える。僕は釣りに駆け寄って下をのぞき込むが、下には何の変哲もないアスファルトで覆われた駐車場が広がっていた。僕はくそ、と叫び階段を駆け下りた。どこに行ったんだ、あのバカ野郎。僕は手近なドアに突っ込んで――

「あ、その先は行っていませんよ」

 思いっきりはじき返された

 視界が真っ黒に染まり、その真ん中に白抜きで「YOU DIED」と表示される。そしてそのままスタッフロールが流れるのを、僕は怒りをこらえて見つめていた。このスタッフロールの中の KIYOHARU MIZUKI はよほど無能か、完全な馬鹿に違いない。

 僕はむなしい気持ちになった。

 視界が晴れる。そこは、いつもの病室で、いつものようにひかりがベッドの中に座っている。いつもと少し違うのが、何かを期待するようにそわそわと僕を見つめていることくらいか。

「橘さん」僕はひかりの期待に応える。

「はい」

「主人公、死にやすすぎでは……?」

「でも水城さんは鎧着ていませんし」

「僕は『魔界村』のアーサーじゃないし、アーサーだって壁にぶつかっただけでは死なない!」

 僕は頭を抱えた。

 今日は作っているゲームの第一次中間発表会だった。会と言って二人しかいないので、とりあえず二人で現状どんなものかを見てみるという感じだ。僕は今まで素材集めに終始して全く触っていなかったゲームなので、期待を込めてプレイした。その最初のプレイの結果があれである。

「それでどうでしたか?」

 頭を上げる。期待を込めた目でひかりが僕を見ていた。

「……正直すごいです。驚きました」

 僕は素直に感心を表した。

 実際すごいと思った。

 ひかりの作ったVRはちゃんとしたVRになっていた。西條さんと山田には確かな存在感で僕の前に現れた。最後にいきなり殺されたのはあれだけど、要するに僕が行ったことのない場所にはゲームの特性上行くことができず、そういう場所に立ち入りそうになったらすぐに死ぬように設定されていたのだろう。

 なんでそんな設定にしたんだ。

「でもこういう仕様ってよくありませんか? ほらノベルゲームとかでも分岐の多くはすぐ死ぬ分岐ですよね?」

「まあ『ダブルキャスト』とか『Fate』とか、割とデッドエンドでエンド数稼いでる感はありますね」

 ああいうデッドエンド集めも楽しいのである。

「つまりこれは、パロディです」

「いやでもあれはノベルゲームだから許されるのだと思うのですが」

 ひかりは不服そうに僕を見る。

「それにあれは、死んだ後にタイガー道場とか剛田が出てくるからデッドエンド集めをするのが楽しいわけで、やっぱりこれはダメでしょう」

 僕がダメだしする。ひかりは少し考えて、「わかりました」と言った。

 何がわかったのだろう。

「つまり水城さんはこう言いたいのですね? ブルマを履け、と」

「拡大解釈も甚だしいな!」

 何もわかっていなかった。

「でも、そういうことでしょう?」

「違いますよ……大体想像してみてください、ブルマを履いたひかりの横に僕がいたら頭おかしいでしょう……?」

 言いながら、僕はブルマを履いたひかりの解説の後で、「うむ、その通り」と頷く自分を想像した。ちょっとした世紀末である。

「ならいっそ、私じゃなくて水城さんが履けばいいのでは」

 僕はブルマを履いた自分が、ひかりと小話を繰り広げる情景を存在した。世も末って感じだった。

「……やめておきましょう」

「……そうですね」

「でも本当に感心したんです。とても個人で作れるVRを超えていたと思います」

 僕は話を戻した。

「それ以外はどうですか?」ひかりが感想をせがむ。

「それ以外、というと」

「西條桜のパンツとか」

「見てねえよ!」僕は思わず突っ込んだ。

「なぜ?」ひかりは不思議そうに僕を見た。「あんなに何度も脳内で反復してたじゃないですか」

「そんなはずはない!」

 僕はいきり立った。僕の脳はそんな単純ではないはずだ。仮にあのピンクの布の細部まで僕が思い出せるとしても、それは西條さんがあまりに素晴らしい跳躍があまりに印象的だったから、ついつい後で思い出していたから脳に残ってしまっただけで、けっして下着が見たかったわけではない。

 僕が抗議するのを、ひかりは生暖かい目で見ていた。

「せっかくあんなに作りこんだのだから、ちゃんと見ていいのですよ」

「作りこむならもうちょっと違うところを作りこみましょうよ!」

 例えば扉の先のデータがないなら、どこか別の場所につなげとくとか。

「ああ」ひかりは手を打った。「思いつきませんでした」

「絶対嘘だ!」

 僕は肩で息をした。ていうか、なんでこんな突っ込まなくてはならないんだ。

「で、水城さん」

 僕は今度こそ突っ込むまいと心に決めてひかりを見た。

「それ以外はどうでしょう」

「それ以外、というと」

「つまりゲームとしてはどうでしょう?」ひかりの真剣なまなざしが突き刺さる。

 僕は考えた。

「ひかり」

「はい」

「もう一回やっていいですか?」

 僕が聞くまでもなく、ひかりは、「はい」と頷いた。

 

 その僕は何十回とひかりのゲームをプレイした。何度かプレイするうちに要領がつかめてきて、即死することはほぼなくなった。

 山田が西條さんを連れて行ったトリックを見破り、山田を狂わせた細菌兵器の情報を手に入れ、西條さんとともに細菌兵器の源、岩国の海兵隊基地近くに潜伏したテロ組織のアジトまで向かった。岩国の情景はなかったから、広島の情景をコラージュして何とかそれっぽく作っていた。たまに入るシュールな西條さんのギャグには心の底から笑った。戦闘に入った時のBGMは素直に素晴らしいと思える出来だった。ひかりはコンポーザーとしても非凡な才能を持つらしい。

 僕は『体験版はここまでです』という看板の前に立って考えた。

「どうでしたか?」

 黒猫のアバターが僕に向かって近づいてくる。僕は黙ったまま、そばに立っている木の枝を握った。それは見た目通り、ごつごつした木の棒のように感じられた。

 一度手を放し、それから今度は目をつぶってもう一度同じものを握る。

 今度はそれほどごつごつ感じられず、ただの滑らかな棒のように思えた。

「疑似触覚を使ってますね」

「はい」黒猫は素直にうなずいた。「本当はごつごつした棒の触覚が欲しいのですけど、なかったので物干しの感覚で代用しています」

 疑似触覚とは人間の錯覚の一つである。人間の感覚の多くは視覚に依存している。そのため、例えば本当は四角いものを触っていても、画像として丸いものを見せてやると、丸いものを触っていると錯覚してしまうのである。これを利用し、触覚は適当に作っておいて、視覚でそれを補うという手法はVRの黎明期から使われてきた技術だった。

 でもきっと、ひかりは本当はこれを使いたくはないはずだ。

 だって彼女が作っているのは世界で一番すごいゲームなんだから。

「まだ、必要なデータはありそうですね」

「はい」と、黒猫はうなずいた。そして黒猫は自分に言い聞かせるように言った。「しかし、確実に進んでいます」

 僕はそれを見て、彼女はいいゲーム制作者になるだろうな、と思った。

「あの、水城さん」

「なんですか?」

「まだ手伝ってくれますか?」黒猫は心なしか不安そうに見えた。

 僕はその黒猫の頭を軽く触れる。

「そんなの、当たり前ですよ」

 黒猫はまるでシルクのような滑らかな感触でとてもリッチな感覚だった。

 

「そういえばひかり、このゲームの名前はもう付けているのですか?」

 帰り支度を整えながら、僕はひかりに聞いてみた。

「名前ですか?」

「ないなら決めるといいと思いますよ。やっぱり名前を付けると愛着がわくものです」

「そういうものでしょうか?」

 ひかりには納得できないようだった。

「そういうものです」僕は言いきった。

 ひかりはそれから少し考えて、それなら、と口を開いた。

「それなら、このゲームの名前は、『ライフ』ということにします」

 彼女は、自分の作るゲームのことを、人生と呼んだ。

 

 9

 

 帰りの電車の中で今日プレイしたゲーム――『ライフ』について考える。

 ひかりのゲームはすごかった。続きをプレイしたいと思えた。まだまだ足りないが、きっとあれは面白いゲームになるだろう。

 でも、と同時に思う。

 『ライフ』は人生のようなゲームにはならない。

 『ライフ』は世界そのもののようなゲームにはならない。

 『ライフ』は、世界で一番のゲームにはならない。

 それはもしかしたら、フリーゲームのレビューサイトで1位をとることはできるかもしれないし、シェアウェアとして大稼ぎできるかもしれない。あるいはファミ通クロスレビューで40点満点をとれるかもしれない。

 でもそれが世界で一番のゲームというわけではないと思う。

 世界で一番のゲームは、もっと違うゲームだと僕は思う。

 だってそれはこの世界に存在するあらゆるゲームより上なのだから。まだこの世に存在しないあらゆるゲームをも超越して、問答無用に一番なのだから。

 それこそ世界そのもののように。人生のように、最高なのだから。

 ひかりは『ライフ』を完成させるだろう。

 それはとても面白いゲームになるだろう。世界で一番ではないけど、面白いゲーム。

 世界で一番のゲームとはどんなゲームなのだろう。

 勾配に乏しい広島の街が窓の外を流れていく。視界の隅で公共出力されたARが、明日は梅雨の谷間の貴重な洗濯日和だと告げていた。空は青く、不自然なほど澄み切っていて、まるで高価なVRみたいに僕には思えた。

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