第9話 ひとりで歩いていった斧

「そういえばさ、斧、知らない?」

 紅茶を味わいながら、まったく完全に何気なく気軽な調子でキリーロフが尋ねた。

「斧、ですか?」

 即座にまったく完全な何気なさを装ったものの、内心気軽にはなれず、ラスコーリニコフは応答した。そして自分の動揺を相手に悟られただろうかと不安になった。

 自分の声は変に高くなっていなかっただろうか。自分は妙な動作をしなかっただろうか。

「ラスコーリニコフといえば斧だからさ。旧部室には昔から斧が常備されていた。黒いケースに入って、棚に置いてあったはずなんだ。備品の返却で斧だけ戻らなかった。あったはずの物が戻ってこない。この帰結は……」

「なんですか?」


 軽音部の部室からは、さきほどから何度も同じ曲が聞こえてくる。ラスコーリニコフにとってはアカペラで歌えるくらいよく知っている曲なのに、なぜか題名もアニメのタイトルも思い出せない。

「…なんだろうね。いくつかの可能性はある。実は斧なんてもともとなかった。ずっと置きっぱなしになっていたから、誰が持ち出してもわからないんだ。ロゴージンが池の横にテントを張ろうとして、杭が必要になって持ち出したのかもしれない。キャンプには斧がつきものだからね。ソーニャが持って行ったのかもしれない。理由はわからないが、ソーニャなら、ドアのカギを失くしたとかそういう理由で斧くらい持ち出すだろう。ただ、旧部室では人が殺されたんだ。だから当然考えられる別の可能性は――」

 キリーロフはゆっくりと紅茶のカップを持ち上げ、飲み干した。

「斧こそが凶器だった。そして犯人が持ち去った」


 キリーロフが喋っているあいだ、もちろんラスコーリニコフは斧のことを考えていた。思い出せるのは「ハラショー」だ。そしてバックの隙間からのぞいた赤い目のこと。「強い女がいい? 強い男がいい?」と――あるいはその逆で「強い男がいい? 強い女がいい?」だったかもしれない――話した声のこと。

 どすけん部室での惨殺はあの斧の仕業なのだろうか。だが斧だけであんなことができるはずはない。常識的に考えて、誰かが斧を使ったはずだ。しかしあの斧は喋った。そして強い男か女かになると言っていた。いったい、あの斧はどこへ行ったのだろう。あの斧はいまもどこかを人の姿になって歩いているのか。

 突然隣の壁ごしに大きな音が聞こえ、驚いたラスコーリニコフは飛び上がった――文字通り、ジャンプしてしまった。

「うるさいなあ。隣は何のサークルだっけ」

 キリーロフはたいしてうるさそうでもない調子でつぶやいたが、いきなり立ち上がると「キエーーーッ」と声をあげつつ、壁に飛び蹴りをかました。

 隣は静かになった。

「で、斧、知らない?」

 キリーロフは飛び蹴りのはずみに倒れてしまったカップを元に戻し、まったく完全に何気なく気軽な調子でまた尋ねた。

「知らない」

 ラスコーリニコフは即答した。余計なことはなにひとつ言わずにいよう、と彼は決意した。しかしどうして「どすけん」にはこんなに血と暴力の雰囲気が漂っているのだろう、と考えずにはいられなかった。それはもちろん、物静かなキリーロフがいきなりカンフー映画そっくりの飛び蹴りをかましたせいにほかならなかったが、いったいここには暴力的でない存在はいるのだろうか、とあらためて思った。たしかにゾシマ長老は暴力的ではない。だが彼はどうも――得体がしれない。

 いったい「どすけん」とは何なのだろう。単なる文芸サークル、ドストエフスキー研究会のくせに。途端に、彼の心を冷たいものが吹き抜けていった。『罪と罰』だけではない。ドストエフスキーの小説は、出会いと別れ、殺人、革命、生と死がつねに隣り合わせではなかったか。そしてどすけんに所属した者も当然のように、そんな運命に属することになるのか。


「そういえば、ロゴージンって、どすけんにいるんだ」

 話をそらそうと、ラスコーリニコフは先ほどキリーロフが言ったことを思い出し、ドストエフスキーが好きな人間なら当然聞きたい質問を投げることにした。ロゴージンとは小説『白痴』の主要登場人物の一人である。ナスターシャという絶世の美女をめぐってムイシュキン公爵、ロゴージンの間で三角関係が繰り広げられるのだ。ムイシュキン公爵は善良で哲学的な男で、対するロゴージンは陰鬱で暴力的な男だ。どちらも現代の人間から見ると感情的で衝動的なところがあるが、特にロゴージンはそうだろう。しかしそれこそが、ラスコーリニコフがドストエフスキー作品に惹かれた理由なのだった。とはいえどすけんに登場するのはまたも暴力的な人物――ドストエフスキー作品の中で――である。それでも聞いておきたかった。

「ああ、いるよ。ていうか、まだ在籍していると思う。経済学部だったんだけど、ずっと国外に出ててさ。たまに日本に戻ってくるけど、家もないし、一文無しだから、キャンパスのどこかでテントを張って寝てるんだ」

「どすけん部員ならここに泊まればいいのに」

「いや、迷惑をかけたくないんだそうだ。でも斧は使ったかもしれない。あの斧じゃないが、前に雑木林を無断で刈ってたき火をしようとして、地理学科の教授に非難されていたのならみたことがある」

 ロゴージンにしてはずいぶん善良そうだ。ラスコーリニコフの中で誘惑が芽生えた。斧についてもっと話してみたいという誘惑だった。乗ってはだめだ、と心の一部は抗した。だが誘惑とはむろん、屈するためにある。

「――こんなことは万が一にもないと思うけど」

「どんなこと?」

「斧がひとりでに――歩き回るなんてこと、ないかな。いや、ないよね」


 キリーロフが眉をあげるのに、ラスコーリニコフはあわてて自分の発言を取り消したいと思ったが、もう遅かった。きっと「こいつおかしくなった」と思われるに違いない。だがキリーロフはそんな様子もなく、「ふうん」と首をかしげただけだった。

「そんな可能性はあるだろうか。しかし公爵だったら、」

「公爵?」

「ムイシュキン公爵だ。どすけんでいちばん頭が切れ、いちばんのサイコパスだ。彼なら何か、ひとりで歩く斧について知っているかもしれないな…」

「もうひとつ聞きたいんだけど」

 だんだん面倒くさくなり、そしてもう毒を食らわばなんとかという気分にもなり、ラスコーリニコフは尋ねた。

「ここにはナスターシャもいるのかい」




 

 

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