第10話 ナスターシャと天国に届くマフラー
間もなく夜へと移行する時刻、タヌキ池は夕暮れで赤みがかっていた。
大学図書館の裏手にある池をタヌキ池と呼びはじめたのが誰なのか定かではない。無論、タヌキ池にタヌキは棲んでいない。ただ、あるとき大学構内の雑木林にタヌキが棲息しているとの噂が流れ、以来その林はタヌキ林と呼ばれるようになった。タヌキ林があるのならば、タヌキ池があってもよいと考えた者がいたのだろうか。いつの間にかタヌキ池という呼称が流布され、いまではこの大学の学生の誰もがその名を使う。
タヌキ池のほとりに黄色いぴかぴかしたテントが出現したのは1ヶ月ほど前のことだ。ロゴージンのテントである。3月にインドから帰国したロゴージンは、最初は大学正門を入ってすぐの芝生に居を構えた。さすがに目立ち過ぎたのだろう。3日目に学生課から注意を受け、その後いくつかの場所を転々とした。
食堂前広場は深夜までダンスサークルが大音量で音楽をかけるのがうるさくてダメだった。理学部棟裏は時折何かの異臭がただようのが気になった。人文学部棟横の空き地―本当はそこには新校舎が建つはずなのだが、大学改革のいざこざの余波を受け建設は一向に進んでいない―は悪くなかったが、酔っ払ったソーニャがふざけてテントを燃やそうとしたことがあり、その一件がトラウマとなってそこにはもう近づきたくなかった。
ロゴージンはいかなる状況においても自力で生き抜く強い生命力を持った男だが、一方で自らの居住環境については人一倍繊細でもあった。
タヌキ池のほとりは、ロゴージンがようやく見つけた安住の地だった。あの事件が起こるまでは。
あの日―どすけんの部室で4人の死者が出たあの日―以来連日、ロゴージンの黄色いテントからは女のすすり泣く声がもれ聞こえた。
今日もロゴージンは一応テントをたずねる。まだ女はいた。ナスターシャだ。
「やあ。調子はどう?」
ナスターシャは応えない。一心に作業に集中しているようだった。
「もう夜だよ」と言って、ロゴージンはランタンの灯りをともした。
「ああ、ロゴージン、ごめんなさい」
「別に謝らなくていいよ」
ナスターシャは一瞬だけかぎ針を動かす手を止め、ロゴージンの方をちらりと見たが、すぐにまた作業を再開した。ナスターシャの横には手編みのマフラーがうず高く積まれていた。さして広くはない1人用のテントの内部は、いずれ1本のマフラーに占領されてしまうだろうと思えた。
「これ、食料と、補充の毛糸。置いとくよ」
「ありがとう。本当にありがとう。お金は必ずあとで払うから」
「お金のことは気にしなくていいよ。どうせゾシマ長老から麻雀でせしめた金だし。それよりもさ、そろそろ家に帰らなくていいの?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。ここはあなたのおうちなのに、居座ってしまって」
「いや、俺は別にかまわないんだよ。だいぶあったかくなってきたし、野宿は慣れてるし」
あの日から10日間、ナスターシャはロゴージンのテントでマフラーを編み続けていた。その間、ロゴージンは外で寝袋に入って寝ていたのだった。この辺でも夜は結構星が見える。外で寝るのも悪くない、とロゴージンは本気で思っていた。
「ごめんなさい。本当に本当にごめんなさい。でもまだ家には帰りたくないの。帰れないの」
「謝らなくていいんだ。好きなだけここにいていい。だいたいここは大学の中なんだし、俺の土地じゃないし、誰がいついたっていい場所なんだ」
「ありがとう。本当に本当にありがとう。あなたがそう言ってくれてうれしい。安心する」
ナスターシャはまだマフラーを編む手を動かし続けていた。
「ねえ、ナスターシャ、そのマフラー、どのくらいの長さまで編むの?」
ロゴージンがそう問うと、ナスターシャはようやく手をとめ、ロゴージンの方を向いて話し始めた。
「天国に届く長さまでよ。天国に届くくらいに長く。それがどのくらいの長さなのか、まだわからないけれど。ロゴージン、あなたは本当はこう質問したいんじゃないの? なぜマフラーなのかって? なぜこの季節に、もうすぐ夏が来るこんな時期にマフラーなのかって? でも考えてみて。天国に夏があると思う? 私、考えてみたの。天国には四季なんかないんじゃないかって。一年中同じ気候で、もしかしたら一年中冬みたいに寒いかもしれないって。もしそうならアゾルカは……。ああ、アゾルカ……! そうしたらアゾルカは天国で凍えて死んでしまうかもしれない。だから彼にはマフラーが必要なの。それにね、このマフラーは本当は去年のクリスマスにアゾルカにプレゼントするはずだったの。でも、私、渡せなかった。キリーロフが何の気になしにこう言っていたのを聞いてしまったから。女の子からプレゼントされて困るのは手編みのマフラーだって。手編みのマフラーは怨念が強すぎて重すぎるって。それで、私、渡せなかった。もしあのとき渡せていたら……。ああ、キリーロフを責めないで。彼は何も悪くないわ。悪いのは、全部私。もしあのときマフラーを渡せていたら、アゾルカは死ななかったかもしれない。もし私がマフラーを渡せていたら、私とアゾルカとの間の愛はもっと強固で絶対的なものになって、あの日アゾルカがピロシキの宴に参加することもなくて、アゾルカは殺されなかったかもしれない。ああ、アゾルカ……! もう二度とあなたに会えない。もう二度とあなたに触れられない。でも考えてみて。もしこの天国に届く長さのマフラーを完成させることができたら、このマフラーを天国のアゾルカの首に巻くことができたなら……。地上まで垂れ下がったマフラーの先っぽを私が引っ張るの。そうしたらアゾルカの首は感じるわ。ああ、引っ張られてるなって。そのとき、私がマフラーに触れるってことは、アゾルカに触れているのと同じことじゃない?」
「よう、ロゴージン。あ、ナスターシャもいたんだ」
ナスターシャが語っているところへ介入したのは、ドストエフスキー研究会会長ポルフィーリイだった。
「来週、お別れの会をやるから。必ず来て」
そう言って、ポルフィーリイはビラを差し出した。「どすけん 4人の仲間とのお別れの会」と表題にあった。その下にはいくつかのプログラムが箇条書きされていた。「ゾシマ長老からの大切なお話」「キリーロフが語るカルマジーノフの思い出」「ソーニャによる曲芸」……等々。
「新しい部室もできたし、何かけじめになる会を開きたいと思ってね。ナスターシャ、きみの役割もあるから」
プログラムのいちばん下には「ナスターシャからアゾルカへの手紙」とあった。
「へえ、お別れの会って、おもしろそうだねえ」
これまでに聞いたことのない、こどものもののような声がどこかから聞こえた。
「え? ロゴージン、いまなんか言った?」
声の主は明らかにロゴージンではないとわかっていたが、ポルフィーリイは一応聞いてみた。
「いや」と驚いた顔でロゴージンは応える。
「ぼくも出ていい?」
まただ。その声は、ナスターシャの横に積まれたマフラーの方から聞こえたような気がした。
3人はマフラーを見つめた。
まさかマフラーの下に誰かいるのか。そんなはずはない。
次の瞬間、マフラーはテントを突き破って龍のように舞い上がり、空の彼方へと消えていった。
よく晴れた夜である。
タヌキ池の水面は、夜空の星々を照り返していた。
たったいまテントに開いた穴からも星が見えた。星を見つめるナスターシャの瞳は、この10日間でいちばんの大粒の涙を流した。
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