ii チュートリアル

 

 1

 

 放課後のマックで山田と待ち合わせる。

 その無意味さと無情について思いをはせる間もなく、開口一番山田は告げた。

「お前、端末変えたの?」

 ふん、と僕は鼻を鳴らした。

「いろいろあってな」

 VR機能を持つウェアラブル端末は基本的に脳に近い位置に装着することになる。脳内のニューロンの膜電位を読み取り、作用しなくてはいけないのだから当然といえば当然である。一番普及しているアメリカのIT企業の製品だと、頭の6か所にボタン電池ほどの端末を留めることになる。僕も今までそれを使っていた。けれど今日の僕はそうじゃない。正確には今まで使っていたものも使っているのだけれど、それに加えて頭の上に赤いヘアバンドのようなマシンを一つ付けている。

「見たことないマシンだけどどこのなんだ? スペックは?」

 山田は続けざまに聞いてきた。

「知らん」

「知らんってそんなわけねえだろ」

「知らないものは知らないんだ。だってこれ、僕もアクセスできないし」

「自分がアクセスできない端末着けるってなんだ? 囚人にでもなったのか?」

 囚人。今の僕の状況を的確に表現した言葉だと思う。それを自覚するとなんだか鬱になりそうだ。僕は頭を振ってその考えを追い出す。

「とにかく行こう。『キャプテンズ』閉まるの早いんだろ」

「それもそうだな」

 言われて思い出したのか、山田は急に立ち上がった。

「後で細かいことは教えろよ」

「いやだ」

「はん」

 鼻で笑われた。ムカッとした。

 きっと、放っておけば自分のほうから話してくると思っているのだろう。僕はこいつにだけは絶対話してやるまいと心に誓った。

 なんか、自分でフラグを建てている気がするのは気のせいだろうか。

 

 『キャプテンズ』は紙屋町のアーケード街の中にあるレトロゲームショップである。山田はそこの常連だった。昨日、そこの店長から連絡がきたらしい。前から山田が欲しがっていた本物の『レイディアントシルバーガン』(SS版)が手に入ったから安く譲ってくれるということになったらしいのだ。安くなるといっても二桁万円。僕からしたら仮想マシンで動くバージョンがただ同然で手に入るのに、わざわざ現物をそんなに出して買おうとする山田の気が知れない。

 僕が呼ばれたのは、山田が一人で十万以上持ち歩くのが怖いから、というしょうもない理由のためだった。

 言っておくが僕は殴り合いのケンカなんて、生まれてこの方一度もしたことのないバリバリのインドア派である。だから僕がついていったところで、何があっても何の役に立たない自信があった。そもそも山田のほうがはるかに体がでかいのだから、僕がついていく必要なんて全くないのだ。

 そう言うと山田は、「お前、友達が不安がってるってのに見捨てていくのかよ。ほんとちっちぇえ奴だなあ」とあきれるように言った。そんなことを言う山田の度胸のほうがはるかにミニマムだと僕は思った。

 首尾よく現物を手に入れた帰り道、僕は山田に切り出した。

「なあ山田、世界で一番のゲームって何だと思う」

「世界で一番のゲーム?」

「あるいは世界そのもののようなゲーム、人生のようなゲーム、とにかくそういうすごいゲームって聞いて、山田はなんかを思いつく?」

「そんなもん決まってんだろ?」

 そう言って山田はキラキラとした目でキャプテンズのロゴの入ったビニール袋を見た。

「ごめん、僕が聞いたのが悪かったよ」

 というか『シルバーガン』ってグラフィックと世界観は素敵だけど、システム回り割とダメな方じゃないかと僕は思う。

「お前、何かひでえこと考えてないか?」

「いや別に」

「もしかしてその新しい端末となんか関係あるのか?」

 山田は意外と鋭いところがある。

 僕は数日前の病院での会話を思い返していた。

 

 2

 

「世界で一番のゲーム?」気を取り直して聞き返す。

「はい」少女はこくんとうなずいた。

「作るの、君が?」僕はできるだけ疑わしそうな目をして少女を見た。

「私と水城さん、二人で、です」

 僕はなんといえばいいのかわからなくなって天井を仰いだ。

「水城さんは、ゲームクリエイターです」少女が確認するように言う。

「ええ、まあ、一応そうですけど」

 木っ端もいいところだけど。

「つまりゲームを作ることができます」

「まあ、簡単なものなら」

「なら作れるはずです」

「いや、そんなこと言われても、作れませんよ」僕が言う。

「なぜですか?」純真な瞳が僕を見た。

 一瞬虚を突かれる。なぜだろう。なぜ僕には世界で一番のゲームが作れないのだろう。それは当たり前だが、当たり前すぎて、答えにくい質問だった。

 僕は少し考えて答えた。

「だって、具体的にどんなものを作ればいいのかわかりませんし」

「つまり、アイディアがないということですね」少女は確認するように言った。

「まあ、そういうことです」僕は頷いた。

 すると少女はほっとするようにうなずいた

「それなら大丈夫です」少女の根拠のない自信にあふれた瞳が僕を見た。

「私にはあります」

「……」

 そういう問題だろうか。いや違う。絶対にそうじゃない。僕は攻め口を変えることにした。

「具体的に、使う道具とか決めてるんですか? というかゲーム制作の経験は?」

「ゲームを作ったことはありません」

「……全然、ないのですか? 完全に、全くのゼロ?」

「はい」橘ひかりは胸を張った。

 えぇ……大丈夫かな、この子。

 僕が黙り込んでいると、突然少女はごほごほと大きな咳をした。

「大丈夫!?」僕は慌てて周りを見回した。ナースコールのボタンが見えた、押そうかと考えていると、咳が止まった少女は青い顔で「大丈夫ですから、押さないでください」と言った。

「これくらい、よくあることなので」

「でも……」僕は躊躇する。

「ちょっと無理しただけです」

「無理って何が」僕は意味が分からずに問い返す。

「体の稼働限界以上に背すじを伸ばしたのがつらかったのでしょう」

 女の子は真面目な顔をして言った。どうやら胸を張るという動作に体が耐えられなかったらしい。

 ええぇ……? ほんとに大丈夫かな、この子。僕はいつでもナースコールボタンが押せるように、さりげなくベッドのそばに身を寄せた。

「それで何の話でしたっけ?」女の子が話を戻す。

「ゲームを作るという話です。それで、どうやって作るんですか? 使うエディターは決めてるんですか? 言語は?」僕が問う。

「これを使います」

 そう言って彼女が取り出したのは、赤いヘアバンドのようなウェアラブル端末だった。

 

 3

 

 つまり、今、僕がつけているものである。

 せめて黒とかにしてくれればもう少し目立たないのに、なぜ赤なのか。僕は全力で文句を言いたい。

「よくわからん話だな」

 僕の話を聞いた山田が、なんの役にも立ちそうにない感想を言う。役には立たないが、僕も同じ意見である。山田は首を横に振った。

「いやよくわからんのはお前の態度だ」

「なにが言いたいんだよ?」

「なんでそんな子供に言われるままになってるんだ」

 山田は不思議そうに僕を見た。山田から見ると確かにそうかもしれない。

「でも例のゲーム握られてるし」

「そんな気にすることか? 前も言ったけど、ネットにさらされてもちょっといじられるだけだろ」

「お前はネット炎上の恐ろしさを何にもわかってないな!」

 僕は憤慨した。僕が憤慨しているのを適当に受け流しながら、山田はしげしげと僕の頭を観察した。

「じゃあお前、その端末の説明は何もされなかったのかよ?」

「別に何もなかった。ぶっちゃけそれの初期設定してたら面会時間が終わっちゃって……続きはまた今度、ってことになったんだ。それまでこの端末はつけっぱなしにしておいてくれって」

「で、また行くのか?」

 僕はうなずいた。

 山田は、ひょんなことから新種の昆虫を発見してしまった鳥類学者のような顔をして僕を見た。

 確かに、山田から見たらどうかしていると思われても仕方がないと僕も思う。

 でもそれは仕方がないのだ。あのゲームだけは絶対に公開されてはいけないのだ。あれはゲームに対する冒涜だ。クソゲーとかそういうレベルを超越した、何かである。

 それに、と僕は思う。

「それに、なんとなくわかっちゃうんだよ」

「何が?」

「ゲームを作りたいっていう、その気持ち」

 僕は自分が初めてゲームを作りだした時のことを思い起こした。

 右も左もわからず、フリーのゲームエディターをいじっていたとき、どんなものができるのかは自分でも理解していなかったけれど、とにかく素晴らしいものを作っているんだと信じていた。その気持ちを。

 今の僕にはもうそんな気持ちは残っていない。自分の作っているものがどんなもので、それがどれくらいの人がダウンロードしてくれるか、できる前からなんとなくわかるし、それをどれくらいの人が好いてくれるのか、どんなことを言われるのかも、予想できる。

 正直なところ、僕には橘ひかりが少しだけうらやましい。あの気持ちをまだ持っているというそれだけで、ゲームを作る技術なんかよりずっと大事なものがある気がする。

 僕はそんな彼女の手伝いをしたいと、そう思ったのだ。

「だから、僕にどれくらいのことができるかわからないけど、あの子がゲームを作れるようになるまで少し手伝ってみるつもりなんだ」

 そういって締めくくる。少し熱く語りすぎてしまったかもしれない。若干の恥ずかしさを感じながら顔を上げると、山田は、最高に気持ち悪いロリコンを見る目で僕を見ていた。

「……違うからな」

「何が違うんだ。要するにお前は小学生の女子が気になったから、その子のとこにほいほい通おうってそういう腹なんだろ?」

「だから違うってつってんだろ」

 僕が言う。山田は聞く耳を持たなかった。

「まあお前はお前の道を行け。俺は自分の道を行く」

「お前の道って、絵の美少女だろ?」

 僕は山田の『嫁』を思い出す。それは2000年ごろに作られた、一年中桜の咲く島が舞台のギャルゲーに登場するヒロインである。

「てめえナマ言ってるとぶち込むぞ!? 絵じゃねえよ!」突然山田は興奮した。

「いや、絵だろ。誰かが紙の上か、液タブの上に書いた絵だ」

「ちげえよ。いや確かに絵かもしれねえけど、そこに込められた魂が絵からワンランク上の存在にレベルッさせるんだよ! 大体、そんなこと言ったら他人だって網膜の上に映ったただの絵じゃねえか!」

「そんなこと言ったらすべてのことは脳内の現象でしかないだろ。だからVRなんてものがこんなにうまくいってるわけだし……やめよう、この議論は不毛だ」

「っ……そうだな」

 山田は心の奥底の熱いマグマの迸りを抑えて口を閉じた。僕は話題を探してあたりを見回した。

「そうだ、お前的にはああいうのはどうなんだ?」

 僕は言いながら交差点前の公共スクリーンにポインタを合わせる。スクリーンの前では桜色の髪をしたすらりとした美少女のアバターが、緑色の狼男の姿をしたアバターと対決しているのが見える。実際に対決しているわけではない。スクリーンからのデータを受信してVR端末を使用している人間に立体画像として見せている、ARである。

「『ブレイン』のコロシアムか、リアルタイム?」

「たぶんそうだと思う」僕は頷いた。

 コロシアムは『ブレイン』内でもっとも人気のある対人ミニゲームの一つである。プレイヤーは一対一で技を繰り出しお互いの体力を削りあい、最終的に最後まで残っていたほうが勝ちである。言ってしまえば昔の格ゲーのVR版だと思えばいい。

「あのピンクの子、有名なプレイヤーだな。ウェストストライプとかいう、中身も正真正銘の女子高生らしいぜ」

 山田が怪しげな解説を加えてくれる。

「この間日本チャンプに挑戦してたよな、確か7:4で負けたんだっけ。であっちの狼男がルーガルーっていうプレイヤーで、最近急成長してきた有望株ってやつだな」

「コロシアム好きなんだな」

「見るのは好きだ」山田が答えた。

 映像の中では桜色の髪をした女の子が狼男の攻撃を的確にかわし、いくつも打撃を加えている。スピードが全然違うらしく、狼男は明らかに劣勢だ。

「コロシアムは脳の反応速度がもろに出る競技らしいからな。あ、また決まった。これはもう終わりかな」

 言っているそばからきれいな一撃が狼男の脳天に決まる。ふらふらと動きを止める狼、桜色の少女は大きく跳躍し、狼の顔面に膝を叩きこんだ。ゴングが鳴り響く。どうやら勝負ありのようだ。

「やっぱりウェストは強いな」山田が賛嘆のため息をつく。それと一緒に周りからも同じようなため息が聞こえてきた。

 彼女の試合に見入っていたのはどうやら僕たちだけじゃないらしい。いつの間にか、交差点の前はちょっとした人だかりになっていた。

「すごい人気だ」

「そりゃそうさ。あの子は強くて、何より美人だしな」山田が言う。

「……アバターなんだから外見なんていくらでも変えられるだろ?」

 僕が言うと、山田は軽蔑するように僕を見た。

「だってあの尻、きれいだろ? そこにアバターかどうかって重要か?」

 そう言って山田は映像を拡大する。勝利者インタビューを受けている美少女の背後で、最後の飛び蹴りの映像が繰り返し再生されていた。お尻がきれいかどうかは別にして、確かにそのすがすがしい笑顔はきれいだと思った。

 

 4

 

 一週間後の月曜日、僕は慈恵病院に向かった。

 一週間ぶりの病院はやっぱり病的なほど白く、廊下には誰もおらず、部屋の中には橘ひかりがベッドの中で背中に枕をあてがい座っていた。

「一週間ぶりですね」

「ええ……それで、今日は教えてくれるんですよね。どうやってゲームを作るのかを」

 橘ひかりはうなずいた。

「でも、その前に見てほしいものがあります」

 そういって彼女は僕に一枚のメモリーチップを手渡した。

「これは?」

「ちょっと作ってみました」

 作るって何を? 僕の質問には答えずに、彼女は謎めいた微笑を浮かべ、まあ中身を見てくださいと言ってくる。僕はためらいを押し殺して、自分の端末とリンクさせた。

 目の前にフォルダの中身が並ぶ。並ぶといっても、一つしかなかった。拡張子を見ると、VRイメージファイルらしいと分かった。念のためにセキュリティ設定を確認し、それからイメージをマウントした。

 次の瞬間、目の前には紙屋町のアーケード街が広がっていた。

 

 僕はあたりを見回した。雑踏の中に僕は手持無沙汰に立っている。どこかからかソースの焦げる匂いがして、アーケード越しのぬるい日差しの温かさを感じた。一歩踏み出す。視界はぶれることなく、滑らかに僕の動きについてくる。

 VRということはわかる。でも、このリッチさは何だろうか。匂いや音、言ってしまえば空気とでもいうべきものが、あまりに生々しすぎる。僕は混乱した、とりあえず道の真ん中では落ち着かないので、道の端まで人を避けてたどり着く。

「ご理解していただけましたか?」

 突然、目の前に30センチほどの黒猫のぬいぐるみが現れて僕は驚いた。

「……もしかして、橘ひかり?」

「はい」

 ぬいぐるみはこくりと頷いた。どうやらひかりのアバターらしい。

「ここはどこですか?」僕は勢い込んで口を開く。

「VRの中です」

「それはわかりますけど――」

「少し待ってください」黒猫が後ろを向く。僕は黒猫の視線の先を見た。「イベントが始まります」

 そこには身長180センチの巨漢が、きょろきょろとあたりを見回しながら歩いている。僕はその姿に強い既視感を覚えた。この光景、どこかで見たことがある気がする。僕がその既視感の正体をつかむ前に、男は何かに気が付いたのか、僕の方に近づいて来た。

 近づいて男が誰かを理解する。

「山田?」

 男の正体は山田だった。なんでこんなところにいるんだろう。というかVRなのに、なんでアバターじゃなくてリアルの姿なんだ。わけがわからなかったが僕は山田に近づいた。

「山田、どうしてここに?」

「お前、端末変えた?」

 僕の質問を無視して開口一番山田はそんなことを口にした。どこかで聞いたことのある質問だった。戸惑う僕に山田はつづけた。

「まあお前はお前の道を行け。俺は俺の道を行く」

「僕の道っていうか、押し付けられた端末だけど」

「お前、尻きれいだろ」

「突然何を言い出すんだっ!?」僕は恐怖を感じて後ずさった。いきなりなんだ、こいつは、気でも違ったのか。おびえる僕に向かって、山田は真顔で近づいてくる。

「ぶち込むぞ」

「何をだよ!?」

 自分より二回りは大きい男に言い寄られ、身の危険を感じない男はいるだろうか? いやいない! わけがわからずあたりを見回すが、周りの人間は知らん顔で通り過ぎていく。これだからVR慣れした現代人は役に立たない。周りの人間が困っているのを個人用のVRスペースを広げているのだろうと勝手に思い込んでしまうのだ。

「わからんのはお前の態度だ」

「ごくごく自然で人間的な態度だろ!?」

「そんな気にすることか? ちょっといじられるだけだろ?」

「ちょっともくそもあるかぁ!」僕が爆発する。

「じゃあ、お前は小学生の女子が好き。なのか」

「ホモじゃなかったらロリコンって極端すぎるだろ!?」

 山田はひょんなことからロリコンを見つけてしまった鳥類学者のような顔をして僕を見た。

「その顔すっげえムカつくからやめろ!」

「後で詳しいこと教えろよ」

「何をだよ!? っていうか教えねえよ!? お前に教えることなんて何一つねえよ! つうか死ね!!」

 激昂した僕を山田は鼻であしらい去っていった。

 呆然とする僕に向かって黒猫のぬいぐるみが近づいてくる。

「とまあ、こんな感じです」ぬいぐるみがしゃべりかけてくる。「もう少しこの世界を堪能しますか?」

「もう、充分だよ」僕は疲れた声で答えた。

 

 一瞬視界がぶれ、僕は現実に戻ってくる。僕はさっきまでと同じ病室のベッドの横に立っている。目の前には黒猫のぬいぐるみじゃなくて、黒い髪の女の子がベッドの中に座っている。

「今のは一体?」少女に向かって問う。

「わかりませんか」少女の瞳が僕を見た。想像はできる。さっきのやり取りの不自然さ、デジャブそういうのを考えれば思いつくのは一つだけである。でも、そんなことありうるのだろうか。少なくとも僕はそのような技術があるということは聞いたことがなかった。

「水城さん?」榛色の瞳が先を促す。僕は恐る恐るとその予想を口にした。

「僕の記憶を編集して、VRを作った?」

「記憶というより、体験ですね」少女はさらりとすごいことを口にした。

「水城さんは現在のVRがどのようにして作られているかご存知ですか?」

 突然の質問に僕は思い出しながら答えた。

「確か、感覚をニューロンマップに焼き直しているんですよね」

 VR端末は人の脳に作用し、VRを体験させることができる。とはいえ、VR端末を装着しただけでは仮想現実は体験できない。特定の仮想現実を体験させるために使われるのがVRイメージファイルである。

 VRイメージファイルの一番簡単なイメージはドット絵である。ドット絵がドットのサイズと、各ドットの色を指定するファイルであるのと同様に、VRイメージファイルは脳のどの部分をどの程度刺激するのかを指定するファイルである。そして美しいドット絵を描くためには熟練と技が必要だったように、美しくリアルなVRを作るためには多大な努力と技、そして莫大な計算能力が必要である。

 もちろんある程度基本的な構造は各端末の基本機能として埋め込まれている。たとえば垂直に一定の長さの棒を見せるVRイメージファイルを作る、くらいのことならちょっとVRデザインかじった人間なら誰だって作れる。誰だって棒の絵をドット絵で書くことが容易であることと同じである。けれどそれ以上になると事態は一変する。

 ある体験をしたとき、人のニューロンでどのような発火パターンが実現しているかなんて、完全には理解できるはずないのだ。だから最後にものをいうのは大型計算機によるシミュレーションとクリエイターの勘である。

 例えば、完全な嗅覚を再現できるVRを実現できるクリエイターは世界に5人といないと言われている。味覚になるとさらに難しい。

 そのため、リッチなVRは文字通り目玉が飛び出るほどの高額になってしまうのだ。

「さすがに詳しいですね」橘ひかりは感心するように僕を見た。

「昔勉強したんだ。今でも基本図形を出力するファイルくらいなら書けるよ。でも、さっきのは……」

 僕はさっき体験したVRを思い出す。さっき見たVRはとてもリアルだった。それは小学生が手慰みで作れるレベルを――もしかしたら国内のどこのメーカーが作れるレベルをも――はるかに超えていた。あれを作れるのとしたら、それこそ『ブレイン』の開発チームくらいかもしれない。

「あれは、君が作ったんですか?」僕が問う。

「勘違いしないで欲しいのですが、私は自分でVRイメージを書いたりはしていません」

 ベッドの中で枕に埋もれる少女はつづけた。

「というか、その基本図形のコードすら知りません」

「じゃあどうやって?」当然の疑問を口にする。

「これを使ったのです」と言って、彼女が取り出したのは例のヘアバンド型デバイスだった。

「そもそも今のVR作成技術はとても回り道をしてると思いませんか?」

「回り道?」僕はわけがわからず問い返す。

「先ほどの画像の例で考えましょう。なぜわざわざVRイメージファイルなんて作るのですか? 画像を見た時点で、発火パターンは自分の脳で作られているじゃないですか」

 彼女の発想はとてもシンプルだった。

 彼女にはなんで作りたい体験を一から作るのかが理解できなかった。最初に欲しい体験を経験し、その時の発火パターンを取って、それをもう一度脳に送りなおせば同じことを体験できるじゃないかと。

「このデバイスは」と言いながら少女はヘアバンドをもてあそんだ。「装着している人の脳の発火パターンと周りの画像と音を記録し、そのデータを私の元に送る、それだけのデバイスです」

「つまり、僕の体験をデータ化して取っていたってわけですか?」僕は先回りして答えた。「そしてそれを使って過去の僕の体験を再現した?」

 言いながら僕は先ほどのデジャブの正体を理解する。あの時の山田は、やっぱりかつて僕が見た山田の姿のだったの。だからデジャブがあるのは当然だ。

「正確には完全にそのまま再現したのではありません。場面ごとに切り貼りしてますし、それから水城さんの反応でいくつかの分岐も入れたり、まあ、時間だけは私たくさんあるので」

 入院していると暇なんですよね、と少女は続ける。

 僕は目の前の少女のことが信じられなかった。だってこれはすごい発明だ。今のVRの価格について少し考えれば、この発明がどれほどのインパクトがあるのかわかるだろう。それなのに当の本人は、「そうでしょうか? もうどこかの誰かがやってそうなものですけど」なんて言ってそれ以上のことを考えていないのだから。

 もっとも何も考えていないというと嘘になるだろう。

「それで、私はこれを使ってゲームを作りたいと思っています」

「それが人生のようなゲームですか?」僕が確認する。

「はい」

「それが世界そのもののようなゲームですか?」

「はい」

「それが、世界で一番のゲームですか?」

 女の子は、橘ひかりは満面の笑みで頷いた。

「水城清晴さん。私の夢に協力してくれますか?」

 最初は面倒なことになったと思った。

 次に、協力したいと思った。

 そして今、僕は目の前にいるのが最高の共同開発者だと理解した。

「一つ、条件があります」

「なんですか」

 ひかりが僕を見る。僕は僕を見る榛色の瞳に向かって訊ねた。

「ゲームが完成したら、僕に一番に遊ばせてくれますか?」

「いいえ、ダメです」

「なぜですか」

「私が最初に遊ぶからです」

 言われて納得する。そういうことなら仕方がない。

「じゃあ、2番目に」

「いいでしょう。ゲームが完成したら、2番目に遊ばせてあげます」

 僕が手を伸ばすと、ひかりはしっかりと握り返してきた。ひかりの手は血管が透けて見えるほど白く、そして熱っぽい子供の手だった。

 

 その時から僕のゲームは始まった。

 ゲームの名は『ライフ』。

 命という名のゲームが始まったのだった。

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