世界で一番のゲーム

@Sugra

i オープニング

 

 1

 

 チャットアプリを起動すると、アドレス帳に登録されているアカウント名が視界いっぱいに広がった。探していたもの、山田祐樹の名前はすぐに見つかった。幸いなことに、その横には在室を表す緑色のマークがピコピコと点滅していた。

 テキストでメッセージを送る。今からそっちに行ってもいいかと聞くと、山田は一言「いいぞ」とだけ返してきた。

 それを見て、僕は電子アシスタントに短く告げた。

「山田祐樹のパーソナルスペースへ」

『かしこまりました』柔らかな声音が答えて、次の瞬間、僕はあまりのまぶしさに目をつむった。思わず見上げると宇宙まで見えそうな青い空を、綿菓子みたいな白い雲がゆっくりと流れていくのが見えた。見回せば背の高い黄色の花にあたり一面埋め尽くされている。

 今は梅雨前の五月で、こんな景色はありえない。だからもちろん、これはVR――仮想現実だ。

 ここはゲームの世界。ゲームの名前は『The Bra(i)ne World』という。

 

 ****

 

 人間の意識や認識はすべて、脳の中で作られている。そんなことは子供でも知っている常識だ。人間の脳内にはニューロンと呼ばれる細胞があり、それらの活動に伴って僕たちの心の全ては発生する。

 だからもし自在にニューロンの状態をコントロールできるならば、自在に人間の認識をコントロールできることになる。例えば家に居ながらにして海を見せたり、地球に居ながらにして宇宙を体験させたり、人間の世界に居ながらにしてファンタジーの世界を認識させることができる。

 ニューロンの状態を外部からコントロールする技術は20世紀から存在した。しかし、EEGやTMSと呼ばれたそれらの技術では、精度の面で限界があった。言い換えれば、問題は精度の問題だけとも言えた。そしてそのような技術の問題は往々にして、わりと早く解決されるものである。

 21世紀も半ば差しかった人類は、ある程度現実的な仮想現実を人に体験させることをできる。頭につけたボタン電池ほどのデバイスを通じて、ディスプレイなしで視界にコンピュータの操作画面を表示させることができるし、頭で考えるだけでコンピュータを操作することができる。そして、ファンタジーの世界を体験させることができる。

 それらの技術を用いて作られた、人間がまさにゲームの世界を体感できるゲームをVRゲームと呼んだ。『The Bra(i)ne World』、通称『ブレイン』は、最も人気のあるオンラインVRゲームの一つである。

 

 ****

 

「山田、いるのか?」

「おう」

 ひまわり畑の真ん中に建つ丸太小屋に入ると、無個性な男子のアバターが出迎えてくれた。短く刈った黒い髪に、パリッとしわのない白いシャツと高校の制服のような灰色のスラックス。四角い教室の中で机と椅子に囲まれていたらさぞかし隠蔽率の高い衣装なのだろうと思うが、ここはひまわり畑に囲まれた作業部屋然としたログハウスである。

「変な顔して、どうしたんだ」

 僕が黙っていると男子生徒は不思議そうに訊いてきた。どうやら本人は自分のおかしさに気が付いていないらしい。僕は思ったことを訊いてみる。

「なんで周りをひまわり畑にしたんだ? この間は雪が降る地方都市だったろ」

「この間やった30年くらい前のギャルゲーの最後のシーンがひまわり畑だったんだ」

「面白かったのか」

「神ゲー。今度貸してやるよ」

 今度と言いながら、すでに山田は2ギガバイトほどのデータを転送しようとしていた。山田はレトロゲームオタクである。僕は山田のリクエストをリジェクトしながら口を開いた。

「今日は別にそういう話をするために来たんじゃないんだ」

「なんだ、違うのか。となるとあれか。新しいゲームの話か?」

「それも違う」

「じゃあなんだ」

 山田が鋭く問いかける。僕は本題に踏み込んだ。

「『パーフェクトゲーム』って覚えてるか?」

「『パーフェクトゲーム』?」

 山田は首をひねる。その様子は、嘘をついているようには見えなかった。

 それを見て、僕はこいつが犯人じゃないということは9割方確信した。

「野球、じゃないよな。となると、あ、007のゲームだっけ?」

 それはたぶん『パーフェクトダーク』だ。似ているけどだいぶ違う。山田は思い出せないようなので、僕はヒントを出すことにした。

「ほら、僕が最初に作ったゲームの名前」

「ああ、あれか!」山田はポンと手を打ち叫んだ。「あのクソゲーか!」

 僕は不愉快な気分になって鼻を鳴らした。

 

 僕が最初にゲームを作ったのは、今から5年ほど前の話である。

 当時の小学生の間では、『モンクエ』というVRゲームがものすごく流行っていた。

 『モンクエ』は単純なゲームだった。モンスターを探して、狩る。それだけしかできない。装備は3つだけ、スキルや技といった機能もない。今同じのが出ても、きっとクソゲーと叩かれるだけだろう。でも、当時はVRゲームの黎明期で、まともに遊べるVRゲームも少なく、数少ないまともに遊べる『モンクエ』は、それはもう大流行したのだ。

 その流行りっぷりは本当にすごかった。あの時子供だった人でやってなかった奴なんて一人もいなんじゃないだろうか? もちろん僕も大はまりして、学校から帰るとすぐに友達と一緒に狩りに出掛けたものだ。あまりに狩りに出掛けるものだから、僕の学校の成績は1929年のウォール街の株価なみに値崩れし、晴れて僕は両親の圧力のもと、金本位制からの脱却、もといゲームとの決別が行われたのだった。

 あの時は本当につらかった。

 僕にとってゲームは生きがいだった。

 それを奪われるのは耐えがたいほどの苦痛だったのだ。大げさだと思われるかもしれないけど、ここから飛び降りたら楽になれるかな、と夕方のベランダで考えるくらいにはつらかったのだ。

 もっとも、僕の家はマンションの2階だったので、跳んだところでせいぜい骨折が関の山だっただろうけど。

 とにかく僕はゲームをしたかった。でも、ゲームの供給は親によって完全に止められていた。

 だから僕は、自分でゲームを作ることにした。

 

「それで作ったのがあれなんだよな。いや思い出した。3日くらい学校休んだと思ったらいきなり俺のとこにゲームもって来るんだもん。すっげーびっくりしたんだぜ? お前、『モンクエ』親に禁止されてから死にそうな顔してたからさ」

「その節はまあ、感謝してやらないこともない」

「いや感謝してもし足りないだろ? 俺じゃなかったらあんなゲーム二秒で投げてたぜ。だってよ」

 一つ間を置き、山田は言った。

「俺、あれほどつまらんゲームやったことないぞ」

「悪かったな! つまらんゲームで!」

 僕は憤慨した。

 でも確かに山田の言うことは正しいのだろう。右にしか進めない不自然な仕様、二つしかないエンディング、グッドエンドのために要求される謎の行動……僕の作った最初のゲーム『パーフェクトゲーム』はどこに出しても恥ずかしくないクソゲーだった。

 でもあのとき、山田の家に持って行って自信満々で見せびらかしたあの時、あるいは謎の万能感からフリーゲームのアップロードサイトに登録までしたあの時、確かに僕は世界で一番のゲームを作ったと思ったのだ。

「でも、全然ダウンロードされなかったんだよな」

「お前は僕の心をよほどえぐりたいらしいな!」

 僕の悲痛な叫びを無視して山田は続けた。

「けどよ、それでよかったんじゃねえの? それがきっかけでゲーム作るようになったんだろ?」

 山田の言葉に、僕はしぶしぶうなずいた。

 僕はそのあと学校の成績が回復し、親からゲームを返してもらった後も、ゲーム作りを辞めなかった。理由は簡単だ。

 面白かったのだ。

 ゲームを作るという行為そのものが。

 それ以来、僕は年に1作くらいのペースでフリーゲームを作っている。

 最近ではゲームもそこそこダウンロードされることも増えてきた。ファンだと言ってくれる人からメッセージをもらうこともある。継続は力だという言葉は本当に正しいなと思う。

「で、そのお前の最初のゲームがなんなんだよ」

 人が感傷に浸っているのに山田は無遠慮に話を元に戻した。

「まさか昔話をするためだけに、わざわざ俺のところに来たわけじゃないだろ?」

 もちろんそんなわけではない

「なあ、一つ聞きたいんだけど、このメッセってお前が書いた?」

 そう言って僕は最近届けられたメッセージを山田に転送する。

 メッセージを見た山田は眉をひそめた。

「なんだ、これ」

 サブジェクトには一言、『世界で一番のゲームについて』、本文は次のようなものだった。

 

 『Water Castle 様

  

  表題の件についてお話ししたいことがあります。

  都合がお付きでしたら、今度の月曜日の午後4時、

  慈恵総合病院802号室にお越しください。

  お待ちしております。

 

  橘ひかり』

 

「ウォーターキャスルって誰だ」

「僕のハンドルネーム」

「ああ、水城だからかウォーターキャッスルか。安直なネーミングだな」

 なぜかすでに知っているはずの山田に馬鹿にされた。僕の名前は水城清晴という。水の城だからウォーターキャッスル、確かに単純だと思わないでもない。でも、山田なんていうやつに名前を馬鹿にされるいわれはない。

 僕がそう言うと、山田は、山田のどこが悪い、とふてくされた。別に悪いわけではない。ただありがちな苗字というだけだ。

 僕は話を戻した。

「で、これに例のゲームが添付されてたんだ」

「例のって、お前が最初に作ったゲーム?」

 僕はうなずく。

「……驚いたな。あのクソゲーを知ってるやつが俺以外にいるなんて」

「少しはダウンロードされたんだ」

「少しってどれくらいだよ」

 僕は蚊の鳴くような声で「5件」と伝えると、山田はその数字をいまだに言えることがキモイと切り捨てた。僕は反論できなかった。

「で、どう思う」気を取り直して聞き直す。

「アップローダーからももう削除されてるんだよな? じゃあ、この橘ひかりはお前の最初の6人のファンの一人ってわけだ。そのファンが今更お前と話をしてみたくなって連絡を取った。それだけの話だろ? 会いに行くのか?」

「それを悩んでるんだ」

 僕は悩みを打ち明けた。

 僕にとってこのゲームはもう過去のものだった。なんといっても5年前のゲームである。それにまあクソゲーだし、そこはかとなく痛いし、とにかくもうなかったことにしたい。だから正直、このゲームのファンと会っても僕は何も話すことはできないと思う。

「なんだよ、会わないのか。まあ急な話だし、それもお前の自由じゃね?」

 山田は悩みなさそうな顔で言う。僕は続けた。

「……報復されたりしないかな?」

「報復?」山田は不思議そうに見返した。

「例えばこのゲームをまたどこかにアップロードされたり」

「それ、報復か?」

 立派な報復だ。もし仮にこれがまたネットに拡散して、それが僕の作ったものだとばれたりしたら、最近ほんの少しだけ話題のゲームアプリ製作者が、実はこんなの作ってた、なんて知れたら……荒れる。間違いなく荒れる。印象派の絵に描かれた池のように小さく、穏やかな僕のホームページが、ささやかなファンサイトが、沈みゆくタイタニックのようになるに違いない。僕は嫌な想像に震え上がった。

「考えすぎだろ」

 山田は哀れなものを見る目で僕を見ながら椅子に座りなおした。椅子の前には古いタイプのコンピュータ――というより計算機とでもいうべき代物、が置いてある。ディスプレイと入力用のキーボードが一体となった、ラップトップと呼ばれるタイプのマシンだ。

「何するんだ?」僕は山田の肩越しにディスプレイをのぞき込んだ。

「決まってるだろ」山田は目の前のコンピュータを顎でしゃくる。「ゲームだよ」

 画面上には見慣れたニンテンドーのロゴが映り、世界で一番知られたひげ面の親父が飛び跳ねている。人が相談しているのにゲームを始めるなんて、友達甲斐のない奴である。

「というか、それなんだ」

「ブレイン内で仮想マシン走らせてるんだよ。これ一台でファミコンからWiiまでのニンテンドーのマシンは全部再現できるんだぜ」

「VRゲームの中で別のゲームをする必要がわからない……お前んちのコンピュータでも普通に動くんだろ、それ」

「家のマシンじゃ趣がない」

 僕にはわからない感覚だった。

「さあそろそろ帰ったらどうだ。俺はこれからやらなくちゃいけないレトロゲーが山ほどあるんだ。人はそんなに暇じゃないんだよ」

 僕はレトロゲーと友達どちらが大事なんだと聞くと、山田はレトロゲーと即答した。本当に友達甲斐のない奴である。

「じゃあ僕はどうしろってのさ」

「知らん。会いたくないなら会わなければいいだろ。気にしすぎだ。言ったろ? 人はそんなに暇じゃないって」

 山田はそれだけ言って、さあ帰れ帰れと僕を小屋から追い出した。

 本当に友達甲斐のない奴である。

 小屋の外に出るとちょうど西の稜線に太陽が沈みかかっていた。どうやら時間とともに変化するスキンらしい。風が肌を撫でて去っていく。ひまわりがざわめき土のにおいがした。

 視覚と聴覚以外の感覚も提供することができるVRをリッチなVRという。VRはリッチになればなるほど高価なものとなる。高級なVR体験の値段は青天井で、VRで体験するより、実際にその風景のある場所に行ったほうが安くつく、なんてこともあるらしい。さすがにそれは嘘っぽい話だが、このスキンはかなり高い買い物だったんじゃないだろうか。山田の分際でこんなものを手にしているなんて。なんだか無性に腹立たしくなってきた。

 僕はすぐそばのひまわりに手を伸ばした。ひまわりの葉のザラザラした感触がくすぐったい。僕はその葉を思い切り引っ張った。ひまわりはかすかに傾いだだけで、それ以上は動かなかったし、葉がちぎれることもなかった。折れたひまわりのデータは入っていないらしい。

 月曜日はすぐにやってきた。僕は返事を書かなかったし、指定された病院に行くこともなかった。あれからメールが来ることもなく、念のために自分のホームページやいくつかのフリーゲームファンサイトを監視していたが、特に怪しいものも見つからなかった。

 山田の言う通り、きっと考えすぎだったのだろうと、僕は人知れず胸をなでおろした。

 僕は甘く見ていた。

 事態が進展したのはその週末、金曜日のことだった。

 

 2

 

 金曜日、とても良いことと悪いことが同時に起こった。

 僕の通う高校、広島大学付属高校には西條桜という女子生徒がいる。僕と同じ高校1年生で、僕と同じクラスに通っている。

 西條さんは大変な美人である。性格も溌剌とし人当たりもよく、運動神経も素晴らしいのに運動部に所属していない。トレードマークは頭につけた大きなバレッタで、長い髪を留めている。あらゆる点で優れているのにそれを鼻にかけたようなところもなく、その上、彼氏がいるという話も聞かないとなると、まるで女神か天使のようなお人だとしか思えない。彼女に触れるには巫女か預言者の資格が必要だろう。

 巫女でも預言者でもない僕からしたらとてもまぶしいお方なので、僕は同じクラスになって彼女の姿を見られるという特権を得られるだけで満足していた。

 そんな彼女にいきなり話しかけられるということがあったのだ。

 それが良いことだ。そして悪いことも同時に起こった。悪いことは彼女の話した内容である。

 

 最近周りから見られていることが多い気がする。僕の方を見ながら何かを噂し、僕がそちらを向くと途端に口笛なんか吹いたりする。それでごまかしているつもりなんだろうか……明確な害意みたいなものは感じないが、なんにせよ、そんな扱いを受けて喜ぶ人間はいない。僕は居心地の悪さを感じながら、かといって自分から問いただしたりすることもなく、授業が終わるのを待っていた。

 放課後、いきなり後ろから肩をちょんちょんと叩かれて、なんだと思って振り返ると、見慣れた大きなバレッタを着けた美人のクラスメイトがいた。

「水城君」西條さんの、かすかに笑っているような顔が僕を見ていた。

「え、何?」僕はどぎまぎしながら答えた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 西條さんに聞かれて、答えられないことなんて一つもない。僕は、なんですかと聞くと西條さんは、それならば、と聞いてきた。

「『パーフェクトゲーム』ってゲーム知ってる?」

 心臓が止まるかと思った。

「いや……知らないけど」なんとか言葉をふり振り絞り続ける。「それがどうかしたの?」

「そっか、それじゃあ、あれは何だったのかな」思案顔で西條さんが腕を組む。

「あれ?」僕は先を促した。

「水城君は高校の掲示板って使ってる?」

「いえ、使ってないですけど」

「それなら今すぐ見てみてよ。VR端末はつけてますよね?」

 僕は頷いた。VR端末は頭につけるボタン電池ほどのデバイスで、使用者の脳の状態を読み取り、ニューロンの状態を外部から変え、VRを体験させる機能を持つマシンである。最近の若い人の9割はそれを常に装着しており、8割はネットと常時接続されている、らしい。僕も例にもれずに使っていた。街にはVR端末を通じて表示される拡張現実――ARがあふれているし、何かと便利である。

 僕は言われるままにネットにアクセスし、付属高校の掲示板を探した。視界に検索結果がずらずらと並ぶ。普段使わないのでブックマークはされていない。……これだろうか。僕はその中の一つの掲示板にアクセスした。パスワードを要求された。

「あ、パスワードはsaijosan-kawaiiだよ。……そんな目で見ないでよ。前の管理人が勝手に設定したんだよ」

 西條さんの言うパスワードは正しかった。

 掲示板にはいくつかのスレッドが立っている。その中でおかしなタイトルのものがあった。『「パーフェクトゲーム」について』

 僕は愕然とした。

 スレッドが立てられたのは、その週の月曜日、夕方5時。内容は、『パーフェクトゲーム』という素晴らしいゲームについての話題で、スレッドを建てた奴がそのゲームを褒めちぎるという流れだった。

 曰く、そのゲームは最高にクールでめちゃくちゃいかしているらしい。

 曰く、そのゲームが来週の火曜に配信されるらしい。

 そしてそのゲームと水城清晴は関係があるらしい。

 僕は最近周りの人間から意味深な視線を送られていた理由を理解した。

「へんな噂だけど、誰が言い出したかよくわからなくて……クラスのみんなも気にしてるみたいだし、それに私、一応ここの管理人代理もやらされてるからちょっと気になったんだ」

 だから、僕に聞きに来た、そういうことらしい。

 僕は頭を抱えたくなった。というか抱えた。

 原因は僕がメールの相手に会いに行かなかったことだろう。それで気を悪くした相手がこんなことをしたのだ。僕にはそうとしか思えなかった。ていうかスレ立てるの早いだろ。なんで約束の時間の一時間後にすでに立てているんだ。もし僕が行くつもりだったのに、体調不良とかで行けなかったらどうするつもりだったんだ。僕は見たこともないメールの相手を呪う。

「で、何か心当たりある?」

 頭をかける僕に西條さんが問いかける。

 僕はかろうじて首を横に振った。

「いえ、知らないです……人違いじゃないですか?」

「そっか、それはちょっと残念」

「残念?」

 僕は顔を上げた。西條さんは、なんとも言い難い顔をしてつぶやいた。

「それに、そんな最高のゲームなら、やっぱり気になるし」

「西條さんもゲームをするのですか?」

 意外だった。西條さんはゲームなんかしないで、町でショッピングを楽しんだりするほうが好きなんじゃないかと勝手に想像していたのだ。

 西條さんはごまかすようにはにかんだ。

「まあ、人並みにはね」

 僕は相槌を打ちながらなんとなく、彼女が嘘を言っている気がした。

「でも水城君が知らないなら、本当になんなんだろう。噂は噂ってことで、意味はないのかな……うん、私の方からみんなに注意しておくよ。今の状態は嫌でしょ?」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げた。ろくに話したこともない僕のことを心配してくれていたらしい。本当に天使のようなお人である。西條さんは何か言って僕の席から離れていく。でも僕はそれどころではなかった。

 なんでこんなことになったんだろう。僕はその原因を考えた。

 何もしなかったら来週の火曜日には例のゲームが公開されてしまう。これはそういう警告だろう。会いたくはない。でも、あのゲームをネットに公開させるわけにはいかない。

 ならば会いに行くしかないのだろう。僕はメールへの返信を考えた。

 

 翌日、僕のもとに一通のメールが届いた。橘ひかりは返信をくれたことに感謝を表し、

『来週の月曜日、午後4時にお会いしましょう。』

 と、一方的に告げた。

 僕は次の月曜日の予定を一つ埋めた。

 

 3

 

 慈恵総合病院は高校から市電を乗り継いで40分、瀬戸内海を望む山の中腹に静かにたたずんでいた。病床数は100個ほど。来る途中にネットで確認しておいたのだ。病床数の割には山の中腹を丸ごと削って建てられた3棟の建物少し大きすぎる印象を受けたが、最近の病院はそんなものなのかもしれない。人口減少に伴い一人の人間の消費するスペースを間違いなく増大したのだ。

 受付で橘ひかりの名を出すと、座っていた若い看護師は感じの良い笑みを浮かべて僕の名前を聞いてきた。答えると、看護師は得心したようにうなずいた。

「話は聞いています。ネットに接続できる端末はつけていますか?」

「つけていますけど」

 僕は頷いた。

「それでしたらこれをお着けください」

「これは?」僕は渡されたものを見た。それはプラスチックと金属の入り混じったヘアピンのような代物で、どうやら身に着けるもののようだった。

「これは付近のウェアラブル端末の電波通信を遮断するためのデバイスです。電磁波が医療機器に影響を与える可能性があるので、ご了承してください」

 ヘアピンを着ける。途端に僕の視界の端で、いくつかのアプリがネットワークが切断されたという警告を表す。僕はそれをすべて非表示に設定する。こんなデバイスがあるなんて知らなかった。どういう原理で働いているんだろう。

 それにしてもネットから切断されるのは久しぶりだ。下手したらこの数か月、僕はネットから遮断されたことがなかったのかもしれない。

「8階へはそちらのエレベータをお使いください。それ以外では行けませんから」

 看護師は受付横に設置された、いかにも古そうな銀色のエレベータを指さした。

 僕はその古いエレベータに乗り込んだ。

 乗り込んだエレベータの操作パネルには、1階と8階の二つしか行先が書かれていなかった。

 

 8階で降りる。エレベータの前には、何の変哲もない白い廊下が延々と伸びていた。

 壁には窓一つなく、ただ手すりが続いている。たまに現れる引き戸の向こうはすりガラスに阻まれてなにも見えない。明かりは天井そのものが淡い光を放っていて、まるで何も映っていないスクリーンのようだった。もっとも、本当に液晶スクリーンを天井全体に張ったりなんてしたら、管理だけで馬鹿にならない出費になるだろう。たぶんLEDか何かが上に埋め込んであるのだと思う。

 静かで、明るくて、生き物の気配が一つもない。僕は思わず身震いした。現実感に欠けている。これなら山田のパーソナルスペースのほうがよほどリアルである。まるで白昼夢の中に迷い込んでしまったかのようだ。

 手術室とプレートがはめられた扉の前を過ぎ、その二つ向こうが目的の部屋だった。

 扉につけられた小窓からはやっぱりノイズのような白い光が漏れているだけで、何も見えない。

 僕はもう一度扉の横につけられたルームナンバーを確かめノックした。

「はい」

 扉の向こうから声がした。

「どうぞ、開いています」

 高い、女の子の声だった。

 僕は扉を開いた。扉の向こうにはベッドが見えた。白いベッドの中心に彼女はいた。

「水城清晴さんですね?」

 その女の子は、当たり前だけれど白くはなかった。長く伸びた黒い髪は白いベッドの上で沼のように広がって、彼女はその中心であでやかに咲く花のようだった。背中を起こし、血の気の薄い肌に簡素な病院着をまとい、生き生きと輝く榛色の瞳で僕のことを見つめている。

 十歳ほどの、とても美しい少女が、鎖でつながれて牢獄の中にとらわれている。

「橘ひかりです」

 少女の声で僕は我に返った。僕は何を見ていたんだろう。もちろんそれは鎖なんかではなくて点滴で、そこは牢獄でなくて病室だ。

「初めまして」

 橘ひかりは、柔らかな笑みを浮かべて僕を見ていた。

 

 橘ひかりの病室は廊下に比べれば白くはなかったが、やはり窓はなかった。

 四方の壁には天井まで届く棚が設置され、それぞれの壁が本や映像ソフト、そして昔のゲーム機やソフトなんかが並んでいた。中には50年以上前のマシンも置いてある。動くのだろうか。動くのなら山田が見たら欣喜雀躍すること間違いなしだろう。リアルの山田は身長180センチ、体重90キロの巨漢である。あれが小躍りするのを想像するとかなり怖い。

「まず最初に、謝らなくてはいけませんね」

 壁に目を奪われる僕に向かって、橘ひかりはそう切り出した。

「変な噂を流したりしてすみませんでした」

 女の子は頭を下げた。

 僕は意外に思った。メールの送り主はそんなことも気にしない傍若無人を地で行く人物を想像していたのだ。

「ていうか悪いと思ってたんだ」

「もちろんです」

「じゃあなぜそんなことを……」僕が問う。

 橘ひかりはまっすぐに僕の目を見つめながら言った。

「あなたに会いたかったからです」

 僕は思わず視線を反らした。

 つかみどころのない子だな、と思う。

 放っておくと主導権を握られそうだ。僕は話をそらした。

「なんで僕がいる学校がわかったのですか?」

「学生の名前を調べるくらいならなんとでもなりますよ」

 少女はなんでもないことのように言う。冗談なのか、本気なのか、女の子の無感動な顔を見ていてもわからない。僕は判断を保留し、別のことを訊いてみる。

「……仮に水城清晴が広大付属の1年にいるとわかったとしても、それと例のゲームの作者をどうやって結びつけたのですか」

 僕は当時も今の僕と同じハンドルネームを名乗っていた。けれど本名はリードミーにも書いてなかったはずだ。メルアドは当時と変えているし、水城清晴とフリーゲーム制作者のウォーターキャッスルを結びつけるものはないはずだ。

 僕の質問に橘ひかりはあっさり答えた。

「スタッフロールに書いてありましたから」

「スタッフロール?」

「『パーフェクトゲーム』のスタッフロールに、KIYOHARU MIZUKIと書いてありました」

 そうだったっけ? 書いた……かもしれない。自信はない。初めてのゲーム完成直後の僕は、薬でもキめてるのかってくらいテンション高かったからやりかねないとも思う。そして彼女が言うならば間違いないのだろう。当時の僕はネットリテラシーと言うものを理解していなかったらしい。

「理解してもらえましたか」

「ええ、自分がバカだということは理解しました」

「そんなことないですよ。そのおかげで私は水城さんに連絡が取れたわけですし、それにあのゲーム、私はなかなかいいと思いました」少女が淡々と言う。

「えぇ……? あのクソゲーが?」

 僕は思わず聞き返した。あのゲームのどこがいいと思ったのだろう。

「当時としては斬新なアプローチです、今なら誰だって思いつくかもしれませんが、小学生の子供があんな方法を思いつくなんて、水城さんは天才だと思います」

 思わず頬が熱くなる。何が彼女の琴線に触れたのかわからないが、至極真面目な顔のまま褒めちぎるのはやめてほしい。それに天才なんて、彼女の勘違いなのだ。

「……というかどうして君は僕のゲームを持っていたんですか?」

 僕はごまかすように聞いた。

「ダウンロードしました」

「なぜ、ダウンロードを」

「別に理由なんてありません。ただおもしろそうだと思ったからです」

 僕には彼女の感性がわからなかった。

 話をまとめるように少女は言い切った。

「とにかく、私はどうしてもあなたに会いたかったのです」

「なんでですか?」

「手伝ってほしいことがあります」

「手伝ってほしいこと?」僕は同じ言葉を繰り返すしかなかった。彼女のことなんて何も知らないし、そもそもこのくらいの子供のためにできることなんて僕には思いつかなかった。

 彼女は背筋を伸ばして僕を見た。

「水城さんは、ゲームは好きですか?」

 突然聞かれて僕は答えられなかった。僕が答える前に少女が言った。

「私は好きです」

 何を? 決まっている。彼女はゲームが好きだと言ったのだ。それは彼女の部屋を見ればわかる。

「ゲームを作りたいのです」

 榛色の瞳が突き刺すような視線を送っていた。僕はその瞳を、ただただ美しいと思った。

「とても面白いゲームを、人生のようなゲームを、世界そのもののようなゲームを作りたいのです」

 彼女は続けた。

「世界で一番のゲームを、作りたいのです」

 世界で一番のゲーム。僕にはその言葉の意味が分からない。どんなものがその言葉にふさわしいのかイメージもつかない。ただ、その言葉がとても素晴らしいということくらいしかわからない。

 けれど目の前の幼い少女にはその意味が分かっているらしい。自信に満ちた瞳がそのことを告げていた。

 そして彼女は宣言した。

「水城さんには、その手伝いをしてもらいます」

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